続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

巻6の4 福引きの糸 并 冥合、不思議の縁ありし事

2018-07-15 | 御伽百物語:青木鷺水
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 恋にはさまざまの道がある。見初めて恋をするもあり、聞いて慕うもあり、だんだんと親しくなっていくこともあり、絵に描かれた人を求めたり、草紙を読んで恋話に憧れるもあり。いずれにしても、神に祈り仏に携え、身を捨ててもその人に逢いたいと思い詰めるものである。
 限りない欲望のために、限りある命を擲つ輩が多い世の中で、珍しい宿世の話もある。例として、逢い難い人に逢う話は、源氏物語、鉢かつぎ姫、うつほ物語といった古の文学にも見られる。だからこの話も書き記して置けば、そうした、固く結ばれた幸福者の話のひとつに数えられるかもしれない。

 富松何某という者に一人の娘がいた。父母の慈しみ深く、幼い頃から読み書きを教え、楽器なども心行くばかり学ばせ、物のわかる年頃にもなれば、今は早や、どこからか誘う水でもあれば、しかるべき人のところへ嫁がせたいと思っていた。この娘もまた、容顔は美しく、心は優しく、情けも深かったので、あちこちでの持て囃し種になり、お近づきになりたがったり、口説いてみたいと思わない者はいなかった。
 しかしこの娘は何を思うのか、他の者がいかに心を寄せても、露ばかりも儚い戯れをなそうとはせず、そうして暮らしている程に、十五歳ほどにもなった。傍から見れば、つれない娘だと思われていたが、心の中では物思いがあったのかもしれない。
 さて、移り行く年も早や暮れ行き、空が春に立ち替わる節分となり、誰もかれもが北に向かい南に歩み、禁中の御神楽や六角天使など、思い思いに、よい年をとるべく願をかけに出かけていた。この父母も娘を連れ、明くる年は目出度いことばかりがあるようにと、群れあう人々を押し分けて、程なく内侍所の広前に入った。
 そのような人混みの中であっても、逢い合う縁はあるもので、この富松の家にしょっちゅう行き通い、気心も知れた冥合という書生がいて、彼も年取りにとこの庭に参って、偶然にもこの娘と立ち並んで共に拝んでいた。
 かねてより娘の心では、冥合を誰よりも恋しい人と思っていたのだが、この折りに、娘は目聡く冥合を見つけ、彼の小袖を控え、何かは判らないが、袖から袖に入れる物があった。
 冥合もまた、娘のことを想わないでもなく、明け暮れ恋い慕ってはいたが、人目もあることで、この三年ばかり埋火が焦がれるように、そうとは言い出せずにいたところへ、この不思議の縁が嬉しく、殊に、迎える年の始めに幸いよしと思いつつ、ひとり笑みしながら帰って、袖に入れられた物を取り出して見れば、小さな紙を引き結んだ中に薄墨で、
「今日こそは、今まで言い出せなかった、私の思うところを申し上げましょう」(この部分を含めて、原文では、互いに和歌を贈り合っていますが、そのままでは難解なので、平易な文章に直します)
と書いてある。
 冥合も、かねてより娘を恋しく思っていたところ、それが両想いであったとは気づかずにいたので、思いがけない拾い物でもしたような、飛び立つばかりの嬉しさが身に余って、
「先ほどの神様に、貴女も同じことを祈っていたのですね。私に好意があると聞いて大変嬉しく思います」
などと書いて渡した。今までも、娘のことを想い続けて富松家へ通っていた冥合だが、次に訪問するときは、逢引きの約束をしようと心がときめいた。
 さて新年が長閑に明けた朝は、昨日にも似ず、道行く人々も浮かれあい、冥合も、娘と言い交わした言葉ばかりを胸に、富松家へ行ったが、ここには人々がたくさん集まって、何やら大きな笑い声が聞こえてくる。これは何を笑っているのかと奥の方をさし覗くと、衝立の奥から何本もの帯のようなものが、集まった人々の前に投げ出されており、皆にこれを一筋ずつ引かせると、その帯の端に必ず何かが括り付けられていて、それを皆々の賞品にしていた。運がいい人は、銭や雑誌、頭巾、碁盤など引き取ったが、そうでもない人は紙雛、双六の筒、火吹竹などを引き取って、恥ずかしそうに笑っている。
 冥合も可笑しさのあまり、自分も引いてみようと、一筋の帯を手に取って引いたが、帯は動かない。力を入れて引いても、帯を引き絞るばかりで、賞品は出てこない。身をよじって引いても、少しは寄ったような気もするが、やはり引ききれない。
 側にいる人が、
「これは柱に結い付けてある帯だよ。前の人も、このいたずらに引っかかって、手ばかり取っていたよ」
と転びまどって笑う。冥合も苦笑するより他なく、ではその柱を見てみようと、衝立の隙間からさし覗けば、かの娘が、帯の端をとらえて反対の方向へ引いているではないか。冥合の嬉しさは限りなかったが、人目もあることで、冥合は娘に目で合図をして、その座を繕うために「たしかに、これは柱でした」などと、とぼけてみせた。
 冥合は座が終わるのを待ちきれず、娘もまた居ても立ってもおられず、宿世の縁とかいうものに催され、いそいそと戸口で落ち合って、共に出会いを喜びあった。冥合も、この珍しい逢瀬が叶ったのは、いかなる神の引き合わせか、有難いことに思い、
「たくさんあった帯の中から選んだ一筋の端が、柱に括り付けてあると思ったら、貴女が持っていたのですね。帯よりも永くお付き合いしたいものです」
と言いかけたら、娘も恥らいながら、
「私はただ、まだ見ぬ未来を、闇の中で待っていただけです。それが貴方の進む道と同じなら嬉しいのですが」
などと儚げに言って、さらに恥ずかしそうにした。
 一夜に千世の契りも絶えず、睦言の数も尽きず、二人はもう、片時も離れ難い仲になったが、夜が更ければ関守など人目に怪しまれるので、そろそろ帰らねばならない。冥合はさまざまに娘を宥めたが、娘はいかにも悲しそうに、
「片思いだと思っていた頃も、会えないのは辛かったですが、両想いになってしまうと、なおさら辛いものです」
と言う。冥合もこれに応えて、
「末々までも、私たちの契りは、朽ちることなどありませんよ」
などと、返す返す慰めて出た。
 その後も冥合は娘の許へ通っていたが、その年も半ば過ぎた秋の頃、富松が月見の宴を催して楽しもうと、家に友を招いた時、冥合もその中に混じって参加した。その夜は、殊に月の光がいつもより冴えわたって、空一面曇りなく、見たことはないが、話には聞く唐の洞底湖の夕暮れが、胸の中に浮かんでくるようだ、などと各々が言い合う中で、冥合ひとり、娘の面影に囚われるばかりで、
「今宵は、愛おしさに面影ばかりが浮かんできます。月を見ているだけで、貴女に会えないなんて」
と、苦しい思いを呟いた。

