続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

不覚!!-徒然草

2016-07-25 | 人文科学講座
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<問題1>
 次の書き出しで始まる作品の、題名と作者名を答えなさい。
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
<答>
 題名:徒然草
 作者:吉田兼好

 中学校の、国語の時間を思い出した方も多いでしょう。懐かしいですね。
 はるか昔に習った古典の美しい日本語は、自分の国語表現にも奥行きをもたらしてくれたような気がします。
 (それでその程度か、とのご批判は受け付けません。悪しからず)

 ところがこれが高校になると、単語一つひとつの意味や品詞、活用、「あり、をり、はべり、いまそがり」などを覚えさせられ、さらに現代語訳をするときは、たとえば「いとをかし」は必ず「大変趣がある」と変換しなければならないなど、出来の悪い翻訳ソフトと大差ない作業を強いられ、それでも何とかかんとか、決められたとおり現代文に訳してはみたものの、さて、自分で訳した現代文の意味が分からない、という、趣とは程遠い結果になってしまいます。

 と、まあ、このあたりで大抵の方は、拒絶反応を起こして古文が嫌いになってしまい、揚句、受験勉強が終わるや否や、散々苦しめられた「徒然草」をはじめ「平家物語」「源氏物語」「方丈記」「枕草子」など二度と手にするものか、とばかりに打ち捨ててしまい、これらの作品は、誰もが知っているけれど誰もまともに読んだことのない名作となってしまいます。
 もしかしたら皆さんは私のことを、「偉そうに、『理屈物語』の古文書を解読して、現代文に訳して紹介しているぐらいだから、さぞかし古典に明るい奴だろう」と思っているかもしれませんが、実は私も「拒絶反応を起こして古文が嫌いになって」しまったクチです。

 さて、その徒然草ですが、私も最近までは「読んでやるものか」と思っていましたが、たまたまカミさんが図書館で借りてきた、分かりやすい文章で現代語訳した本を何気なく手にとって読んだところ、これが面白いの何の、ある段では笑い、ある段では感心し、あっという間に読み終えてしまいましたが、同時に、「しまった。こんなに面白い本を、なぜ今まで読まなかったのだろう」と悔やむこと頻りでもありました。

 徒然草に限らず、古典の訳本はたくさんありますが、「出来の悪い翻訳ソフト」並みの訳では、ちっとも面白くありません。現代人の感覚に合った平易な文章で、かつ、理屈っぽく説明するのではなく、感覚的に理解できるよう大胆に意訳すれば、間違いなく面白い読み物になるはずです。
 そういえば少し前、瀬戸内寂聴さんの書いた「源氏物語」が、若い女性を中心に大変なヒット作となりました。これも寂聴さんが、現代女性の感覚に合わせて執筆したからに他なりません。

 徒然草冒頭の現代語訳も、
「特にやることもないままに、一日中硯に向かって、心に浮かんでは消えていく何ということも無いことを、なんとなく書き付けると、あやしくも狂おしい感じだ」
という具合にしなければ、受験では正解になりませんが、これをもし、
「ヒマだから、一日じゅう硯に向かって、いろいろ妄想したことを好き勝手に書いていたら、オレは何やってんだろうという気分になるもんだ」
と訳したら、志望校には合格しないでしょう。
 でも、手前味噌で恐縮ですが、前記の現代語訳、どっちの方が分かりやすい文章ですか?言い換えれば、どっちの方が、感覚的にすんなり入ってきますか?さらに言えば、どっちの文体で読みたいですか?

 ただ、古典を古文のまま読もうとすれば、助詞や助動詞の用法、現代とは違う単語の意味など、ある程度の知識は必要になってきます。
 しかし、余程の文章でない限り、たとえば私が解読している「理屈物語」も、時々、分からない語句を辞書で引くぐらいで、あとは文法や単語の知識などは中学程度で十分です。
 それよりも大切なのは、「たぶん、こういうことを言っているんだろうな」とアタリを付けて読んでいき、多少の分からない部分は割愛してしまい、まあ、大体の意味が分かればいいや、という大雑把さです。

 考えてみれば、現代の文章を読むときだって、いちいち品詞がどうの活用がどうのなどと気にしていないでしょう?
 古典だって、それでいいんですよ。お気楽に行きましょうや。


 「何?するとお前は、『アタリをつけて読み』『多少の分からない部分は割愛し』『「大体の意味が分かればいい』という『大雑把』なものを『お気楽』にブログへ投稿している、とでも言うのか?」

 はい、左様です。どうもすみません。

イザナギ:屈葬:墓地、埋葬等に関する法律:ドリンカーの救命曲線:ゾンビ

2015-08-06 | 人文科学講座
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 古事記・日本書紀に書かれている内容は、一見、荒唐無稽なようですが、古代に起こった事実を物語に託して伝えている、というのは、よく知られています。
 また、日本建国の物語が入っていることから、それはちょうど、縄文時代から弥生時代へ移り変わる頃だと推定できます。

 イザナギ・イザナミは多数の子をもうけて、次々と日本の国を作って行きましたが、イザナミが、火の神であるカグツチを産んだとき、陰部を焼かれたために、イザナミは死んでしまいました。
 イザナミを忘れ難いイザナギは、黄泉の国までイザナミを迎えに行きますが、腐敗した、変わり果てた姿のイザナミを見て、イザナギは恐れ戦き逃げ帰ろうとします。
 イザナミは「薄情者!!」とばかりにイザナギを追いかけ、イザナギとイザナミは口論になりますが、そこへキクリヒメが現れてイザナギに何かを言い、その言葉にイザナギは大変満足し、イザナギとイザナミは口論を止め、イザナギは生者の国へ、イザナミは死者の国へと、それぞれ帰って行くとともに、この世とあの世を繋ぐ道は、大きな岩によって塞がれてしまいます。
 そして、黄泉の国から戻ったイザナギは、死者の世界に交わった穢れを落とすため、川で禊をします。

