続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

憲法第36条(拷問、残虐な刑罰の禁止)、刑法第9条(刑の種類)第11条(死刑)

2011-07-27 | 法学講座
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日本国憲法第36条
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

刑法第9条
 死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。
第11条
 死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。


 日本国憲法第36条では、拷問と残虐な刑罰を禁止していますが、最高裁の判例により、死刑は残虐な刑罰ではないとされています。
 また、刑法第11条では、死刑の方法を、絞首刑と定めています。つまり、電気イスや、薬殺、銃殺などは認められていません。

 ご参考までに、「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」第178条第2項によって、土・日曜日および祝日と年末年始に、死刑は執行されないことになっていますから、他の誰よりも、土・日曜日を安息に過ごし、年末年始や祝日を心底祝っているのは、死刑囚かもしれませんね。

 さて、「目には目を、歯には歯を」という言葉はご存知でしょう。
 他人の目を潰した者は、刑罰として目を潰されるという、古代メソポタミアの、復讐法として名高いハンムラビ法典の原則ですが、現代の考え方では、死刑以外の、人体への苦痛や損壊を伴う刑罰が、まさに残虐な刑罰にあたり、ゆえにハンムラビ法典は、野蛮な法典と評価されています。

 余談ですが、ハンムラビ法典は、「目を潰した者」への刑罰が「目を潰される」に止まり、それ以上の刑罰を恣意的に加えられることはないという、近代法の原則にもなっている「罪刑法定主義」の先駆けであるという、「野蛮」とは正反対の評価もあります。

 さて、昔はどこの国でも、放火をした者が、火炙りの刑に処せられるのはあたりまえでしたが、これは、死刑執行に際し、必要最低限以上の苦痛を与えていることになります。
 また日本でも凶悪犯は、市中引き回しの上斬首された罪人の首は、晒しものにされたものですが、これは、死刑を執行した後に死体を損壊・放置していることになります。
 当然、現代では、いずれも残虐だとして、認められていません。

 なぜこうした残虐な刑罰がいけないのか、それは、余計な苦痛を与えたり、死者への敬意を持たない点が非人道的だからです。
 では、誰に対して非人道的なのか、それは死刑囚に対してです。
 こうして「死刑囚の人権」は、手厚く保護されています。

 ただ翻って考えると、江戸時代でも、俗に「十両盗めば首が飛ぶ」と言われていたとおり、殺人などの凶悪犯でなくとも、死刑になることはありました。
 しかしその場合でも、凄腕の執行人(有名なところでは、首斬り浅右衛門)が、一瞬で首を斬り落とし、罪人の苦痛は最小限に抑えられています。
 つまり、他人の身体へ大きな危害を加えていない罪人には、「人道的な」死刑が執行されていたわけです。

 しかし凶悪事件の被害者は、裁判を受けることもなく、予告もされず、苦しんだ揚句、無念にも命を奪われているのです。
 「犯人を同じ目に遭わせてやれ」というのは、遺族のみならず、民衆の、犯人が被害者に与えた苦痛を等しく受けることで、罪と罰の平衡を保ち、ひいては秩序を維持しようとする、ごく自然な要求です。
 少なくとも、いつ、どのようにして刑が執行されたのかわからないのでは、遺族には、「終わったんだ」という、心の区切りができません。・・・ここ数年、法務大臣は、死刑の執行を発表するようになりましたが。

 死刑囚への苦痛が非人道的だと言うのならば、被害者や遺族の心を救済しないのは、もっと非人道的です。

 また刑法の目的のひとつに、罰を意識させることで、犯罪を抑止する、というのがあります。
 昔の人は、磔刑や晒し首を見て、「罪を犯せばああなるんだ」と、強く自戒の念を持ったことでしょうし、火刑になる放火犯を眼前にすれば、放火魔に対しての抑止効果になります。

 これは、若いお母さんが子供に対して、「悪いことをしたら、お巡りさんに連れて行かれるよ」と言って、子供の素行を正しく指導しようとすることと、本質的に何ら変わりがありません。

 生首や火炙りはともかくとしても、刑務所暮らしや刑務作業、死刑を公開すれば、「悪いことをしたら、ああなるんだ」という、犯罪への抑止力は、より一層増すのではないでしょうか。

 「人が死ぬのを見世物にするつもりか」「前近代的な、怒りに任せた刑罰の加重だ」というご意見もおありでしょう。

 しかし私が言っているのは、刑の執行状況を見せ、以って犯罪の抑止力にするという、まさに刑法の目的に適った意味であり、刑法第9条に、罰金刑や懲役刑と同列に死刑が規定されている以上、死刑だけを除外する理由はありません。
 逆に、死刑だけを別扱いにするのなら、そもそも刑法で死刑という刑罰を定めていること自体が、おかしな話だ、ということになります。
 それは裁判員裁判で、裁判員に、死刑という量刑を選択させる意義まで失いさせかねません。

 ただ、翻って我が身で考えれば、私が裁判員になった裁判で、被告の死刑判決が確定し、その死に様を見せられたら、私は正気を保てるかどうか、自信はありません。

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 さて、ここからは法を離れて心情的な話になりますが・・・

 人間の、心理の奥底には、死に対する本源的な興味があります。
 また、罰の実行、すなわち正義の実現を望む気持ちもあります。
 さらに、知る権利というのもあります。

 マリー・アントワネットがギロチンにかけられた時、コンコルド広場は、数万人の群集で埋め尽くされました。
 民衆は、自分たちを苦しめた張本人に相応の罰が与えられることを望み、それが確実に執行されるところを見届ける権利を行使し、そして正義が実行された時には快哉を叫び、ルイ王朝の実質的な終焉、すなわち「正義と公平」が実現されたことを確認しました。
 パリ市民がそれだけ集まったぐらいですから、もし当時、メディアが今ほど発達していたら、処刑の様子はフランス全土に、いや、全世界に生中継され、YouTubeやツイッターのサーバはパンクしてしまったことでしょう。

 余談ですが、フランスでは1981年(つい30年前です)まで、死刑執行の正式な手段はギロチンでした。

 人が死ぬのを見世物にするのには抵抗がある、という人も、死刑ではなく、例えば鞭打ち刑だったら、「よし、悪党が懲らしめられるところを見てやろう」といった気持ちになるでしょう。
 つまり、犯罪者が罰を受けるのを公開すること自体は、何ら差し支えないのです。
 そして前述のとおり、その罰の中には、刑法によって死刑が含まれている、というだけの話です。

 もちろん、人の死を見たくない人が見なくて済む権利は、厳として保障されなければなりません。

PPP(polluter-pays principle:汚染者負担原則)、受益者負担の原則

2011-04-21 | 法学講座
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 またもや福島原発の話ですが・・・今回は反発を招くでしょうなあ・・・

 掲題のPPP(polluter-pays principle:汚染者負担原則)とは、簡単に言うと、環境汚染があったら、その原因を作った者が損害を回復させる、回復不能なら、相応の賠償金なりを支払うという原則です。
 もちろん、環境の回復のみならず、環境破壊によって損害を蒙った方々への補償も含みます。
(実際には、もう少し広く解釈され、国際的な運用がなされていますが、その点については、駄文では割愛します)
 まあ、いずれにせよ、原因を作った者が責任を負う、という点に、誰も異論はないでしょう。

 であれば、今回の福島原発事故は、地震は天災だとしても、駄文、
『理論以下、現実以下が「想定外」とは、是如何に?』
で示したとおり、
「専門家が揃いも揃って、アホか、お前ら」

としか言いようのない防災対策、事後処理しかできない、ないし、しようとしない東電に全責任があります。

 故に、概算で10兆円を超えるとも言われる賠償は、すべて東電が負うべきです。

 「10兆円なんて、とても一企業に負担できる額ではない。ここは何とか国が肩代わりを・・・」という意見もチラホラありますが、「国が肩代わり」ということは、私たちの税金が使われるということです。
 しかし、私は九州電力の管内に住んでおりますので、私の払った税金が、いかに公共性が高かろうとも、私企業に過ぎない東電のために使われるなど、承服できません。

 さて、ではどうするか。

 東電の電気は、当然ですが、東電管内で消費されています。
 であれば、東電と東電管内の電気利用者は「一蓮托生」ではないでしょうか?
 早い話が、今後、東電は電気料金を値上げして、それで被害者への補償をすればいいのです。

 と言うと、関東地方の方々は、
「我々も計画停電や放射性物質の飛来などで被害を受けている。その揚句に、電気料金の値上げなどもってのほか」
と反論されるでしょう。

 しかし、福島県は東北電力管内で、その原発から電気の供給を受けていた関東地方の皆さんは、本来、福島県に足を向けて寝られないはずですよ。
 もし東京のど真ん中に原発を造っていて、そこが事故を起こしたら、水道水から放射性ヨウ素が検出されたどころの話では済まなかったはずです。

