続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

地獄、地獄絵図

2019-07-16 | 言語学講座
 だいたいどの宗教でも地獄という概念は持っており、それぞれの宗教が想像する地獄では、大勢の人間が責苦を受けて泣き叫んでいる様子が、絵図などに描かれています。
 これに似た状況として、戦争で、たくさんの人々が傷つき死んでいく様を、「地獄のようだ」「地獄絵図だ」ということがあります。

 しかしこれは、地獄や、そこで働く鬼たちに対して、非常に失礼な表現です。

 なぜなら、地獄の業火に焼かれるのは罪人と決まっていますが、戦争では、無実の人間、殊に女子供までが情け容赦なく斬られ、焼かれ、引き裂かれています。
 閻魔大王も地獄の鬼たちも、無実の女子供まで苛むようなことは、決してしません。そんな無慈悲なことをするのは、人間だけです。
 そう、人間は、鬼もしないようなことを、歴史上、飽くことなく繰り返しているのです。

 そのような人間たちを見て、地獄の鬼は、一体、どう思っているのでしょうね。
 きっと「鬼畜にも劣る奴らめ」と見下していることでしょう。

合戦の火蓋を切る

2019-06-20 | 言語学講座
 この慣用句がおかしいというわけではありません。
 では何かというと、この言葉が使われた状況に違和感を感じました。

 あるテレビ番組で、源平最後の合戦、壇ノ浦の海戦を特集していたのですが、その中で、「合戦の火蓋が切って落とされました」と言っていたのです。
 「戦いの火蓋を切る」という慣用句は、昔の火縄銃で、火薬を入れる火皿が、剥き出しのままでは暴発する危険があるので、火薬を入れた後は蓋(火蓋)をしておいて、いよいよ射撃をする時にその蓋を開ける(切る)ことが語源です。

 しかし、鉄砲伝来は1543年ですが、壇ノ浦の海戦はそれより350年以上も前の1185年です。
 もうお分かりですよね。壇ノ浦の海戦で火蓋は切られていないのです。まだ弓矢の時代でしたから。
 まあ、慣用句は慣用句ですから、鉄砲が用いられていない合戦に「火蓋を切る」という表現を使っても、別に間違いではありません。
 でもねえ・・・

 テレビや映画の時代考証では、物や服装などには十分注意を払っていますが、言葉も、その言葉が生まれていない時代を扱う場合は使わない方が賢明で、この例でも語源に思いを至らせれば、いくら何でも源平合戦に火縄銃を語源とした火蓋は相応しくないと、私は思うのですが、いかがでしょう。

 では何と言えばよかったか。
 源平合戦での飛び道具は弓矢でした。そして、物事の始まりを表すことを「嚆矢」と言いますが、これは昔の合戦で、矢の先端に風を切って音を出す仕掛けを取り付けた、鏑矢(かぶらや)を放って、戦いを始める合図としていたのが語源です。
 ですから番組では、「戦いの嚆矢が放たれた」と言えば、時代も考慮した良い表現になったと思うのですが、どうでしょうか?
※嚆矢と鏑矢は構造が少し違うのですが、音が出るという機能では同じに考えて差し支えありません。

 ついでながら、戦いの火蓋を切って「落とす」というのは、同じように物事を始めるという意味の「幕を切って落とす」との混用ですから、二重に違和感を覚えましたが、この点は単なる勘違いなので、ここでは、これ以上触れないことにします。

 「それは考え過ぎ、拘り過ぎだ」というご意見もおありでしょう。
 でも、私は拘ります。拘ることで、歴史を理解する上でその時代の雰囲気、もっと言えば臨場感が掴めると思うからです。
 矢がひょうひょうと飛び交う壇ノ浦に火縄銃が存在したら、雰囲気も臨場感もぶち壊し、もはやオーパーツですよね。

十悪の人も報をうくるに時節ある事

2019-05-13 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 江州下坂本に太郎兵衛という者がいた。三十五六まで定った妻はなく、割と裕福に暮らしていたが、何を考えてか、人を召し使うわけでもなく一人で暮らし、自宅の他に家を二三軒ほど持っていたが、これも手入れをするのが面倒だと売り払ってしまい、兎角、世の中の変わり者だと、人にも言われる行跡であった。
 弟は軽路といって座頭であった。師に連れられて幼い時から江戸に住み、仕事であちらこちらへ行く間に芸なども覚え、心だての良い者だと皆に親しまれ、若いうちから何度も重要な役をこなして堅実に出世もし、その頃の座頭たちは、軽路を羨む者も多かった。
 かくて元禄二年の夏、軽路は、また重要な役を三つばかり勤め上げ、ますます皆に信用されるようになった。
 その後、かねてから願っていた、西国への勤めの旅に出たいと、前年より方々を駆け巡って旅費の寄付を募っていたが、そこは気風のいい江戸人たち、先を争うように援助を申し出て、かなりの額が軽路の許に集まった。
 この度の上京は、身に誉の嬉しさも一入で、坂本にいる兄にも知らせ、故郷の人々にもこの出世を披露しようと思い、軽路は、矢橋から坂本への道を急いだ。
 坂本に着いて太郎兵衛を訪ねると、太郎兵衛も非常に喜び、心尽しにもてなし、酒なども酌み交わした。そして軽路は、江戸から持ってきた八百両余の金を太郎兵衛に預け、日程に余裕があるから、しばらくここで休息を取りたいと頼んだ。
 ところが二三日も経った頃、どうしたことか軽路は病になって、喉が腫れて塞がり、四五日も寝込んでしまった。
 兄の太郎兵衛は才覚して、喉の腫を破って膿を出してしまったなら、薬が喉を通り、食も進んで早く治るに違いないと思い、
「何とかして喉の腫れを取ってやるから、俺に任せておけ」
と、小脇差に付いている赤銅の笄を外して、軽路の喉を覗き込んで、腫れを突き破ろうとした。
(注:笄=こうがい。髪を整える棒状の道具。刀の柄に差して携帯する)
 そうしているうち、太郎兵衛はむらむらと悪心が起こり、その笄を喉の奥へ、笄の頭が見えなくなるほど深く差し込んでしまった。
 軽路は声を立てて叫ぼうとしたが、太郎兵衛はさらに、軽路の喉に手拭いを押し込み、口に手を当てて押さえたので、軽路の口からは苦しげな呻き声が出るばかりであった。
 その呻き声を聞きつけた近所の者たちが、心配して見舞いにやって来たが、太郎兵衛は
「喉の腫れが塞がって、食も進まず、特に今朝からは具合が悪いらしくて、苦しんでいるのです」
と、嘘泣きをしつつ語ったので、近所の者たちも、「太郎兵衛と軽路は兄弟だし、任せておいて心配はないだろう」と、引き揚げていった。
 太郎兵衛はこれ幸いと、そのまま軽路を絞め殺し、軽路の金を奪ってしまった。

 そうして太郎兵衛は欲心のまま、五条の辺で母方の伯父が日銭貸をしているのを頼みに、この金を元手に預けたところ、結構な利回りになって、面白いほどの儲けになった。
 それから半年にもなる頃、太郎兵衛は伯父の世話で、西京山内という所の、百石ばかりの田地を持った後家の入婿になった。この後家は、太郎兵衛より五つばかりも年上であるばかりか、芋のような顔で色は黒く、田舎で育ったせいか物腰は粗雑で、髪かたちにも頓着しないような女であった。
 太郎兵衛は、この女を女房だと言って人前に出るのも気恥ずかしく、また他人から、欲ゆえの妻よと言われるのも疎ましかった。そうすると、例の悪心がまたぞろ起こってきて、何とかこの女さえ亡き者にしてしまえば、他に望むことはないと、常々思うようになっていった。
 さて、その家では、いつも秋の頃は田の刈り入れや稲こきなどに忙しく、大勢の人を雇って、夜を日に継いで働かねばならなかった。そこで、二三日の内に刈り入れを始められるよう、女房は、いつも用がある時に雇っている者を、今年も同じように雇おうと、暮れ頃から西院という所まで行くことになった。
 これを願っての幸いと、太郎兵衛も暮れ過ぎより家を出て、頭巾を目深に被り、帷子に縄帯を引き締め、二尺あまりの大脇差を差して、西の土堤伝いに北へと歩いて行った。
 頃は九月二十日、宵闇は鼻をつままれても判らぬ薄曇りの中、草むらを分けて忍び行くと、野道で人通りもない場所だが、女房にとっては歩き慣れた道で、暗い夜も厭わず歌を口ずさんで帰るところを、太郎兵衛は少しやり過ごして、後から土堤の上に駆け上って大脇差を抜き、腰の番を真二つに斬り離せば、あっと言う声ひとつして、屍は左右へと離れた。
 首尾よく行ったと思い、太郎兵衛は何食わぬ顔をして衣類を着替え、家へ帰った。
 家では、女房の帰りがあまり遅いのを不審に思い、出入りの男どもが道まで迎え行ったところ、この死体を見つけて大騒ぎになっていた。太郎兵衛も、初めて知って驚いたような顔をして、当面は一緒に詮議するふりをした。
 それからしばらくして、太郎兵衛は家も田地も売り払って現金にし、かれこれ合せて千二三百両、そのうえ坂本の家も売って金にして、一生、派手に遊んで暮らせるほどの身上となった。
 ところが太郎兵衛は、まだ飽き足らないのか、同じように、財産のある女を探して妻にしようと企んでいたところ、悪運も味方して、下京松原で名高い合羽屋の娘、しかも惣領で、家督も十二分にある女を妻にして、二年ばかり過ぎるうちに、一人の子をもうけた。
 太郎兵衛はこの子を殊に寵愛し、少しでも姿が見えないと尋ねまわるほど可愛がっていたが、ようやく五つばかりになった年に疱瘡を患い、そうなると太郎兵衛は心配で矢も楯も堪らず、こうしたことには願をかけるに限ると、自ら裸足参りをするため、毎日の暁ごとに清水へ参り、一心に願をかけ、明かるくなってから帰るのを自分の役目のようにしていた。
 四日目にあたる朝は八つ頃に家を出て、六波羅を東へと急いでいたが、道の先に誰かがいて、星明かりに透かして見ると一人の座頭が、江戸節も面白く歌いながら、杖を持って歩いていた。
 太郎兵衛は、まだ夜も明けぬうちに家を出て、道の程も心細く、殊に幼い子供の病が重いのを苦にしており、物悲しく気も弱くなっていいたので、座頭と連れ立って歩こうと思い、四五間ほど手前から声をかけ、
「座頭殿、この夜更けに何所へござります」
と言えば、座頭は少し立止まる様子で、
「我は、願う事があって、清水へ参るところです」
と言うのを頼もしく思い、
「私も清水へ参る者です。一人息子が疱瘡に罹って、しかも殊のほか重く、十死一生の様子を見るに忍びなくて、その願いに参るところです。よかったら、ご一緒しましょう」
と誘った。
 すると座頭は手を打って、
「さては、そなたは太郎兵衛殿か。我は、そなたに預けた銭がある。この銭を取り返そうと、何年も時機を窺っていたが、そなたの運が強すぎたため、今まで巡り会えずにいた。このたびの災難も、みな我が為した事である。覚えがあろう」
と言って振り返れば、紛れもなく、以前、手にかけて殺した軽路が、恐ろしい眼をして口から火を吹き、飛び掛かって太郎兵衛を捕えようと、大手を広げて追いまわった。
 太郎兵衛は気も心も身に沿わず、かなたこなたと逃げまわったが、あまりのことに息は絶え、気を失って、しばらくは死んだようになっていたが、我を取り戻して起き上がったものの、いよいよ空恐ろしくなって足も思うように動かず、それでも何とか家に帰ろうと走っていた。
 すると、松原寺町の辻で、家で召し使っている下女に行き会ったので、
「お前は、今頃、何をして歩いているのだ。うちの子はどうなった」
と問えば、下女は肝を潰した顔をして、
「旦那が夜更けに出かけられて、しかもお帰りが遅いので、人を仕立ててお迎えに参らせようと、駕籠の者を呼びに来たのです。御子は、今、わらわが食い殺しました」
と言って振り返ったのを見れば、山内で手にかけて殺した女房であった。
 太郎兵衛は、またこれに驚いて、しばらく気絶していたが、家から、子の容体が悪くなったことを太郎兵衛に知らせ、また医者などを呼びに出て来た者たちに見つけられ、ようやく助けられて帰って来た。
 しかし、それから太郎兵衛は病づいて、とうとう死んでしまい、その跡も次第に衰微して、今はその人の名も知っている者はなく、絶え果ててしまったという。