 キクリヒメは別名をククリヒメとも云い、争っていた夫婦を和解させたこと、「ククリ」が「括り」に通ずることから、ふつう、縁結びの神として祀られています。
 さらに、イザナギが死んだイザナミを訪ねて、やすやすと黄泉の国へ入れたように、それまで生者と死者の世界は明確に区切られていませんでしたが、キクリヒメが現れて以降、生者の国と死者の国は完全に隔てられてしまいます。
 しかしよく考えると、キクリヒメの発言によって、結局、イザナギとイザナミはそれぞれ納得して別れたのですから、どちらかというと縁切りのような気がします。


 医学の知識がない古代人であっても、たとえば汚物に触れたような場合は、本能的な清潔の観念が湧きあがってきて、手を洗ったりしたでしょう。しかし、死者の国の雰囲気に包まれただけであれば、身体はどこも汚れておらず、本来、何も処置は必要ない筈です。それでも何となく汚染されたように感じるのが「穢れ」で、これを清めるには、汚物に触れた時と同様、身体を流水で洗う「禊」を行います。

 外国からの渡来人が、縄文人に取って代わって、弥生人として日本を支配するに至った原因は、文明や武力の差もさることながら、渡来人が持ち込んだインフルエンザウイルスに、縄文人が抵抗性を持っていなかったので、罹患した縄文人が壊滅的な死者を出してしまったため、という説があります。現代でも、新種のウイルスが登場したら、人類は抗体を持っていませんから、罹患率も死亡率も非常に高くなってしまいます。
 ご存知のように、インフルエンザは風邪とは違い、時には40度を超えるほど非常な高熱が出てしまいます。インフルエンザを知らなかった縄文人たちにとって、それはまさに体を火で焼かれるようなものに映ったでしょうし、ばたばたと死者が増えていくのを、なす術なく見ているだけだったでしょう。
 イザナミの死因をインフルエンザと断定するのはいささか乱暴ですが、渡来人が主に南方系だったことも考え併せれば、たとえばマラリアも非常な高熱が出ますから、それに類するような未知の感染症の可能性はあると思います。

 縄文人の社会にインフルエンザが蔓延したとき、患者と一緒の部屋で過ごした者に病気がうつってしまうことは、縄文人にとっても明白です。そうであれば、直接的な接触がなくても、病者の雰囲気に包まれただけで何となく汚染されたように感じる「穢れ」は、十分、意味のある解釈だったでしょう。そして患者が死亡すれば、遺体からもまだなお「穢れ」が拡散されていると思うのは、不自然ではありません。
 また「穢れ」を落とすには「禊」を行いますが、手や身体を洗って嗽もする行為は、まさにインフルエンザの感染予防です。ウイルスや空気感染といった知識がない古代人でも、経験的に、病気に対して「禊」が有効だということは知っていたのかもしれません。ましてそれが、高熱を発して苦しんだ挙句に死亡する病気であれば、唯一有効な予防策である「禊」を神聖視するとともに、他の病気の予防にも類推適用したことでしょう。

 念のため補足しますが、古代人にはもちろん、「予防」などという概念はありません。ただ単に、一連の手順を踏んだ儀式を行えば、病気や死をもたらす魔性を遠ざけることができる、といった呪術の一環に過ぎません。

墓地、埋葬等に関する法律
第三条
 埋葬又は火葬は、他の法令に別段の定があるものを除く外、死亡又は死産後二十四時間を経過した後でなければ、これを行つてはならない。但し、妊娠七箇月に満たない死産のときは、この限りでない。


 法律では、人が死んでから24時間を経過しなければ、埋葬や火葬をしてはならないと決められています。最近では脳死の問題も絡んできますが、駄文では、ごく一般的な人の死を言うことにします。
 昔は、医師が死の判定を誤って、葬式の最中に生き返ったりすることもあったようですから、蘇生の可能性がないことを確認してから葬らなければ大変です。そこで法律も、24時間の猶予を設けているのです。
 しかし、この法律ができるよりもずっと昔から、通夜や葬式といった一連の儀式を行い、人が亡くなって埋葬するまで少なくとも一昼夜が経過するようにしていたのは、経験から生まれた知恵だったのかもしれません。

 現代人でもそうですが、人は、死者に対して、相反する二つの願いを持っています。
 一つは、親しい者の死を惜しむあまり、何とか元のとおり生き返ってほしいという願いです。
 子供や配偶者など愛する人が亡くなっても、そう簡単に諦めきれるものではありませんから、できるものなら、今までどおりの生活を続けたいと願うのは当然の感情であり、それが高じた場合、時には妖術や、先の駄文に書いたように反魂香が用いられたりもしました。
 今一つは、死者は死者の国へ行くべきであり、生き返ってほしくないという願いです。
 先に書いたとおり、死者は何らかの形で死や病気の穢れにまみれていますから、たとえ愛する者であっても、これを生者の世界へ持ち込んでほしくないといった理由や、無念や恨みを抱いたまま死んだ者に今さら生き返られては、生者のほうが枕を高くして寝られない、といった理由が考えられます。
 日本の埋葬に関して特異なものに、遺体を、膝を抱えた格好にして(屈葬)、焼物の甕(かめ)や木製の桶に納めたりする方法があります。また納める際には、体を縄で縛り上げたり、大きな石を抱かせるようなこともありました。こうした埋葬方法は、死者が墓場から這い出てこないようにするためとしては、考えうる最も有効な手段です。
 例外的に、フグを食べて中毒死した場合は、土中から首だけ出して埋葬したり、棺桶に空気穴をあけておくなど、遺体を低温で保存するとともに、蘇生したときにはすぐに分かるような方法を採っていましたが、フグ毒で仮死状態になった者が、時間の経過とともに毒が分解されて蘇生する可能性もあることを、昔の人は、これも経験的に知っていたのでしょう。

