続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

巻4の4 絵の婦人に契る 附 江戸菱川が事

2018-05-20 | 御伽百物語:青木鷺水
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 世に名画と言われる絵画が神に通じて妙を顕すことは、古今、和漢の記録に数多くある。これらの、妙を得たと言われる人が描いたものは、花鳥人物ことごとく動いて絵から離れ、さまざまな態をなすことは、本物と同じで変わるところがない、ということは、古くから言い伝えられている。
 今の世でも、風流の絵を描く著名な画家は、波濤の果て、鯨が寄り来る蝦夷の千島までも、自分が描きたい風景を求めて出かけて行く。しかしそのために、千金を費やし、万里の道も遠しとせず、ただ自分の芸術を極めることだけに心を奪われて、終いには家を損なうなど、身を持ち崩してしまう者さえいる。
 その始まりを尋ねれば、武州江戸村松町二丁目に住んで、菱河吉兵衛(菱川師宣)と名乗る人こそ、最も優れた絵画の名手であった。菱河は、絵画の道を選んでから、草木や鳥獣では心を動かすに足りぬと言って、多くは人物の情を心に込め、有名な芝居を観ては、若女方や若衆方などの身ぶりを筆に写すようになった。
 その絵は、人物のありのままを見事に彩り、多くの人が菱川の画風を称賛し、世間でも有名になったので、今でも菱川の絵姿という名跡が多く残っている。
(注:原文では菱川についての説明が長く、いちいち記していたのではくどくなるのと、少々、慎みのない表現も含まれているので、割愛する。ただ、菱川師宣は「見返り美人」などで有名であるが、春画も数多く手掛けている、とだけ付け加えておこう)
 洛陽室町のほとりに等敬という書生が住んでいた。等敬は、学問所に通う道で古い衝立を見かけ、買い求めて帰り、何気もなくこの衝立を見ると、片面に美しい女の姿絵があった。年の頃は十四五ばかりに見えて、目元や口元、髪の形や立ち姿など、言葉も及ばぬ程しおらしく、彩色鮮やかに描きなされ、芙蓉のまなじりは恋を含み、丹花の唇は笑みを顕しており、等敬はつくづくと見とれ、心を迷わせて、しばらく眺めていた。
 等敬は、「このような女が世にいるのならば、露の間ほどの情けでいいから女に逢って、そのために、もし、この身が徒(いたずら)になったとしても惜しくはない」とまで恋するようになり、寝ても覚めても女の面影が頭から離れず、とうとう病気にまでなる程であった。
 そんな様子を聞いた等敬の親しい知人が、等敬を憐れに思って、
「君は、この絵姿の由来を知っているか。これは菱川が心を尽くし、気を詰めて、直にこの人に向かって姿を写したものだ。だからこの絵には、その女の魂を移したとも言える。この人のことを想い、一心に念じ呼ぶならば、必ず何らかの応答があるはずだ。その時には、百軒分の酒を買ってこの絵に供えれば、この人は必ず、絵の姿を離れて本物の人間となるであろう」
と、懇ろに教えて帰った。
 これを聞いて等敬は、世にも嬉しく思い、毎日念じ、心を尽くして呼んでいたところ、果たして応えの兆しが見えた。そこで、急いで百軒分の酒を買って絵の前に供えたら、不思議にもこの姿が地を離れ、淑やかに歩み出てきた。その姿は、絵の中でも類稀な美しさであったものが、立ち居振る舞いから心映え情けまで、また、類なきものであった。
 そしてついに偕老の契りをなして、末永く、等敬の本意どおりに縁が結ばれたのは、まことに珍しいためしである。


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