正直の人蛇の難をのかるる事

2019-03-24 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 越後の新潟という所に、伝介という百姓がいた。
 伝介の畑は家から離れていたので、朝早くから、昼食のために焼飯を二つ三つほど拵え、小さな藁づとに入れて持って行き、畑の畝に置いて、田畑を耕していた。
(注:焼き握り飯のことである。念のため)
 ある年の夏、いつものように畑へ行って、焼飯を入れた箱を傍らの木の枝に掛け置き、農作業を勤め、日も昼になったと思う頃、かの箱を下して昼食にしようとしたら、箱の中の食べ物がなくなっていた。
 これはどうしたことかと思い巡らせても、確かに、今朝、飯を入れたと思ったが、そうかといって、誰かが盗んだ様子もない。不思議に思いながらも、腹がすいたのを我慢して、その日を勤め、家に帰った。
 明くる日も、同じ木の枝に飯を掛けたら、また、なくなっていた。合点の行かぬ事と思って、二三日ほど同じ木に掛けてみたが、やはり、誰の仕業か判らないが、飯はなくなってしまった。
 悔しいので、今日は、箱だけを木に掛けて、飯は手拭いに包んで腰に下げ、農作業もやめて窺っていると、日が高くなって八つになる頃、腰の周りにひんやりとしたものを感じて振り返ると、三尺ばかりの小蛇が来て、腰に付けた飯の手拭いにくるくると巻き付いて、まん中ほどを喰い破って、中の飯を食っていた。
 伝介は、さてはこの者の仕業か憎い奴めと思い、鎌を抜いて、小蛇をずたずたに切り捨て、これでもう、飯を取られることもないと、伝介は畑仕事の残りを片付け、田の水を落とすなどして、いつもの夕暮れになったので、帰ろうとした。

 そこへ向こうの方から、見馴れない女が乗り物に乗って、こちらへ向かってきた。大勢の腰元や女中を引き連れ、護衛と見える四十ばかりの侍や若党などが煌びやかに進み来るのを、伝介は、
「あれは何方へ行く人だろう。この道は野続きで、先は道もない所なのに、どこへ行くつもりだろう」
と思って、眺めていた。
 一行が伝介の傍まで来た時、随っていた侍が、
「その男だ。逃すな」
と声を上げると、若党どもがばらばらと伝介を取り囲み、括りあげ、乗り物の前に引き据えた。
 乗り物の戸を開けて顔を出した人を見ると、年の程は二十ばかりの気高い女房が、色とりどりの小袖を着て脇息にもたれ、数珠を持つ手で涙を拭いながら腰元を呼び、
「まずは、姫の死骸を、この男の首に掛けさせ、御前に引っ張って参れ」
と命じた。
 伝介は、一向に覚えのない事であれば、合点が行かず、訳が分からないまま下を向いていたら、何だか分からないが重たい袋を首に掛けさせられ、引き立てられた。
 一向と伝介は一里ほど歩いて、立派な屋敷の前に着き、大きな惣門の内へ入って行った。すると奥から三十ばかりの男が玄関に立ち、伝介に向かって、
「おのれ、この国に生まれて、ここにこの御方がいる事を知らなかったのか。普段からの無礼はともあれ、今日、我が君の姫を殺したとは何事ぞ。この罪は決して軽くない。このことは既に天帝へ申し上げた。今から、雷神を以って汝の頭を打ち砕くぞ」
と荒らかに行った。伝介が、
「私には、人を殺した覚えはございません。貴方様がどなた様か存じませんが、きっと人違いでございましょう」
と言えば、男は、
「今日、汝は、僅かな食を惜しんで、姫の命を奪ったであろう」
と言う。
 伝介が、さては今日の昼に殺した蛇の事かと思った時、首に掛けられたる袋から小蛇がいくらともなく湧き出て、伝介の手足に隙間なく巻きついた。同時に、俄かに空が掻き曇り、雷は夥しく、稲妻が頻りに走り、土砂降りの雨が伝介の上に降りかかってきた。
 たまらず伝介は大声を上げ、
「それ天道は、誠を以って人を助け、神明もまた正直の頭に宿るものではないか。自分の腹を満たそうとする者が、私の飯を盗んで私を飢え疲れさせたのだから、天はこれを憎むべきで、盗んだ方こそ罪を逃れ難い。それなのに、盗んだ方を助けて、私を殺そうとするとは、神明は筋が通らぬではないか。よし、私を殺すのなら殺すがいい。私は誠を通す神となって、この報いを教えてやる」
と、飛び上がって大いに怒り、空を睨んで立ち上がった。
 すると、今まで猛っていた雲も雷も、少し遠ざかったように思ったら、一撃の雷に打たれ、伝介は気を失って倒れてしまった。
 気が付いて見ると、雲は晴れ、日の光も華やかに差し、縛られていた縄も悉く引きちぎれ、体にも、何の怪我も無いようであったので、伝介は急いで家に帰った。
 次の日、かの所に行って見ると、大きな蟒(うわばみ)どもが、いくらともなく頭を雷に打ち砕かれ、そのあたりは血に染まっていた。

