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唐土、漢の高祖(=劉邦・前256-前195)が、楚の項羽(前232-前202)と戦ったとき、臣下に蕭何(?-前193)という人がいた。
蕭何は、常に高祖の留守を預かり、太子を守ったり、高祖の陣へ兵糧を届けたり、高祖の軍が不利な状況のときは、急ぎ援軍を差し向けていた。
その後、ついに高祖が楚を滅ぼして天下を取り、武将たちが、それぞれの軍功を論じ、多くの恩賞に与かろうとしている時、高祖は、
「蕭何の軍功を第一とする」
と言ったので、諸将たちはみな口を揃えて、
「曹参(? -前190)こそ、敵の城を攻めては落とし、野戦でも負け知らず。その手柄は枚挙に暇がなく、身には七千にも及ぶ傷がある。曹参こそ、第一の軍功者だ」
と言う。そこで高祖は、
「そなたたちは、狩をしたことがないのか。禽獣の跡をつけ、追い詰めていくのは犬であるが、獲物を仕留めたのは、狩人の功績だろう。そなたたちの軍功は、例えるならば、狩人の犬のようなものだ。犬と狩人では、やはり功績の大きさを一緒にはできない」
と言ったので、諸侯たちもその通りと感じ入り、蕭何を第一の軍功者とし、曹参を第二の軍功者とした。
唐土、漢の高祖(=劉邦・前256-前195)が、楚の項羽(前232-前202)と戦ったとき、臣下に蕭何(?-前193)という人がいた。
蕭何は、常に高祖の留守を預かり、太子を守ったり、高祖の陣へ兵糧を届けたり、高祖の軍が不利な状況のときは、急ぎ援軍を差し向けていた。
その後、ついに高祖が楚を滅ぼして天下を取り、武将たちが、それぞれの軍功を論じ、多くの恩賞に与かろうとしている時、高祖は、
「蕭何の軍功を第一とする」
と言ったので、諸将たちはみな口を揃えて、
「曹参(? -前190)こそ、敵の城を攻めては落とし、野戦でも負け知らず。その手柄は枚挙に暇がなく、身には七千にも及ぶ傷がある。曹参こそ、第一の軍功者だ」
と言う。そこで高祖は、
「そなたたちは、狩をしたことがないのか。禽獣の跡をつけ、追い詰めていくのは犬であるが、獲物を仕留めたのは、狩人の功績だろう。そなたたちの軍功は、例えるならば、狩人の犬のようなものだ。犬と狩人では、やはり功績の大きさを一緒にはできない」
と言ったので、諸侯たちもその通りと感じ入り、蕭何を第一の軍功者とし、曹参を第二の軍功者とした。