かくれて咲く花

~凛として~

Merry Christmas☆

2008-12-25 18:17:17 | Weblog


メリークリスマス!!

サンタさんは皆さんのところにやってきましたか
今年、わたしは仕事でお世話になった方々にサンタしてみました。クリスマスカードに、ちょっとしたプレゼントを添えて届けたのですが、お礼の気持ちをあらわしたことで気分もよくなり、なんだかクリスマススピリットが高まったような感じです

クリスマスのお話でいちばん好きなのは、『賢者の贈り物』。貧しい夫婦が、相手にプレゼントを贈るために、自分の大切なものを売ってお金をつくるのだけど、結局そのプレゼントはそのために意味がなくなってしまう。だけどいちばん貴いのは、相手のためを思って自分の大切なものを犠牲にし、相手が最も喜ぶであろうものを選んだという心。プレゼントを探しているとき、あたたかい気持ちになるのは、相手のことを一生懸命考えるからだと思うので、贈り物を選ぶときはいつもこのエピソードを思い出すし、喜んでくれそうなものを選ぶのも楽しいものですプレゼントやお土産をいただくときも、自分のことを大切に思ってくれているという気持ちがうれしいですものねわたしのために一生懸命探してくれたと聞くと、それだけでうれしいし、本当に感動しますやっぱり大事なのは、心なんですよね。

今年、ある人へのプレゼントは『星の王子様』にしました。「大切なものは、目に見えない」をはじめ、有名な、心に響くフレーズが散りばめられた、読み返すたびに味わい深い物語。今回、改めてキツネとの出会いと別れのエピソードが、ぐっと胸にきます。王子様と出会ってからは、キツネにとっては「麦畑の色」が違う。「麦の色」からわたしが連想したのは、「誰よりもこの人が好き枯草に」(鈴木真砂女)という句でしたが、その出会いにより、人生の風景や色、香りまでが変わってしまった出会いを思い、とても深い感動を覚えました。大事なことは、心で感じないとですね。

よいクリスマスになりますように


艱難辛苦なかりせば

2008-12-20 14:23:05 | Weblog


コーヒーを飲みながらウトウトしてしまうほどの、うららかな午後
ぽかぽかと差し込む日差しのなか、ソファに沈み込むようにうたたね・・・「しあわせがじんわり」なひとときです

ミトンのお話の続き。(陽だまりで、美人のバラさんと写真にとってUPしました
実は書きながら、幼少時代を思い出して、なんだか涙ぐんでしまいました。「幸せな子ども時代」と書きましたが、小さい頃のわたしの写真は、どれもこれも本当に天真爛漫ないい笑顔で、本来の自分はこんなに清らかだったのにな・・・と思うと、なんだか涙が止まらなくなるのです。幼稚園に入るまでは、母の愛情に包まれて、なんの心配もせずにのんきに過ごしていた。純真で、疑いを知らないようなその表情は、大人になった自分から見ると、もうこんなふうには笑えないなあという哀しみに襲われるのです。