 そうであれば、東電を銀行代わりにして集金し、被害者への補償に充てるのが、効率的で筋の通った話ではないでしょうか。
 もちろんその大前提として、利用者へ負担をお願いする以上、東電には、全て完済するまで、役員報酬その他大幅カットは当然、利益はなし、株主への配当もなし(場合によっては、株券を紙切れにしても構わない)、その他、血をも吐く覚悟で臨んでもらわねばなりません。

 いずれにせよ、汚染者である東京電力、受益者である東京電力管内の方々、両者とも、痛みを分かち合う必要があります。
 たとえ100年かかろうとも。
 
 ・・・とはいえ、述べたように強硬な言い方では、反発もおありでしょうから、こう考えてはいかがでしょう。

 関東地方の皆さんにも、東北地方のために義援金を贈られた方が大勢いらっしゃると思います。
 であれば、「電気料金」という形で、福島県および損害を被った方々を応援するのだ、という具合に考えてはいかがでしょう?
 東電に払うと思うから腹が立つのであって、それが困っている人々の役に立つのだと思えば、腹の虫も少しは治まりませんか。

 翻って九州でも、佐賀県と鹿児島県に原発があります。
 したがって私も、もし九州で原発事故が起こったら、被害者救済という前提なら、電気料金が値上げされてもかまわないと思っています。

 「原発と共存する」とは、そういうことも含めた概念です。
 そうでなければ、「原発と共存」は諦めましょう。

 さて、福島の事故を受けて、各原発への風当たりが強くなり、原発への抗議や、説明会などへ参加している方も大勢いるようですが・・・
 まさかそうした人の中に、電気会社の口車に乗せられて、「オール電化」にした人はいないでしょうね?

 「安い電気料金」がなぜ安いのかというと、費用をケチった脆弱な原発しか造らず、下請・孫請作業員の健康を犠牲にし、廃棄物などの問題は子々孫々の世代に押し付けているから安いのですよ。

 M10の地震が起きても30mの津波が来ても安全な原発を造ったら、どれだけ電気料金に上乗せされるか、まして一旦事故が起こればどれだけ損失が出るか考えると、「電気」は決して安いエネルギーではないはずです。

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2011年4月22日追記
 あまりのタイミングのよさに、私のほうが戸惑ってしまうのですが・・・

 上記記事は数日前から推敲をして、4月21日夕刻にアップしたのですが、アップしたその夜、テレビ朝日「ニュースステーション」で、私見と似た案が検討されていることが、報じられていました。
 ただ、まあ常套手段ですが、「電気料金を値上げする懸念が出ている」と表現するに止まり、断定はしていませんが、もう、その方向で行くことは確実でしょう。
 それと、東電以外の原発を抱える電力会社にも拠出金が課せられるということですが、本文中に書いたとおり、九電管内の私たちとしては、全くの天災ならともかく、「アホか、お前ら」程度のお粗末な人災に対しては、「誰が助けてやるもんか。自分で何とかしろ」という気持ちです。

 あ、そうそう、東電は毎年、1300億円の「利益」を上げていて、これは電気料金の中に、元々「利益分」を組み込んでいるからですが・・・どう思います?
 福島で避難した方々への仮払い金は、500億円に過ぎないというのに。

法三章、殺すな。傷つけるな。盗むな。それさえできれば必要十分なはず

2011-02-13 | 法学講座
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 紀元前3世紀末の中国、といえばピンとくる方も多いでしょうが、秦の始皇帝亡き後、西楚の項羽と漢の劉邦が覇権を争った、「楚漢の興亡」とか「楚漢戦争」と呼ばれる戦いがありました。

 最終的に、項羽は垓下の城に追い詰められ、漢の劉邦軍に包囲されてしまいますが、ここで漢の劉邦は一計を案じ、夜になると、包囲している劉邦軍の兵士たちに、わざと楚の歌を歌わせました。
 四方から楚の歌が聞こえてきたのを、項羽は、自軍の兵士たちが皆、項羽を見限って劉邦軍へ投降し、寝返って歌っているのだと思い、もはやこれまでと、実質的な敗戦を悟りました。(項羽の死は、もうひと戦あとですが)

 ご存知のとおり、これが「四面楚歌」の語源です。
 なお、このとき、項羽の愛人であった絶世の美女・虞美人は自害し、その血を吸った地面から生えてきたのが「虞美人草」です。

 若く絶世のカワイコちゃんだった(この言い方も古めかしいなあ)アグネス・チャンが、「丘の上、ひなげしの花で・・・」と歌っていましたが、虞美人草の別名がひなげしだと知れば、なるほど虞美人とはアグネスのような麗人だったのかなあ、と思います。
(・・・少年の当時、私は、アグネス・チャンの大ファンだったもので・・・)


 さて、東洋史と与太話はこれぐらいにして。

 秦の都、咸陽を制圧した劉邦は、「法三章」という、たった3つの項目から成る法律を施行しましたが、その3つとは単純明快、
「殺すな。傷つけるな。盗むな」
という、ただそれだけの内容でした。

 ただそれだけですが、これがきちんと遵守されれば、世の中に争いごとなど起こり得ません。
 私は、これこそ、古今東西、最高の法典だと思います。

 もっとも、その劉邦自身、項羽軍に対しては「殺し、傷つけ、盗んで」いるのですから、皮肉屋の私としては、多少、疑問符をつけたくなるところですが。
 ま、それはそれとして・・・

 「殺すな」は「傷つけるな」の延長線上と言ってもいいので、以下では同義に扱います。

 「殺すな。傷つけるな」という点については、身体的な危害は言うに及ばず、精神的な危害、すなわち悲しみや苦しみを与えてはならないとも言え、まして、それが昂じて死に至らしめてはならない、という具合に解釈できます。

 現代の法に照らせば、「殺すな。傷つけるな」は、身体的には殺人・傷害・暴行・過失致死傷・強姦、精神的には侮辱・名誉毀損、その他さまざまに分類されます。
 しかし、そんなややこしい分類などせずとも、人が人として、心身ともに健康な生活を送る権利を侵害する行為を禁ずる、ということであれば、その禁を破った「罪」に対して、どの程度の「罰」が適当かということは、裁判の中で、故意か過失か、殺人か傷害か、殺意があったかなかったか、計画的か偶発的か、といった点を考慮すればいいだけです。

 また「盗むな」という点は、単純な窃盗行為だけでなく、暴力を用いたり、偽計や奸計を用いて、他人に有形無形の損害を与えてはならない、と解釈できます。

 これも現代の法に照らせば、窃盗、詐欺、横領、強盗、さらには株価不正操作やインサイダー取引などに分類されます。
 しかしこれもまた、数多の分類など不要で、人が人として経済的な幸福を追求する権利を侵害する行為を禁ずる、ということであれば、上記同様、「罰」は裁判で、嘘や騙し、暴力の有無、その他諸事情を考慮して判断すればいいことです。

 まとめると、刑法の規定に代表されるような、処罰の対象となるべき犯罪に限らず、民法や商法など、人間関係や経済活動の中での背信的な行為も、それで人が傷ついたり、損害を被ったり、悲しんだり苦しんだりするのであれば、そのような行為をしてはならない、というのが、「法三章」の基本理念である、と私は解釈しています。

 さらに、法三章をもっと突き詰めて考えれば、身体的であろうと精神的であろうと、また経済的であろうと、
「有形無形を問わず、他人に損害を与えてはならない」
という、ただ一点に集約されます。

 大人の諸兄諸姉、ここまで論じ詰めれば、何かを思い出しませんか?

 そうです。
 子供の頃、誰しもが、親や先生から教わりました。
「人の嫌がることをしてはいけません」
と。

 法は・・・「決まり」と言い換えても結構ですが、人と人との関係を律するもので、その基本は、述べてきたように至って単純明快、誰でも知っているし、誰でも分かっていることです。

 それなのに日本では、法律だけで約1800、それに準ずる令が約5500、他に自治体の条例などもあり、各法令等の条文を数え上げると、一体何十万何百万の「決まり」があるか知れません。

 つまり、「誰でも知っていて、誰でも分かっている」はずのことが、これだけ多くの「決まり」を以ってしても、まだまだ「誰もできていない」と言えます。

 こうした教えを我々は、子供の頃は純朴に守っていたはずです。
 それなのに、一体、いつから、何が、我々大人をして、守らなくても平然としていられるような愚者にしてしまったのでしょうか。

 真に、まことに残念ながら、これが人間です。

 偉そうに言わせてもらいますが、私は、(自戒も込めて)人間が情けないです。

道路交通法第71条の3・4(シートベルト、ヘルメット、チャイルドシート)

2011-01-23 | 法学講座
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道路交通法(概要)
第71条の3 第1項および第2項(シートベルト)
 自動車の運転者は、座席ベルトを装着しないで自動車を運転してはならない。
 自動車の運転者は、座席ベルトを装着しない者を運転者席以外の乗車装置に乗車させて自動車を運転してはならない。

第71条の3 第3項(チャイルドシート)
 自動車の運転者は、幼児用補助装置を使用しない幼児を乗車させて自動車を運転してはならない。

第71条の4 第1項および第2項(ヘルメット)
 自動二輪車運転者は、乗車用ヘルメットをかぶらないで自動二輪車を運転し、又は乗車用ヘルメットをかぶらない者を乗車させて自動二輪車を運転してはならない。
 原動機付自転車の運転者は、乗車用ヘルメットをかぶらないで原動機付自転車を運転してはならない


 ずいぶん前ですが、ラジオの広報で、こんなのがありました。

「シートベルト、着けててよかった」という声は聞かれますが、「シートベルト、着けてりゃよかった」という声は聞かれません。何故でしょう?

