続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

巻6の3 勝尾の怪女 并 忠五郎娘を鬼女に預けてそだてさせつる事

2018-07-01 | 御伽百物語:青木鷺水
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 津の国勝尾寺の前の里を、名付けて勝の郷という。ここは多くの湯治客が有馬へ通う海道にあたり、また、西国の大名が往還の道筋として宿場に利用している。そのような具合でこの地は繁栄し、村には 指折りの富貴者と言われる者も、また多かった。

 この村に忠五郎という者がいて、数多の田畠を持って農業を家業とし、その家は美麗に造り、国主が参勤する際の本陣を承ってもいたので、家門は日に日に栄え、衣食から眷属に至るまで、年毎に増していく繁栄ぶりであった。
 そうした中、忠五郎は一人の娘をもうけ、これを育てさせるために相応しい乳母を尋ねていた。そんな折節、芥川の里に貧家の娘がいて、同じ里の農家に嫁して一人の子を授かっていたが、夫は高槻の城下に年貢の未納があったため、代納のため人夫として駈り取られ、そのまま江戸で病死してしまった。
 そのような事情のため、母子ともに世を渡る術を失くしてしまい、どこかへ奉公にでも出ようとしても思うようにはいかず、彼方此方とさ迷っていたところを、忠五郎が不憫に思い、幸い、我が子と同じ年の子がいることもあり、母子を呼び寄せて、我が娘を養わせ、母子とも家に置くこととした。また忠五郎の妻も情けがある者で、乳母の子も我が子と同じように慈しみ、愛して、衣類や食物に至るまで必ず同じように揃えて寵愛していた。

 そんなある時、この妻がたまたま外出した帰りに、林檎を一つだけ袖に入れて帰ってきたが、戯れに、我が子だけにこの林檎を与えたところ、乳母は大いに怒り、腹を立て、
「今、貴女の娘は、私の世話で成長して四つばかりにもなり、もう乳ではなく、物を食べて育つほどになったけれど、私の恩を忘れるでないぞよ。何で、今までのように二人とも等しく扱わないのか。私がいなかったら、その子も生きていなかったはずだ」
と、拳を握り、牙を噛んで、主人の子を捕え、今にも打ち殺しそうな勢いに見えた。
 忠五郎夫婦をはじめ、居合わせた者は皆、驚き騒ぎ、これはどうしたことか、気でも違ったか、それほど迄に腹を立てる事か、と、まず忠五郎が娘を引き分けて抱き取ると、不思議なことに、忠五郎の子と乳母の子と、いささかも違わず同じ器量になって、顔の貌から物言いまで、そのままの乳母の子であった。

 忠五郎夫婦は呆れながらも、何ともいえず恐ろしく感じたので、とりあえず手をつき、丁寧な言葉遣いでさまざまと詫言し宥めたので、乳母もようやく心が和らぎ、主人の子を抱いて頭から足まで撫で下ろしたら、元どおり忠五郎の娘の形となった。
 これに懲りて忠五郎は、「何にしてもこの乳母は只者ではなく、自分を誑かし欺いて、我が家を滅ぼそうとする狐や狸が災いをなしているに違いない。どうにかして殺さねば」と思い、下男を唆して、ある日暮れに、乳母一人が門に立っているのを好機と思い、鍬を取って、この乳母の頭を微塵になれとばかりに打ち付けさせたが、過たず打ち込んだはずの鍬が飛び返って、門の扉に当たって扉を壊してしまった。
 乳母はまた大いに怒り、
「忠五郎殿。いかに私を恐ろしく醜い者と思ったからといって、何度このようなことをしたところで、私を殺せるものではないぞ。どうしても私が恨めしいと思うのならば、もっとましな方法を考えるがいい」
と言った。
 忠五郎も今は詮方なく、恐ろしさばかりが増さり、これより後は、その乳母を主か神のように謹み恐れて、その心に背くことはなかったが、それより十年ほど経って、乳母も子もどこへ行ったのか、姿を消してしまった。またその家も、その後は恙なく、何も不思議なことは起きなかった。


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