 昔は、心臓が止まり、呼吸も止まった場合、「この人は死んだ」と判断しました。
 しかし現代では、心肺停止状態であっても、適切な救命措置を施せば蘇生する可能性がある、しかも、それが早ければ早いほど蘇生の可能性が高いというのは、皆、知っています。ですから、公共施設などにはAEDが配備されていますし、AEDの使用方法や心肺蘇生法の講習が、いろんな機会に行われています。
 心肺停止状態になった場合、一刻も早く蘇生措置をとらなければならないのは、脳への血流が止まることで脳細胞の壊死が始まり、時間の経過と共に、生命機能を司る部分まで損傷を被ってしまえば、もはや蘇生は望めなくなってしまうからで、その、時間の経過と蘇生率をグラフにしたものは、「ドリンカーの救命曲線」として知られています。これによれば、心肺停止から5分以上経過したら、生還の可能性は殆どなくなってしまいます。
 また、心肺停止状態では、脳の壊死は大脳の外側から始まり、徐々に脳の中心部分へと進行していきます。大脳の外側は、手足の運動機能や、言語、理性といった、人間らしい部分を司っていますし、もう少し壊死が進むと、記憶や視聴覚といった、動物としての機能が失われてしまいます。
 具体的には、言葉が分からなくなる、人の顔が見分けられない、善悪の判断がつかなくなる、手足がうまく動かない、感覚器官が働かない、といった障害が考えられ、蘇生までの時間が長ければ長いほど、障害の程度は重くなります。
 昔も、運よく、こうした障害がほとんどなかったり、あっても軽度のものであったなら、蘇生した者は、元の村にすんなり復帰できるでしょうし、中程度なら、介助は必要かもしれませんが、ほぼ自活は可能でしょう。
 しかし、障害の程度が著しく常に介護を必要とする状態であったり、歩行するなどの運動機能は残っているけれど、知能や理性に大きな欠落があるため、村に迷惑な存在となってしまったら、他人はもちろん親族でさえも、こんなことなら生き返ってくれない方が良かったと思うのは、医療や福祉制度の整備された現代ならいざ知らず、食べていくのが精一杯だった昔の人々を責めることはできません。といって、姿かたちは元のままですから、まさかあらためて殺すわけにもいきません。
 また、フグ毒で死んだ者を首だけ出して埋めるぐらいの蘇生技術しか持ち合わせていなかった昔の人に、5分以内の心肺蘇生法など望むべくもなく、そうであれば、通夜や葬式が終わったあとに蘇生した者の殆どが、脳に重大な損傷を負っていたことは、想像に難くありません。
 これを防ぐためには、死者には速やかに死者の国へ行ってもらい、迷い出てこないよう、身体を縛り上げたり、大きな石を抱かせたり、棺桶を密封したりといった方法が有効だったのです。
 これも、生き残った者が生き抜くための知恵、というほかありません。

 さて、死者の、魂ではなく、肉体そのものが墓場から這い出してくる恐怖映画のネタは、東洋では僵尸(キョンシー)として、西洋ではゾンビとして、その風習がある地域ではミイラ男などとして知られています。
 僵尸にしろゾンビにしろ、その行動を見てみると、運動機能はある程度残っているものの、知能や理性はほとんど失くしてしまい、結局、食物を求めてさ迷い歩き、食べられる物を見境なく食べるだけの生き物となり果てています。悪いことに、理性を失くした僵尸やゾンビにとっては、人間も食物のうちに過ぎませんから、襲われ、殺されるという、恐怖映画を地で行くこととなってしまいます。
 こうした僵尸やゾンビの様子は、どちらかの話が他方へ伝わって変形した可能性もありますが、もし、各々で自然発生的に話が成立したのだとすれば、死者が墓場の中から蘇って、しかし蘇生までの時間が経ち過ぎていたため脳に重大な損傷が及び、村人に災いをなした事例が、実話としてあったのかもしれません。

 死者が蘇っても迷い出ないようにするため、昔は屈葬という方法が採用されましたが、その後、火葬という、遺体を完全に破壊してしまうのに確実な方法が採用されました。前日まで生きていた肉体を火で焼くというのは、一見、残酷なようですが、生者には生者の安寧な生活がありますから、やむを得ない選択かもしれません。


 最後に自画自賛を。

 私は、神話を含めた古代史、民俗学、文化史、医学や救急など人体に関わること、法律(これは専門ですが)、心霊や恐怖映画などオカルト物、いろんなことに興味があります。
 今回は、それぞれ独立していて全く関連性がないように見える分野の知識を繋ぎ合わせ、総合科学として駄文に仕立て上げてみました。
 神話が伝染病の蔓延と予防法に、法律が日本の埋葬方法と現代の救急救命法に、はては脳科学と恐怖映画に、我ながらうまく点と点を線で結ぶことが出来たものです。
 もっと証拠を集めて、きちんとした論文に仕上げればいいのでしょうが、まあ、知的遊戯に止めておきましょう。