男の一念鬼の面に移る事

2019-02-22 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 京都油小路に小間物屋庄右衛門という者がいた。
 その女房は、十二三の頃よりさる方に勤め、髪かたちも人に勝れ、琴三味線も上手であったので、ゆくゆくは一国の御奥にもなるのではないかと言われていたが、心様が妄りで色深い人だったため、十八九の頃には親元へ帰ってきていて、それが、ふとした縁で庄右衛門に連れ添い、早や六七年にもなり、二人には、六つと四つの二人の子がいた。
 庄右衛門は小間物を売って、いろんな家に出入りしていたので、それらの家の女中などと話をするうち、芝居話や物真似などをそこそこに覚え、流行り歌の端々をも少しは歌えるようになった。ただし、今時の小間物屋は、大抵の者が、これぐらいの取柄がなければ商いにならない。そんな音曲の楽しみを得た庄右衛門は、さらに、出入の小座頭や魚屋の男など、気の置けない仲間と共に、御日待だ庚申だという内証の遊びにも、時々は出掛けていた。
 その頃は、宇治外記とかいう浄瑠璃の太夫が人気を博していて、庄右衛門も通って、いろんな演目を見ては楽しみ、庄右衛門自身も稽古してみたりしていたが、折節は、何かの理由を付けて、かの外記を聞いて振る舞いをすることも度々あり、これが縁で、庄右衛門は外記とも親しくなった。
 庄右衛門方へ出入りするようになった外記は、たまたま庄右衛門が留守でも、家人に浄瑠璃を聞かせ、家に泊まったりすることも少なくなかった。
 それどころか、庄右衛門の妻に心を移して、人知れず何かと言い寄るに、女房も生まれつき気が多く、しかも音曲などの芸人に惹かれるのは女心の習いで、いつしか割りない仲になって行った。
 外記はいよいよ庄右衛門の女房に心を奪われ、恋に眩んで、
「私には未だ定まった妻もいない。貴女のように情ある人を引き取って、一生、自分のものとしてみたいと思うにつけ、寝ても起きても、それが心にかかって、この恋しさは遣るかたもない」
などど口説いた。
 そして、庄右衛門の女房と相談して、あれこれと策を巡らせ、来たるべき時節を窺っていた。
 そんなある時、庄右衛門が三十六七歳に及んで痘疹(はしか)を患い、しかもかなり重かったので、様々に療治の手を尽くしたところ、ようやく本復した。
 ところが入れ替わりのように、六つになる上の息子の庄太郎が、食べ物にでも中ったのか病気になり、それでも治療の甲斐あってか、少し回復してきた。
 そうかと思うと、今度は女房が、何かは判らないが病気になり、物もあまり食べられなくなってしまった。
 周りの者は、女房の方は、庄右衛門と息子の庄太郎が続けて病気になり疲れが出たのだろうなどと、薬を呑ませたりもしたが、あまり回復せずに、調子の悪いままであった。
 女房は、庄右衛門はまだ病後の回復が本調子でなく、息子も未だ回復しきってはおらず、母親にせがんで泣くので、病でふらふらになりながらも、子の世話をしていた。
 こうまで病人が続くと、庄右衛門は、これは只事ではないと心配になった。そこで、この二三年ほど、一月二十八日には必ず訪れる常徳院とかいう山伏が、今年も来たのに頼んで、当卦を見て貰ったところ、
「今年は夫婦ともに、禍害という卦に当たり、禍は災い、害は人を殺害する卦です。その上、離の卦も出ており、離は夫に別れ、妻に別れ、子を失う年です。これを祈祷するには、七日の間、夫婦は場所を変えて寝て、互いに目も見合わせず、物を言う事も忌み、仮に離別したつもりで過ごしてください。その間に私が祈り加持をして、夫婦の縁を結び直して参らせましょう」
と言う。
 庄右衛門宅に来ていた外記も、これを聞いていて、
「この程の不幸を転ずるには、兎にも角にも、言うとおりに祈祷を頼むのがいいでしょう」
と勧めた。
 そして常徳院は、家の中にしめ縄を張り、敷壇を構え、この壇の左右を仕切って夫婦を置き、互いに物も言わず目も見合わせぬようにと、固く戒めた。亭主は夜の寝覚め淋しく、これでは七日も過ごし難いと思ったが、我が身のため家族のためと心を取り直し、気を持ち固めていた。
 明日は七日の満参という夜、常徳院が来て
「この程は恙なく勤めて、早や明日は願成就の日です。最後の仕上げに、今夜は、夫の方から仮の暇状(離縁状)を書いて渡してください。今宵は縁切の行いを勤め、明日は生まれ変わって、めでたく縁を結ばせ申しましょう」
と言う。
 心に添わぬ事ながら、庄右衛門は硯を引き寄せ、三行半に妻を離縁する旨の手形を書いて渡すと、女房も涙を零して受け取り、そのまま硯箱の中へ収めた。
 かくて夜が明けるままに、常徳院の指図で、先ず女房を祇園の厄神へ参らせ、
「この人がお帰りになったら、また、庄右衛門殿も参りに行きなさい。二人とも帰って来たら、祝言めでたく取り結びましょう」
と言って、常徳院は帰って行った。
 庄右衛門は、これで所願が叶った心地して、女房の帰りを今か今かと待っていたが、日が暮れても帰って来ないので、心もとなく悲しくなり、あちこちで穿鑿したところ、常徳院と外記とが共謀して庄右衛門を陥れ、女房を離別させ、今頃は大津百石町の辺に逃げている、ということが判った。
 庄右衛門の腹立ちは山々であったが、偽にもせよ、ひとたび暇を取らせた女であれば、今更どうすることもできず、思い悩んだ挙句に乱心して、井戸へ身を投げて死んでしまった。
 そんな事など露知らず、外記と女房は、事が思い通りに運んで嬉しいばかりの月日を送っていた。
 明くる年の三月、外記は、久しく都の花を見ておらず、懐かしいので、女房を伴って京都に上り、東山の桜を見巡り、帰りには壬生の大念仏などを拝んで、ついでに近所の子供への土産にしようと、鬼の面を一つ買い求め、道すがら手に提げて大津の宿へ戻り、その夜はくたびれて、夫婦とも早くに寝た。
 ところが、女房は、恐ろしい仮面が眼を見開き声を怒らせて、頻りに呼ぶ夢を見て、目が覚めた。女房は、あまりの恐ろしさに、傍らの外記を起こそうとしたが、いつもと違い、殊更に寝入っている様子であった。女房は、後から掴みかかられるように覚えて、行燈の火を大きくして後ろを振り返れば、昼間に買ってきた鬼の面が、大きな口を開け、眼を怒らして飛び掛かって来たので、あっと言って外記にしがみついたが、そこをすかさず鬼の面は、女房の左の肩先に喰らいついて、喰いちぎった。

 あまりの騒ぎに外記も目を覚ましたが、この有様を見て気を失い、誰も介抱する者がいないまま、昼頃になってようやく正気になり、何とかその場をごまかして、寺へ逃げて隠れていたが、隠し通せるものでもなく、どこかへ行ってしまった後、原因の分からない病気になって、死んでしまった。

美僧は後生のさはりとなる事

2019-01-27 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 鎌倉建長寺の傍らに、念性という僧がいた。生まれつき美くしく器量の良い僧で、学問も人に優れ、書を良くし、心映えも優しかったので、人々から持て囃され、老いも若きも念性念性と言っては馳走し、仏事があるときは必ず呼び、争うように衣類なども差し上げ、皆、何かとこの僧の面倒を見ていた。
 それほど評判が良かったので、ゆくゆくは似つかわしい寺にも入って、心よく菩提を弔う僧になってくれればと思う者も少なくなかった。
 そうした折、地頭の世話で、亀谷坂の辺りに草堂を建て、念性をここに据えたところ、僅か半年ばかりの間に、近郷の百姓たちは皆この僧に懐き、そればかりか、鎌倉へ来る旅人の宿として、あるいは貴人の御馬をも寄せられる程にもなった。
 念性の草堂近く、粟船という所に、小左衛門後家という女がいて、歳は六十を過ぎ七十近くになっていたが、子は一人もなく、僅かな田地を人に貸して身の助けとしていた。もう歳でもあり、明け暮れ寺詣りを欠かさず、仏道を怠る事なく、行いの正しい人であったので、このような人がきっと仏になるのだろうな、などと世の噂に言われていた。
 ところがこの後家は、過ぎる元禄十年の冬、腹を患って死んでしまったので、念性は、この後家を弔い、位牌などもこの草堂に据え、毎日の勤めを怠らなかった。
 ある夜、仏事があり、念性は夜遅く帰ってきて、今朝の勤めが終わっていなかったので、いつものように仏前に向かい、香を添え、灯明の油を注して、勤めにかかろうとした時、突然、かの後家の位牌に手足が出来て動き出した。
 これはどうしたことだ、狐か狸が自分を誑かそうとして、このような怪しい事をしているのかと思い、心を静め、座っていると、この位牌が仏壇より降りて来て、念性に取り付き、
「おお悲しや。私がこの世にいた間は、年の程に恥じ、人目を思って、露ばかりも言わずにいましたが、死んでからは、この迷いによって成仏できず、中空に漂うばかりです。私は貴方の庵に毎日訪れ、仏様を手ずから奉り、衣の洗濯や縫い物など二心なく勤めてきましたが、語り出すも恥ずかしながら、私は貴方に心があって、人知れぬ恋を続けてまいりました。しかし、こうなってしまった今は、儚い姿ながら、ひとたびでも枕を交わし下されば、浮世の妄執が晴れて、私も成仏できましょう」
などと言う。

 念性は恐ろしさのあまり、振り切って逃げようとしたが、足元の火桶から無数の雀が飛び出て、念性を取り囲んで包み込み、「おお悲しや。助け給え」と大声を上げて泣き叫ぶ。
 その声に驚いた近辺の人々が、何事かと駆けつけて、何はともあれ念性を引き据え、気付け薬などを呑ませて事情を聴き、念性は、先ほどの様子を語った。
 しかし人々は、あまりにも不思議過ぎる話だったので、まさかそれほどの怪異ではなかろう、きっと気が疲れていて、怪しい事を見たに違いないと、薬を飲ませ、念のためにその日は皆で見守って夜を明かしたが、特に何事も起らなかったので、皆、安心して引き揚げた。
 次の夜は、近所の人も、万一何事かあってはいけないと思い、宵のうちは代わる代わる見舞いに来ていたが、何事も起らず、薬を勧めて、また明日来るからと言って、帰って行った。
 それから二三日も過ぎたある朝、草堂の戸が遅くまで開けられないので、人々は、何かあったのか、法事に出かけて行った様子もないがと、不審に思って、窓から覗いて声をかけたが、答えがない。戸は内側から閉められていて、門口から入ることができなかったので、心配しながらも、生垣をくぐり、庭から居間へ入っていくと、念性は仏壇の間で、喉笛を喰い切られて死んでいた。何があったのかと辺りを見れば、後家の位牌に血が付いていて、喉笛の皮や肉がその前に散らばっていた。