わたしは妹がいますが、小学校1年生のときに生れたので、もともとひとりっ子気質。加えて超・早生まれだったので、幼稚園にあがってまわりについていけず、6月頃に高熱を出し即入院。いま思えば、小さいなりに環境の変化にパニックだったのでしょう。まわりのお友達は兄弟姉妹がいて、小さい頃から「世慣れ」というか、もまれながら育ってきているのに、ひとりっ子のうえ4歳になったばかりで反応も遅く、どう対応していいかわからない。とにかく、ものすごく幼稚園がイヤだったような気がします。それに、わたしは周りの子とは違う服を着せられているのにも初めて気付きました。母はオシャレな人だったし、「自分は自分、人は人。人のことを気にすることない」という主義なので、子どもらしいとかいう基準で服を選ぶのではなく、幼稚園のときはモスグリーンのコートを与えられ、小学校では、みんな白いソックスなのにひとりだけ鮮やかなマルーンのカラータイツを学校にはいて行ってからかわれたりと、周囲との「ズレ」に戸惑い、「みんなと違うからイヤ」という理由は、まったく理解してもらえませんでした。いま思えばすごく深い緑が素敵なコートだし、カラータイツも今なら喜んで履きたいかわいい色でしたが、要するに「大人から見れば素敵」な服を着せられていたというか。ピンクや赤が着たいと何度泣いたことか・・・まあ、多少の抵抗はしましたが、「みんなが着てるから」という観点優先ではなく、自分が好きなもの、着心地のいい良質なものを着るという姿勢は、母から学んだような気がします。ただ、いまでも甘めな服が好きなのは、ある意味反動かもしれません。だけどあのお気に入りのミトンをはじめ、小さい頃の写真の中のわたしの服装をみると、母のセンスの良さが発揮されているのもよくわかります(現在の母は、犬がいることを理由に、楽でラフな服装に流されておりますが)。

話はそれましたが、この「どうもまわりとうまくなじめない」というのは、大人になった今でもあんまり変わりません。わたしが子どもの笑顔をなくしていったのは、母の愛に包まれ、イジワルや人の悪意などと無縁の環境から、「現世」に送り込まれたときからなのでしょう。学校では、イジワルな子もいたし、悪意はないんだけど子どもならではの無邪気さに傷つくことはたくさんありました(大人になってからも、「悪気はないのに人を傷つけているが、本人はそれに気づいていない」という悪質なケースは多々ありますが)。昨日も、ああ、やっぱり悪意を持たれているんだなあ・・・と、「現代の大奥」的職場で、ちょっと気持ちが沈むことがありました。「あの人はこういう人だから気をつけた方がいいわよ」的なことを、きっとこの人は吹き込まれているんだろうな、というのをちょっとしたことから感じ取ってしまったので。具体的に裏を取ったことではなく、あくまで直感ベースですが、実際そういう「囲い込み」のようなことをする先輩なので、そういうことを言っていても少しも不思議はないし、むしろ言っていない方がおかしいほど。こういうことがあると、いろいろ過去に受けたベットリ貼り付いてくるような悪意の数々が思い出され、しばし気分が悪くなりました。

その先輩がわたしを嫌っているという事実が問題なのではなく、自分がその人のことを嫌いだからと言って、なんで関係ない人の行動までコントロールしようとするのかなあというところに、イヤなものを感じるのです。小学生的な言い方だと「私はあの子が好きじゃないから、あの子としゃべっちゃだめ」「あの子と仲良くするなら、あなたはとは口をきかない」と仲間外れにするような感じかな。大人になっても、「あの人と付き合うなら、あなたには情報を教えない」とか、そういうある意味何かを人質に取りながら、自分への忠誠を要求する。まったく理解できませんが、そういう人がいるというのは現実なので、できるだけそうした人々については「見ざる・聞かざる・言わざる」の日光のサル3原則で、適切な距離感を取るのが外交方針なのですが、こういうふうに、わざわざそういう「悪意のホームグラウンド(イジワルな人たちが集まり、悪意に満ちたゲームをやっている)」から離れたところにいるのに、変化球がフェンス越しに飛んできて当たった、みたいなことがたまにあると、やっぱりちょっとはいやな思いはします。

世の中から、悪意やイジワルや嫉妬がなくなればいいなあとは思うし、「神様が人間を愛しているなら、なんでこんなに悪いことがたくさん起こるんだ」という人もいます。だけど、悪意やイジワルにつらい悲しい思いをしたからこそ、人のやさしさや思いやりが身にしみるというのも事実。いい人ばかりに囲まれていると、それが普通だと思って感謝しなくなるかもしれないし、だから神様は艱難辛苦もご用意されているのかな、と思います。自分だって完璧じゃないということも思い知るし、特に何をしたわけでもないのに自分の存在自体を気に食わない人がいるというのは、とても悲しいけどそういう目に遭わなければそういう人がいるということも知らなかったし、「我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈ったという山中鹿之助まではいかなくても、艱難辛苦を通して学ぶことは、忍耐の美しさと、悪意やイジワルとは真逆の、愛と思いやりもこの世には存在するという素晴らしさなのかなと思います。