 夜も更け、酒も酌み重ねて皆が酔い伏した頃、主の富松が盃を持って「もう少し、いいじゃありませんか」などと、重ねて冥合へ酒を勧めるので、冥合はこの機会にと、引き寄せた硯の蓋に、
「池の水に、今宵の月が濁りなく映っているように、私も、心の内を濁りなく申し上げましょう」
と書いた。すると、その傍らに、
「庭の女郎花が、色濃くなってきました。今は、この美しく咲いた花を、貴方の許に参らせたく思います」
とある。
 冥合は、胸が轟くような思いがして、嬉しさの余り、また盃を傾けつつ、富松と婿舅の結びを言い交して、
「千歳まで、この秋の月が、同じ影を留めて、姿を変えないことを願います」
と、喜びの心で誓いを立て、冥合と娘は妹背となった。

巻6の3 勝尾の怪女 并 忠五郎娘を鬼女に預けてそだてさせつる事

2018-07-01 | 御伽百物語:青木鷺水
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 津の国勝尾寺の前の里を、名付けて勝の郷という。ここは多くの湯治客が有馬へ通う海道にあたり、また、西国の大名が往還の道筋として宿場に利用している。そのような具合でこの地は繁栄し、村には 指折りの富貴者と言われる者も、また多かった。

 この村に忠五郎という者がいて、数多の田畠を持って農業を家業とし、その家は美麗に造り、国主が参勤する際の本陣を承ってもいたので、家門は日に日に栄え、衣食から眷属に至るまで、年毎に増していく繁栄ぶりであった。
 そうした中、忠五郎は一人の娘をもうけ、これを育てさせるために相応しい乳母を尋ねていた。そんな折節、芥川の里に貧家の娘がいて、同じ里の農家に嫁して一人の子を授かっていたが、夫は高槻の城下に年貢の未納があったため、代納のため人夫として駈り取られ、そのまま江戸で病死してしまった。
 そのような事情のため、母子ともに世を渡る術を失くしてしまい、どこかへ奉公にでも出ようとしても思うようにはいかず、彼方此方とさ迷っていたところを、忠五郎が不憫に思い、幸い、我が子と同じ年の子がいることもあり、母子を呼び寄せて、我が娘を養わせ、母子とも家に置くこととした。また忠五郎の妻も情けがある者で、乳母の子も我が子と同じように慈しみ、愛して、衣類や食物に至るまで必ず同じように揃えて寵愛していた。