願西といふ法師舎利の罰を得し事

2019-01-06 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 山城国新田に与十郎という者がいた。
 彼の家には不思議な本尊があり、二尺ばかりの御長立像で、なかなかの名作と見えたが、いかなる仏工の作かは分からなかった。ただ、惣身より次々と舎利が湧き出てきて、いつ見ても舎利が七つ八つほど蓮台の上に落ちていて、絶えることがなかった。
(注)舎利=釈迦の遺骨。上では、骨の欠片らしいものが湧いて出るのを、仏像から出てきているので、舎利と信じている
 これを聞いた人々は、遠い国から遥かな道も厭わず信心の歩みを運んで、ひとたび拝み奉って、後生の善果を得る事を願う人も多く、あるいは、さまざまなご利益を求めて、この舎利を一粒貰い受け、七宝の塔を建てて香花を捧げ、一心に祈る人も少なくなかった。
 そのような人のところへ貰われていった舎利は、また自ずから分かれて二十粒三十粒と増えていった。ところが、悪い心を持ったり、不信心になったりしたときは、増えた舎利はことごとく減って元の一粒になってしまうなど、霊験あらたかであったので、五畿内にこの噂は広まり、皆が尊び持て囃した。
 そして、いつしか人々の信心は弥増さり、参詣の人は引っ切り無しに訪れていたが、与十郎は無欲の者で、人の施物を貪る心などなかった。それでも、人々が何かと心付けをして生活には困らなかったので、余生を裕福に暮らそうと、六十の暮より隠居して本尊の守に専念し、大切に秘蔵していた。
 ここに、南部から引っ込んできた願西という道心が、新田に小さな庵を結んで二三年ほど住んでいて、この本尊に験がある事を羨み嫉み、何とかしてこの本尊を自分の物にし、世を渡る生業の種にしたいと思っていた。
 しかし、そんな具合だから、願西は、簡単に盗む手立てもなく、さまざまと方法を考え続けていた。
 ある時、いい方法を思い付き、都へ登ったついでに、仏師の店にあった立像二尺ばかりの古い仏を買い取り、秘かにこれを打ち割って、与十郎方から貰っておいた仏舎利を胎内に納め、惣身に小さな穴をあけ、元通りにくっ付けて仏前に供え、香花を奉って二日ばかりしたら、中に入れた舎利が分かれて、ぼろぼろと穴からこぼれ出て来た。
 願西は、これで日頃の念願が叶ったと、急いで仏壇を綺麗に飾り、庵も煌びやかに普請しつつ、近隣の村中へ、
「愚僧はこの程、都の黒谷に法事があって参り、旅の道すがら、筑紫の菩提寺の出家と一緒になって、伏見の宿に泊まったのだが、その出家は宿で頓死してしまった。同宿した誼もあり、また、僧の役目だと思って、彼の死骸を野辺に送って土葬にしてやろうと、棺桶を背負って宿を出たのだが、二三町も過ぎた頃、殊のほか背中が軽くなったように思えて、下ろしてみると、棺桶の中に死骸はなくて、この本尊がおわしました。しかも舎利が湧いて出るなど、まことに尊い仏にましまする。いざ、参り給え。拝ませて進ぜよう」
と触れ歩いた。
 すると、人々が群集となって、我も我もと、この本尊を拝みに来てみると、願西が言ったとおり、本尊からは舎利が湧いて出ており、その有難さは言うばかりもなく、めいめいは数珠を差し伸ばして仏の御手に触れ、または善の綱(仏像の手にかけて、参拝者に引かせる綱)にすがって、後のほうからでも仏の御姿を拝もうと、押し合いになった。
 そうこうしていると、善の綱に多くの人が取り付いて、あっちへ引っ張りこっちへ揺すったせいか、とうとう本尊は引き倒されてしまい、御手は折れ、胎内に込めておいた仏舎利百粒ばかりが、惣身にあけた穴から一度にさっと零れ出た。それを見た人々は、有難い舎利だとばかり、我先に折り重なって取り合いとなり、ついに一粒残らず皆に持って行かれてしまった。
 願西は、企んだ事がとんでもない結果になり、あまつさえ舎利は残らず拾われてしまい、腹立ち紛れに本尊を台座より引き降ろし、叩き割ってしまった。

 その時、右手に小さな棘が一つ刺さったと思ったのが、日が経って、そこが大きな腫物となり、三百十日ほど患った後、手から体中が腐って死んでしまった。

舎利の奇特にて命たすかりし人の事

2018-12-23 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 津国瀬川の宿、待兼山のほとりに甚之丞という者がいた。
 先祖は昔、荒木津守が伊丹籠城をした時、何度か手柄を立てて感状などを貰い、その後、摂津守を恙なく勤めるなど天晴れな武士であったが、伊丹が没落の後は、屋敷ひとつばかりの、浪人同然の身となった。
 しかも、それが三代目の今に至っては、再び武家の名を興すことも叶わず、そうかといって、土民の数に入りながらも農業については何も知らず、心ならずも隠遁の身なりをし、訊かれもしないのに、羽振りの良かった昔の話ばかりして過していた。
 ただ、せめてもの取柄で、人に無心がましき事は言わず、損をかけることもなく、特に何の生業をする様子でもなかったが、人並みに木綿の衣裳をさっぱりと着こなし、年に二度ほどは、近所の衆を呼んで碁や将棋に遊ぶなど、人を傷つけたり迷惑を掛けたりすることのない善人と、人々から言われていた。
 その隣郷で宮の森の辺に、重太夫といって甚之丞とは無二の友がいた。重太夫は庄屋で、多くの下人なども召し使う富裕な者で、暇があれば、その辺の友人宅へ遊びに行き、殊に甚之丞も遊び好きなので、互いに朋友の交わりを深くしていた。
 ある朝、重太夫は用事があって多田の方へ行くと、大和河の端に高札が立てられていた。それを読んでみると、
「当月十二日の夜、この河の端にて、金子三百両が入った財布を一つ、封をした黒塗の箱一つ、拾い申し候。心当たりのある御方は、目録を御持参くだされ候。目録と現物を照合の上、落とし主へお返し申し候。以上。瀬川の宿 山中甚之丞」
と書かれていた。
 往来の旅人たちがこれを見て、
「この立札は、遠く京海道にも立ててあった」
「上牧で最初に見た」
「俺は桜井で見た」
「郡山や芥河、高槻の辺にもあった」
などと口々に言うのを、重太夫はつくづく聞いて、
「もし甚之丞でなければ、このような高札を立てたりはしなかっただろう。本当に無欲な奴だ。それにしても、こんな高札を立てるのなら、俺にも何か相談があってよさそうなものだが、何で相談してこなかったのだろう」
と訝った。
 ところが欲は汚いもので、重太夫は、この高札に似つかわしい話を取繕って、うまいこと金品を手に入れられれば儲けものだと思い、甚之丞宅へ行き、かの高札の事を、
「俺のところの使用人が、この前、池田へ届ける酒代を預って、大坂から帰っていたのだが、他にも何かと荷物が多かったので、そのうち二三個を、どこかへ紛れるか落してしまったらしい。残念で、困っていたのだが、お主が拾ったのは幸いだった。さあ、渡してくれないか」と話した。
 甚之丞はこれを聞いて、
「その話に偽りはないだろう。殊にお主と俺の仲であれば、早速にも渡すが、このような事には念を入れるのが互いのためだ。箱の上書きに何と書いてあるか、金子の封印には何と書いているか、目録を書いて持ってきてくれれば、確認した上で引き渡そう」
と言う。
 重太夫は、これは困った、目録に何と書けばいいのかと思ったが、家に帰って、とにかくそれらしい案文を認めて持参したところ、二三日過ぎて甚之丞方より、
「成程、目録に相違はなかった。ただし、箱の中は封印したままなので、何と書いてあったのか確認はできなかった。とにかく、今晩、返し渡そう」
との連絡があった。
 重太夫は嬉しくなって、早速、受け取りに行くと、金子三百両は封のまま、箱もそのまま渡してくれた。重太夫は、当座の礼として金子百両を持参しており、甚之丞は固く辞退したが、半ば無理やり受け取らせて、酒など呑み交わし、夜が更けるまで語り合って帰った。
 次の日、重太夫は朝早くから起きて、心に人知れぬ笑みを含みつつ、この金子に灯明など奉って、氏神を幾度か拝み、さて、かの封を切ってみたところ、三百両は悉く真鍮で作った偽小判で、一文にもならない代物であった。これはどうしたことかと大いに仰天し、そのままこの金を引っ提げて甚之丞の家へ行き、いろいろと穿鑿したが、かえって重太夫のほうが言い掛かりをつけているようで、旗色が悪くなり、一代の不覚なりと諦めて帰った。
 元々は、重太夫が手にするいわれのない金であったが、そうなると重太夫は、この偽金は甚之丞が準備したに違いない、甚之丞は本物の小判を着服して商売の元手にでもするつもりだ、と思うようになった。
 そしていつしか、この事が人々の噂話に登るようになり、甚之丞は村中の取沙汰が悪くなり、人付き合いも疎くなってきて、とうとう住み慣れた家も僅かな代金で売ってしまい、大坂に下り、知り合いを頼って、しばらくは居候のようにして身を隠した。
 そして、時々は北浜の米市で商売をして、少々の利益を得ていたが、それも始めのうちは稼ぎになっていたものが、後には損ばかり出すようになってしまった。
 そんな矢先、甚之丞を住まわせている家の亭主が、ある夜、妻子を道修町の親元へ遣し、ひとり居間で寝るでもなく、夜半の頃まで留守番をしていた。
 甚之丞はその夜、谷町辺りに用事があって出かけており、夜遅くに帰って来た。頃は元禄十五年の秋、名月に近い空が俄かに掻き曇り、時ならぬ夕立が凄まじく降る折、庭の沓脱ぎの下から人の声がして、立ち出るものがある。
 これは誰だ、盗人に違いない、何とかして撃退せねばと甚之丞は思ったが、平生から物怖じする性格であったので、臆病神に憑りつかれ、ただ一念に大悲観世音の名号を唱え、盗人が家中のお宝を丸剥にして行ったとしても、命さえ助かりたいと尻込みした。
 それでも、心に念仏を唱えながら一太刀斬り掛け、あとは夢中で刀を振り回すと、盗人は静かになったので、急いで止めを刺そうと斬り付けた。そして刀を引き抜こうとしたが、何に引っ掛かったものか、刀が抜けなくなってしまった。
 これはどうしたことかと、心は急いて大汗をかき、えいやえいやと引いているうち、主の女房が手代に送られて帰ってきた。
 そうこうしているうちに、皆が家の中へ入ってくる音がしたので、これで運の尽きかと思い、刀を捨てて逃げようとしたが、何のはずみか自分が着ている着物の、裾の破れに足を引っ掛け、どうと倒れたのを、手代たちも見付けて、捕えてみれば甚之丞である。