 車やバイクを運転する上で、みなが勝手なことをしだしたら、大変なことになってしまいます。
 そこで、道路交通法では様々なルールが定められ、事故の発生や被害の拡大を防ぎ、交通の円滑化を図っています。
 その、道路交通法第71条の3ではシートベルトとチャイルドシート、第71条の4ではヘルメットの着用について規定されており、違反をすれば、免許の点数が減点され、罰金(反則金)が課せられます。

 さて私は、他の違反と異なり、シートベルト、ヘルメットに関しては、罰則は必要ないと思っています。

 「違反に罰則がなければ、強制力もないから、法文が有名無実化してしまう。それでは交通事故による死者・重傷者は減らない」というご意見もおありでしょう。

 スピード違反や飲酒運転などは、事故を引き起こす可能性が高くなるとともに、一旦事故が起きれば被害は甚大なものになってしまいます。
 また駐車違反は、円滑な交通の妨げになり、社会の機能に重大な悪影響を与えます。
 つまり、こうした違反は、他人に被害を及ぼす行為ですから、運転者の心に、罰則というブレーキをかけて、違反そのものがなくなるよう努めなければなりません。

 これに対して、シートベルトやヘルメットを着用しなかったからといって、事故が起きたり、他人への被害が拡大したり、交通の妨げになったりすることはありません。
 つまり、事故の際の被害は、他人には及ばず、もっぱら本人に及ぶだけです。
 であれば、法によって義務を課するところまでは必要かもしれませんが、罰則というブレーキまでは必要ありません。

 なぜなら、事故が起こったとき、シートベルト等を着用していなかった者は、罰金などよりはるかに大きな「代償」を支払うことになるからです。

 シートベルトやヘルメットを着用せずに運転し、大きな事故に遭遇したらどうなるか、分からない人はいません。
 少なくとも、分からない人に免許は与えられませんから、非着用で運転している人は、分かっていて運転しているのです。

 そうであれば、非着用で被害が拡大しても、「分かって」いたことですから、運転者は、被害を甘受しなければならない、つまり、減点や反則金などの罰則ではなく、違反者は最悪の場合、命で代償を払い、「死に損」ということになります。

 であれば、罰則で強制することによって、死者が1人でも減れば、それはそれで良いことかもしれません。

 しかし現在、罰則があっても、シートベルトをしない人はしません。
 運転中に、パトカーを見かけたら慌ててシートベルトをし(たふりをし)、パトカーを遣り過ごしたらまた外す、といった輩もいる始末ですから、反則金程度の罰則は、意味などないと言っても差し支えないでしょう。

 仮に、シートベルト非着用者が事故死しても、警察の統計でも、それは死者に数えず、負傷者に数えてかまわないと思います。(原形を留めないほどの全損とか、川への水没など、シートベルトをしていても死んでいたと判断できる場合を除いて)
 もちろん自動車保険金なども、負傷者とみなした額の支払いで十分です。
 ニュースでも、「運転者は死亡しましたが、シートベルトをしていなかったので、負傷者扱いになり、保険金は下りませんでした」と報道すれば、視聴者も、「こりゃたまらん」と思うでしょう。

 これは、罰則などより、はるかに大きな心のブレーキになると思うのですが、いかがでしょう?
 それでもシートベルトをしない人は、自ら生存する手段を放棄したわけですから、もはや保護するに値しません。

 また、こちらのほうが、実は重大な問題だと思うのですが・・・

 誰かの車にぶつけて、相手方が死亡した場合、加害者は「業務上過失致死」に問われます。
 しかし、相手方がシートベルトをしていなかったため、本来なら怪我で済むはずのところが、死亡にまで至った場合、怪我をさせたところまでは加害者の責任ですが、怪我を通り越して死に至ったのは、被害者本人の責任です。

 こうしたケースでは、加害者に負わせる責任は「業務上過失傷害」までで足り、「致死」まで問う必要はありません。
 当然、処罰や損害賠償等も、怪我をした場合までで必要十分、シートベルトやチャイルドシート、ヘルメットをしていなかった者は、やはり「死に損」になるわけです。

 ただし、罰則がなくなると同時に、一時的にはシートベルトをしない人が増え、死者も増加するでしょうが、それは「死に損」だという点を、自動車学校はもとより、街頭交通指導、キャンペーン等で啓発していくことは重要です。
 また保険会社も、保険金を支払いませんよ、といったことを浸透させれば、「自ら進んで」シートベルト等を着用する人が増えてくると思います。

 ただ、チャイルドシートだけは、親が子どもに着けさせるものであり、被害者は親本人ではなく、子どもになります。
 馬鹿親のせいで、将来ある子どもが死んだりすることのないよう、こればかりは、非着用には罰則を以って取り締まるべきでしょう。

 もちろん、その馬鹿親を、です。

犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律

2010-12-25 | 法学講座
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 こういう法律があるのをご存知でしょうか?

 犯罪の被害にあって、死亡したり、重度の障害を負った場合、要件に該当すれば、国が、本人や遺族に給付金を支給する制度です。
 通り魔や無差別殺人など、全くいわれなく生命を奪われる事件の多発をみて、被害者や遺族のことを考えて作られました。
 死亡の場合、遺族には最高で約3千万円、重度障害の場合には最高約4千万円が給付されます。

 しかし、はっきり申し上げますが、この給付金額、少なすぎます

 最近の風潮では、電車の中などで迷惑行為をしている若者に注意をすれば、逆ギレされ、殺されてしまうかもしれません。
 このような場合、被害者に落ち度は全くありませんから、おそらく給付金は、ほぼ満額下りるでしょう。

 しかし、殺されてしまった人の遺族は、この給付金額で足りるでしょうか。
 それが働き盛りの、一家の大黒柱であった場合、到底足りないはずです。
 さらに、小さい子供がいる若いパパだった場合、もっと考えれば、結婚して間もなく、しかも奥さんのお腹に愛の結晶が宿っていたような場合、残された家族はどうするのでしょう?

 3千万円や4千万円など、お涙金に過ぎません

 卑怯者と言われようとも、私は、他人のことなんかより、自分が死んだ後の、残された妻や子どもの不憫さを考えると、そのような場合は見て見ぬふりをすると思います。
 3千万円ぽっちで、命まで投げ出すつもりは、さらさらありません。

 しかし、こう言っては矛盾かもしれませんが、私は正義感が強いほうで、そのような光景を目にしたら、正義を実現したい欲求に、強く駆られます。

 もし、犯罪被害者への給付が、残された女房子どもの生活を、十分補償してくれるものであったなら、さらに、夫や父親がいない有形無形のハンデを、補って余りあるものであったなら、電車の中の迷惑行為ぐらいではどうかわかりませんが、もっと重大な局面では、義を為すかもしれません。
(実際には、非力な臆病者ですから、足がすくんで何もできないと思いますが)

 世の中は正義を求めています。
 しかし、正義を実現しようとした人が不遇な目に遭い、さらに遺された家族に過酷な運命が待ち受けているようでは、正義は到底実現されません。
 残念ながら現実的には、正義を実現するには、それなりの後ろ楯がなければ、不可能なのです。

 だいぶ前になりますが、韓国人の留学生が、電車のホームから転落した人を救出しようとして、自分が轢かれて死亡するという事故がありました。
 これも、犯罪被害ではありませんが、正義を為そうとした、その根は同じです。

 国は、犯罪被害はもちろんのこと、正義を実現しようとして倒れた人、そうした人すべてに、十分な給付をするべきでしょう。

 それには財源が必要?
 いいですとも。その財源にするためなら、どうぞ税金を上げてください。
 100億円の財源が必要なら、国民みなが80円足らずを納めれば十分な話です。

 ただし、それを変な公益法人へ回したり、誰かが「中抜き」してしまったり、別目的に流用することだけは、絶対にお断りです。

刑法第185条(賭博)、第186条(常習賭博、場所の提供)、金の亡者は餓鬼道に堕ちるがよい

2010-12-05 | 法学講座
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刑法第185条
 賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。

第186条
 常習として賭博をした者は、3年以下の懲役に処する。
第2項
 賭博場を開張し、又は博徒を結合して利益を図った者は、3月以上5年以下の懲役に処する。


 もし、国民みなが賭博でお金を稼ぐようになってしまったら、誰も、物を作ったり、運んだり、売ったりという実業をしなくなってしまい、それでは国が滅んでしまいます。
 ですから、法律は、そもそも賭博を禁じているのです。

 ただし、ある程度の賭け事であれば、「分別ある大人の遊び」として、気晴らしになり、明日への活力にもなりますから、娯楽としての公営ギャンブルが存在するのです。

 また賭博を禁じている刑法第185条でも、金銭ではなく娯楽品を賭けるぐらいなら、賭博罪に問わない、としています。
 パチンコ屋で、玉を直接換金せず、一旦コインなどに換えて、それを交換所に売って現金にする、という2段階方式を採っているのは、このためです。
 友人との賭け麻雀も、金銭のやり取りではなく、負けた奴が飲み代を奢るというぐらいなら、賭博罪にはなりませんから、そうしてはいかがですか?