それに、乗り越えられない試練を神様はお与えにならなくて、必ず逃げ道や助けも用意してしてくださっているということも実感しています。神様はとてもやさしくて、こんなわたしに甘すぎやしませんか、と思ったりもしますが、だけどやっぱりあんまりきびしくしないでくださいとも思うのでした

そんなことをつらつらと考えていたら、別の先輩(やさしい)がやってきて、こんな話をしてくれました→『火宅の人』の著者、檀和雄の遺言が「おまえたちにたくさん苦難があるように」だったことを、娘である檀ふみは長らく理解できなかったけど、だけど今になってみるとわかる気がするという心境になってきたと言ってたけど、わかる気がする。艱難辛苦もないと、感謝もできないものね、と。タイムリーなお導きでした

ちっちゃいミトンが似合う頃と同じ笑顔はもうできなくても、悲しいことや苦しいこと、つらいことがあったけど、おかげで多少人情がわかるような大人になれた(まだ進行中!)ことは、何も大事なものを失ったということではなくて、あの頃の清らかな心はまだわたしの中にはしっかりのこされいて、無知からくる「無邪気」ではない、いろいろな人の思いがあることを知ったうえで凛として微笑む強さを身につけたのだと思います。清らかなところで清らかでいられるのは当然かもしれないけど、清濁両面あるところでも清らかさを保つために、神様は実にさまざまな(それらは本当に気の利いた、心にくい演出に満ちている)イベントを用意され、ドラクエ的にいえばいろいろな戦いを通して、われわれはレベルアップしていくのだと思うのです。最近は「フバーハ」を覚えたので、このレベルアップはかなり戦いを楽にしてくれたように思います。心強いやさしい仲間も、休息できる町や宿屋も増えていますし


あの小さい頃お気に入りだった、薄いピンクに飛行機の絵のミトンも、大好きだった白い毛糸の帽子も、きっと母は大切にしまってくれているはず。年末年始に帰省したときに、探してみようかな。きっと、ミトンの小ささに、びっくりするだろうなあ&自分も「もみじの手」時代があったことを思い出せていいかも!


ミトンLOVE

2008-12-18 17:09:21 | Weblog


昨日は冷たい雨にも負けず、フィットネスへ。水曜日は「運動強化指定日」なので早く帰り、サンドウィッチなどを軽くおなかに放り込んでダッシュで向かう。エアロビクスを2クラスの後、プールでウォーキングをしてクールダウン。ジャグジーで20分ほどボーっとして(至福)、帰宅。よーく眠れました

今朝は雨もあがり、朝日がとてもまぶしくて気分さわやかすこし気温も上がると天気予報はいっていたけど、早めに出たので、このあいだ買ったミトンの手袋が大活躍。以前、ポンポンがついたお気に入りのミトンがあったのですが、ライブに行った帰りに興奮で落としたのに気付かず、ライブハウスに問い合わせたけど結局見つからず・・・以来、ずっとミトンがほしくて、先日とてもかわいいのにめぐりあい、色は真剣に検討した結果、ピンクとブルーと白のやさしい織り合い感にひかれて、これに決めました。

ミトンをつけると、なんだかうきうきします。小さい時にお気に入りだった、飛行機の絵のミトンと、母が合うように選んでくれた白い毛糸の帽子とポンポンマフラー思い出して心があたたかくなるのです。その3点セットフル装備で、雪だるまと一緒に満面の笑みで写ってるお気に入りの写真があるのですが、わたしのミトン好きは、この小さい時の思い出につながっているんですね。とっても幸せな子ども時代でしたその買ってくれたときのうれしさを思い出すのと、手をそっと包み込まれるような感覚が、好きな人と手をつないでいる感覚に似ているような気がして・・・冬はやっぱりミトンです