 さては、こいつが旦那を手にかけ殺したのかと、斬り込んだ刀を引き抜いて見ると、亭主には少しも傷がなく、持仏堂の戸を切り割って、中の舎利塔に切先が食い込んでいた。
 忝くもこの舎利は、和州の寺より申し請けた、有難い仏舎利であった。
 亭主も、この奇特で怪我もせず無事だったことにより、甚之丞を許し、甚之丞も、この瑞現に逢って心を改め、その場で髻を切って、道心の身となって、今も玉造の辺に住んでいるという。

狸の子を取て報ひし事

2018-12-10 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 加州金沢に、弥九郎という獣捕りの名人がいて、見かけた獣を残さず捕って市に運び、三貫五貫の銭を得て自分の稼業としていたので、この男が出かける時は、獣たちは安心して出遊ぶことができないなどと言われた。
 ある時、用事があって越前の国福井へ行く時、月津より轟へ行く間に勅使という所があり、その辺には道竹という隠れなき古狸が住んでいて、ややもすれば人を誑かし化かして、難儀をさせていた。
 弥九郎が通りかかった折も、道竹の子供二三疋が、この勅使の川辺に出て遊んでいたのを、弥九郎は遠くから見付け、
「これはよい稼ぎになる。捕まえて、道中の酒代にしてやろう」
と思い、傍らの茨畔に這い隠れ、二疋は難なく捕えたが、一疋は取逃してしまった。
 弥九郎は、
「口惜しい事だ。今まで何度も獣を捕ったが、ついぞ仕損じた事などなかったのに。おのれ是非に捕えてくれん」
と、かの二疋を囮として、逃した狸を待っている所へ、五十ばかりかと見える禅僧が、杖をつきながらこの所を通りかかり、弥九郎が隠れている所へ近寄り、
「弥九郎、弥九郎」
と呼ぶ。
 弥九郎は胸騒ぎがして、
「何者ぞ」
と言って立ち上がると、禅僧は、
「我は人間ではない。其方も聞き及んでいると思うが、ここに年久しく住んで、多くの人を欺き誑かしてきたた道竹である。我は千年を経ているから神通力は意のままで、火に入ったり水に隠れたり、雲となって霞と化すのも自在となった。だから、弥九郎という狩りの名人が手を尽くしても、我はまた変化して、終に其方の手にかかることはなかった。しかし今、其方の前に現れたのは、大切な願い事があるからだ。我の願いを叶えてくれたなら、その代わりに、其方の身一代が、栄耀を極め歓楽に誇る方法を、教え申そう」
と言う。

 弥九郎がこれを聞いて、
「何なりとも言うがよい。叶え申そう」
と請け合ったら、道竹は涙をはらはらと流し、
「我は長年、人を怪しめ、人に敬われ恐れられることはあっても、人と言葉を交わすことなどなかったが、弥九郎なればこそ、我も子供のために人の姿をして現れ、頼み申す。真に、生ある者として子を思わない者はいないが、さっき其方に捕まったのは、我が子の中でも、殊に末子であった。我も子供たちを常に戒めて、猥に遊ぶ事なかれと制してはきたが、幼い心に早って、この難に遭ってしまった。親の身としては見捨てても置き難く、我の心を察して、子供の命を助けてもらえないだろうか」
と、涙にむせぶ。
 弥九郎が、
「話は分かった。で、その代わりには、何を以って我に一生の歓楽を与えるというのだ。それによっては、二疋の子は助けて返そう」
といえば、道竹は、
「されば、一生の歓楽というものは、本来、過去の行いによって現在の幸不幸が決まるのであるから、昔から徳を積み続けていればこそ、今、富貴の身となれるものである。我は数千歳を経て神通無碍とはなったが、過去の因果に背いてまで、今の貧を福とすることはできない。ただ、幻化虚妄の奇特を以って、仮の歓楽を得る術には通じている。だから其方も、今しばらくは大いなる福を受けたとしても、それは人を惑わし魂を奪って富貴を貪る故に、未来は必ず悪道に堕ちて苦を受ける運命となる。我は過去の業によって畜生の命を得た身であるから、もし将来、人である其方が悪道に堕ちたとしても、そこまでは我としても知らぬことである。そのような幻術を我はいくらでも知っているから、其方に命を乞うて子を助け、その代わりに、一生の栄華を誇らせるのも、そうした術の一つを使うに過ぎない」
と説明した。
 弥九郎は、未来が恐くないわけではないが、当分の歓楽という言葉に心が動き、
「では、その術を使って、我に栄華を授けよ」
と頼んだ。
 道竹は、弥九郎を連れて熊坂の城跡へ登り、様々の儀式や勤めを行ったが、それは一つとして、人間の世で聞いたことのないものであった。そして、
「さて、術はかけられた。これで万宝は心のままである。このことは、決して他人に話してはならぬぞ」
と言って、別れていった。
 弥九郎は何が何だか分からなかったが、この山から下りて歩いていると、行き交う人々が弥九郎を振り返っては口々に、
「さても美しい女郎ではないか。およそこの近国に、あれほどの女は見たことがない」
と囁くので、さては、自分は女になってしまったのかと不安になり、溜池にさしかかった時、水鏡に映してみると、よくも化けたもので、我ながら器量よく美しい女になったものだと感心していると、さらに大勢の人が振り返り見るので、面白がって福井の町を行き来してみた。
 すると一人の年配の婦人が、弥九郎の袖を引いて、
「私は、加州大聖寺より一里ばかりの、山代の湯本では人に知られた、増野と申す者です。私は長年そこに住み、大勢の湯治客を泊め、按摩の仕事をして客達の機嫌を取ったり、身分ある奥方や御姫様などの、体や腰の痛むところを揉んでは金銀を頂いて、今、六十近くになるまで何の不足もなく暮らして来ました。しかし夫は十年前に世を去り、親類も従兄弟ぐらいしかいませんが、私の家業は地元では有名になり、貴人や高位の方に召されることを専らとしていますので、才のない者に家業を譲るのは本意ではありません。そこで、湯本の薬師堂で、このことを祈りましたところ、福井まて迎えに行けと、人相や衣服まで細かいお告げがありました。それが、あなたと露ばかりも違わないのです。あなたこそ、我が家の跡取りです。さあ、こちらへ」
と誘ってきた。
 弥九郎は気恥ずかしいようにも感じたが、これこそ道竹の計らいに違いないと思うに任せて、婦人の申し出を快く請け合い、共に山代へ向かった。
 着いて見ると、聞いていたよりもはるかに家は大きく、湯治の男女が絶えない中に、大勢の使用人が出入りして賑わしく、女中も忙しく宿札を掛けたりしていた。
 例の婦人は、弥九郎を引き連れ、
「私の娘になりました」
と皆に披露した。弥九郎は可笑しくて仕方なかったが、それは奥歯にかみ殺して、されるがままにしていると、平河の御方という名を付けられ、小袖を着せられて、店への御目見えとなった。
 客と覚しき御方を見れば、年の程は二十二三と見える、気高く美しい女であった。賤しい身分の弥九郎は、このような貴人の姫君など見たこともなく、しかも、この世に2人とはおるまいと思えるほどの美しさで、思わず見とれてしまい、何とかこの姫君に取り入って自分の好意を伝え、同情でもしてもらえたらとの気持ちが募った。
 そして夜にもなれば、傍らを離れず、湯治の上がり場までも立ち入って、湯衣を参らせる序に、腰をしっかりと抱き寄せれば、姫君が、
「これは、どうしたことでしょう」
と言ったのをきっかけに、弥九郎は涙を流し、
「本当は、私は女ではありません。弥九郎と申す狩人です。さる子細があって女の姿になり、この宿の主になって、富貴栄耀は思いのままの身となりました。しかし、富んでも貧しくても道に迷う心は同じで、貴女の姿を見初めてからは、露忘れる間さえありません」
などと掻き口説いた。
 思いもよらぬことに姫君も当惑したが、弥九郎を突き放すでもなく、
「そのお心ざしは、無下にはしがたいと思いますが、男心に迷っていては湯治の効き目がないなどと、湯の効能にも書かれています。湯治が済むまで暫く待っていただき、また来年の迎え湯には、必ず」
と言って慰めた。
 これに弥九郎は顔色を変え、
「そうか。私を賤しい身と思って、適当にあしらっておき、もう逢わないつもりだろう。私の心を無にしたならば、その報いを見せてやろう」
と言って、腰を抱いた手を突き離せば、姫君は俄に病気が重くなって五体が苦しく、うまく物を言うこともできなくなってしまった。驚いた姫君は、自分を憂き身と観念したのか、弥九郎の言うがまま枕を交わし、その日から弥九郎は姫君の元へ通うようになった。
 同じ時、その湯治に泊まっていた別の客で、団佑という侍が、もちろんそのような事情は夢にも知らず、この平河(弥九郎)に思いを寄せ、明け暮れ心を尽し隙を窺って、夢でも情けに与りたいと願っていた。
 そしてある朝まだ仄暗い頃に、団佑は、平河の御方が姫君の閨から忍びやかに出て帰って行くのを、とある片隅に引きずり込んだ。
 平河は、
「変な男がいる」
と大声を立てたが、団佑は、ずっと思い煩っていたこの女のために、もしも命を奪われるようことになっても構わないとばかりに、ひたすら抱きしめて、平河の懐に手を差しいれてみたら、胸板には毛が生え、骨もごつごつとしている。
 団佑は恐ろしくなって、
「おのれ曲者め。逃がさん」
と言って抑えつけていると、人々も出合い、飛び掛かって平河を捕え吟味すると、弥九郎の化けの皮は剥がされ、終に死罪となった。
 と思ったら、弥九郎は夢が覚め、勅使の川原に佇んだままであった。
 これには弥九郎も思い直すところがあったのか、その日限りで猟師を辞めてしまった。

