続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

人形を火に焼きてむくひし事

2018-11-30 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 寛文(元禄の少し前)の頃まで世に持て囃された説教大夫(説教節=語りものの民衆芸能)で、日暮(説教節の日暮派)という者は類なき誉を残した。今でも片田舎の者は、折にふれて俊徳丸、山椒大夫などといった演目で涙を流し、今は廃れつつある音曲に耳を傾けているという。
 元禄十一年の頃まで、日暮小太夫(日暮派の名跡)という者がいて、美濃、尾張、稲葉、筑紫など至らぬ所はなく、行脚のように国々を巡って説教を語り、辻打ちの芝居に傀儡(でく=人形)を舞わせて渡世としていた。しかし、それも世が下るにつれ、人々は他の芸能を持て囃すようになり、長い旅をして、いろんな国に行っては興行していたが、もう古臭いと言われて人気は出ず、それよりも、流行歌などを歌う芸人に人気を取られるばかりであった。
 それでも少し前までは、地方などで、定番の節を語ったり、宴会の座興に声がかかったりはしていたのだが、次第に、この説教を聞いて慰みにしようとする人々は減っていき、たまに年寄りが昔を懐かしんで聴くこともあったが、
「昔の小太夫は名人で、聞いて袖を濡らさぬ者はなかった。今の若い芸人が語るのは説教ではなく、物乞いが節を唸るに等しい」
などと言われる始末であった。
 そんな具合だから、自ずから渡世も成り難くなって、地方巡業の芝居に雇われて、せめて人形遣いでもして稼ごうと思っても、今時の人形遣いには、女形五郎右衛門や手妻善左衛門などが人気を博し、生きた人の如く人形を細やかに動かし、衣裳といい髪形といい、そのまま人間かと思うくらいの芸を見せていたから、小太夫などの出る幕はなかった。
 小太夫は次第に行き詰って、生活も苦しくなって食う物にも困り、とうとう恥を捨て顔を隠して、物乞いをするまでになってしまった。そして、それまで大切にしていた人形も、衣装は剥いで売ってしまい、赤裸の人形を打ち割って雪の夜のかまどにくべて、尻を暖め飯を炊いて食い、今までこの人形のおかげで身を立て妻子を育んだ恩など忘れ、手足をもいで楊枝にして煙管の掃除に使った。
 そんな中でも、女形人形一つは残して巡業に持ちまわり、謳い舞わせて飯の種にしていたが、ここまで零落してしまっては、小太夫の目論見とは違って、一人の口にも足りぬほどの実入りにしかならず、家に帰っては人形を石に投げ付け足にかけて蹴飛ばし、人形が悪いかのように恨み罵ることが半年ばかり続いた。
 このように乞食同然の暮らしで、小太夫はいよいよ短気になっていった。
 ある日の事、朝から暮れまで歩き回っても、米一つまみ麦一粒さえ貰えず、飢えに耐え兼ね大いに腹を立て、この人形を踏んだり蹴ったり、石で散々に打ち敲き、それでもなお飽き足らず、目よりも高く持ち上げて力に任せて投げ飛ばした。ちょうどその先には、菜の葉を水で煮て食べようと思って、道々拾い溜めた木切れや竹の枝、捨て薦などを火に焚いていて、人形はその炎の中へ飛び込んで行き、衣装も髪もめらめらと燃え上がってしまった。
 小太夫は、
「よしよし。これでよい。なまじお前を当てにして連れ歩くから、腹が立つんだ。いい気味だ」
と言いつつ、さらに足で踏み込んだ。

 その時、人形の首が盛んに燃え、爆ぜる音がして二つに割れ、破片が飛んだかと思うと、その片割れが火小太夫の胸板にひしと取り付いた。小太夫は熱さに堪え難く苦しく、この火を払い落とそうとしたが、かえって火を煽ってしまい、近くにある小川へ走って水をかけようと思い、あわてて息を切らせて走って行こうとしたが、小川までの途中にあった野中の井戸へ、足を踏み外して真っ逆さまに落ちていった。その勢いに、石を積んである井戸の壁が崩れ落ち、小太夫は生きながら埋もれて死んでしまった。

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