反魂の術

2015-06-02 | 人文科学講座
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 今年は、テレサ・テン没後20年ということで、いろいろな催しがある中、ニュースで、追悼コンサートの模様が流れていました。
 もちろん本人は墓の中ですから、テレサに所縁のある歌手が、彼女の歌を歌っているのかと思ったら、何と、本人が舞台の上で歌っているではありませんか。そっくりさんではありません。3D技術を駆使した立体映像です。
 まだまだ発展途上の技術ですから、ブラウン管テレビのように走査線が見える気がしたり、色彩が薄く舞台の奥が透けて見えたりと、お世辞にも本物そっくりとは言えませんでした。
 しかし、そうした点も、数年のうちに改良され、「本物そっくり」になって行くのでしょう。

 あ、言い忘れていました。実は私、「ヒット集」の10枚組CDを購入するほど、テレサ・テンの歌が大好きなのです。
 ただ、私の好みはちょっと変わっていて、日本でヒットした楽曲もさることながら、中国語で歌った「何日君再来」や「夜来香」、また、日本で大ヒットした「愛人」「時の流れに身をまかせ」などの中国語版が、大のお気に入りです。
 彼女の、日本語の歌は、どうしても喉に無理をさせて日本語を発音し、歌っている感じが否めません。その点、中国語の歌は、もちろん言葉は分かりませんが、声が、彼女の喉から無理なく自然に出てきているようで、耳に心地よく響いてきます。

 最近の、ケツ振りながら歌うアイドル歌手なら、どっちでもいい話ですが。

 戯言はこれぐらいにして・・・

 科学は、既に亡くなった人が、再び動いて歌う姿を甦らせることに、とうとう成功しました。2次元であれば、映画の発明がそれにあたりますが、3次元で甦らせるのは、臨場感が、文字どおり次元が違います。

 人々は古来より、亡くなった人を惜しみ、もう一度、一目だけでも会いたいという想いを強く持っていました。そして、その欲求に応えるべく、怪しげな薬や術を使う者も現れました。
 中でもよく知られているのは、漢の武帝が、亡くなった李夫人に今一度会わんがため、方士に術を使わせて、李夫人の姿を煙の中に浮かび上がらせた話ですが、その時、方士の焚いた秘薬が反(返)魂香です。
 もちろん、そんな秘薬などあろうはずもなく、武帝が見たものは、御簾越しに揺らめくただの煙だったわけですが、方士の神秘的な演出と、武帝の、李夫人恋しさに堪えかねる気持ちが相まって、揺らめく煙の形を、李夫人の影と思い込んだ、というのが真相でしょう。加えて、もしかすると反魂香の煙には、幻覚を見せる成分が含まれていたのかもしれません。

 科学が高度に発達した現代から見れば、反魂香などインチキに決まっていますが、昔は、そのような呪術こそが、人の生死や自然現象全般をも司る、最先端の科学であったことは認識してください。そうだとすると、漢の武帝が方士の反魂香によって李夫人を見たのも、熱烈なファンが3D技術でテレサ・テンを舞台に映しだしたのも、その当時に用い得る最高の技術を以て不可能を可能にした、という観点では、変わりがありません。

 科学は次にどんな幸福を、我々に与えてくれるのでしょう。楽しみは尽きません。

 惜しむらくは、科学の3Dは、テレサの姿を再現することには成功しましたが、「魂」までは再現できないようです。「魂」さえも再現できたとき、それが、科学による反魂の術が完成するときでしょう。
 そんな事は不可能?
 いえいえ、3Dさえ、100年前には非科学的な夢物語だったのですから、100年後、200年後にはきっと。

 人類が科学で自滅しない限りは。

科学が安全でも、用いる人間が危険ならば、即ち危険と結論するしかない

2011-07-18 | 人文科学講座
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 自慢するわけではありませんが・・・と前置きする場合、たいていは自慢話と相場は決まっていますが・・・

 私は、就職等のことを考えて文科系を選択しましたが、元々、理科や数学が得意で、今でも人文科学のみならず、理科系の科学にも大変興味があり、また興味の対象も物理から化学・生物は言うに及ばず、宇宙や地球のことまで多岐に亘り、ハヤカワ文庫アイザック・アシモフの科学エッセイ十数巻(おそらく普通の文科系の方は、手に取ることすらしないでしょう)も読破するなど、科学理論・理屈は、文科系としては一端だと思っています。
 もっともエッセイ中、数学ばかりはお手上げでしたが。

 また、原子力の理論や原子爆弾の基本的な原理などは、小学生の頃、図書館の本を読んで、まあ小学生なりですが、既に理解していました。
 さらに、九州に住んでいるからにはと、玄海原発も見学し、原子力発電所の堅牢な造りを、この目で確認してきました。

 ですから、原発がいかに安全に造られているか、少なくともそう努力されていることを、私は十分理解しており、
「原子力は、安全なエネルギー源だ」
と断言できます。

 しかし、私は文科系を選択し、法学部へ進み、殺人罪や詐欺罪などの犯罪、浮気や隠し子など自らの不徳が招いた人間関係のいやらしさ、犯罪とは言えないまでも卑劣で反社会的な行為、また教養課程として社会学や心理学を通じて、人間というものの奥底も学んでしまいました。

 そこで得た知識を敷衍すると今度は、
「人間とは愚かで、卑怯で、危険極まりない存在だ」
と断言せざるを得ません。

 科学という一点に絞って考えれば、原発推進派が言う、「原子力は安全です」とか「技術は日々進歩しています」という言葉に、間違いはありません。
 確かに、核燃料からエネルギーを取り出す工程に、抜けはないように思われます。

 しかし、実際に造られた、原子力発電所となるとどうでしょう?