 さて、ギャンブルにはまりだすと、つい「遊び」の範囲を超えるのが、人間というものらしいですが・・・

 前記のように、「みんながそんなことで稼ぎだしたら、国が滅んでしまう」という行為を禁ずるのなら、日々、株式を売買して利ザヤを稼ぐことに汲々としている投資家、いや投機家を、なぜ禁じないのでしょう。

 私は、物を作ったり運んだり売ったり、芸術で人の心を和ませたり、おいしい料理を作ったり、そうやって経済の発展に寄与し、福祉を充実させ、世の中に幸福を増やすことこそが、正当に報酬を受け取るべき「仕事」であると思っています。

 もちろん、新規に事業を始めるとか、事業を拡大するという場合の、まっとうな資金調達や投資は、経済の発展に必要不可欠です。

 しかし昨今は、経済の発展などそっちのけで、とにかく稼ごうともくろむ金の亡者が、あまりにも多く、しかも驚いたことに、「個人投資家」と称する者の中には、私の定義で言う「仕事」などせず、分単位で株を売買して日銭を稼ぎ(偉そうにも横文字で『デイトレーダー』などと称しているようですが)、生活している輩もいる始末です。

 それが経済の発展に寄与し、世の中に幸福を生み出しているのなら、それはそれで立派なことで、何の文句もつけようがありません。

 しかし彼らは、世の中に役立つものを何も創り出しておらず、それどころか、他人の資産を掠め取る事ばかりに汲々としており、この行為は、幸福を作り出すどころか、場合によっては、世の中に不幸さえ生み出しているのです

 つまり、世の中にある、有形無形の富というパイを、少しも増やすことなく、逆に、他人のパイを横取りし、パイを無為に減らしているわけで、このような人間ばかりが幅を利かせている世の中が、決して良い世の中であろうはずがありません。

 前述のような投機家のやっていることは、私の感覚では、それは仕事ではなくて賭博に他なりません。

 リーマン・ショックに端を発する世界不況なんてものは、どこかの大馬鹿者がギャンブルでこさえた借金のツケを、世界中の人間が立替え、払ってやっているようなものだと思いませんか?

 駄文の最初に戻りますが、国民みながそんなことでお金を稼ぐようになってしまったら、誰も、物を作ったり、運んだり、売ったりという実業をしなくなってしまい、それでは早晩、国は滅んでしまいます。
 だったら法律は、賭博同様、何も生み出さない投機を、そもそも禁じるべきではないでしょうか。

 もしくは、そうしたデイトレーダーがデイトレードできるような場の提供(私の感覚では賭博場の開帳)や、手数料という名目でデイトレーダーの上前を撥ねて利益を図る(私の感覚ではテラ銭や、博徒の結合)ようなことは、前述の刑法第186条を以って、禁止するべきでしょう。

 「自分の努力で金を儲けて何が悪い」との反論もおありでしょう。
 たしかに個人が幸福を追求する権利は、日本国憲法第13条で保障されています。

日本国憲法第13条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


 しかしそれは、「公共の福祉に反しない限り」とも書かれています。
 すなわち、利益を得た本人以外のすべての国民から幸福を掠め取ってまで、換言すれば、多くの他人を不幸に陥れてまで、自身の幸福を追求する権利は、誰にもありません

 彼らは、自分らが社会の寄生虫であることを、認識しなければなりません。

 さもないと地獄では、寄生虫より恐ろしい、餓鬼道が待ってますよ。

「子どもの誕生日に有休とっちゃう。これって、アリ?」という質問自体、あり得べからざること

2010-11-29 | 法学講座
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 最初にこのCMを見たとき、呆れて物も言えませんでした。


 駄文「労働基準法第24条(賃金)、第39条(有給休暇)、権利を放棄するんじゃない!!」で、有給休暇の完全消化については、一度取り上げましたが、取得の時季については、

労働基準法第39条第5項
 使用者は、前各項の規定による有給休暇を労働者の請求する時季に与えなければならない。ただし、請求された時季に有給休暇を与えることが事業の正常な運営を妨げる場合においては、他の時季にこれを与えることができる。


という規定があります。
 判例でも、理由を会社に告げる必要などなく、まして、理由によっては有給休暇を与えないなどということは許されない、となっています。

 つまり、有給休暇の取得に理由など必要ありません。(→法、納得!どっとこむ)

 だから、標記の質問自体、「あってはならない」質問なのです。

 同項の「ただし・・・」の部分においても、その日にその人がいないと、重大な損失が出てしまうような場合のみに限られ、単に「困るから」ぐらいの理由では、会社は、有給休暇の請求を拒否できません。

 それに、そもそも「その日にその人がいないと、重大な損失が出てしまう」ほどの重責を担っているような社員は、長年勤務して、大層な肩書きが付いているはずです。
 したがって、そうでない社員、つまり、「子どもの誕生日に有休とっちゃう」ような若い方なら、たいていの場合は、「その日にその人がいないと、重大な損失が出てしまう」ほどの地位にはいないでしょう。

 ですから、子どもの誕生日に有給休暇をとって、大いにお祝いしたいお父さんお母さんは、誰憚ることなく、堂々と休んでいいのです。

 ただ、CMでは、法的なことだけではなく、心情的なことも問うているのだ、ということは分かります。
 しかし、心情的に、私的な理由で有給休暇が取りづらいとしたら、一体、いつ、どんな理由で有給休暇を取ったらいいのでしょうか?

 職場の同僚も、
「お子さんが5歳の誕生日?それはおめでとう。5歳の誕生日は一生に一度しかないからね。十分、楽しい思い出を作ってあげてね」
ぐらいのことを言う鷹揚さがなければ、人間と人間が働く職場に潤滑油はなく、潤滑油がなければ、そこに生じるのは軋轢だけです。

 それにしても、こういう質問をするという発想そのものが、一体全体、どこから出てきたのでしょうか?

 きっと、会社で働いているのは、泣きもすれば笑いもする生身の人間なんだということなど、きれいさっぱり忘れ去り、労働基準法はおろか、労働者の権利とか福祉とか、そういったものを蔑ろにし、社員や派遣や季節労働者の首を切り、下請けを散々泣かせている会社なんでしょうね。

 少なくとも私は、このようなCMを平気で流すこの会社に対して、即座に、そういう印象を持ちました。

 この会社では、「子どもの誕生日に有休とっちゃう」のは、「アリ」なのでしょうか、それとも「ナシ」なのでしょうか?
 こういう質問の発想をすること自体からして、推して知るべしかもしれません。

労働基準法第24条(賃金)、第39条(有給休暇)、権利を放棄するんじゃない!!

2010-11-21 | 法学講座
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goo ニュースで、こんな記事がありましたので、再掲します。
会社はなぜ「有給休暇」を買い上げてくれないの?(R25) - goo ニュース


労働基準法
第24条
 賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。(後略)

第39条
第1項
 使用者は、(中略)労働者に対して、継続し、又は分割した10労働日の有給休暇を与えなければならない。
第2項
 使用者は、(中略)継続勤務年数の区分に応じ同表の下欄に掲げる労働日を加算した有給休暇を与えなければならない。(後略)


 法律で、「~なければならない」と書いてある場合の意味は、駄文「民法第752条 同居、協力及び扶助の義務」でも説明したとおり、必ずそうする義務があり、もし、そうしなかったならば、それは法律違反だぞ、という強制力を持つ規定です。

 これを踏まえて、労働基準法第24条、第39条第1項・第2項をみると、いずれも「~なければならない」と書かれており、賃金を払わなかったり、勤続年数に応じた有給休暇を与えなかったら、それは法律違反だぞ、という厳しいものとなっていますから、これに反することは許されません。

 さて、ネットのニュースでこんなのがありました。まずはご一読を。
有休の取得率47% 祝日多く取りにくい? 09年調査

 働いた労働者には、当然、賃金が支払われます。そして、働いた労働者には、当然、有給休暇が与えられます。
 すなわち、有給休暇は賃金と同じく、労働者が当然に受け取るべきものなのです。
 ところが、その有給休暇の取得率が47%ということは、半分以上の有給休暇が、労働者に与えられていないことになります。

 まさかあなたは、「私は、決められた賃金の半分を頂ければ、それで結構です」とは言わないでしょう?
 それなのに、なぜ、有給休暇は半分以下しか与えられないのでしょう?