 そんなある時、この妻がたまたま外出した帰りに、林檎を一つだけ袖に入れて帰ってきたが、戯れに、我が子だけにこの林檎を与えたところ、乳母は大いに怒り、腹を立て、
「今、貴女の娘は、私の世話で成長して四つばかりにもなり、もう乳ではなく、物を食べて育つほどになったけれど、私の恩を忘れるでないぞよ。何で、今までのように二人とも等しく扱わないのか。私がいなかったら、その子も生きていなかったはずだ」
と、拳を握り、牙を噛んで、主人の子を捕え、今にも打ち殺しそうな勢いに見えた。
 忠五郎夫婦をはじめ、居合わせた者は皆、驚き騒ぎ、これはどうしたことか、気でも違ったか、それほど迄に腹を立てる事か、と、まず忠五郎が娘を引き分けて抱き取ると、不思議なことに、忠五郎の子と乳母の子と、いささかも違わず同じ器量になって、顔の貌から物言いまで、そのままの乳母の子であった。

 忠五郎夫婦は呆れながらも、何ともいえず恐ろしく感じたので、とりあえず手をつき、丁寧な言葉遣いでさまざまと詫言し宥めたので、乳母もようやく心が和らぎ、主人の子を抱いて頭から足まで撫で下ろしたら、元どおり忠五郎の娘の形となった。
 これに懲りて忠五郎は、「何にしてもこの乳母は只者ではなく、自分を誑かし欺いて、我が家を滅ぼそうとする狐や狸が災いをなしているに違いない。どうにかして殺さねば」と思い、下男を唆して、ある日暮れに、乳母一人が門に立っているのを好機と思い、鍬を取って、この乳母の頭を微塵になれとばかりに打ち付けさせたが、過たず打ち込んだはずの鍬が飛び返って、門の扉に当たって扉を壊してしまった。
 乳母はまた大いに怒り、
「忠五郎殿。いかに私を恐ろしく醜い者と思ったからといって、何度このようなことをしたところで、私を殺せるものではないぞ。どうしても私が恨めしいと思うのならば、もっとましな方法を考えるがいい」
と言った。
 忠五郎も今は詮方なく、恐ろしさばかりが増さり、これより後は、その乳母を主か神のように謹み恐れて、その心に背くことはなかったが、それより十年ほど経って、乳母も子もどこへ行ったのか、姿を消してしまった。またその家も、その後は恙なく、何も不思議なことは起きなかった。

巻6の2 桃井の翁 半弓を射る沙門の事

2018-06-24 | 御伽百物語:青木鷺水
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 禅師隆源という僧がいて、曹洞の所化(教化された人)であった。久しく豫州宇和島の等覚寺にいて、江湖(学問僧)を勤めていたが、このたび、美院の慈照寺(銀閣寺)へ行こうと思い立ち、錫を取り、草鞋を踏んで、とりあえず上方へと心ざすついでに、故郷の若州の方へも寄って、両親の無事をも尋ねようと思い、三条の宿より北を指して進んでいたが、急ぐ道でもなく、心に任せた気ままな旅であった。

 隆源は出家する前、若州においては並ぶ者のない武士であり、武勇を好み、半弓の手練れでもあったので、いつも殺生を好み、鳥獣は言うに及ばず、罪のない者であっても一時の怒りに任せて殺害し、残忍な悪行ばかりしていたので、両親も持て余し、後生を恐れて出家させた人であった。だから今でも、このように旅の身となってもなお、宿習(前世からの習慣)が深く、常に半弓を離さず、旅には必ず身に添えて出かけ、心の剛胆さに任せて、裏の道であろうと難所であろうと物選びする事なく、思い立ったならばその通りになし遂げるであった。

 今度、都に登るついでに国許へも赴くのであれば、道すがら、まだ見たことのないところに寄って行くのも一つの楽しみだと思って、下加茂から左に折れて鞍馬山へ詣で、あちこちを拝み巡って惣門に出れば、日は早や七つに下がっていたが、まだ泊まる気もなく、なお北を指して歩いて行くと、桃井坂の山口に至った。ここからは山道のみで、休むべき宿などもなく、二里程の間は険しい山坂だと聞いていたので、しばらくその辺の家に立ち寄って、煮茶などをもらって休んでいた。
 その家の主らしき者は法師で、大杉を伐り倒しては、杉皮を剥いでいた。この法師が隆源をつくづく見て、
「なんと御坊は、もう夕暮れだというのに、なお北に行くつもりですか。これより先は山坂ばかりが続いて、咽をうるおす谷水さえも遠く離れている所に入って行きますから、狐や狼が多く、また、里々の悪党どもが仲間と共に、通行する柴売りや木売りなどが暮れて帰ろうとすると、斬り倒し、突き留め、僅かな銭や少しの糧をも、情けなく剥ぎ取ってしまいます。今宵はここへ泊まって、明日、奥へ通るのがいいでしょう」
と語ったが、隆源は、生来、不敵者であったから、
「私には武芸の心得があります。そのような悪党は、たやすく退けてしまいますよ」
と言って、暮れかかる空も厭わず、その家を発ち別れた。