 言うまでもなく、発電所は人間が設計し、人間が施工し、人間が運転・点検・修理を行っています。
 どんなに完璧な理論に基づいて施行されたものでも、実行する人間次第で、璧は完全でなくなってしまう可能性があります。
 いや、歴史上、完璧であったものなど一つもない、と言い切ってしまっても差し支えないでしょう。

 設計にミスがあったらどうでしょう。施工に手抜きがあったら、運転・点検・修理に抜けがあったら、そもそも建設の前提条件に誤りがあったら。
 さらに、原子炉はよくできていても、周辺機器がいい加減な造りだったら。

 ・・・全てが灰塵に帰すのは、実例のとおりです。

 九州電力では、会社ぐるみでの、「やらせメール」による世論操作が発覚しました。
 玄海原発を抱える佐賀県知事は、九州電力から献金を受けていました。
 さらに玄海町長の親族企業は、原発関連で15億円もの仕事をもらっていました。

 こうした例を見れば、公平・公正な判断が阻害されていることは間違いなく、特定の利益享受者の都合によって物事が決められていることに、疑う余地はありません。

 いくら立派で、珠の欠けたるところがない科学技術であっても、こうした連中の手に渡ってしまえば、珠はたちまち汚れ、欠け、いいように食い物にされるのが関の山です。
 こうした例が、掲題の、「科学が安全でも、用いる人間が危険ならば、即ち危険と結論するしかない」というわけです。

 誠に残念ながら、長足の科学進歩に比べ、人間自身の意識は旧態依然としていて、全く追いついていません。
 であれば、人間は、せっかく進歩した科学技術といえども、使うことを躊躇うべきです。
 いや、躊躇わず、使うことを諦めるべきです。

 では、どこまで人間の意識が進歩したら使ってもいいのか。
 至って簡単です。
「あたりまえのことが、あたりまえにできる」
 人間が、たったそれだけのことをできるようになれば、必要十分です。

 逆に言えば、そんなことさえできないのが今の人間であるのに、そのくせ原発に関しては、人間の分際で不遜にも、絶対安全だという「安全神話」などでっち上げて誤魔化し続けてきており、これでは神の怒りを買うのも、当然といえば当然の結末でした。

 原子爆弾は兵器で、原子力発電所は産業です。
 両者には決定的ない違いがあるように思われますが、原理は一緒です。
 したがって、それらがもたらす被害は、程度の差こそあれ、何ら変わりはありません。

 私が尊敬してやまないSF作家のジュール・ベルヌは、たった一撃で、艦船を跡形もなく破壊してしまう恐るべき兵器を、そう、今で言う原子力のように、強力なエネルギーを放出する兵器を、作品中に「発明」しました。
 その作品の邦題は奇しくも
「悪魔の発明」

です。

 今、原子力という諸刃の剣を手にしているのは、果たして・・・

フォークソングと人間の技術・技量

2010-10-13 | 人文科学講座
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 オジサンの懐古趣味ですから、まあ、聞き流してください。

 私が若い頃は、フォークソング、ニューミュージックの全盛期で、私も、フォークギターを買い、弾き語りなどして楽しんでいました。

 最近、その頃の曲を再び聞く機会があり、中高生の頃では分からなかった歌詞の意味や機微を、あらためて感じ取ることができ、懐かしさのあまり、実家に置いたままだったフォークギターを我が家へ持ってきて、「どこへ置くつもりなのよ!」とカミさんに叱られてしまいました。

 そうした音楽に触れた世代が、80~90年代のポップスを創り、またそれに触れた世代が、現在の音楽シーンを支えていて、音楽はどんどん進化しています。
 昔は、それこそギター、ピアノ、バイオリン、ドラムぐらいしか使っていなかったものが、今では名前も知らないような楽器を多用し、コンピュータによる合成やデジタルエフェクトによって、聴いていて楽しい、まさに「音楽」そのものの出来栄えを比べると、昔の音楽は今の音楽の足元にも及びません。

 それはそれでいいことなんですが・・・

 「音楽」は確かに進化し続けています。しかし「歌」という観点から見ると、残念ながら退化していると言わざるを得ません。

 フォークソングの頃は、演奏といえばアコースティックの楽器や、せいぜいエレキギターや電子オルガンなどを使う程度で、デジタルエフェクトなどもありませんから、必然的に、作詞家・作曲家と歌手の力量が大きく問われていました。

 別な言い方をすれば、聴き手への訴求力が歌の良し悪しを決めていた、つまり、「聴かせる歌」でなければなりませんでした。また、「聴かせる」以上、歌詞も重要な位置を占め、歌詞は詩として成り立つほど、立派なものでした。
 そこではデジタル技術に頼らない、作詞者、作曲者、編曲者、そして演奏者や歌手の力量こそが勝負だったのです。

 愛だ恋だ別れだ涙だといったものではない、目新しい楽器や演奏やテクノロジーもない、何でもない唱歌であっても、歌手に、情感込めてじっくり聴かせる力量があったなら大ヒット曲になり得ることは、平井堅が「大きな古時計」で見事に証明しました。

 音楽に限らず、現代は技術が進歩し、昔なら特殊な技能を持った人しかできなかったことが、普通の人でも容易にできるようになっています。
 しかしそれは逆に、技術は進歩したけれど、人間の技量は低下する、という矛盾を生み出しています。

 昔は、車の運転は特殊技能で、免許さえあればメシが食えたものだし、読みやすいきれいな字は、書道の先生でもなければ書けませんでした。したがって、免許の欲しい人は、大変な努力をして技能を身につけたし、綺麗な字を書きたい人は、書道教室へ通ったりして、腕を磨きました。

 それが、オートマチック車の出現で、変速ギアの操作ができなかった人でも、車の運転ができるようになり、ワープロの普及で、誰でもきれいな文字を印刷できるようになりました。
 しかし逆に言うと、昔なら免許をもらえなかった程度の技量しかない者が車を運転したり、変換キーに慣れた人がいざペンを持つと、漢字を間違えたり書けなかったり・・・漢字ぐらいなら笑い話ですが、笑い話では済まないことも、そうした事例の中には多々あります。

