パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2024年2月4日

2024-02-04 22:45:33 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:エズラ7章
説教題:御手が彼と共にあったので

導入)
  エズラは旧約聖書中の歴史的記述の多いものの一つです。エズラという題が着いているのに、実際にエズラの記録が出て来るのは7章になってからです。それまでの6章は、神が恵みに満ち、契約に忠実な方であることを述べるために費やされている部分が有ります。7章においては、神の手がエズラと共にあったという記述が繰り返されます。エズラのどのような人柄の故に神の手が彼と共にあったのかを確認してみましょう。

本論)
1-6節 「これらの出来事の後」というのは、第二神殿の再建の後で、それから58年程経ったと考えられます。
  6節では、アルタシャスタ王はエズラの望む物を何でも与えたということが書いて有ります。そんな扱いを受けたエズラは何者なのでしょうか。2節から示されている系図によると、彼は大祭司アロンの子孫であることがわかります。しかし、大事なのはそのような家系であることではなく、主の御手が彼の上にあったということです。彼は神に喜ばれる存在であり。神の言葉を学ぶ情熱を持っている人物でした。彼は、バビロン捕囚第三世代ぐらいであったと思われます。バビロンで不自由なく礼拝をすることができたかは定かではありませんが、エズラは神の律法を離れることはありませんでした。これらのことから、最初にわかることは、1)神の手は神の言葉を慕い求める者と共にある ということではないでしょうか。

7-10節 ユダヤ人の一団がエルサレムへの旅をします。明らかにエズラがその一団の長でした。9節の記述から、旅は四か月に渡ったことがわかります。バビロンからエルサレムまでは、1400Km程だそうです。個人的な旅行であれば、一日8時間の徒歩で一か月ちょっとの旅だったのではないかという試算もあります。しかし、エズラの一団は人々から預かった銀や金を持っていましたし、アルタシャスタ王がエルサレムに持ち帰ることを許可した神殿の器具などを運搬しなければならなかったので、もっと時間がかかりました。
  時間がかかった要因は他にもあります。同じアルタシャスタ王の支配下にあっても、州を越えて行く場合には、王の許可証を見せて手続きをする必要も有ったでしょうし、更には、8章を見るとわかりますが、エルサレムに行くレビ人を募集する期間が有ったり、旅の安全を神に祈るために断食の期間を設けたことが書いてあります。そのような取り組みをした結果、神の恵みの手が確かに彼の上にあったと9節には記されています。そして、神がそうしてくださった理由が10節に示されています。
  『エズラは、【主】の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。』
11-26節 アルタシャスタ王がエズラに与えた援助が記されています。エズラは律法の教師でしたが、王は食料、ブドウ酒、捧げものの動物を購入することを命じ、総督に与えられる裁判の権限まで与えました。これらのことから、2)神の手は、神の言葉を守り、教える者と共にある ということがわかるのではないでしょうか。

27-28節 この部分は、賛美を捧げるエズラの言葉です。彼はアルタシャスタ王の信任が厚いことを誇ったりしませんでした。神の助によってすべてのことが整えられたことを告白し、神に栄光をささげ、神をほめたたえているのです。28節には、「私は奮い立って」という表現が出て来ますが、直訳は「力づけられて」という受動態の表現で、自分の気合ではなく、神によって力をいただいたことを告白しているのです。有能なレビ人達を集めることができたのも、彼の力ではなく、神の助によったと告白しています。8章では、どのような人たちが集まってくれたのかが示されていますが、8章18節を見ると、人が集まったのも神の恵みの御手があったからだと告白しています。エズラは神に栄光を捧げることを忘れない人物でした。これらのことから、3)神の手は、進んで神に仕えるために集まる人々と共にある ということがわかるのではないでしょうか。

まとめ)
  先に確認した三つの要点を再確認してみます。
1)神の手は神の言葉を慕い求める者と共にある 
  ここではエズラの家系が重要なのではありませんでした。大祭司の家系でも、サムエル記に出て来るエリの息子たちは、神の御心を損ねて死をもって裁かれています。エズラは、主の教えを喜びとし、律法に通じていました。そのことが神の手が彼と共にあった理由であり、重要な点です。私たちも、み言葉を慕い求めて、神の御手が共にあることを経験する者となることを目指しましょう。

2)神の手は、神の言葉を守り、教える者と共にある
  イエスはヨハネ15章10節で、弟子たちがイエスの戒めを守るならば、弟子たちはイエスの愛の中に留まるのだと言っています。ヤコブ1章22節は、み言葉を聞くだけではなく、行う者になるように戒めています。私たちは、エズラのような教師ではないかもしれませんが、み言葉に従うだけでなく、み言葉を通して与えられる恵みを語り合い、聖書の言葉を分かち合うことができます。私たちも、み言葉そ実行し、み言葉を分かち合って、神の御手が共にあることを経験する者となることを目指しましょう。

3)神の手は、進んで神に仕えるために集まる人々と共にある
  27節が示しているように、エズラの関心は神をほめたたえることにありました。続く節では、神が全てを整えてくださったことを感謝しています。人材にしても、エズラが強制的に連れて来たのではありませんでした。自発的にエズラの呼びかけに応えてエルサレムに移ってきたのでした。アルタシャスタ王の裁可によってエルサレムに来たのではありますが、その背後で働いて、それを可能にしてくださった神に感謝しています。私たちも引き続き、自発的にイエスの御体なる教会に進んで仕え、奉仕して神の御手が共にあることを経験する者となることを目指しましょう。
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