天使の羽♪

2008-12-16 18:01:22 | Weblog


天使の羽のネックレスが届きました
HPを拝見しているだけで癒される、ゆずさんのお店。夏あたりだったかな?ひと目見たときから、このネックレスに心をうばわれていたのですが、よいお値段だし、それにこんなにかわいかったら、すぐ売れちゃうだろうなあ・・・とあきらめていたところ、まだショップには置いてある。こんなにかわいいのにまだあるなんて、「もしかして神様がわたしのためにお取り置きしてくださっているのかも」と思い、ゆずさんに聞いてみると、なんと!!「問い合わせはありましたが、まだありますよ」とのこと。なんともいえないご縁を感じ、冬のボーナスもありがたいことにいただけるし、自分へのごほうびにしようと注文したのでした

アメリカ人の友人から、プレゼントの包みを丁寧に開けるわたしに「アメリカ人の場合、バリバリっと開けて、喜びをあらわすのよ!」と、“日本流”を笑われていたわたしですが、今回の小包は心がはやり、アメリカ人並みに急いで(しかしやはり丁寧に)包みを解いて箱を開けた瞬間、思わず「わー」と感嘆のためいき。とても美しいストロベリークォーツに、天使の羽。手に取った瞬間、「来てくれてありがとう」という思いがこみあげました。やさしいピンクに天使の羽。あまりにかわいくて、うれしくてたまらず、アホみたいにいろんな人に見せてまわっていますとても丁寧に包んで、心をこめて届けてくださったゆずさんのお心遣いにも感激でした

昔、「りぼん」で連載されていた「天使なんかじゃない」の主人公・翠が大切にしていた「天使の羽ネックレス」を思い出しました。いつも元気で明るくて、だけどもちろんいつもいつもそんなふうにはいられるわけじゃなくて泣いたりすることもあるけど、だけど一途で一生懸命で・・・という翠には、いまなお共感するものがあります。「いつもがんばっていられるわけじゃない」って泣きたくなることがあっても、だけど暗闇に迷うことなく、微笑みを絶やさず、前向きにひたむきに、この一本道をすすんでいけますように(←「篤姫」の影響もあり)



あわただしさの中で

2008-12-12 17:36:49 | Weblog


師走に入り、なにかとあわただしい日々が続いています。ここ数日は、とてもあたたかくいお天気が続いて、気持ちよかったですねバタバタして、ブログもなかなか落ち着いて書く余裕がなかったですが、いろいろ学んでいる日々です

最近導入した考え方が、「トリアージ」。辞書によると、「緊急時の医療処置での傷病者の優先順位」だそうですが、救えそうな命から救命にあたるというのを通常の人間関係にあてはめ、「頼まれごとはトリアージする」と決めました。すなわち、本当に困っている人や、大事な人、仕事を優先して、自分の都合だけで頼んでくるような人の言うことは後回し。たとえば「これについて教えてほしい、回答はいついつまで」と、こちらの状況を無視して自分の都合のみで期限を付けて頼んでくるような人がいるのですが、以前はできるだけ答えていましたが、「わたしだって忙しいのに」と不満をためながらやってあげるくらいなら、最初からやらない方がいい。こういう人を利用するタイプは、こちらがお人よしにやってあげるから頼んでくるのであって、やらなかったら頼んでこないということにも気づいたので。回答を催促するメールがきましたが、「忙しいので、調べてお答えする余裕がありません」とも言わないことにしました。不誠実かもしれない、と思わないでもないのですが、たとえ一瞬でもそういう人のために使う時間があるなら、ほかに回すべきだと思うので・・・こっちだって疲れていて早く寝たいのに、うだうだと電話で長話をするような人も同じ。相手の立場や状況なんかまったく無視して、自分の都合だけで要求してくるような、「時間およびエネルギー泥棒」には、くれぐれもご用心!と決めました。そうやって、心を疲れさせる人間関係をクリアにしていくことも、よい勉強になりますブログを書いていると、そういういやなこともネタになりますしね