 早や半里ばかりもや過ぎたかと思う頃、折しも二十四日の夜の星の光さえ雲に隠れて、道もよく見えず、景色の遠近もよく判別できないほどの山中を、とぼとぼと踏み分けつつ進んでいると、後ろからひそかに抜き足してついて来る者がいた。
 隆源は、すわ痴れ者よと思い、立ち止まって、
「お前は誰だ。なぜこんなことをする」
と、声を荒げて咎めたが、その者は応えもせず、同じように立ち止まった。その姿を雲間に透かして見ると、大柄な男が太刀を抜いて立っている。これは憎いやつと、例の半弓を番い矢継ぎ早に射掛けると、一筋も外れぬ手応えがあったのだが、その男には効きもせず、なお突っ立ったままであった。
 こうなっては隆源も仕方なく、一目散に駆け抜けようとしたが、日暮れより催していた雨が急に強くなり、風さえも激しくなってきて、笠は役に立たず、目も開けられないほどであった。ふと見ると、向こうに四五本の大きな杉が生えて枝が茂っているのを、やれ嬉しやと思って、急いで木の許に立ち隠れて雨宿りした所に、激しい雷が、隆源の後を追ってくるかのように、近くの杉の梢へ落ちて来て、その閃光はあたかも絵に描いた輪宝(転輪聖王の宝)のようであった。
 この光の度ごとに、はたはたと落ちかかるものがあって、恐ろしさのあまり理趣分(お経の一種)を途絶えなく唱えつつも、何だろうとさし覗いて見ると、それは大きな杉の皮であった。みるみる間に杉皮は膝に至るほど降り積もったが、なお降り止まず、このまま杉皮に埋もれてしまっては、後々の恥曝しになってしまうと思い、強勢の気を翻し、天を拝み仰いで、滅罪の呪を誦し、陀羅尼経でも心経でも思いつくままに唱え、金剛経を唱えようとした時、ようやく稲光は薄らぎ、風雨も静まり、次第に空も高くなっていけば、星の光も見え始めた。
 やれ嬉し有難やと、ふり仰いで見ると、さしも茂りあった大木の杉は、枝も葉も今の雨風に吹き折れてしまって禿(かぶろ)になり、竿を立てたようになっていた。隆源は、いつもの勢いをすっかり失ってしまい、心が折れて、もう進み行く気持ちも失せてしまい、そろそろと元の道に帰り、最前、立ち寄った翁の家までようよう帰り着き、中の様子を窺い見ると、翁はまだ、杉皮を剥いでいた。
 隆源は戸を敲いて門に入り、先ほどの威勢はどこへやら、手を突くが早いか、
「貴方が教え戒め下さったことを聞かなかったばかりに、このような災難に逢い、辛くも命ばかりは助かって、ようようと帰ってきました。今は私も納得いたしました。もう、身もくたびれ果ててしまいましたので、教えに背いた罪はお許しいただき、ここで一夜を明かさせて下さい」
と、詫びた。
 翁は少し笑みながら、
「よしよし。ここで休み給え。そなたは、なまじ僧には必要ない武芸の腕があるばかりに、仏道に入って三衣を着る身となっても、武芸に頼って、そのような無茶をするのだ。今日よりは、ゆめゆめ力を頼むでないぞ。護法善神も、静かに行を勤める者にこそ、ご加護を与えたもうぞ」
と言って、傍らより大きな杉皮を一枚取り出して見せると、先ほど隆源が曲者に射掛けた矢が悉く突き刺さっていた。

 隆源はいよいよ感涙を流し、さては自分は、有難い経を読み、仏の道に進んでいながら、受けたはずの教えを徒にしてしまい、心はなお悪にまみれて殺生の業を好むのを、仏が戒め懲らしめようと、今ここに翁を遣わされて、先の出来事を目の当りにさせ、自分を善き所に導き給うたに違いない、と思えば、有難さもひとしお、翁への感謝に堪えず、その日は終夜翁と語り明かし、明ければ故郷の方へと暇を乞うて出発した。
 その後、国からの帰りに、かの翁にどうしてももう一度会いたくて、わざわざこの道を通って翁の家を尋ねたが、どこにあったものか、それに似た家もなく、まして翁を知る人もなければ、諦めて帰るより他なかった。