 車は人間を運び、文字は人間が読むものです。したがって、人間の技量こそが、いざというときには大いにものを言います。
 仮に、飛行機の操縦が易しいものになり、今の車のように、誰でもが飛行機を飛ばす世の中になったとして、空の上で機体に故障が発生したとき、技量のある者とない者では、取り返しのつかない運命の差が待っています。

 技量のなさを技術が補うのは、決して悪いことではありません。
 また、新しい技術を使いこなす、新しい技量を獲得するのは大切なことです。
 しかし、技術に頼って技量が低下するのは、ぜひ防がねばなりません。

 誰でもがそこそこ美味しく飯を炊けるよう、炊飯器が登場しました。
 炊飯器を使いこなすために、ボタンの操作や炊き具合の設定をする技量があれば、より一層、美味しい飯が炊けます。
 しかし、炊飯器のスイッチを押すだけということに頼りきってしまったり、そもそも炊飯器でしか飯を炊いたことのない人ばかりの世の中で、ご飯をきちんと竈と羽釜で炊く技量のある人が、どれだけいるでしょうか?

 そんな技量はもう必要ない?
 では誰が、炊飯器のシーケンスを開発するのでしょうか?
 誰が、炊飯器の炊き具合を設定するのでしょうか?

 かく言う私も、いざ紙を前にして、漢字を忘れてしまったりして・・・偉そうなことは言えませんが。
 飯盒で飯を炊く技量ぐらいはありますので、それでご勘弁を。

本能と理性と子孫

2010-10-03 | 人文科学講座
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 「子どものある女性と同居していた男性が、女性と共謀して、女性の幼い子どもを虐待し、殺害した」

 暗澹たる気持ちになるニュースですが、同種の事件は、近年、数多く発生しています。
 ニュース番組では、キャスター氏が、「いたいけな子どもを責め殺すなんて・・・まして母親がそれを止めるどころか加担するとは、鬼畜の仕業」と、訳知り顔で断じています。

 はたして、本当にそれだけでしょうか?

 人間には理性があって、それが人間を人間たらしめていることは言うまでもありませんが、その一方で、人間には動物としての本能もあり、いざというときには、理性より本能が勝った行動をとるものです。
 この場合の本能とは、子孫を残すことです。そして理性的にも、子どもを守り育てるのは正しいことです。
 したがって通常であれば、親は子どもの命を、自分の命より大事に考えます。ですからこの限りでは、キャスター氏の言葉は、間違いではありません。

 しかし状況が違えば、別な本能が、上記の「通常な状態での本能」を上回ってしまうこともあります。

 「ライオンの子殺し」というのをご存じでしょうか。

 ライオンは、1頭のオスを中心に、数頭のメスと子どもたちで群をつくっています。
 しかしオスの座は安泰ではなく、若くて強いオスに勝負を挑まれ、負ければ、主人の座を明け渡さなくてはなりません。
 そのとき、座を奪った若いオスは、これから自分の遺伝子を受け継いだ子どもを作り、育てていくためには邪魔になる、自分の遺伝子を受け継いでいない前のオスの子どもたちを殺してしまいます。
 そしてメスライオンも、それを止めようとはしません。
 メスにとっても、弱いオスの遺伝子より、より強いオスの遺伝子を受け継いだ子どものほうが、効率よくメス自身の遺伝子を残せるからです。

 人間の感覚ではおぞましいことですが、自分の遺伝子を伝えていくためには必要なことで、自然な成り行きです。

 ライオンの子殺しを、人間の例に当てはめてみると、冒頭の事例では、男性にとってその子は自分の遺伝子を受け継いでいない邪魔者に過ぎません。
 女性にとっては実子ですが、より強い「オス」が現れた以上、より優れた遺伝子を残すためには、劣ったほうの遺伝子を犠牲にするほうが、効率的です。

 そういう、人間に残っている獣の本能が起こした事件だと考えれば、何も矛盾する点はありません。

 しかし人間には理性があります。
 獣の本能が命ずる非理性的な行動を、理性が正しい方向へ修正してこそ、人間らしい行動となるわけです。
 ですから、理性ある男性と女性は、新しい配偶者が連れてきた子供でも、きちんと育て上げていきます。

 ごく普通の人間は、本能と理性をうまくバランスさせて生きていますが、中には、本能のほうへ大きく傾いた行動をとる人間もいます。
 よい配偶者を選び子孫を残すのは動物の本能ですが、上手に子どもを育てていくのは、人間の理性です。
 事件の加害者に、本能が理性に勝った行動をとりがちな比較的若い男性・女性が多いのも、頷けます。
 また、若い母親が多いのも、本能で生殖の対象となる配偶者を選んでしまい、理性的に子育てや生活を営めるかどうかを見極めなかった結果とも言えます。

 冒頭述べたような事件は跡を断ちません。
 原因として、地域社会の無関心や、公的機関の限界といったことが挙げられ、その強化が急務であると言われ、もちろん、それはそれで重要なことです。

 理性ある人間としては、獣の本能が自分の中にも存在するなど、認め難いことでしょう。
 しかし、それを無視しては問題の本質に迫ることはできず、まして対策を講じることなどできません。
 本気で取り組むつもりがあるのなら、周辺で綺麗事を言っている場合ではなく、人間の、いや、動物の本能という、「本丸」に斬りこんでいくしかありません。

おかしな日本語

2006-12-15 | 人文科学講座
 私には、文法がおかしいわけでもなく、慣用的に使われている言葉だけど、どうにもしっくりこない言葉があります。深く考える必要なんかないのに、考えだすときりがありません。