書くことは、自分の心を整理し、そして言葉をバッと一回出してしまって、あとから「これは言いすぎ」とか「もうちょっと表現を穏やかに」と再考できるので、わたしにとっては本当に心を落ち着かせるよい手段です。ガーっととりあえず心のままに書いて、言いすぎたところを消してマイルドに書き直したりしているうちに、いちどは自分の心を吐き出し、そしてUPする前に消してしまえば、それは誰も傷つけることなく処理できるので、心の健康にもいいようです。もともとわたしはしゃべるのがうまくなく、言いたいことがその場ではうまく言えないため書き始めたという側面があるのですが、共感してくれる人がいるとうれしいし、読んでくださっている大切な人たちの顔を思い浮かべると、なんだかじんわりとうれしさが心に広がります。このブログも、このところ人間関係をめぐる悩みシリーズになってしまいましたが、どんなに世の中が不安で暗いニュースばかりでも、不平不満を言うよりも、明るく元気に楽しく過ごしたいものですね。自分が楽しくいい状態でいることで、世の中を笑顔で照らすためにも

ちなみにわたしがいまお仕えしている上司は、愚痴や不満、人の悪口をおっしゃらない、誰もが「人格者」と認める、人間的にとても尊敬できる方なのですが、「普段はまったく出さないけど、お風呂でひとりこっそり『チクショー』とか『コノヤロー』と言っていたことがある」(奥様談)というのを聞くと、ああやっぱりこういう方でも内心の葛藤はあるんだなあと安心する一方、いつも穏やかでおられるその陰では、そうやって誰にも自分の思いをぶつけることなく、ぐっとこらえておられるんだなあと思うと、ますます尊敬の思いを深めます。

男の人の姿でぐっとくるのは、つらいとき、苦しいとき、悔しいときに、その思いを胸に秘め、こらえているとき。女性は何かあるとしゃべって発散するタイプが多いような気がするのですが、「聞いてもらってすっきりした」ということが時にはあってもいいけれども、「聞かされる人がいる」ということを思えば、ぐっとこらえる我慢強さを見習いたいところです。とはいえわたしも一応女性ですし、男気がありすぎてもバランスが悪いので、めざすは「柔和だけど、凛とした女性」。少しづつ、歩みを止めずに努力努力


噴火後

2008-12-04 17:22:26 | Weblog


先日の事件から、噴火を経て?心の平安を取り戻しました
このところずっと、わたしの人間関係の中でもやもやしていた部分がすっきりしたので、体調もよくなったほど。だけど自分も完璧じゃないし、苦手な人への対応もまた人生経験だし、自分はその人のことを好きじゃなくても、好きな人だっている。だからその人の存在を全否定することはしちゃいけないし、適切な距離感を持ってお付き合いすればいいだけのこと。それに以前に比べたら「まあ、いい人かもしれないから」とズルズルと不満をためこみながら付き合う期間が短くなった→「見切り千両」がうまくなったじゃないか!と成長をよろこんでおるところでございます。Aさんとは今年もう一回顔をあわせなきゃいけないのですが、「どんなネガティブなことを言われてもポジティブに打ち返す演習」として、がんばろうと思っております