巻6の1 木偶、人と語る 并 稲荷塚の事

2018-06-17 | 御伽百物語:青木鷺水
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 盛南壬生の辺に玉造善蔵という者がいた。生まれつき心ばえが優しく、書道や珠算の道に長じ、儒学の旨を学び伝えて徳を積み、様々なことを学んで、しかも、その道を極めるなど、万事について才能を発揮したので、近辺の者たちも善蔵を珍しい人だと、その徳を慕って親交を結び、また酒宴や遊興の席、囲碁将棋の会などにも必ず招かれて、朝暮楽しみの中に年月を経る身であった。
 善蔵と親しく語る友の中に、菜村寸鉄という者がいて、五十余りになるが、子がないことを悲しみ、洛中洛外の神社で詣らないところはなく、験者と聞こえる者の所へは悉く歩みを運び、願を立てて様々と祈ってきたが、いまだに夢ほどの徴もなく、思い歎いていた。
 そんな折、東山泉涌寺の奥に当たる場所に稲荷塚とかいう所があって、洛中の者は貴賤を問わず我先にと足を運び、いろいろの願をかけ、思い思いの望みを乞い、あるいは夜もすがら法施を参らせ、または七日参りの志を興すなど、それぞれが精一杯に詣ったら、皆々、願いが叶って喜びに溢れるとの評判であった。
 これを聞いて寸鉄も、いざ自分もそこに詣って、せめて露ばかりの示現にも逢えれば、その結果、子ができてもできなくても、せめてこの世の思い出にしようとの心が興るまま、善蔵を誘って道すがらの話相手にしつつ、打ち連れて詣でることにした。
 そして第七日にあたる夜は、殊更に潔斎(きよまいり)して、寸鉄は善蔵と共に詣でて、その夜は通夜していた。
 夜更けになって、月は傾き、松に吹く風も心細く、子を思う猿の叫ぶ声が梢から洩れ聞こえ、寸鉄には、見慣れたはずの故里の空が懐かしく思え、過ぎた月日は多く、頭は徒に雪を積んだように白くなり、やがて弥勝る思いは、願いが叶わぬままに老いてゆく自分の人生が胸にこみ上げ、もの悲しい涙が袖に落ちた。また善蔵も、袂の念珠を取り出して、静かにおし摺り、神前にしばらく法施を参らせていた。
 すると庵の前に忽然と、歳の程は八十ばかりであろうか、二尺ばかりの脇差を横たえ、括り頭巾に八徳の袖を少し絞りあげた装束の男が立っていた。
 善蔵はこの男を見咎め、「怪しい奴。咎めてやろうか」と思ったが、よく考えれば、自分たちと同じように何か望みのある人が、宵から籠って居て、仕上げの勤めをしようと出て来たのだろう、そう思って見ていると、この老人が善蔵に向かって、
「貴方が、これほど熱心に、そこに居る寸鉄に誘われ、自分自身のためではないのに、この寂しい山中まで詣でて来たことに感心して、向こうの休所から招くお方がいます。こちらへお出でください」
と言う。善蔵が何となく良いことでもありそうな気がして立ち上がったら、その老人は軽々と善蔵を背負って、この宮の後ろの方へ行くと、そこには大きなる屋形があった。
 これはどうしたことか、こんな所に、これほど大きな屋形があったとは気が付かなかった、どんな人が住んでいるのだろうと思うに、表門とおぼしき所は、強く固められて入れないようであったが、少し北の方に、低く小さなき穴の門があり、二人とも這い入れば、右に進む道があって、十間ばかり行った向こうが玄関であった。ここから入ろうとすると、颯爽と出立つ侍どもが七八人並んでいて、善蔵を見て、皆、敷台に降りて来た。そうして奥の間に立ち入れば、主とおぼしき人は、下には白い御衣に裏綾の装束、紅の袴を召した女性であって、木丁のほころびから晴れやかにこちらを見通していたが、少し見たら、緋扇でさし隠して伏しなされた。その外、並み居たる女郎たちも、皆、色々の袖口を重ねながら、帳の片平から覗き見えるのも、たいそう艶めかしく、懐かしい様子であった。
 その奥より、一人の高貴な女性が出て来て、善蔵に向かって、
「このたび、寸鉄が願をかけ、歩みを運びなさった心ざしは、類なく憐れと思いますに、それにも増して、善蔵が何の願う事もないにもかかわらず、寸鉄の心ざしを遂げさせようと思い、一緒に私の前へ来て、夜もすがら、他念なく行いを済ませた心ばえが、私にとっては非常に嬉しかったので、寸鉄の願いを叶え、善蔵にも、貴人となるべき子種を授けさせてさしあげましょう」
と、仰った。
 善蔵は、さてはこの塚の神は、荼枳尼天(だきにてん)が現されたものであったかと、有難くて涙もそぞろに零れるばかりであったので、何度も盃を傾けて酔いを催した。そこへ最前の老人が立ち出て、
「今宵の客人に、珍しいものをご覧に入れましょう」
と言って、後ろの障子を押し開ければ、美を尽くして様々と作りなした庭に、山あり川あり入海の景色あり、民家が軒を並べ、市のは店(たな)を飾り、繁華な町の様子もあれば、棟門が美々しく連なり、馬も忙しげに立ち集い、優雅な建物なども見え、目の及ぶところ、心に浮かぶ風景は、絵に描こうとしても、こうは描けまいと眺めていた。
 程なく鐘の音が黄昏の空に訪れ、巣へ帰る鳥の音もせわしく、やや暮れ過ぎる宵の月が東の峯に澄み登れば、木枯らしの風に木々の葉は残りなく吹き尽くしていたが、やがて、宵が更けるにつれて、あちこちの里で砧(きぬた)を打つ音も静まり、野寺の鐘も響きを収め、辻の火の光も寝入って細くなりわたって来た。
 するとそこへ、何かは判らないが、旗や指物、袖印を一様にして、鎧を着けた武者が五十騎ばかり、いずれもその丈一尺四五寸ばかりもあろうかと思える兵どもが、築山の後ろよりこちらへ向かって押し寄せてきた。あれは何だと見ていると、泉水の橋のたもとで、遅れ馳せの兵を待ち合わせ、五十騎を二手に分け、かの屋形を目がけて忍びやかに押し寄せ、大手門に着くと、一斉にえいやと声を出し、責め鼓を打ち、槍、長刀、打ち刀、思い思いの得物を押っ取り、我先にとなだれ込んできた。
 屋形の内では皆が動転して、すわ、夜討が入ったと、上を下へと慌て騒ぎ、弓を取る者は矢を忘れ、太刀を取れば鞘ぐるみで討ち合い、火を持てと言っても誰も聞き分けず、松明のひとつをも差し出す者はいない。そんな具合だから、敵も味方も分からないままに、ただ同士討ちするばかりであったが、寄せ手のほうは、予て心を一つにし、筒の火で行く手を照らし、合言葉を使いながら、奥の方へ乱れ入った。