 これには日本人独特の、働くことを美徳とし、休むことを悪徳・・・とまでは言わないにしろ、良しとしない感情が、大きく作用しています。

 「休んだら、仕事に差し支えたり、他の仲間に迷惑がかかる」という意見はごもっともです。
 しかし社長ならともかく、その社員が休んだぐらいで、仕事に差支えが出たり他の社員に迷惑がかかってしまうとすれば、会社の業務体制が問題であって、そうならないような人員配置や業務配分を考えるために、小さな会社では社長自ら、大きな会社では社長の命を受けた労務担当や管理職がいるのですから、社長以外が、そんな余計な心配をする必要はありません。

 さて記事では、「厚生労働省は・・・有給休暇の・・・取得率の数値目標を設けることを努力義務にした」と続いています。
 上にも書いたとおり、有給休暇は賃金と同等のものです。
 であれば、先の記事を「厚生労働省は・・・賃金の・・・支払い率の数値目標を設けることを努力義務にした」と書き換えたらどうでしょう?

 どんなに温厚な方でも、「ふざけるな。賃金は100%きっちり支払われるのが当然だ。最初から何割引かにするような『数値目標』などという発想自体、おかしいじゃないか」とおっしゃるでしょうね。

 有給休暇も同じです。
 100%きっちり与えられるのが当然で、『数値目標』とは笑止千万です。

 おまけに、「『数値目標を設ける』ことを『努力義務』にした」に過ぎず、数値目標がどんなに低くても、設けさえすれば、努力義務を果たしたことになります。
 また、設けられた低い数値目標さえも達成されなかったとしても、誰からも何のお咎めもありません。
 さらに、努力義務ということは、結果的にできなくても、もっと言えば、そもそもそんな努力などしなくても、これまた何のお咎めもありません。

 早い話が、これ自体、「ザル」を通り越して「有名無実」というわけです。

 さて、もうお気づきの方もいるかと思いますが、ここまで私は、有給休暇が「与えられていない」と書いてきており、「取得されていない」とか「行使されていない」とは書いていません。

 法的な理論(通常の感覚では、屁理屈と呼ばれます)から言えば、
「会社は有給休暇を与えているが、労働者がそれを取得していないに過ぎない」つまり、会社は義務を果たしているのに、労働者のほうが権利を放棄しているのだ、という理屈で、形としては、有給休暇は与えられていることになっています。

 しかし、支払われたはずの賃金が、最終的に労働者の手に渡らなければ、支払われたことにはならないでしょう?
 同じように、与えられたはずの有給休暇が、結局行使されていなければ、それは与えられていないのと同じではありませんか?

 だから私は「与えられていない」と書いてきたのであり、それは、会社が、労働者が権利を放棄しているのに知らん顔をし、権利を正しく行使するような配慮を怠っている、つまり有給休暇の行使率が低いのは、偏に会社の責任である、という意味を込めています。

 たとえば皆さんの中で、上司などから、「君の、今年度の有給休暇は、あと5日残っている。流れる前にきちんと取りたまえ」と言われた経験のある方はいらっしゃいますか?
 まあ、いないでしょうね。私も、言われたことなどありません。
 まさにその点が、私の言う「有給休暇が与えられていない」ということです。

 厚生労働省は、冒頭に掲げた労働基準法第39条が名実ともに実現されるよう、「数値目標」だの「努力目標」だのではなく、「有給休暇の完全取得を義務化する」と言い切ってしまい、さらには、違反には罰則を課するなど、厳格に対処しなければ、

労働基準法 第1条
 労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。


という目的は、到底達成されません。

 さて蛇足ですが、なぜ日本人は、有給休暇の取得をためらう、言い換えれば、休むことに罪悪感を持つのでしょうか?

 有給休暇なんかとらず、休まずにせっせと働く労働者のほうが、経営者にとっては都合のいい人材に決まっています。
 そして労働者は、そうなるように教えられてきています。否、労働者が労働者になる前の段階、つまり学校に行っている間から、そうなるように教えられ続けています。
 では、学校でそう教えるように決めているのは誰でしょうか?
 さらに、そう決める権限のある者に、そう決めるよう仕向けたのは誰でしょうか?
 もちろん、そうなることで最も利益を享受する者に決まっています。

 それが誰かは言うまでもありませんね。

刑法第235条(窃盗)246条(詐欺)252条(横領)・・・そんな軽い罪か?

2010-11-15 | 法学講座
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刑法
第235条(窃盗)
 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

第246条(詐欺)
 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。(後略)

第252条(横領)
 自己の占有する他人の物を横領した者は、5年以下の懲役に処する。(後略)


 窃盗、詐欺、横領のように、金銭や財物の利益を目的とした犯罪を「財産犯」といいます。

 そして、財産犯の刑の重さは、おおむね被害額の大きさに比例します。
 つまり、チンケなスリやコソ泥より、巨額詐欺犯や横領犯のほうが、重い刑を課せられる、というわけです。

 しかし、犯人が被害者に与えた損害はそれだけでしょうか?
 また、直接の被害者でなくても、間接的に損害を被る人はどうでしょう?

 豪邸から盗んだ10万円と、ごく普通の家から盗んだ10万円とでは、同じ10万円でも、被害者に与える衝撃は大きく違います。

 豪邸に住む者にとっては小遣い程度だとしても、庶民にとっては生活そのものであり、家賃が払えずにアパートを追い出され、サラ金で借金をしたり・・・
 それどころか、飯も食えなくなり、レ・ミゼラブルのジャン・ヴァルジャンではありませんが、止むに止まれず万引きや食い逃げなどの犯罪に手を染めたり、女性なら、いかがわしい世界へ身を落とさざるを得ないかもしれません。

 小さな会社の事務所から金を盗んだ場合はどうでしょう。
 それは会社の大切な運転資金だったかもしれません。
 その金がなかったばかりに、不渡りを出し、会社は倒産し、従業員は解雇され、その家族は路頭に迷うこととなります。
 つまり窃盗犯は、盗んだ金額分の損害はおろか、何十人もの人生をめちゃめちゃにしてしまうのです。

 このようなことが、最高でも10年の刑期で償えるほど軽い罪でしょうか。

 「そんな事情とは知らなかった。こんな結果になるとは思わなかった」と犯人は言うでしょう。
 確かに、現在の法では、知らなかった事情やその結果にまで責任を問うことはできないとされています。

 しかし私は、その前提が間違っていると思います。

 上記は極端な例かもしれませんが、庶民が生活費を盗まれればどのような事態になるか、自転車操業の零細企業から大金を盗めばどうなるか、それが分からなかったなどという言い訳は聞き入れられません。
 なぜなら窃盗犯などは、金に困っているからこそ盗みをはたらくわけで、金に困った者の境遇を知らないはずがなく、金を盗まれた被害者が、今度は窃盗犯と同じ境遇に陥ることぐらい、分かって当然です。

 しかし、直接・間接の被害者の中には、一生を棒に振ってしまった人だっているかも知れないのです。
 それが最高でもたった10年で、罪を償ったことになるのは、どう考えても不条理です。
「知らなかった事情・結果にまで責任は問えない」という前提ではなく、
「通常人が考え得る全ての結果について責任を問う」という前提にするべきです。

 現在の刑法や裁判は、被害者の視点があまり考慮されていません。
 だから財産犯も、被害金額の大きさばかりに目を取られてしまいますが、本当は、被害者がいかに大変な損害を被ったか、という視点から量刑を判断するほうが、被害者も納得し、加害者も、自ら犯した罪の大きさを自覚することになります。

 残念ながら、このような犯罪は、裁判員裁判の対象にはなっていませんので、被害者の声を、市民感覚で判断する機会はありません。

 また、刑事(罪)と民事(損害賠償)を一緒にしないのが現在の法で、窃盗犯などが刑に服することと、盗んだ金を賠償するのとは全く別個です。
 被害者から見れば、盗った物を返してもらえないのなら、まして、失ったものを返してもらえないのなら、いくら犯人が刑に服しても、気の済むはずがありません。

