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秋の日、こんな講演会へ出かけてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/be/55088ca80d72cf8aa67eca7e230697fd.jpg)
私は歴史も好きですが、天文など科学も好きです。で、新聞で見つけたのが、これ。
今般、学会の成果発表が大分大学で行われるのを機に、一般向けの公開講演会が行われるということで、早速出かけてきました。
講演会は3部から成り、
第1部:「麻田剛立と江戸の天文学」
東京大学・鹿毛敏夫 先生
第2部:宇宙の中の地球と太陽‐太陽でスーパーフレアは起きるのか?」
京都大学:柴田一成 先生
第3部:第二の地球を求めて」
国立天文台・田村元秀 先生
という内容で、見事に、過去・現在・未来という構成でした。
それぞれの内容を、ここへ、くどくどと述べ立てても仕方がないので、駄文では一点に絞ってみます。
最先端の科学については、専門家はもちろん、興味のある人は多くを識っています。
しかし科学史については、華々しい最先端に比べれば、どちらかというと地味な分野ですが、私のように「人間とは」というテーマを掲げている者にとっては、むしろその方が、人間そのものについて考える材料を与えてくれます。
さて、掲題の麻田剛立について、私は、江戸時代の天文学者であるという以外、あまり詳しくは知りませんでした。
しかし、ちょっと調べてみると、何とわが郷土、豊後国(大分県)出身だったのです。(脱藩したんですけどね)
おまけに、弟子には幕府天文方の高橋至時がいて、孫弟子には、初めて正確な日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬がいるではありませんか。何だか嬉しくなってしまいました。
さて、講演の終わりに、質疑応答があったのですが、聴衆の質問に演者の鹿毛先生も、「はっきりとした理由は分からない」とおっしゃっていた点が、私にはちょっと引っかかったので、調べてみました。
麻田の業績などについては、リンク先をご確認いただくとして、ひとつ面白いのが、麻田の活躍した時代です。
麻田の名が知られるようになったのは、宝暦13年(1763)の日食予測ですが、翌、明和元年(1764)には、田沼意次が老中に就任して、世の中は自由闊達な雰囲気となり、蘭学をはじめとして、西洋文化や西洋学問(もちろん天文学も)が発達します。
これに呼応するかのように、麻田は西洋天文学を発達させ、反射望遠鏡や、全天を360度に分けた渾天儀(天文観測用の分度器)を使用します。
・・・それまでの渾天儀は、中国流の、全天を365度25(地球の公転周期)に分けたものでした。
しかし西洋の学問が、事実上解禁に近かった時代は、田沼意次の失脚とともに、終わりを告げます。
代わって登場するのが松平定信で、ご存知、寛政の改革を行った老中ですが、寛政の改革の一環に「寛政異学の禁」というのがあり、それまでの西洋学問は一掃されてしまいます。
とはいえ、天文学は暦を作る上で重要ですから、幕府も、天文学には一目置いていたようですが、それでも、西洋かぶれのようなことは、難しくなっていったと思われます。
そのせいかどうか、麻田も、寛政元年からは、せっかく使っていた西洋流の360度渾天儀ではなく、元の中国流の、365度25渾天儀に戻しています。
仮にこのとき、360度渾天儀が故障していたとしても、修理ぐらいわけのないことですから、このあたり、寛政異学の禁が、関係していないとは言えないようです。
会場からの質問は、この、「なぜ寛政元年から、360度渾天儀の使用をやめて、365度25渾天儀に戻したのか」というものだったのですが、専門家を差し置いて僭越極まりないですが、私の素人考えでは、そう思える、というところです。
「白河の 清きに魚の 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき」
おあとがよろしいようで。お退屈さまでした。
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秋の日、こんな講演会へ出かけてきました。
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私は歴史も好きですが、天文など科学も好きです。で、新聞で見つけたのが、これ。
今般、学会の成果発表が大分大学で行われるのを機に、一般向けの公開講演会が行われるということで、早速出かけてきました。
講演会は3部から成り、
第1部:「麻田剛立と江戸の天文学」
東京大学・鹿毛敏夫 先生
第2部:宇宙の中の地球と太陽‐太陽でスーパーフレアは起きるのか?」
京都大学:柴田一成 先生
第3部:第二の地球を求めて」
国立天文台・田村元秀 先生
という内容で、見事に、過去・現在・未来という構成でした。
それぞれの内容を、ここへ、くどくどと述べ立てても仕方がないので、駄文では一点に絞ってみます。
最先端の科学については、専門家はもちろん、興味のある人は多くを識っています。
しかし科学史については、華々しい最先端に比べれば、どちらかというと地味な分野ですが、私のように「人間とは」というテーマを掲げている者にとっては、むしろその方が、人間そのものについて考える材料を与えてくれます。
さて、掲題の麻田剛立について、私は、江戸時代の天文学者であるという以外、あまり詳しくは知りませんでした。
しかし、ちょっと調べてみると、何とわが郷土、豊後国(大分県)出身だったのです。(脱藩したんですけどね)
おまけに、弟子には幕府天文方の高橋至時がいて、孫弟子には、初めて正確な日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬がいるではありませんか。何だか嬉しくなってしまいました。
さて、講演の終わりに、質疑応答があったのですが、聴衆の質問に演者の鹿毛先生も、「はっきりとした理由は分からない」とおっしゃっていた点が、私にはちょっと引っかかったので、調べてみました。
麻田の業績などについては、リンク先をご確認いただくとして、ひとつ面白いのが、麻田の活躍した時代です。
麻田の名が知られるようになったのは、宝暦13年(1763)の日食予測ですが、翌、明和元年(1764)には、田沼意次が老中に就任して、世の中は自由闊達な雰囲気となり、蘭学をはじめとして、西洋文化や西洋学問(もちろん天文学も)が発達します。
これに呼応するかのように、麻田は西洋天文学を発達させ、反射望遠鏡や、全天を360度に分けた渾天儀(天文観測用の分度器)を使用します。
・・・それまでの渾天儀は、中国流の、全天を365度25(地球の公転周期)に分けたものでした。
しかし西洋の学問が、事実上解禁に近かった時代は、田沼意次の失脚とともに、終わりを告げます。
代わって登場するのが松平定信で、ご存知、寛政の改革を行った老中ですが、寛政の改革の一環に「寛政異学の禁」というのがあり、それまでの西洋学問は一掃されてしまいます。
とはいえ、天文学は暦を作る上で重要ですから、幕府も、天文学には一目置いていたようですが、それでも、西洋かぶれのようなことは、難しくなっていったと思われます。
そのせいかどうか、麻田も、寛政元年からは、せっかく使っていた西洋流の360度渾天儀ではなく、元の中国流の、365度25渾天儀に戻しています。
仮にこのとき、360度渾天儀が故障していたとしても、修理ぐらいわけのないことですから、このあたり、寛政異学の禁が、関係していないとは言えないようです。
会場からの質問は、この、「なぜ寛政元年から、360度渾天儀の使用をやめて、365度25渾天儀に戻したのか」というものだったのですが、専門家を差し置いて僭越極まりないですが、私の素人考えでは、そう思える、というところです。
「白河の 清きに魚の 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき」
おあとがよろしいようで。お退屈さまでした。