 しばらくすると襲ってきた方は、悦びの声を上げ、てんでに分捕った首数を数多く差し貫き、勇み進んで表に出て、行列を崩さず、もとの道に帰ると見えたが、早や、星の光も、茜さす日に白けつつあった。庭も残らず霧が立って隠してしまい、名残り惜しさに見返ってみても、かの老人もたちまち失せ、稲荷塚の後ろと思っていたところから、いつの間にか元の場所へ帰っていた。
 気が付いてみると善蔵は、寿町誓願寺の地蔵堂に、多くの人形を枕に横たわったままで、その夜の夢は醒めたということである。

巻5の3 人、人の肉を食らう 附 癩病を治せんために譜代の女を殺さんとして報ありし事

2018-06-10 | 御伽百物語:青木鷺水
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 およそ人として人を食らう事は、多く年代記などに記載されているが、それは飢饉の年に限った出来事である。
 しかし元来、唐土の書にも記されて後世に残ったところによれば、好きで食った人もいるようである。陶九成(陶宗儀)が著した綴耕録には惣肉と記されており、そのほかの文献にも、同様なことが書かれている。

 ここに、江州伊香立の里あたりに住んでいた清七とか言う者は、その所一番の富貴者であったが、前世の宿業は逃れ難いもので、体が黒褐色になってしまう病があって、しかもこの病は祖父の代より続き、子孫に一人ずつはこの病に罹る者がいて、この度は清七に出てしまった。
 清七は、生まれてから五・六歳に及ぶまでは何の病ということもなく、あまつさえ器量や身体も他に勝れ、美男と噂される程の者であったが、いつとはなく、例の悪病の兆候がひとつひとつ顕れてきて、妻子を始め誰もが、明けても暮れてもこのことを悲しむばかりであった。
 清七自身も、この病に罹って以来、我が身が疎ましくなり、人にも逢わず、引きこもるようになってしまった。そして、この病を何とかして治する人がいれば、たとえ万金を費したとしても惜しくはない、体ごと取換えてくれる医者はいないものかと、いろんな名医を招き、さまざまの業を用い、あるいは神仏に願を立てて難行を勤めるなど、二三年も手を尽くし、金銀を惜しまず療治したのだが、露ばかりの験もなく、病は弥増しに募り行くのみであった。