 これには、罰金刑を受けた者に、罰金の支払能力がない場合の、

刑法第18条
 罰金を完納することができない者は、1日以上2年以下の期間、労役場に留置する。


と同様に、与えた損害すべてを回復するまで加害者を刑に服させ、その労働対価を損害賠償に充当してはじめて、罪と罰の平衡が保たれるのではないでしょうか。

食育基本法・事例編、お金があるのに不幸せ

2010-11-07 | 法学講座
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 お金があるのとないのでは、どちらが不幸せだと思いますか。

 もちろん、ない方が不幸せです。
 お金があって不幸になった例はごく稀ですが、お金がなくて不幸になった例は、古今東西、枚挙に暇がありません。

 ただし、お金があっても、自ら幸せになる機会を放棄している場合があります。

 私が子どもの頃、外食などというのは、お祝いごとでもあったときだけで、普段は、家で倹しい食事をしていました。
 特に牛肉などは高価で、スキヤキといえば大ごちそう、ビーフステーキなどは、だいぶ歳が進んでから初めて口にしたもので、美味かったと言うよりも、こんな豪華なものを食べたという満足感で、腹が一杯になりました。
 また家族揃って外出するときは、母が弁当をこさえて、水筒にお茶を詰めて出かけたものです。

 現在では、スキヤキでもステーキでも好きな時に食べられ、外出すれば、どこにでもレストランはあるし、喉が渇けば、自動販売機でジュースでもお茶でも売っています。
 社会は豊かだし、我が家の家計にも、人並みにそれをするぐらいの余裕はあります。

 しかし、それは幸せなことでしょうか。

 レストランの食事は、確かにおいしいですが、少なくとも母親の愛情はこもっていないし、注文して、料理がきて、お金を払うだけでは、食を通じて子どもに教えてあげられることは何もありません。

 食事とは、ただ単においしいものを食べることではありません。
 昔から、どんな名料理人でも、奥さんの手料理には敵わないと言います。

 まして、母親が愛情こめて子どもに作ってあげるお弁当は、子どもの体だけでなく、心をも養うことになります。
 また、朝早くから、せっせと弁当の準備をしている母親の姿を見せることは、両親への感謝の気持ちや、食べ物の大切さを教えることにもなります。

 そして、弁当を食べながら、「ほら、○○ちゃんの好きなタコさんのウインナーだよ」とか「××ちゃんは三角形のおにぎりに、海苔を巻いたのが好きだから、お母さん、頑張って作ったよ」といった会話は、手作りの弁当でなければ絶対に味わえない、食事そのものの味を超えた「醍醐味」です。

 おいしいものを食べられるのは、幸せなことです。
 弁当やお茶など重たいものを持って行かずに、手軽に食事ができるのは幸せなことです。
 でも、母親が作った弁当を、家族みなで囲む幸せに優っているでしょうか。

 レストランで食事をする程度のお金があるばかりに、「作るの面倒くさいし、重たいし、外で買えばいいや」と、そうした幸せを逃がしていませんか。
 外食するようなお金がなければ、必然的にお弁当となりますが、かえって、そうした幸せを逃すこともありません。
 悪いのは、中途半端にお金がある場合かもしれませんね。

 我が家の外出?
 カミさんが弁当を作っている横で、私は、水筒や荷物の準備に余念がありません。

憲法第32条(裁判を受ける権利)、権利の保障、権利の行使さえ不可能な場合

2010-11-05 | 法学講座
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日本国憲法第32条
 何人も(=なんぴとも=誰であっても)、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。


 法律の解釈として、「反対解釈」という方法があります。

 ちょっと理屈っぽくなりますが、「AはBである」という命題があるとき、その裏を読んで、「AでなければBではない」と解釈する方法です。
 たとえば、「通行止めのところは、通ってはいけない」というとき、「通行止めでないところなら、通ってもよい」と解釈できるわけです。

 それに関するつまらないジョークを・・・
 許されていること以外は禁止されていると考えるのが、ドイツ人。
 禁止されていること以外は許されていると考えるのが、フランス人。
 禁止されていることでも許されていると考えるのが、イタリア人。
 許されていることでも禁止されていると考えるのが、旧ソビエト人。

 憲法第32条の条文は上記のとおりですが、私は天邪鬼ですから、これに反対解釈したものを付け加えてみます。
「・・・しかしその権利を確実に実現させるところまでは保障しない。また本人が権利を放棄してもかまわない」

 さて、刑事事件では、裁判で有罪とされない限り、刑を与えてはならない、「疑わしきは被告人の利益に」というのが大原則ですが・・・

 民事事件では、特に経済的な事例では、必ずしも裁判が行われない例がたくさんあります。

 裁判を行うには、訴訟手続そのものの費用に加え、弁護士への報酬、交通費、通信費、裁判のために仕事を休めば収入の減少など、多額の費用がかかります。せっかく裁判をしても、勝ち取った金額が、かかった費用より少なければ、結局損をします。

 まして、万一負ければ、何をかいわんや、です。

 したがって、わずか数万円の損害を裁判で取り戻そうとしても、かかる費用を考えれば、最初から諦めたほうが得策、といった、何とも納得のいかない結論に至ります。

 しかし、わずか数万円と書きましたが、数万円なんて庶民にとっては大金で(私の、何か月分のお小遣いだろう・・・どうでもいいですが)、諦めろと言うほうが無理です。

 しかも、詐欺や盗難で失ったお金を諦めるということは、むざむざ犯人に金をくれてやるようなもので、もっと言えば、そうした犯罪を「割があう」ものにしてしまい、犯罪を助長することになってしまいます。
 実際、振込め詐欺や、寸借詐欺、スリや空き巣などは、まんまと利益を得ています。

 おまけに、犯人が捕まり、刑事裁判で有罪になったからといっても、自動的に被害にあった金品が戻ってくるわけではありません。
 被害者が民事裁判を起こして、取り戻さなくてはならず、しかも、被害にあった金品が、元々自分に所有権のあるものだということを、被害者自身が立証しなければならないのです。(犯人にも、犯人自身の財物がありますから)

 さらに、被害分を損害賠償請求しようと思っても、金がないから盗みをはたらくような奴に、そもそも賠償能力などあるわけがありません。

 実は過去に、アパートを退去する時、敷金の清算を求めたら、修繕費やリフォーム代などの名目で、入居時に差入れていた敷金ではまだ足りないから、追加で十数万円を支払え、という請求をされたことがあります。
 話し合いもまとまらず、私は管理会社を相手取り、裁判所に、少額訴訟を起こしました。

 結局、勝訴し、いくらかは取り戻せましたが、手間や時間はとられるわ、出費もかさむわ、会社は何度も休むわ、結局、手元にはほとんど残らず、自分のお金を返してもらおうとしただけなのに、なぜ、こんな目に遭わなければならないのか、正直、情けなくなってしまいました。

 でも、何も知らない人だったら、言われるままのお金を払っていたでしょう。

 管理会社もプロですから、法外な請求が罷り通るはずがないことぐらい、知らないわけはありません。
 知ってるくせに、入居者が反論して正規の清算になっても、それでもともと、うまくいけば、本来できないはずの請求分まで支払ってくれて丸儲けですから、皆が、黙って払ったり、裁判までは、と尻込みするのを見越して、卑怯にも、権利がないはずの請求をしているに違いありません。
 実際、敷金返還時のトラブルは、社会問題化しています。

 つまり、憲法でいくら裁判を受ける権利を謳っていても、本当に誰でもが、「この話はおかしいから、どっちが正しいのか、客観的に判断してほしい」と思った場合、何の負担もなく裁判が受けられるような体制が整備されない限り、憲法第32条は空文に等しく、悪知恵がはたらく奴らを、のさばらせるばかりです。

 下手をすれば、「泥棒に追い銭」を地で行く結果にもなりかねず、これでは犯罪や、犯罪とまでは言えなくとも卑怯な商売を、「割の合う」行為にしてしまい、法の目的である「正義と公平」(駄文『法の女神テミスをご参照ください』は、到底達成されません。

 悪いことでも卑怯なことでも、「やった者勝ち」の世の中が、いい世の中だと思いますか?
 何か、裁判でなくてもいいから、「やった者勝ち」を許さない施策はないものでしょうか。

食育基本法、生きる基本、現代人の性根

2010-11-02 | 法学講座
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食育基本法 前文(抜粋)
 国民一人一人が「食」について改めて意識を高め・・・「食」に関して信頼できる情報に基づく適切な判断を行う能力を身に付けることによって、心身の健康を増進する健全な食生活を実践するため・・・

第一条(抜粋)
 ・・・国民の食生活をめぐる環境の変化に伴い、国民が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性をはぐくむための食育を推進すること・・・もって現在及び将来にわたる健康で文化的な国民の生活と豊かで活力ある社会の実現に寄与することを目的とする。

第五条
 食育は、・・・家庭が食育において重要な役割を有していることを認識するとともに、・・・教育、保育等における食育の重要性を十分自覚し、積極的に子どもの食育の推進に関する活動に取り組むこととなるよう、行われなければならない。


