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<問題1>
次の書き出しで始まる作品の、題名と作者名を答えなさい。
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
<答>
題名:徒然草
作者:吉田兼好
中学校の、国語の時間を思い出した方も多いでしょう。懐かしいですね。
はるか昔に習った古典の美しい日本語は、自分の国語表現にも奥行きをもたらしてくれたような気がします。
(それでその程度か、とのご批判は受け付けません。悪しからず)
ところがこれが高校になると、単語一つひとつの意味や品詞、活用、「あり、をり、はべり、いまそがり」などを覚えさせられ、さらに現代語訳をするときは、たとえば「いとをかし」は必ず「大変趣がある」と変換しなければならないなど、出来の悪い翻訳ソフトと大差ない作業を強いられ、それでも何とかかんとか、決められたとおり現代文に訳してはみたものの、さて、自分で訳した現代文の意味が分からない、という、趣とは程遠い結果になってしまいます。
と、まあ、このあたりで大抵の方は、拒絶反応を起こして古文が嫌いになってしまい、揚句、受験勉強が終わるや否や、散々苦しめられた「徒然草」をはじめ「平家物語」「源氏物語」「方丈記」「枕草子」など二度と手にするものか、とばかりに打ち捨ててしまい、これらの作品は、誰もが知っているけれど誰もまともに読んだことのない名作となってしまいます。
もしかしたら皆さんは私のことを、「偉そうに、『理屈物語』の古文書を解読して、現代文に訳して紹介しているぐらいだから、さぞかし古典に明るい奴だろう」と思っているかもしれませんが、実は私も「拒絶反応を起こして古文が嫌いになって」しまったクチです。
さて、その徒然草ですが、私も最近までは「読んでやるものか」と思っていましたが、たまたまカミさんが図書館で借りてきた、分かりやすい文章で現代語訳した本を何気なく手にとって読んだところ、これが面白いの何の、ある段では笑い、ある段では感心し、あっという間に読み終えてしまいましたが、同時に、「しまった。こんなに面白い本を、なぜ今まで読まなかったのだろう」と悔やむこと頻りでもありました。
徒然草に限らず、古典の訳本はたくさんありますが、「出来の悪い翻訳ソフト」並みの訳では、ちっとも面白くありません。現代人の感覚に合った平易な文章で、かつ、理屈っぽく説明するのではなく、感覚的に理解できるよう大胆に意訳すれば、間違いなく面白い読み物になるはずです。
そういえば少し前、瀬戸内寂聴さんの書いた「源氏物語」が、若い女性を中心に大変なヒット作となりました。これも寂聴さんが、現代女性の感覚に合わせて執筆したからに他なりません。
徒然草冒頭の現代語訳も、
「特にやることもないままに、一日中硯に向かって、心に浮かんでは消えていく何ということも無いことを、なんとなく書き付けると、あやしくも狂おしい感じだ」
という具合にしなければ、受験では正解になりませんが、これをもし、
「ヒマだから、一日じゅう硯に向かって、いろいろ妄想したことを好き勝手に書いていたら、オレは何やってんだろうという気分になるもんだ」
と訳したら、志望校には合格しないでしょう。
でも、手前味噌で恐縮ですが、前記の現代語訳、どっちの方が分かりやすい文章ですか?言い換えれば、どっちの方が、感覚的にすんなり入ってきますか?さらに言えば、どっちの文体で読みたいですか?
ただ、古典を古文のまま読もうとすれば、助詞や助動詞の用法、現代とは違う単語の意味など、ある程度の知識は必要になってきます。
しかし、余程の文章でない限り、たとえば私が解読している「理屈物語」も、時々、分からない語句を辞書で引くぐらいで、あとは文法や単語の知識などは中学程度で十分です。
それよりも大切なのは、「たぶん、こういうことを言っているんだろうな」とアタリを付けて読んでいき、多少の分からない部分は割愛してしまい、まあ、大体の意味が分かればいいや、という大雑把さです。
考えてみれば、現代の文章を読むときだって、いちいち品詞がどうの活用がどうのなどと気にしていないでしょう?