 こうなってしまっては、もう何をしても意味がないと思いながらも、周囲のことを考えれば易々と死なれもせず、相変わらず人を四方に馳せ、あまねく所縁(ゆかり)を求め、絶えず治療の手立てを尋ねていたところに、北山大原の里、野中村という所に、利春という出家が名乗り出て、清七の家を訪ね来た。
 利春は、
「この病を治す事は、おそらく私以外には無理でしょう。私は今まで多くの人を治療してきましたが、すぐに効果を顕さなかったことがありません」
など雄弁に語り、清七を直してみせると言ったので、清七も大いに悦び、殊の外にもてなしなどして、利春を師か親かと思う程に持ち上げ、「この難病を治してください」と他念なく願った。利春も、彼が二心なく頼み尊敬している心ざしを感じ、身命も惜しまず、昼夜、工夫を費やし、さまざまと手を尽くして治療に取り組んだが、露ばかりの功も顕さなかった。
 利春は歎き、ある時、密かに清七を招いて囁くには、
「貴方は、この難病に苦しむが故に、私ごとき貧乏で賤しい者を敬い崇めても、なお飽き足らないとするのは、ひとえに、私の治療を受けて病気を治し、身を安楽にするためでしょう。私もまた、その心ざしが分かっていますので、恵みを受けながら治療をしてまいりましたが、尋常の薬方を以て、徒に験のない日々を送ってしまったことを、最も深く恥入るばかりです。そこで、我が家に一子相伝として代々伝えられた、最高の妙薬があるのですが、これを用いれば、いかなる極悪の報いを受け、日本中の神々に見捨てられ、仏や佛菩薩に憎まれた業の病といえども、回復しないことはあり得ない、神仙不思議の霊薬です。私はこれまで様々に心を尽くし、配剤に骨を折って、何種類もの薬を用いてきましたが、効能を見ることができませんでした。ですから、今、この霊薬を用い、膏肓に入った病の根源を駆り出だし、永く再発せず快気すべき効能をお見せ申しましょう。しかしながら、この霊薬を今まで使わなかったのは、私が出し惜しみしていたわけではありません。薬の成分のうち一番重要な一つが、最も手に入れ難い物なので、今まで使わなかったのです。貴方が、もしどうしてもと望んで万金をも惜しまないのであれば、私は、貴方のために身命を捨てても、速やかに治して差し上げましょう」
と、懇ろに語った。
 清七も、彼の心ざしが真剣なのを感じて涙を流し、どうせこのままの自分では、世の人に顔を合わせられない身であれば、たとえ田宅所領に替えても、この病を治したいと思い、
「お話は分かりました。仰るとおりにいたしますので、ただ、早くこの病から救って下さい」
と、ひたすらに頼んだ。利春は、
「では、この薬の代金として、千両ほど準備して下さい。その訳は、何を隠しましょう、その大切な薬というのは、年の程十八九ばかりの、女の生肝を取って薬に使う事なのです。しかし今の世は、久しく平和に治まっていて、殊に仏法の世で、生ある類のものには、犬猫にさえ憐みの心を及ぼすという時節であれば、人を殺害して生肝を取るなどという事は、たやすいことではありません。これを手に入れるためには、金銀を湯水の如く使い、愚かな貧人を騙して養い、背負いきれないほどの恩を着せて、命を差し出させるより外はありません」
と言った。
(注:「生類憐みの令」は、まさに「御伽百物語」が著された、元禄期の令である)
 つくづくとこの事を聞き終わり、清七が利春の袖を取って、小声になって言うには、
「それでしたら、ちょうどいい具合があります。私の家に長年召し使って、既に三代目に及ぶ娘がいて、その娘の父母は、娘が生まれて三才の年に、傷寒という病気で同じ日に死にました。娘は兄と共に孤児となって路頭に立つはずのところを、私の家で憐み拾い、引き取って成長させ、兄は西にある村へ奉公に出し、娘のほうは母が手伝いとして雇って、早や十九才にもなるはずです。ですから、何とか娘をすかして使いに出し、あなたとうまく心を合わせて殺せば、人に知られることもないでしょう。金銀を費やすこともなく大切な薬を得られれば、それに越したことはありません。尤も、人の命を取るのは大きな罪かもしれませんが、小の虫を殺しても、我が大の身が助かるためであれば、娘も、死んだとしても亡魂の恨みは薄いでしょう」
などと、欲に移り易いのは人心である。利春と清七は相談して、決行の時を窺った。

 さて、ちょうどこの頃の季節は、秋の刈り入れ前であったが、村では、夜な夜な猪が出て田畠を荒すので、近辺の百姓らが心を合わせ、日取りを決め、朝から猪狩りを実行し、責め鼓を打ち立て、手鑓や突棒など思い思いの得物を持って、ここかしこより狩りだし、谷と言わず峯と言わず分け入って、たくさんの猪、猿、狸などを追い詰めては斬ったり突いたりしていた。
 そこには、伊香立の村より大原の方へ越える峠があって、麓は殊更に木が立ち茂り、枝がさし覆って、昼さえも暗い所であったが、その森の奥あたりに、何かは判らないが、白い不思議なものがあったので、人々が何だろうとさし覗いてみても、動くわけでもなく、ただ白い板の切り口のような部分が見えたので、人が近づいてよく調べてみると、それは新しい棺桶で、縦横に縄をかけ、桶の底から蓋のめくりまで鉄の釘を隙間なく打ち込み、たやすく開かないようにしたものであった。
(注:当時の棺桶は丸桶である)
 百姓どもはいよいよ怪しく思って、鍬の刃や手槍などで打ち割ろうとしていたところ、かの孤児の兄で久六という才覚者が、鑿(たがね)という物を取り出して、金物を引き離して蓋を開けた。すると中には、清七の家で一緒に育った我が妹が、生きながら手を括りあげられ、口には捩じ藁という物を詰められ、押し込められていた。久六は大いに驚き、これは一体何という事か、と、まず縄をほどき、様子を聞いたところ、清七の悪行と利春の企みが、一つ残らず明らかになった。