 「メシに時間をかけてどうする。さっさと食ってしまえ」と言う人がいます。

 それに対して私は、「忙しい毎日で、メシぐらいゆっくり食えないでどうする」と思うとともに、食とは生きることそのものだと考えていますから、誰に何と言われようと、私は、よく噛んで、ゆっくり味わって食べることに決めています。

 きっと、食事をさっさと片付けてしまう人は、生きることもさっさと片付けてしまうに違いありません。

 さて、食育基本法には前文があり、「食」に関するわが国の現状を踏まえ、今後の方向性を謳っています。(あまりにも長いので、上には、その部分だけを抜粋しました)
 それにしても、法律にわざわざこんなに長い前文を付しているのは、他には日本国憲法ぐらいのもので、非常に珍しく、その点だけを見ても、国が食育に関して並々ならぬ力を注いでいる様子が見て取れますす。

 食育基本法は、要約すると、最近の日本人は食が乱れていて、このままでは将来、現在の子供が大人になった時、国がガタガタになってしまうおそれさえあるから、食生活を見直し、食料資源を大切にするとともに、それは家庭や教育現場において実施されるべきであり、国や自治体も協力を惜しまない、という趣旨です。

 そして、この法律に基づいて、さまざまな計画や施策が定められています。
 それらは、バランスの取れた食事をしろとか、適正量を食べろとか、いちいちもっともなことばかりなのですが・・・

 こんなこと、誰かに言われなければ分からないことでしょうか?
 まして、国が法律まで作って推進しなければならないことでしょうか?


 「法は最低限の道徳である」とは、法学講義の第1時間目に教わる概念です。
 ということは、法律などというものは少なければ少ないほど、その社会がまともな道徳を保っているという証拠で、極端な話が、詐欺や泥棒や人殺しがいなければ、刑法さえも要らない理屈です。

 したがって、法などというものがなくても、皆の道徳規範や意識が高ければ、社会は正常に成り立ちます。
 逆に、法が増えれば増えるほど、社会規範や道徳の水準が、それこそ「法」を以ってでも規制、時には強制しなければならないほど下がってきている、ということです。

 それが、「食育基本法」などというものまで制定しなければならないということは、わが国の国民は、野生動物でさえもがごく自然にやっている、「食べる」ということさえも、まともではなくなっている、言い換えれば、畜生にも劣る道徳規範しか持てなくなってしまった、という証左です。

 食べることというのは、生きる基本です。

 親が、食についてきちんと躾をし、食に対しての正しい知識や、食料に対する尊敬と畏怖の念を子どもに植え付ければ、自ずと分かることなのに、誰かに言われなければ分からないというのは、真に情けない限りです。
 いや、誰かに言われなければならないほど、現代人は、食を蔑ろにしているということでしょうか。

 食料自給率が40%そこそこでありながら、食品の30%が残飯として廃棄されるほど、馬鹿げた飽食のわが国で、食料があり余る故に、その重要さが省みられなくなり、ついに「食育基本法」を制定しなければならなくなったとは、皮肉にも程があります。
 
 小さい頃、親に、「よく噛んで食べなさい」とか、「好き嫌いをしてはいけません」とか、「お百姓さんが一生懸命作ったお米を粗末にしたら、目が潰れるよ」などと言われ、食事に関する知恵や躾を身につけさせられた覚えは、私と同年代くらいの皆さんであれば、誰にでもあると思います。

 昔は食糧事情がよくありませんでしたから、効率的な栄養摂取という意味から、よく噛んで消化吸収効率を高め、出されたものを残さず食べて、食料の無駄をなくす、ということが第一義だったかもしれません。
 食料供給の面からも、輸入食品は高価だったこともありますが、季節に応じた、日本の風土に根付いた食材が、安価で栄養に富み、調理法も、いわゆる和風のものが、日本人の消化器官には合っていたのです。

 それが今や外食産業は花盛り、インスタント食品や冷凍食品、スーパーには弁当やお惣菜が所狭しと並び、温めるだけ、揚げるだけ、買ってきて皿に盛り付けるだけ、といった「調理」が一般的になってきました。
 もう、アジフライなんか食べるのに、アジを丸ごと買ってきて、ワタを取り出し、開いて、太い骨を取り除き、衣をつけて揚げる、などということをする家庭は珍しいのでしょう。

 カミさんの友人らは、「煮物なんかしたら、『あ~、料理した~』って気分になる」そうですが、それを聞いたカミさんは、「料理の中で、煮物ほど楽なものはないじゃない」と、認識の違いに目を丸くしたそうです。
 「私が、餃子を、具からこさえて一つひとつ包んでる、って知ったら、どう反応するかねえ」とも。

 母親が冷凍食品を「揚げるだけ」と、「食材をさばいて」と、どちらの姿を子どもに見せるほうが、子どもに、食に対する尊敬の念が生まれるでしょうか。

 手を抜いたツケは、小児性の生活習慣病など、子どもの体を蝕む形で現われてきています。
 また、朝食を食べない子供も多いそうですが、授業中の集中力欠如や、キレやすい子供など、なるほど食育基本法の前文にあるとおり、「生涯にわたって健全な心身を培う」ことが危惧され始めたのでしょう。
 それで国もたぶん、情けないことだと思いつつも、「食育」ということを言い始めたのだと思います。

 しかしこれは、小手先の各論も結構ですが、もっともっと根本的・根源的なところから、言ってみれば、現代人の性根を、今一度、叩き直す必要があります。

 もう30年以上前の曲ですが、武田鉄矢さん(海援隊)の「あんたが大将」という曲の歌詞に、
「白いまんま(ご飯)に手を合わせ、父ちゃん母ちゃん、いただきますと、涙流して食べたことない、そんなあんたに何が分かる」
という一節があり、私は初めてこれを聴いた時、頭を殴られたような衝撃を受け、自分がいかに甘ったれだったか自覚し、愕然とした覚えがあります。


 この「白いまんまに手を合わせ」という気持ちをしっかり教えること。

 それが食育の第一歩ではないでしょうか。

軽犯罪法第1条第20号・ファッションか、破廉恥か、文化的相違か

2010-10-29 | 法学講座
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軽犯罪法第1条
 左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。
第20号
 公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者


 露出したのが、身体の怪しからん部分であった場合は、刑法第174条「公然わいせつ」の罪に問われますが、そこまでいかなくても、軽犯罪法では、尻や腿でさえも、露出したら罪になる、と規定されています。

 ただし、「公衆にけん悪の情を催させるような仕方」でなければ良いわけで、ファッションの一部と認識されれば、「公衆にけん悪の情」を催させたということにはなりません。
 また、海水浴場やプールでは、水着でいるのが当たり前ですから、当たり前のことに対して「けん悪の情」ということはあり得ません。

 もっともそのような光景、男性諸兄にとっては、「けん悪の情」どころか大歓迎でしょうが、法律は、あくまで紳士淑女の良識が前提ですので、その点は、お履き違えなく。

 さて、40歳代後半の私から見て、最近、若い女性の服装は乱れていると感じます。

 ローライズから下着(「見せパン」と言うのですか)がのぞいていたり、肩口からブラジャーの紐が出ていたり、短いシャツの裾が切れてウエストが見えているなどは、もうあたりまえです。
 しかし、私の感覚から言えば、他人様に下着を見せるというのは失礼なことで、さらに、女性が不必要に肌を露わにするのは、恥ずべきことと認識しています。

 と言うと、諸兄からは、「女性の肌が露わになるのなら、遠慮なく拝めばいいじゃないか。何を反対するようなこと言っているんだ」という声が聞こえてきそうですね。
 ・・・とんでもない。私は一言も反対とは言っていません。
 ええ、言うわけがありませんとも。はい。

 今の若い女性のファッションは、私やご同輩から見れば、目のやり場に困るもので、おそらく私と同世代の方々の感覚は、私と大差ないでしょう。
 あるオジサンが、見かねて、若い子に、「パンツが見えているよ」と注意したら、「それがどうかしましたか」という返事だったそうです。

 しかし私より若い世代は、そのファッションがあたりまえですから、見せるほうにも羞恥心はあまりないらしく、見ているほうも目のやり場に困ることはないようです。

 逆に私より上の世代は、私たちよりもっと保守的な感覚で、私たちが若者だった頃、
「最近の若者は髪型や服装が乱れている」
という言葉を聞かされたものです。
 特に、女性のスカート丈がどんどん短くなっていく風潮は、「嘆かわしい」と映ったようです。

 さらに遡ると、アメリカでは、映画の黎明期にエジソンが、スカートの裾が風に煽られ、女性の脚がチラリと見える映画を作ったところ、「いたずらに欲望を刺激する、このような映画を作るとは何事か。恥を知りなさい」と、抗議してきた紳士がいました。
 また、1960年代にミニスカートが流行りだした頃、新聞は、「彼女らのスカートの裾は、彼女らが持つべき慎みの位置より高くなっている」と批評しました。
 現代のアメリカからは想像もできませんが、その時代は、きっとそういう感覚だったのでしょう。