古典だって、それでいいんですよ。お気楽に行きましょうや。
「何?するとお前は、『アタリをつけて読み』『多少の分からない部分は割愛し』『「大体の意味が分かればいい』という『大雑把』なものを『お気楽』にブログへ投稿している、とでも言うのか?」
はい、左様です。どうもすみません。
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<問題1>
次の書き出しで始まる作品の、題名と作者名を答えなさい。
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
<答>
題名:徒然草
作者:吉田兼好
中学校の、国語の時間を思い出した方も多いでしょう。懐かしいですね。
はるか昔に習った古典の美しい日本語は、自分の国語表現にも奥行きをもたらしてくれたような気がします。
(それでその程度か、とのご批判は受け付けません。悪しからず)
ところがこれが高校になると、単語一つひとつの意味や品詞、活用、「あり、をり、はべり、いまそがり」などを覚えさせられ、さらに現代語訳をするときは、たとえば「いとをかし」は必ず「大変趣がある」と変換しなければならないなど、出来の悪い翻訳ソフトと大差ない作業を強いられ、それでも何とかかんとか、決められたとおり現代文に訳してはみたものの、さて、自分で訳した現代文の意味が分からない、という、趣とは程遠い結果になってしまいます。
と、まあ、このあたりで大抵の方は、拒絶反応を起こして古文が嫌いになってしまい、揚句、受験勉強が終わるや否や、散々苦しめられた「徒然草」をはじめ「平家物語」「源氏物語」「方丈記」「枕草子」など二度と手にするものか、とばかりに打ち捨ててしまい、これらの作品は、誰もが知っているけれど誰もまともに読んだことのない名作となってしまいます。
もしかしたら皆さんは私のことを、「偉そうに、『理屈物語』の古文書を解読して、現代文に訳して紹介しているぐらいだから、さぞかし古典に明るい奴だろう」と思っているかもしれませんが、実は私も「拒絶反応を起こして古文が嫌いになって」しまったクチです。
さて、その徒然草ですが、私も最近までは「読んでやるものか」と思っていましたが、たまたまカミさんが図書館で借りてきた、分かりやすい文章で現代語訳した本を何気なく手にとって読んだところ、これが面白いの何の、ある段では笑い、ある段では感心し、あっという間に読み終えてしまいましたが、同時に、「しまった。こんなに面白い本を、なぜ今まで読まなかったのだろう」と悔やむこと頻りでもありました。
徒然草に限らず、古典の訳本はたくさんありますが、「出来の悪い翻訳ソフト」並みの訳では、ちっとも面白くありません。現代人の感覚に合った平易な文章で、かつ、理屈っぽく説明するのではなく、感覚的に理解できるよう大胆に意訳すれば、間違いなく面白い読み物になるはずです。
そういえば少し前、瀬戸内寂聴さんの書いた「源氏物語」が、若い女性を中心に大変なヒット作となりました。これも寂聴さんが、現代女性の感覚に合わせて執筆したからに他なりません。
徒然草冒頭の現代語訳も、
「特にやることもないままに、一日中硯に向かって、心に浮かんでは消えていく何ということも無いことを、なんとなく書き付けると、あやしくも狂おしい感じだ」
という具合にしなければ、受験では正解になりませんが、これをもし、
「ヒマだから、一日じゅう硯に向かって、いろいろ妄想したことを好き勝手に書いていたら、オレは何やってんだろうという気分になるもんだ」
と訳したら、志望校には合格しないでしょう。
でも、手前味噌で恐縮ですが、前記の現代語訳、どっちの方が分かりやすい文章ですか?言い換えれば、どっちの方が、感覚的にすんなり入ってきますか?さらに言えば、どっちの文体で読みたいですか?
ただ、古典を古文のまま読もうとすれば、助詞や助動詞の用法、現代とは違う単語の意味など、ある程度の知識は必要になってきます。
しかし、余程の文章でない限り、たとえば私が解読している「理屈物語」も、時々、分からない語句を辞書で引くぐらいで、あとは文法や単語の知識などは中学程度で十分です。
それよりも大切なのは、「たぶん、こういうことを言っているんだろうな」とアタリを付けて読んでいき、多少の分からない部分は割愛してしまい、まあ、大体の意味が分かればいいや、という大雑把さです。
考えてみれば、現代の文章を読むときだって、いちいち品詞がどうの活用がどうのなどと気にしていないでしょう?
古典だって、それでいいんですよ。お気楽に行きましょうや。
「何?するとお前は、『アタリをつけて読み』『多少の分からない部分は割愛し』『「大体の意味が分かればいい』という『大雑把』なものを『お気楽』にブログへ投稿している、とでも言うのか?」
はい、左様です。どうもすみません。