人形を火に焼きてむくひし事

2018-11-30 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 寛文(元禄の少し前)の頃まで世に持て囃された説教大夫(説教節=語りものの民衆芸能)で、日暮(説教節の日暮派)という者は類なき誉を残した。今でも片田舎の者は、折にふれて俊徳丸、山椒大夫などといった演目で涙を流し、今は廃れつつある音曲に耳を傾けているという。
 元禄十一年の頃まで、日暮小太夫(日暮派の名跡)という者がいて、美濃、尾張、稲葉、筑紫など至らぬ所はなく、行脚のように国々を巡って説教を語り、辻打ちの芝居に傀儡(でく=人形)を舞わせて渡世としていた。しかし、それも世が下るにつれ、人々は他の芸能を持て囃すようになり、長い旅をして、いろんな国に行っては興行していたが、もう古臭いと言われて人気は出ず、それよりも、流行歌などを歌う芸人に人気を取られるばかりであった。
 それでも少し前までは、地方などで、定番の節を語ったり、宴会の座興に声がかかったりはしていたのだが、次第に、この説教を聞いて慰みにしようとする人々は減っていき、たまに年寄りが昔を懐かしんで聴くこともあったが、
「昔の小太夫は名人で、聞いて袖を濡らさぬ者はなかった。今の若い芸人が語るのは説教ではなく、物乞いが節を唸るに等しい」
などと言われる始末であった。
 そんな具合だから、自ずから渡世も成り難くなって、地方巡業の芝居に雇われて、せめて人形遣いでもして稼ごうと思っても、今時の人形遣いには、女形五郎右衛門や手妻善左衛門などが人気を博し、生きた人の如く人形を細やかに動かし、衣裳といい髪形といい、そのまま人間かと思うくらいの芸を見せていたから、小太夫などの出る幕はなかった。
 小太夫は次第に行き詰って、生活も苦しくなって食う物にも困り、とうとう恥を捨て顔を隠して、物乞いをするまでになってしまった。そして、それまで大切にしていた人形も、衣装は剥いで売ってしまい、赤裸の人形を打ち割って雪の夜のかまどにくべて、尻を暖め飯を炊いて食い、今までこの人形のおかげで身を立て妻子を育んだ恩など忘れ、手足をもいで楊枝にして煙管の掃除に使った。
 そんな中でも、女形人形一つは残して巡業に持ちまわり、謳い舞わせて飯の種にしていたが、ここまで零落してしまっては、小太夫の目論見とは違って、一人の口にも足りぬほどの実入りにしかならず、家に帰っては人形を石に投げ付け足にかけて蹴飛ばし、人形が悪いかのように恨み罵ることが半年ばかり続いた。
 このように乞食同然の暮らしで、小太夫はいよいよ短気になっていった。
 ある日の事、朝から暮れまで歩き回っても、米一つまみ麦一粒さえ貰えず、飢えに耐え兼ね大いに腹を立て、この人形を踏んだり蹴ったり、石で散々に打ち敲き、それでもなお飽き足らず、目よりも高く持ち上げて力に任せて投げ飛ばした。ちょうどその先には、菜の葉を水で煮て食べようと思って、道々拾い溜めた木切れや竹の枝、捨て薦などを火に焚いていて、人形はその炎の中へ飛び込んで行き、衣装も髪もめらめらと燃え上がってしまった。
 小太夫は、
「よしよし。これでよい。なまじお前を当てにして連れ歩くから、腹が立つんだ。いい気味だ」
と言いつつ、さらに足で踏み込んだ。

 その時、人形の首が盛んに燃え、爆ぜる音がして二つに割れ、破片が飛んだかと思うと、その片割れが火小太夫の胸板にひしと取り付いた。小太夫は熱さに堪え難く苦しく、この火を払い落とそうとしたが、かえって火を煽ってしまい、近くにある小川へ走って水をかけようと思い、あわてて息を切らせて走って行こうとしたが、小川までの途中にあった野中の井戸へ、足を踏み外して真っ逆さまに落ちていった。その勢いに、石を積んである井戸の壁が崩れ落ち、小太夫は生きながら埋もれて死んでしまった。

死たる子立山より言伝せし事

2018-11-18 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 京都六条の寺内に、木綿綛(=もめんかせ:糸を巻き取る道具)を商う市左衛門という者は、息子が一人がいて、市之介といった。
 親の市左衛門は、浄土宗の熱心な信心者で、毎年のお山詣りを欠かさなかったことを見込まれ、寺の大切な役目なども引き受けて本山の先立となったり、水無月の大役を勤めて、富士山詣りも二三度に及んでいた。その他、諸事の名誉ある会長なども引き受け、報謝をなし、寄進を心にかけ、人にも勧め自分も善を尽くしていた。
 また、市左衛門は、一人息子の市之介にも、十三の歳より勤めをさせ、商いの合間には、共に仏事を手伝わせていた。
 ところが元禄十四年の卯月始め頃から、市之介は病気になって、しかも思いのほか重く、十死一生(ほとんど助かる見込みがない)となってしまった。一人っ子でもあり、父母の悲しみは尋常でなく、何ともしてこの病気を本復させたい、自分たちの命に替えても息子の命を取り留めたいと、ありとあらゆる療治や様々の祈祷を尽し、昼夜、枕元も離れず看病を続けた。
 その頃、市左衛門の隣に住む者は、日蓮宗の信者で、何事も法華経でなくては功能がないと深く思い込んでいて、市之介の病気を見舞いに来て、日蓮宗に入るよう熱心に勧め、
「日蓮宗に入って法華経を信じれば、一切の悪病に悩まされることはありません。市之介さんを日蓮宗に入れさせれば、早速、病気も平癒なさるでしょう」
と掻き口説いた。
 親の身の悲しさ、子を思う闇に迷う心から市左衛門夫婦は、
「では、入信させてください」
と、曼荼羅を吊るし、題目を唱え、一生懸命に祈った。
 しかし業は定まっていたものか、市之介は十八歳で、眠るが如くに、化野(あだしの)の煙となって立上っていった。
 両親の嘆きは計り知れず、明け暮れ恋い焦がれ泣き悲しみ、袂の乾く間もない程であったが、いくら嘆いても甲斐のないことであれば、仏前に花を手向け、心から祈って、二週間ばかりが過ぎた。

 そこへ、富士山詣りに同行したこともある、市左衛門の友人が訪ねてきた。
 友人が語るには、長い間望んでいた白山や立山の山詣りを志して、弥生の末より思い立って、加州の白山から立山へ詣で、具合が良ければ富士山にも行こうかと考えながら、立山に登ったところ、山上の思いがけない所で市之介に逢ったと言う。市之介の様子は、さほど拵えた旅姿でもなく普段着のままで、この市左衛門の友人を見つけ、懐かしげに近寄って
「私は、富士山上に登り、これより立山を拝見しようとの思い付きに任せて、ここまで参りました。また、白山や湯殿山などにも上ってみたいと思い、ついでに参詣しようと思っていたのですが、貴方が、これからお帰りになるのでしたら、故郷に伝えていただきたい物がありますので、預かっていただけませんか」
と言って、小さな紙包みを一つと、袷の袖を少し切り取って、その友人に渡した。そして、
「出発してから、だいぶ日数が過ぎてしまいましたので、先を急ぎたいと思います。どうぞ、その包みをお願いいたします」
と言って、二人は別れたと言う。
 それから、この友人は帰ってきて、何よりもまず市左衛門方へ立ち寄り、
「さても市之介殿は、若い人には奇特に信心を起こして、しかも一人旅と見えました。ご両親も、よく市之介殿の志を助けて、秘蔵子とも言わず、旅に出させられましたな」
などと誉め上げて、件の紙包みを渡した。
 それを受け取って両親は、人目も恥じずに声をあげて泣き叫びつつ、
「羨ましいことです。貴方は、市之介に逢われたのですね。私達は別れてからというもの、夢にも見ることがなく、恋し恋しと思う余りに、命を捨ててでも来世に逢いたいと願っているほどです。でも、そんな私達に市之介はつれなくて、貴方には便りを託されたのですね」
と泣き悲しんだ。
 友人は、さては市之介は死んでしまって、亡魂が現れて自分に話しかけてきたのか、と思ったが、
「何はともあれ、まずは、その紙包みを開いてごらんなさい」
と勧めた。
 両親が泣く泣く包みを開けてみれば、市之介の末期に両親が唱えていた題目の曼荼羅であった。また、市之介が死んだ後、着ていた袷の袖のが切れていたのを不思議に思っていたが、立山で切り取ったという袷の切れ端を合わせてみると、紛れもなく死ぬまで着せていた袷の袖であり、これも亡者の態かと知った。
 両親は、心にもあらぬ事で、むやみに宗旨を替えてはいけないと悟り、その後は偏に浄土宗門の弔いを続けた。