一方で、この問題ではわたし自身の改善すべき点も浮き彫りになりました。まず、好き嫌いがどうしても態度に出てしまう。自分の気持ちに嘘をつけない性格、というといい言い方ですが、これは子どもっぽいといえるでしょう。「嘘をつくのは悪いこと」というのはそのとおりですが、相手のことを思ってつく嘘もある。たとえばケーキがひとつ足りなくて、「これわたし好きじゃないから食べて」と、本当は食べたいけど相手にすすめるために嘘をつくとか、実は知っていても「知らなかった」と言うことで相手を立てるとか、そういうのは思いやりや心遣いの範疇に入ります。なんでも額面通りに素直に受け取るのも無邪気で気持ちよくていいですが、「実はわたしにゆずってくれたんだな」とか、「あっ顔を立ててくれたんだな」とか、「かくされた思い」に気づくと、じわっと心に温かいものが広がる。そして逆説的ですがこれがわかるようになるには、「実は口ではああ言ってるけど、裏ではめちゃめちゃ悪口を言われていた」とか、「あのときは気にしなかったけど、後から考えるとものすごくイヤミを言われてたんじゃないか」など人の二面性を知って愕然とするなど、痛い苦い思いを経験して「言われたこと/されたことの複雑さ」を知り、そしてまたその逆の相手を思いやるからこその「人情」もわかり、感謝できるようになると思うのです。

机の上を整理していたら、走り書きでメモした(たぶん新聞から拾ったと思うのですが)こんな言葉を見つけました。


「口では誓ったが、心は誓いにとらわれない」(ギリシャ古典劇)


いろんな解釈や、場面によって、深いことばに感じることができるのも、いろんな思いを経てこそだなあと思います。先日の「早起きの誓い」などは有言実行が求められるものですが、これを人間関係に置いてみると、心の中の思いはどうあれ、表面上は社会的に失礼な態度を取らず平和に過ごすこと、ともいえるのかもしれませんし、「面従腹背」という言葉もこれにあたるのかもしれません。表面的な部分と深いところが違うということは、誠実な態度ではなく人を裏切ったりするような場合もあるのかもしれないし、逆に照れ隠しや相手を思うからこそ口と心では違うことを言っているときもあるし、「自分の心に正直に」がモットーであっても、なんでもそのまま相手にわかるようにすることもない。顔では微笑みを絶やさず、心の奥では秘めたる思いを持っていてもいい。「表裏がある」というとネガティブな表現ですが、人や物事はそんな単純な、一面的な部分だけでは語れるものでないと気付いたとき、わたしの人生観はぐっと深みを増し、豊かになったと思います。そして時代劇が一層おもしろくなったという効果もあったりするのでした


わたしの「信義」

2008-12-01 17:03:52 | Weblog


今日から12月。ことしもあとのこすところ1か月となりました。
前回の「凛」に続いて、今年のテーマ「信」を実感する出来事がありました。

先週、ものすごく苦手な人(以下、仮にAさん)とご一緒しなければいけない会合がありました。Aさんは押しが強くて(pushy)、威張ってて(bossy)、自慢しい(showy)の3拍子揃ったうえ、さらにおしゃべり。おしゃべりといっても、話がおもしろいとか、人を楽しませる「おしゃべり上手」ならいいのですが、Aさんの場合、とにかくマシンガンのようにしゃべり倒し、話すことは人の噂や悪口などネガティブなことがほとんど。あらゆることや人を断罪調で評する田中真紀子さんのようなタイプで、聞いているこちらはゲッソリするのですがこれだけでも相当関わりたくない人物像ですが(よくこれまでガマンしてきたもんだ)、Aさんに関して最もわたしが不快なのは、何でもペラペラとしゃべること。前々から、いろんな人から聞いてきたオフレコ話を得意げに披露し、わたしが話したこともペラペラとしゃべるし、実際それで怒ったり迷惑を被った人がいるので、「人から聞いた大事なことをこんなにしゃべるなんて、この人は信頼できない」感を高めており、「大事なことはこの人には絶対にしゃべらない」と警戒していたのですが、この会合後、改めて「大事なことも、大事でないこともこの人にはしゃべらない」と決意を固めました。