*忘れ物はありませんか
 無茶と言えば無茶ですね。
忘れるから忘れ物なのに、それを「ありませんか」とは。覚えてたら忘れ物じゃないし。
 「忘れ物はありませんか」と言われて、持ち物を再点検し、忘れていたことを思い出した場合、「忘れ物」を思い出した、とは言えますが。
 でも、出発したあとで「あっ、あれを忘れた」という人がいたとき、「だから『忘れ物はありませんか』と注意したじゃないか」と文句を言うのは、矛盾しているような気がします。

*メシでも食おうか
 「メシ」は「食う」ものだから、文としては別に間違っていません。
 これが、「食事でもしようか」なら、食事以外の選択肢もあるので、「いや、メシより先に、風呂にしよう」といった応答もできます。また、店に入ったあとで「カツ丼でも食おうか」なら、「オレは天丼にする」といった答え方もできます。
 つまり、「メシでも」と、メシを例示しているにもかかわらず、「食う」と限定し、「食う」こと以外の選択肢をなくしている点が、どうもしっくりこないのです。
 でも、「メシでも食おうか」と言われて、「いや、メシより先に、風呂にしよう」と応えても、別におかしくないのですから、ますます混乱します。

*待てーっ、止まれ-っ
 刑事ドラマで、刑事が犯人を追いかけるときの決り文句です。
 はたして、「待て」と言われて、素直に待った犯人が、一人でもいるのでしょうか。「待てーっ。さもないと撃つぞ」なら別ですが。また、犯人が逃走をあきらめて立ち止まる場合もありますが、それは走り疲れたり、逃げられないと観念したからで、決して「待て」と言われたからではないはずです。
 待てと言っただけで犯人が待つわけないし、刑事も、犯人が待つわけないことを知っているのに、なぜか「待てーっ」です。言うだけ無駄でしょう。

*傍若無人
 「傍に人無きが若し」の振舞いが「傍若無人」です。
 傍に人がいれば慎むはずの行動を、人がいないかのように慎まないわけですが、そうした輩は、傍に人がいようといまいとおかまいなしですから、傍若無人の行動をする奴に、「傍若無人」を指摘しても、そもそも問題点を認識しません。つまり、傍若無人という言葉の意味は、知ってもらいたい連中には全く知られることがない、という矛盾を抱えています。


 では私がこのような表現をしないかというと、そういうわけではなく、私も普段使っています。使いながら、「おかしいなあ」と思っているわけです。

Tears in Heaven

2006-05-10 | 人文科学講座
 エリック・クラプトンが、幼くして神に召された彼の息子を悼んで作った歌です。
 私が独身の頃は、そうしたエピソードを知っていながらも、「ふーん。そうなのか。悲しい歌だね」と思う程度で、友人達とカラオケで歌ったりもしていました。
 ところが、結婚して、自分に子どもができると、もうダメです。
 イントロを聞いただけで、2人の息子の顔が浮かび、涙があふれ、とても歌うどころではありません。エリックの深い悲しみがビシビシと伝わってきて、音楽にこのような力があったのかと、あらためて感銘を受けました。
 さて、我ながら、この心境の変化には驚くばかりですが、「親の気持ちは、親にならないと分からない」というのは、まさに本当だと実感します。と同時に、親になってよかったと、心から思います。

Tears in Heaven

Would you know my name
If I saw you in heaven
Would it be the same
If I saw you in heaven
I must be strong
And carry on
'Cause I know I don't belong
Here in heaven

Would you hold my hand
If Isaw you in heaven
Would you help me stand
If I saw you in heaven
I'll find my way
through night and day
'Cause I know I just can't stay
Here in heaven

Time can bring you down
Time can bend your knees
Time can break your heart
Have you beggin' please
Beggin' please

Beyond the door
There's peace I'm sure
And I know there'll be no more
Tears in Heaven

街で見かけた、ちょっとすてきな女性

2006-04-10 | 人文科学講座
 車を運転していて、店の駐車場に入るため、歩道を横切ろうとした時です。
 自転車の若い女性が、歩道を走っていたので、私は歩道の手前で一旦停止し、道を譲りました。
 するとその女性は、ニコッと微笑んで、私に向かって会釈し、通り過ぎていきました。
 それはとてもすてきな笑顔で、その女性の、品のよさをよく表し、ご両親の、躾のよさをも、うかがわせるものでした。
 道を譲っても、仏頂面で通り過ぎる女性が多い中、とてもさわやかに感じた一幕でした。

 ちなみに、ローライズではなく、白い清潔そうなロングスカートをお召しになっていました。

ニュースも状況が違えば・・・

2006-01-23 | 人文科学講座
「自動車の盗難事件が発生しました」
  ・・・気の毒に
「盗まれたのは高級外車です」
  ・・・また買えばいいだろ

「○○さんの自宅に空き巣が入りました」
  ・・・そりゃ大変だ
「1千万円相当の宝石が盗まれました」
  ・・・盗まれるものがあっていいねえ

「17歳の少女が事件に巻き込まれました」
  ・・・かわいそうに
「深夜2時頃の盛り場で、事件は起きました」
  ・・・夜遊びなんかするからだ

「たばこ税が値上げになります」
  ・・・それは困る
「酒税が値上げになります」
  ・・・どんどん上げろ(注:私は下戸の喫煙者です)