 アラブの国々では、唇が女性器を連想させるから、ということで、女性は顔さえもすっぽり隠して、目だけしか出していません。
 正反対に未開の国では、男性はもちろん、女性でさえも、胸や尻を露わにして、裸でいるのがあたりまえの部族もあります。

 今、文明国でそんなことをすれば、大騒ぎになり、性犯罪が多発し、収拾がつかなくなってしまうでしょうが、では、その部族の男性が、四六時中欲望に駆られて、まともに社会が成り立っていないかというと、そんなことはありません。

 日差しが強く暑いのは、アラブの国も、裸族の村も同じはずですが。
 我々が裸族を見るのと、アラブ人の男性が我が国の女性を見るのとは、もしかしたら同じ感覚でしょうか。

 こうした例を並べてみると、肌の露出度をどう思うか、肌を露わにする羞恥心の程度がどれくらいか、というのは、単なる文化的な違いでしかないようです。
 そうであれば、文化は時代や国・場所によって違うのが当然で、どちらが良い・悪いといった話ではありませんから、ある文化に属する人が、他の文化に属する人を批判するべきではありません。

 エジソンに抗議した紳士でさえも、裸族の文化に対して、「服を着なさい」などとは批判しないでしょう。

 世代間の文化的相違についても同様で、オジサンが若い子に「パンツが見えているよ」などと注意するのは、オジサンとしては当然であらざることを注意したつもりが、若い子にとっては当然のことを言われたに過ぎないわけですから、これは、大きなお世話だと言われても仕方ありません。

 若い女性が、自分の肉体的な魅力を表現するのは当然のことです。
 ただし男性が、それを魅力的ととるか、破廉恥ととるかは、男性側の文化的背景によります。
 男性と女性の、お互いの文化的背景が合致したところで、お互いに好感を持つわけですから、「お互い」以外の他人が批判するべきことではなさそうです。

 さてさて諸兄、結論です。
 少なくとも、いらぬ世話を焼いて、痴漢やセクハラ呼ばわりされることだけは、避けましょうね。
 図らずもそのような姿の女性を見かけて、こちらが恥ずかしさのあまり思わず顔を伏せてしまっても、視線だけは外さなければいいじゃないですか・・・私のように・・・

 オジサンはズルいのさ。

社会保障法、日本国憲法第14条(法の下の平等)

2010-10-09 | 法学講座
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日本国憲法第14条
 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


 社会保障法という名称の法律があるわけではありません。
 年金や健康保険といった、社会保障に関わる法律を総称して、社会保障法といいます。

 年金では、会社勤めの方なら厚生年金、自営業の方は国民年金、公務員の方は共済などに加入しています。
 健康保険も、会社独自の健康保険組合や、社会保険事務所が担当する政府管掌保険、市町村の国民健康保険など、みんなどれかに加入しています。

 ところが、年金にしろ健康保険にしろ、職業によって加入できる社会保険が違い、払うべき保険料(個人負担分)はもとより、受け取れる給付にも大きな差があります。
 大ざっぱに言うと、公務員または公務員に準ずる団体の職員が最も手厚く、大企業がそれに続き、中小企業、自営業の順に、負担が大きくなる構造です。

 たとえば病院にかかったとして、同じ病気なら同じ治療が施されるのに、治療費の自己負担分だけでなく、支払う保険料、高額医療費の還付なども考えると、国民健康保険では負担が大きく、公務員共済や大企業の健康保険組合では安い負担で済みます。さらに、職場が自前で診療所を設置している場合は、もっと安い負担で済みます。

 しかし、憲法第14条では、法の下の平等を謳っており、人種や性別はもちろん、社会的身分や財産によって、何らの差別もされない、とされています。

 それなのにこれは、職業による差別ではないでしょうか。
 しかも、生命や健康に関わる重大な差別です。

 これらの制度は、目的は同じなのに、それぞれがバラバラで、制度の内容も違うため、一本化しようという動きがなされています。
 ところが、今すぐに一本化して、みなが同じ制度のもとに加入することになると、損をする人、得をする人がでてきてしまい、当然のように、反対の動きもあります。

 しかし、最初からひとつの制度にしておけば、それぞれに法律を作り、制度をつくり、またそれを一本化しようといった、馬鹿馬鹿しいほど無駄なエネルギーは必要なかったはずです。
 たぶん、恩給制度(現在は廃止)など、公務員(特に旧軍人)の「特権」が、制度を分けた根底にあるのではないでしょうか。

 なるほど、制度を分けている理由や歴史的背景は、いろいろとあります。
 しかし、国民にとってみれば、同じ日本国内で働き、税金や年金・健康保険料を納めているのに、差があるのはおかしい、と思うのは当然です。

 日本国民は、誰もが等しく日本国を構成し、寄与しています。
 それなのに、このような差があっていいものでしょうか?

 私は現在、どちらかと言うと「安い負担」で済むほうに属しています。
 したがって、社会保険が一本化されれば、私は「損をする」ことになってしまいます。しかしそれでも、一本化して、差別はなくすべきだと思います。
 経済的な負担が増えるのはもちろん痛いですが、今まで平均以上の恩恵を受けていたのが、公平な、本来あるべき姿になるだけのことですから、少なくとも「悪くなる」とは思いません。
 また、いずれ年金生活になったとき、収入が減って、負担が増えるのではたまりません。

 誰しもが、同じ負担(収入に応じて)をし、同じ給付を受ける。
 ただそれだけのことをするのに、何も難しいことはありません。

 余談ですが、高齢化社会の到来のため、社会保険料を上げねばならないという議論はごもっともですが、実は、最初からこうした事態を見込んで、もともと保険料は高く設定されており、その余剰分がかなり溜まっていて、保険料は、上げるどころか下げることも可能なんだそうですよ。
 どう思います?

憲法第11条(基本的人権)、民法第1条(私権)

2010-10-01 | 法学講座
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日本国憲法第11条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

民法第1条
 私権は、公共の福祉に適合しなければならない。


(注)憲法には「人権」、民法には「私権」とありますが、駄文では、同義にお考え頂いて結構です。

 人間には人権があります。この当然過ぎるほど当然のことが、当然のこととして認識されたのは、真に情けないと思いますが、やっと近代になってからです。
 ・・・いや、周りを見渡してみると、まだ皆が皆、認識していないかも知れないと、思わせられることばかりです。

 人間なら、生まれてから死ぬまで人権があります。しかし、いくら可愛がっていても、ペットには人権はありません。ペットをスーパーや飲食店内に連れて入って、平気な顔をしている大馬鹿者もいますが、こんな輩は黙殺します。

 さて、人間に人権があり、人間以外のものには人権がない・・・後者は当然として・・・

 江戸時代、一度有罪になるたびに、額に「犬」の文字を1画ずつ刺青されていく、という刑罰がありました。つまり4画目で「犬」の文字が完成し、「これ以降は人間扱いしない」という烙印になります(5度目は死罪になったという説もあり)。もちろん重大犯罪は一度で死罪や流刑になりますから、微罪であっても、4度も累犯するような者には社会復帰を認めない、という社会の意思です。

 ただし、人間扱いしないといっても、生存に関わるような人権の侵害は認められず、社会生活上の人権を制限されている、すなわち、牢屋に閉じ込めたり、遠島に流したりといった直接的な方法とは別に、社会の中に居ながら社会とは隔絶され、当然、仕事も、半ば強制労働に近いものしか与えられませんでした。

 現代でも、1度や2度の過ちなら、再教育を施し、心を入れ替えれば、社会復帰を認めてもいいでしょうが、仏の顔も3度まで、まして仏の国ではないこの社会において、累犯は、凶悪犯罪と同等の取り扱いでいいと思います。
 さらに、そもそも物を盗んだり、人を傷つけたりすることに罪悪感を持っていないなど、遵法精神はおろか、道徳心の全くない奴、社会に害毒を流すばかりの輩は、掃いて捨てるほどいます。

 このような奴等からは、生命に関わることは別として、社会に参画して利益を享受する人権は、制限ないし剥奪してもおかしくないと思います。人たるに足らぬ畜生には、畜生にふさわしい待遇を与えるべきです。

 と、ここまで言うと、「士農工商云々」を復活させるのか、と危惧する向きもおありでしょう。しかし昔の身分制度は、生まれや職業で差別していた点が、まさに冒頭述べたとおり、当然の人権を無視していました。
 私が言うのは、人間たることを自ら放棄した者に、人間たる権利を認めなくてよい、という因果応報論です。因果応報ですから、適用に何もためらう必要はありません。

 総論はこれでいいとしても、各論に踏み込むときりがありませんので、今回はこのへんで。