都内某所にて、素晴らしい体験をしてまいりました。
それは蓄音機のロールスロイス、とも称されることのある約100年前の名器・クレデンザで聞くSP鑑賞会。
そもそも蓄音機が電気でなくねじを巻いたバネ仕掛けで動くということも初めて知ったくらいですし、実際に音を聴いたのも初めて。
最初のサムクックによるサマータイムがかかった途端、会場の空気の粒子が細かく振動して皮膚から身体深部に伝わってきて、驚きました。
とても気持ちよく、目の前に、サムクックが立って気持ちよさそうに揺れながら歌っている様子が見えるような気がしました。
再生音を聴いてここまで感動したのは生まれて初めてです。
SP盤というのは、いわば、その音楽が録音された時の時空をそのまま版画のように転写する装置、との説明にも深く納得。
クローバーズのブルーベルベットは本当にベルベットの肌触りの歌声でとろけてしまいそう。なによりサックスが本来の原始の木管楽器の響きを奏でている。
これもまた、目の前に演奏者がいる。
SP盤はシェラックに木炭など混ぜて作るいわば天然素材。
最初は素晴らしい歌い手がいるのを記録するのに使っていたけれど、それが時代が進むに連れてプラスチックなども混ぜて、耐久性は悪くなったけれど、廉価で大量に販売されるようになり、産業になった。
記録から産業に・・
弦楽器のニスもそうだが、私のビンテージフルート、ルイ・ロットのタンポもシュラックを使って貼り付けられている。カイガラムシ、ありがとう。
針によって溝を削られながら、つまり身を削られながら音を出してくれている訳で、ながら聴きなどとてもできない。
ものにもよるけれど、100回再生するくらいで、もうだめになってしまうものだそう。
その後は日本のものもということで会津サンバ、アイレ可愛や(笠木静子)、ゴンドラの歌(松井須磨子)などが続き、サマータイム(ジェイミーズ)。
音量は太い針だと大きく、細い針だと小さくなり、盤によってあれこれと替えていた。
講談やエンタツアチャコの漫才という珍しいものもあったが、圧巻だったのが北原白秋自身による和歌の朗読。
第一声を聴いた瞬間に涙が溢れてきた。
この経験をしたのは、師・植村泰一先生のコンサートの折以来だ。
もう10年以上前だったか・・・
チューニングのラの音一音で滂沱の涙となったのは今も不思議だけれど、それと全く同じことが起きた。
和歌の内容は全くわからなかったのだけれど、とにかくずっと涙が止まらなくなった。
あれはなんだったのか?
終わって、次の西條八十自身の詩の朗読になった時にはピタっと止まった。
こちらの方は、母を想う息子の詩で、内容もよくわかったというのに、今一響かない。
どちらかというと、脳、頭で作り上げられた世界という気がしてしまった。
でも北原白秋の語り口は、ただただ泣いてしまう。
ひとつだけわかったのは、微塵も「うまくやろう」としていないこと。
本人がどのような人間だったのかはわからないけれど、北原白秋の芸術は物凄いものだ、と認識。これから色々と読んでみようと思った。
トミー・マクレナンのブルースではタンニン多めの赤が飲みたくなった。
そしてマディー・ウォーターズのローリングストーンのエネルギーの深さに圧倒される。
更には、なんとビートルズのSPもあるとのことで、拝聴。
インドで制作されたものだそうで、高品質なのだそう。
目の前に4人が仲良く(まだヨーコが登場する前の)ワチャワチャ、やんちゃに集って楽しそうに歌っている様子が目に浮かぶ。というか、そこに居る!?
抱きしめたい、ディスボーイ、ラブミードゥー、PSアイラブユー、アンドアイラブハー・・
キター、ドラム、そしてコーラスのハモリの響きがふっさりと伝わってくる。
その後はブルーマンデー、そして、最後はエルビス・プレスリーのラブミーテンダー。
やはり、目の前で、私のためだけに歌ってくれているみたいだった。
こんなに名曲だったのか?甘やかだけれど、清々しいのが意外と言えば意外だった。
魂奪われそうな歌に、改めてその物凄さを知った。
そういえば、どれもに共通していたのは「清々しさ」。
それはこの蓄音機・グレデンザがもたらしたものかもしれないし、名作というものには、みな、この清々しさが含まれているものなのかもしれない。
マホガニーに控えめな彫刻が施されたその大きな箱はまるでタイムマシン。
もしくは、イタコ?