というのは、Bさん(その場にはいない)のことが話題になり、それが知られたらBさんにとってマイナスになる情報をAさんはペロっとしゃべったのです。たまたまわたしはBさんをよく知っているため、Bさんに不都合にならないようにうまくごまかすことができたのですが、これはわたしにとってはギガデイン(*)級の怒りを覚える出来事でした(*ドラクエをやっておられない方へ解説すると、ドラクエⅣで主人公の勇者が雷を呼び敵に大打撃を与える呪文です)。なぜならAさんは、自分が「事情通」であることを誇示しようとして、Bさんを利用したから。自分をよく見せるために、その人の立場を思いやらず、平気で利用する。これ、人としていちばんやってはいけないことじゃないでしょうか。そのほか、「ここだけの話」をあれやこれやとしゃべるので、最初は「うんざり」だったのがBさんの話題を境にだんだん腹が立ってきて、帰ってからも2~3日はもやもやと怒りが渦巻き、昨夜は夢の中で別な形で怒りを発散しており、久々に夜中目が覚めるというほど、「人として信義に反する!!!」と、これまでの数々の出来事とともに苦々しい思いをしていたのでした。

ちなみにわたしの怒り方は、だんだんと怒りが蓄積されるという「もやもや段階」を経て(「この人に会うとどうも不快だ」とか「なんかこの人好きになれない」とか理由はまだ説明しきれないが「まあ、もしかしたらいい人かも」と思いなおすものの、水面下ではイヤな思いが積み重なっている)、ある日突然「この人がイヤな理由がわかった!!」と怒りの理由が統合されるため、

「怒りを感じるようなことをされた事件発生」→→<怒りの理由の統合プロセス>→→「!!!

というように、事件発生から怒り発生まで相当なタイムラグがあるので、事情がわからない人たちからすると「なんで突然怒るんだ」というふうに受け止められます。本人の中では、怒り沸点に達した時点ではきちんと理由が整理されているので、説明可能なのですが。

ともあれわたしが、たとえばカレーを食べている途中にスプーンを握りしめて「許せない」と怒りにふるえるようなときは――そうめったにないのですが――パターン化すると→①弱い者いじめ②信義に反したとき、であろうかと思います。「信義に反する」というのは範囲が広いですが、上記のAさんのような「自分のために人を利用するような行為」あるいは「言ってはいけないことを人に言う」というのには、頭に血が上ります(時差はあっても)。今回は、積み重なって怒り心頭、というパターンでした。大事な人のことであっても、ちょっとした知人であっても、たとえば情報源に関すること(「誰が~~って言ってたよ」とか)や、それをしゃべることでその人の立場が悪くなるようなこと(「あの人実は~~らしいですよ」とか)は、やっぱり言っちゃいけない。そんなもやもやとした思いを抱えながら、大好きな先輩を訪ねてすこし事情を話すと、うんうんと聞いてくれ、「そういうときに、人としての品性が出るよね」とやさしく受け止めて、今後の付き合い方のアドバイスをいただき、とても気持ちがスッと楽になりました

今回の事件では、やはり人として「信」は守らなければいけないと強く思ったし、「立ち居振る舞い端正に」いなきゃいけない、と思わされた事件であったし、そして、話を聞いて励ましてくれた先輩のように、お会いしただけでもやもやとしていた思いが癒され、元気が取り戻せるような、そんなやさしい存在になりたいなと思いました


人は人の中で磨かれる。出典は忘れましたが、本当にそう思います。みずからの至らない部分は棚に上げて書いてしまいましたが、あー書いてすっきりした。そして読んでくださってありがとうございました。口は禍のもと、とも言われますが、聞いていて気持ちの良い言葉を発するように心がけたいものだと痛感します。そういう意味では今回の記事は失格ですね・・・(反省)最近、江戸時代のドラマ(要は「時代劇」ですが・笑)が好きで見ているので、義理人情を重んじる日本人のDNAは、自分の中にしっかりと流れているんだなあと実感し、その美点を体現できるように精進しなければと思った事件でした

起きることはすべて、意味があるのですね。