「交通自損事故で男性が重傷です」
  ・・・命だけは助かって
「男性は無免許、飲酒、暴走運転でした」
  ・・・助けなくていい

「芸能人の○○さんと△△さんが離婚しました」
  ・・・そりゃ残念だね
「慰謝料は××千万円です」
  ・・・儲けやがって

・・・やれやれ、人間って、自分勝手なものですね。

みんな昔は子どもだったのに

2006-01-11 | 人文科学講座
1.仮面ライダー
 私が子どもの頃、仮面ライダーがテレビに登場し、男の子はみな夢中になっていました。仮面ライダーにも、1号、2号、V3とあるのですが、子どもだった私が、テレビを観ながら、「これがライダー1号、こっちがライダー2号」と父に説明すると、父は、「どこが違うんだ?どれも同じじゃないか」と訝ったものです。
 仮面ライダーのシリーズは、今でもテレビでやっているようです。昔同様に、龍騎やファイズや響鬼など、何人ものライダーがいるらしいのですが、大人になった私は、「どれも同じじゃないか」と思ってしまいます。一体、いつから私は、そのようになってしまったのでしょうか。

2.ビンゴ大会
 ある時、デパートの客寄せイベントで、ビンゴ大会があり、私は当時3歳の長男を連れて行きました。すると、長男のカードが、誰よりも早くビンゴになって、私は長男の手を引いて、壇上にのぼりました。
 早くビンゴになった者から、好きな賞品を選んでいい、ということだったので、私が長男に「どれがいい?」と聞いたら、長男は、好きなキャラクターのゲームを選びました。
 他に自転車やビデオデッキなど高価な賞品もあったので、司会の女性は「これでいいのですか?」と聞きましたが、私が「子どもが選んだのだから、これで結構です」と答えると、会場からは、高額賞品が残ったことで、期待のどよめきが聞こえました。
 でも私は、長男はもちろん、家で待っていた次男の、大喜びした顔という、この上なく「贅沢な」賞品を得たと思っています。

3.もうひとつのビンゴ大会
 他の時、やはりデパートのビンゴ大会で、私の近くにいた小学生の女の子が、ビンゴを当てました。女の子は「当たった、当たった」とはしゃぎながら、賞品が積まれたテーブルへ走っていきました。そして、女の子らしい、すてきな絵柄のハンカチをもらってきて、一緒にいた母親や、親戚らしいおばさんたちに、「見て、見て」と自慢を始めました。
 ところが母親たちは、洗剤や石鹸やポリラップなどが欲しかったらしく、「どうしてそんな物もらってきたの」「もっといい物が他にもあったでしょうに」「今からでもいいから、替えてもらってきなさい」と、口々に女の子を責めたてたので、女の子は、だんだんとうつむいて、かわいそうに、とうとう泣き出してしまい、「こんな物、もういらない」と叫んで、せっかくもらったハンカチを、地べたに投げ捨ててしまいました。
 そうこうしているうちに、賞品がなくなって、ビンゴ大会も終わりました。母親たちはしょうがなく、「もう、わかったから、それでもいいから持って帰りなさい」と、女の子をなだめるしかありませんでした。
 そんなことなら、なぜ母親たちは最初から「あら、いいものをもらったわね。あなたによく似合うわよ。大事にしなさいね」と言ってあげられなかったのでしょうか。結局その家族は、賞品が当たったにもかかわらず、泣き出した女の子はもちろん、子どもを泣かせてしまった母親たちも、誰一人として、楽しい思いをしなかったに違いありません。

 何が人を不幸にするのでしょう?他でもない「欲深さ」だと、私は思います。
 そして、誰が人を不幸にするのでしょう?他でもない「自分自身」だと、私は思います。

いきなりブログタイトルとは関係のない話ですが

2006-01-04 | 人文科学講座
 私は毎年初めに、今年も家族みなが恙無く過ごすことを願っており、そういう点で2005年は、願いの叶ったよい年でした。
 加えて、長男の3年生への進級、次男の小学校入学、運動会をはじめとして各種の行事や催事への参加、また家族みんなそろって、夏には釣りを、冬にはスケートを、年間通じて大分トリニータの試合を観戦するなど、健康的なレジャーを満喫するとともに、カミさんは趣味のミニチュア製作が他人様から認められ、私自身は趣味のボウリングで自己最高点を記録するなど、ささやかながら我が家の幸福が増し、家族みなが心身の成長を果たしたことを、何より喜ばしく思います。

 こうして私が幸福感に浸れるのも、カミさんや子どもたちをはじめ、私を取り巻く人々、人だけでなく、この故郷や自然、社会といった環境のおかげと、常々感謝しています。特にカミさんと子どもたちは、毎日、私に幸福を贈ってくれ、特別な感謝の気持ちを持っています。

 そう、感謝の気持ちを持てるということは、幸福なことです。では、幸福になりたかったら、感謝の気持ちを持てばいいのではないでしょうか。
 カミさんとはケンカすることもあり、子どもたちは言うことを聞かず生意気盛りで、故郷の大分は貧乏県で、夏は暑く冬は寒く、社会は矛盾に満ちています。
 でも、ケンカすることで分かりあえる事もあるし、子どもたちの生意気は成長した証拠で、産業に乏しい県だから自然を楽しめるなど、一見、悪く思えることも、実は自分を成長させてくれる大切な事象ですから、それに対して感謝の念を持つべきです。
 それを、「あれが悪い、これが足りない、あれが欲しい、もっと欲しい」と不満ばかり述べていたのでは、自ら幸福感という目的地を、どんどん遠くへ追いやっているようなもので、それでは永久に目的地、すなわち幸福感を味わうことはできないと思います。

 座って半畳寝て一畳。足るを知る。

まずは始めます

2006-01-03 | 人文科学講座
 カミさんがブログを始めると言い出したのだけど、カミさんにパソコンの使い方を手ほどきした私としては、「ブログの作り方が分からない」とは言えず、まずは自分でブログの作り方を試してみて、ついでに、私も駄文を書き連ねることとしました。
 タイトルにこだわらず、趣味の話が多くなると予想されますが、とにかく始めます。