時空を超えて聴き手をその楽曲が演奏された場所に瞬時に連れていってくれる。
もしくは現世に、私の前に演奏者たちを連れてきてくれる。
音、音楽だけでなく、魂を伝えてくれるのが、この蓄音機とSP盤ということなのかもしれません。
こんなに贅沢で素晴らしいものが、かつてはあった、ということ、そしてそれらが世の中一般から失われてしまったということが、なんとも残念でなりません。
それは蓄音機のロールスロイス、とも称されることのある約100年前の名器・クレデンザで聞くSP鑑賞会。
そもそも蓄音機が電気でなくねじを巻いたバネ仕掛けで動くということも初めて知ったくらいですし、実際に音を聴いたのも初めて。
最初のサムクックによるサマータイムがかかった途端、会場の空気の粒子が細かく振動して皮膚から身体深部に伝わってきて、驚きました。
とても気持ちよく、目の前に、サムクックが立って気持ちよさそうに揺れながら歌っている様子が見えるような気がしました。
再生音を聴いてここまで感動したのは生まれて初めてです。
SP盤というのは、いわば、その音楽が録音された時の時空をそのまま版画のように転写する装置、との説明にも深く納得。
クローバーズのブルーベルベットは本当にベルベットの肌触りの歌声でとろけてしまいそう。なによりサックスが本来の原始の木管楽器の響きを奏でている。
これもまた、目の前に演奏者がいる。
SP盤はシェラックに木炭など混ぜて作るいわば天然素材。
最初は素晴らしい歌い手がいるのを記録するのに使っていたけれど、それが時代が進むに連れてプラスチックなども混ぜて、耐久性は悪くなったけれど、廉価で大量に販売されるようになり、産業になった。
記録から産業に・・
弦楽器のニスもそうだが、私のビンテージフルート、ルイ・ロットのタンポもシュラックを使って貼り付けられている。カイガラムシ、ありがとう。
針によって溝を削られながら、つまり身を削られながら音を出してくれている訳で、ながら聴きなどとてもできない。
ものにもよるけれど、100回再生するくらいで、もうだめになってしまうものだそう。
その後は日本のものもということで会津サンバ、アイレ可愛や(笠木静子)、ゴンドラの歌(松井須磨子)などが続き、サマータイム(ジェイミーズ)。
音量は太い針だと大きく、細い針だと小さくなり、盤によってあれこれと替えていた。
講談やエンタツアチャコの漫才という珍しいものもあったが、圧巻だったのが北原白秋自身による和歌の朗読。
第一声を聴いた瞬間に涙が溢れてきた。
この経験をしたのは、師・植村泰一先生のコンサートの折以来だ。
もう10年以上前だったか・・・
チューニングのラの音一音で滂沱の涙となったのは今も不思議だけれど、それと全く同じことが起きた。
和歌の内容は全くわからなかったのだけれど、とにかくずっと涙が止まらなくなった。
あれはなんだったのか?
終わって、次の西條八十自身の詩の朗読になった時にはピタっと止まった。
こちらの方は、母を想う息子の詩で、内容もよくわかったというのに、今一響かない。
どちらかというと、脳、頭で作り上げられた世界という気がしてしまった。
でも北原白秋の語り口は、ただただ泣いてしまう。
ひとつだけわかったのは、微塵も「うまくやろう」としていないこと。
本人がどのような人間だったのかはわからないけれど、北原白秋の芸術は物凄いものだ、と認識。これから色々と読んでみようと思った。
トミー・マクレナンのブルースではタンニン多めの赤が飲みたくなった。
そしてマディー・ウォーターズのローリングストーンのエネルギーの深さに圧倒される。
更には、なんとビートルズのSPもあるとのことで、拝聴。
インドで制作されたものだそうで、高品質なのだそう。
目の前に4人が仲良く(まだヨーコが登場する前の)ワチャワチャ、やんちゃに集って楽しそうに歌っている様子が目に浮かぶ。というか、そこに居る!?
抱きしめたい、ディスボーイ、ラブミードゥー、PSアイラブユー、アンドアイラブハー・・
キター、ドラム、そしてコーラスのハモリの響きがふっさりと伝わってくる。
その後はブルーマンデー、そして、最後はエルビス・プレスリーのラブミーテンダー。
やはり、目の前で、私のためだけに歌ってくれているみたいだった。
こんなに名曲だったのか?甘やかだけれど、清々しいのが意外と言えば意外だった。
魂奪われそうな歌に、改めてその物凄さを知った。
そういえば、どれもに共通していたのは「清々しさ」。
それはこの蓄音機・グレデンザがもたらしたものかもしれないし、名作というものには、みな、この清々しさが含まれているものなのかもしれない。
マホガニーに控えめな彫刻が施されたその大きな箱はまるでタイムマシン。
もしくは、イタコ?
時空を超えて聴き手をその楽曲が演奏された場所に瞬時に連れていってくれる。
もしくは現世に、私の前に演奏者たちを連れてきてくれる。
音、音楽だけでなく、魂を伝えてくれるのが、この蓄音機とSP盤ということなのかもしれません。
こんなに贅沢で素晴らしいものが、かつてはあった、ということ、そしてそれらが世の中一般から失われてしまったということが、なんとも残念でなりません。