播磨灘舟ゆうれいの事

2018-11-06 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 これも大坂立売堀の住人で、湯川朔庵という儒医がいた。生まれつき器用な者で、およそ難波の津においては、肩を並べるべき者もないほどの学者で、門弟も多かった。また、朔庵の妻も堺の生まれで、名高い人の娘であった。
 朔庵は、難治の病であっても必ず治すと評判で、人々は朔庵の医院に親しみ、方々から薬を求める者が絶えず、傍に教えを乞う書生のいない日はなかった。
 その頃、伏見両替町の辺に住む、小西の何某とかいう人の子息も、朔庵の弟子になって医学の修行をしていたが、朔庵自身も、もっと医学を極めたいと考え、小西の子息にも勧め、皆で、修行のため長崎へと引っ越した。
 朔庵は、長崎においてもその手腕を発揮し、あちこちから持て囃された。そして、入船してくる異国人の治療も許可されて、出島の出入りも自由にしていたので、唐人からも、長崎でも類稀な名医と言われていた。
 このような折しも、大坂にいる朔庵の父が、元禄七年の夏に大病を患って重態となり、様々な薬を服したり、針按摩に至るまで、術を代え治療を尽くしたが快方へ向かわず、
「とても助からない命ならば、最愛の息子に一目逢って別れを言い、自分が死んだ後の事も頼んでおきたい」
という手紙を、朔庵へ認めた。
 朔庵は心配でたまらず、奉行所に御暇を願って大坂へと旅立つことにした。妻も、舅の見舞いをするついでに、故郷の両親にも逢いたく思い、道すがらの事であれば堺へも立寄っていただきたいと朔庵に頼み、急いで準備をして、六月二十日に船出した。
(※注:旧暦なので、6月20日は夏も終わる頃である。朔庵の父が元禄7年の夏に大病をして、長崎に知らせが届き、朔庵夫婦が出発するという時間の流れに矛盾はないので、念のため)
 海路を恙なく、夜を日に継いで船は進んでいたが、播州赤穂の御崎へかかろうかという頃、どうした間違いか、朔庵が乗った住吉丸という船に火災が起きて、船は炎を上げて燃え上がった。
 船は岸に寄せようとしたが、ちょうど潮目が悪く、なかなか岸に近づけない。そのうえ救助の船なども、どうしたことか僅かしか出て来ず、しかも、水をかけすぎて沈没するのを恐れてか、徒に手を拱いているばかりであった。そうしている間にも、多くの荷物はもちろん、乗合の男女が目の前で焼死し、あるいは火を恐れて逃げ惑い、海に飛び込めばもしかすると助かるのではないかと、泳げもしないままに、着物を着たまま海上に舞った。乗客たちが、金銀や大小(刀)あるいは妻や子と手に手を取って千尋の海に身を投げれば、潮に呼吸を切られ、たちまち八寒八熱の苦しみ、叫喚阿鼻の呵責を目の前に現し、数万の荷物とともに大勢の命が失われてしまった。
 誠に船の火事こそ、殊に哀れな事である。助かった人々や救助に駆け付けた人々は、みな念仏を唱え、回向しない者はいなかった。
 この、数多失われた亡者の中でも、朔庵夫婦には子もなく、大坂に住んでいる親はあるが、まだ十分な孝行を尽くさないうちに、夫は老病の名残を惜しもうと、妻は故郷の懐かしさに思いを馳せ、その思いをも遂げられぬままに、この船に乗って難に逢った、その死期の悲しさはいかばかりであっただろうか。
 それより後、大坂や神戸に通う船には、夜になると、この沖を通る時に、必ず海の表十間四方ほどの広さで、底より俄かに火焔が起こって、くわっと燃え上がるかと思えば、「おお、悲しや」と言う男女の声がして、船に乗った人々の耳に入るという。

 これを悼んだ大坂や神戸の船乗り仲間が、僧を頼んで勧請を勤め、懇ろに法事を執り行えば、この炎が再び起こることはなくなった。

腰ぬけし妻離別にあひし事

2018-10-23 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 大坂長町にいた京屋七兵衛という男は、極めて不人情な者であった。元来は、京の丸太町辺りに住んでいて、七兵衛夫婦には、七つと四つになる娘がいた。
 女房は長いこと腰を患い、さまざまに療治したが露ばかりの験もなく、この一両年は腰も立たなくなって、朝夕の食事は言うに及ばず、大小用さえ御虎子(おまる)で取る身であった。また、女房の親は父一人だけ、それも剃髪の後、承仕の僧となって、越中の井波という所の水泉寺という一向宗の御堂へ下っていた。だから今は、一門といっても埃ほどもない身の上であった。
 夫の七兵衛は、近頃稀なほど情け知らずな者とは知られていたが、女房は、腰が立たなくなってしまったのも自分の因果と思い、夫には万事について気を遣い、夫の心に背かぬよう、言葉に気を付け、機嫌をとって暮らし明かしていた。
 それにもかかわらず、七兵衛の道楽で暮らし向きは苦しかったため、住まいの家主も今は詮方なく、家を替えてはどうかと勧め、引っ越しの足しに少しの銀も与えた。
 七兵衛も是非なく、次の家を探しに出かけていたが、ようやく岩神通り西に借家を決めたので、近いうちに引っ越すことを家主へ断り、妻にも言い聞かせ、何かと心用意して、着替えなども洗濯し、準備を進めていた。
 やがて引っ越しの朝になり、七衛門は手ずから飯を盛って女房に食べさせ、自分も機嫌よく酒など呑んで、
「腰が立たない身では、先に行っても埒が明くまい。着物を着替え、ここで待っていてくれ。俺が先に行って、勝手などもよく片付け、その上で駕籠を使いに寄越すから。昼になって腹が減ったら、ここに飯もあるぞ。それから、誰かに物を頼んだときは、礼などもしなければならん。おぬしの腰に付けておけ」
などと言って、銭二百文を置いた。
 さて、大方の道具は車に積んでしまって、多くの雇い手がせっせと運んで行き、跡に残る物は古い葛籠一つ、半櫃一つ、女房が座るときの背もたれぐらいになり、女房と二人の娘は荒筵の上に座っていた。そこへ、長屋の亭主やご近所など日頃から馴染んだ人々が、入れ代わり立ち代わり挨拶に来た。
 女房は、
「うちの人は、ご存知の通り、日頃は白い歯も見せず、仮初にも婿と言われるようなことはして来なかったのですが、思い直して心を入れ替え、今朝もこうこう言ってくれたのですよ。私は、年頃の恨めしさも忘れ、この一言で胸が一杯になってしまいました」
と喜び、迎えの駕籠を待っていた。
 ところが、日も早や八つを過ぎ七つに傾いても、今朝の雇人はもとより亭主も帰って来ず、あまり心もとなくなったので、娘たちを隣へ預け、隣の家の亭主に頼んで、岩神の何とかと聞いた住所を頼りに、見に行ってもらった。
 程なくこの亭主が引き返してきて、
「今朝、この家から車に積んで出た道具は、一つ残らず堀川の道具屋に持ち込まれ、市を立てて悉く売り払ってしまい、売り上げの銀は、道具屋とご亭主とが分け合って、ご亭主はどこかへ行ってしまったようです。ところが、岩神へ行ってみると、もとより借家などありませんでした」
 と言う。
 これを聞いた女房は仰天し、急いで葛籠を開けて吟味すると、女房の着替えが二つ三つ、娘の古着が少々残っているばかりで、ほかに、一通の離縁状が入れられていた。
 騙されたと悟った女房は、狂ったように泣き喚き罵った。町内の人々も訳を聞いて哀れがったが、この女房は腰が立たないから、どこにも行ってしまうわけではなく、滅多なことはないだろうと考え、その夜はそのまま空家に置いてやることにした。
 ところが、それが油断で、女房は夜の間に二人の娘を絞め殺し、自分も首を括って死んでしまった。
 一方、七兵衛は、大坂に下って長町に家を借り、小さな商いを始め、あちこちと稼いでいた。
 そうこうしているうちに、身分ある人の未亡人が、さる仔細があって逼塞の身となり、東高津のほとりに屋敷を構え、半ば世を捨てたように暮らしているのを、七兵衛は何かの折に見初め、露忘れる隙もなく、いろいろと仲立ちを頼んで言い寄っていたが、ついに未亡人がなびいて、「今宵、必ず」との返事をもらうことができた。
 七兵衛は喜び勇んで出かけようと思ったが、きちんとした着物を持っていなかったので、親しい知人に借り整え、小者を一人雇い、何とか格好をつけて東高津へと急いだ。
 未亡人の住まいは、聞きしに勝る立派な屋敷で、下女や腰元が忙しく行き交い、そこで七兵衛は、一方ならぬ饗応にあった。
 そして、夜も早や八つに近づくかと思う頃、棚を磨き錦を飾った床の上に偕老の衾を並べたかと思うと、少しして、次の間に待たせていた小者が、七兵衛の手を取り自分の顔に押し当ててさめざめと泣くので、不思議に思って、手を伸ばして懐を探ってみたら、節丈が二丈ばかりもあろうかという大きな蛇が出てきて、七兵衛の足から胸板までくるくると巻きつき、鎌首をもたげて喉に喰いついた。

 小者が肝を潰して、恐ろしさのあまり慌てて逃げ出してしまうと、七兵衛の周りには、足の踏み場もないほど小蛇がうじゃうじゃと湧いて出てきた。頃は良しと、そこに侍っていた腰元が、狸か狐が化けたものだったのか、七つぐらいの女の子の声で、
「嬉しや。本望を遂げたわ」
と言えば、他にも二三人の声がして、
「私も。本望よ」
と言う。
 七兵衛は転げまどい、命からがら逃げ帰ろうともがいた。
 後で様子を見に行った人は、山の奥には人を取る蟒蛇(うわばみ)がいると伝えられているが、それが七兵衛の屍に巻きついて食らいついたまま、蟒蛇も死んでいたと語った。
 誠に恐ろしい怨念の話である。元禄六年の事だという。

猫人に祟をなせし事

2018-10-14 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 備後福山に清水何右衛門という人がいた。元禄元年の頃、家の中で、物が次々と無くなってしまう事件が起きた。
 魚や鳥によらず何であっても、料理しようと思って洗わせ、または買って来て置いていたら、しばらくして忽然と消えてしまう事が続いた。
 何右衛門は、奉公人の中に心よからぬ者がいて、このような手癖の悪い真似をするのかと思い、皆に問うてみたが、誰が盗んだとも知れず、ある時は、見張りの者をに置いて物陰から窺わせたりもしたが、ちょっと目を離した隙に失せてしまい、何とも不思議な出来事であった。
 そんなある日、蛸を料理するために洗わせておいたのを、何右衛門自ら半弓を持って物陰より見ていたところ、やはり、いつの間にか蛸は失せてしまった。
 何右衛門は、さても心得ぬ事と思い、猶なお目を離さず、しばらくその辺の様子を窺っていると、縁の下より、先ほどの蛸の足をくわえた猫一匹がのたのたと出てきた。そして今度は俎板の上にあるウツボを見て、そろりと上がってウツボをくわえたところで、何右衛門は半弓を引き絞ってひょうと射かけたが、今少し手元がずれて、俎板から飛び上がった猫の後足に当たった。しかしそれもかすり傷だったようで、猫はそのまま逃げ去ってしまい、残念な事と思ったが、是非もなければそのままにしておいた。

 ところがその夜、何右衛門の寝間に怪しい女が忍び入って、何右衛門を押さえつけて散々に恨み言を言う。何奴がここまで寝間深く忍び入って自分を悩ますのか、目に物見せてくれんと、脇に立てておいた刀を引き寄せて起きようと思い、身を動かし心を働かせようとしたが、どうしたわけか、五体がすくんで言うことを聞かない。口惜しくてたまらないが、物の怪に誑かされて徒に伏したまま言う事を聞けば、
「おのれ、僅かな食のために、よくも我を殺そうとしたな。我はその辺の畜生と違い、この里で八百歳を経て、神通力を得て変化自在の身となったのだ。お前が貪欲の刃にかけて奪おうとした命の惜しさと、今またお前を苦しめて取ろうとしている命とを、思い比べてみよ。しかし、いっぺんにお前の命を奪ってはつまらない。今日から毎晩通ってきて、幾夜も幾夜も悩ませ苦しめ、なぶり殺しにしてやろう。思い知るがいい」
と言う。
 その声の下で何右衛門は、五体が痺れ胸が苦しくなって半死半生となり、何度も声を立てて人を起こし、この世の名残を惜しむと思ったが、また思い返し、悔しいかな、この下等な四足に魅入られ悩まされている情けない姿を人に見せ、世に言いはやされては、今後、何の面目があって人に顔向けができるだろうか、流石に自分も侍の端くれだと思い、気を確かに持ち、身を固めていた。
 そうこうするうちに、早や明け方の鳥の声もかすかに聞こえ、二十六夜の月が仄かに寝間の上の切窓から差し込んで、その光に、昨日見た猫が、ひょいと飛び上がって窓から外へ出て行った。すると、五体のすくみは和らぎ、手足も自由になった。
 それにしても、かの射損じた猫の仕業かと思えば、いよいよ無念さは募ったが、たかが猫ぐらいのことで悩んで弱気になり、人に助けを求めては、後々どんな誹りを受けるかわからない。この上は猫と自分の運を比べて、討たば討つべしと堅く心に誓い、かりそめにも人に言わず、妻子もいなければ知る人もないので、自分一人が様々に手を替え術を尽くすことにした。
 そう決めて夜毎に待てば、この怪異も必ず夜毎に来て何右衛門を悩ませ、初めの頃こそ、何とかしてやろうと心を尽していたが、半年ばかりにもなろうかと思う頃には、気力は衰え、力も弱って痩せ疲れ、物もしっかりとは食べず、日に日に顔色も衰えてきたので、周囲の者が心配して様々と機嫌を伺い尋ねたが、何右衛門は堅く口を閉ざしたままであった。
 このまま、ただ悩まされ続けるしかないのかと諦めかけていた時、ふと思いついて、こんな時こそ不動の慈救呪(じくじゅ:不動明王の呪文)の験があるに違いないと、日に二百辺ずつ怠らずに唱える事を二十日ばかり続けた。
 その夜も、例のごとく女の姿をした猫が来て、いつものように何右衛門を苦しめ、
「今宵が過ぎたら、お前の命を取ってやる。今まで散々に苦しめてきたが、よくも心強く我に敵対してきたものだ」
と言い罵り、いつにも増して責め苛んだ。
 何右衛門は、五体が砕け命も今日限りだと思うほどであったが、あまりに強く責められ、自分もそれに抵抗を続けていたので、ついに疲れ果て、意識が遠のいていった。
 しばらくして、思い出したように目が覚め、手を伸ばして動かしてみれば、自由に動くではないか。これは嬉しいと思い、そろりと起きて見回すと、かの女の姿に化けた猫も、宵から続いた何右衛門との揉みあいに草臥れてか、現なく寝入ったと見えて、猫の形を顕して伏している。
 すわ天の恵みと、傍らに脱ぎ置いた絹羽織を打ち被せて、飛びかかって組み伏せれば、猫も驚いて目を覚まし、また頭から次第に女に化けていこうとするが、強く押さえられて鳴きもだえているところを、一刀に懸けて刺し殺し、下々を呼んでこの死骸を焼き捨てさせた。

 それでもなお、心許なく気味悪かったので、真言寺の僧を頼んで、密符をかけ祈祷などをさせたら、再びこの怪異が起こることはなく、何右衛門の身も、半年ばかり養生して、元のとおり元気になった。

盗せしもの神罰をかうふる事

2018-10-04 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 丹波桑田郡篠村に与八という者がいた。心よからぬ男で、神仏を蔑ろにし、人を人とも思わず、転々と雇われ歩く身であったが、雇われた先々で、欲しいと思ったものは何でも盗んでしまい、後で咎められる事があっても何とも思わない、不敵な曲者であった。
 同じく心よからぬ友に、その近くに住んでいた小左衛門という者がいた。これも能なしで、博奕に身を打ちこんで方々と稼ぎ歩いていたが、与八も無二の友なので、いつも往来して酒を呑み、人の物を貪り、面白おかしく暮らしていた。

 ある時、小左衛門は博奕に打ち呆け、散々に負けて因幡から帰ってきたが、このまま家に帰っては妻子の待つ甲斐もなく、飢えた様子を見るのも鬱陶しく思えた。そこで、誰でもいいから通りかかった奴から金目の物を剥ぎ取ってやろうと思い、新八幡宮の鳥居の陰に、旅姿のままで隠れていた。
 一方、与八は、村でこの秋に刈り入れた稲を、村人が新八幡宮へたくさん奉納して積み置いているのを、今夜にでも盗み取って食物にしようと思い立ち、天秤棒に縄を巻いたものを準備し、夜半過ぎ、空の星明かりを頼りに宮の方へ歩いていった。
 隠れていた小左衛門が、その人影をよく透かして見ると与八であったので、ひとつからかってやろうと、後からそろそろと付いて行き、与八を目がけて石を投げ、「やい、賊め」と声をかけた。
 与八は、小左衛門が戯れでやっているとは知らず、「しまった。見られた」と慌てて逃げ、森の方へ隠れようとした。
 それを追って小左衛門は、
「やい、うろたえ者。俺だと分からないか」
と、逃げ惑う与八に向かって、もう一つ小石を投げつけてみたら、小石はちょうど与八の首筋に当たり、同時に与八は、ひときわ大きな柿の木に激突してしまった。
 与八は、首に何かが当たった感触がして、また、頭から血が流れてきたように思って手をやってみた。そして手に付いたものを腰の手拭いで拭き、星の光りに透かして神前の灯明でよく見ると、間違いなく血であったので、眩暈がして、一歩も進めなくなってしまい、森の入口でどうと倒れ込んでしまった。
 そこへ小左衛門が走り寄って「与八、しっかりしろ」と言えば、与八が苦しそうな息の下から、
「俺はいつも、神仏など無いものと侮り、神社や寺の物も多く盗み取って世を渡っていた。だが今日ばかりは、その報いが来たらしい。今日も拝殿の刈稲を盗もうと手を懸けたのだが、社の内から誰かが声をかけたと思ったら、白羽の矢が一筋飛んできて、俺の首の骨を射抜いて、あそこの柿の木に射つけられてしまった。何とか逃げ延びようと思ったが、どうやら俺の命もこれまでらしい。ここは神社だから、夜が明けて誰かに見咎められたら、もう一つ罪つくりになるだけだ。そこで頼みだが、日頃の誼に、お前の手にかけて殺してくれ」
と、苦し気に言う。

 小左衛門は身の毛がよだち、恐ろしく覚えたが、まずは与八の首筋に手をあてて探ってみると、確かに血にまみれ、脳が砕けたのか、肉なども出ているようである。この傷では、どうやら与八は助かりそうもないので、小左衛門は、
「よし、わかった。お前のことは、懇ろに弔ってやる。観念しろ」
と、一刀に刺し殺して、帰って行った。

 夜が明けて、何者かの仕業で与八が宮の森で刺し殺されていると、村中が取沙汰して、我も我もと集まって見に行っていたので、小左衛門も何となく行って、人の後から与八の死体を覗き見れば、自分が手にかけた傷だけで、与八の頭には何の傷跡も残っていない。
 あまりの不思議さに、近寄って与八を押し動かしてよく見れば、かの柿の木に激突した時、上から熟柿が一つ落ちて、頭に当たって潰れていた。それを、与八は心に疾しいことがあるせいで、白羽の矢が当たって血や肉が飛び出したのだと思い込んで気弱になり、小左衛門も、罪深い自分や与八に天罰が下ったのも当然だと思い、与八を殺してしまったのだと合点した。
 小左衛門は、恐ろしくも悲しくも、これこそ真の神罰と心に思い、その場で小左衛門の名を捨てて遁世し、四国西国を巡って、年を経ても再び国に帰ることなく、懺悔の生涯を送った。