 これは、近頃では稀に見る程の憎き仕業、どうしてくれようかと思ったが、清七は土地の名士であり、殊に久六にしてみれば厚い恩もあり、自ら敵となって主人を罪に問うのも気が引けた。とはいっても、このまま無かったことのように済ませては気が収まらない。そこで、その棺桶に、生け捕りにした狼二匹を入れ、元のように封をして、森の中に投げ捨てて帰った。
 そうとは知らず、夜に入って利春と清七の両人は、てんでに匕首を持ってこの森に来た。そして、件の桶を担いで近くの神社へ行き、神輿部屋の錠を捻じ切って押し入り、中から扉を釘づけにしてよく固め、さて、かの桶を打ち砕いてみると、突然、思いがけない獣が二匹、桶より飛び出て二人を散々に食い散らし、窓を突き破って逃げ去った。

 この騒動の音を聞き付け、田の水を落とそうと思って野に出ていた百姓どもは、神社へ駆けつけ、扉を打ち破って乱れ入ったが、もはや二人の者は狼の餌となり、腕は食われ、食い散らかされた骨が血にまみれて残っているばかりであった。
 百姓どもは急いで地頭に注進し、訳を詳らかにしたので、利春と清七の悪事は全て明るみに出て、終に清七の家は跡を絶ってしまった。

巻5の2 百鬼夜行 附 静原山にて剣術を得たる人慢心をいましむる事

2018-06-03 | 御伽百物語:青木鷺水
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 富田無敵とかいう名前の、丹後より京都に登り、剣術の師をする人がいた。剣術は元陰流で、この流派は、鵜戸大権現が夢に現れ、僧慈恩と言う者に伝えた妙手ということである。無敵の剣術は人気を博し、門弟になって秘技に与かる事を思う人も少なくなかったので、一門は日夜に繁栄し、朝暮、剣術の稽古が止むことはなかった。無敵は、これも偏に摩利支天毘沙門の冥慮だと思い、月に一度ずつは、稽古の暇を窺って、日が暮れてから鞍馬に参詣し、夜の内に僧正の谷を経て貴船に下り、夜明けには必ず京の宿に帰りつくのを例としていた。

 頃は元禄十年の秋八月十四日の暮、月が見頃であったこともあり、例の参詣を思い立って二条堀河の家を出て、暮れかかった道を、煩わしい用事なども忘れて、夕暮れの鐘とともに、只一人、北を指して行くと、月も華やかに、光りを惜しまず東の峯を分けて登っており、明日の夜(十五夜の満月)が今宵であったらいいのにと言ったのは小町だったが、その気持ちがよく分かると思うにつけて、
 「月見れば 慣れぬる秋も 恋しきに、我をば誰か 想い出ずらん」
などと歌われた古い眺めも、こうであったろうと想像された。
 そうして進んでいくうち、車坂のほとり迄は普段通り変わりなく着き、さらに、古人も見たであろう静かで美しい景色を楽しみながら進んでいくうち、ふと前を見ると、自分より先に行く者がいた。今までは自分だけがこの道を踏み分けていたはずであるが、どうしたことだと思って怪しみ、さし覗いて見れば、その者は世捨て人と見えて、黒地の衣の、随分やつれたものの裾を短かく絡げ、種子とかいう袈裟を念珠と共に首にかけているが、旅の姿というわけでもなく、生活のため里に下りて、逮夜(忌日の前夜)の説法などを勤め終わり、月に嘯きつつ山へ帰るような雰囲気であった。
 すると突然この僧が、経の一節を声高く誦したのが、無敵にはいかにも尊く感じられ、思わず走り近づき、道すがらの友となって語らうと、僧も心置く気色なく打ち解けて語りつつ、共に鞍馬寺に詣でた。

 さて、心ゆくばかり念誦も終わったので、僧と別れて、例の僧正が谷に向かおうと思ったが、この僧が名残り惜しげに無敵の袖を控え、
「ふとした道連れになって、楽しいお方に出会うことができました。しかしこのままでは、何となく名残り惜しいような気がします。お見受けしたところ、貴方には武道の誉を顕される相がございます。私の庵はこの山蔭にありますので、ご迷惑でなかったら、お出でください。いろいろとお聞きしたい話もございます」
などと親しげに語るので、無敵も心が解けて、
「では参りましょうか。私も、月に浮かれ歩く身です。共に庵からの月を見ましょう」
などと戯れて、元の道に戻ると、僧は大門を降りて少し北へ進み行くので、無敵も後について行けば、とある家の裏手から鞍馬川を渡り、細い道芝を踏み分けて、また山深くへ入っていった。

 これはどうしたことか、無敵は心もとなくなって問うたが、僧はただ「こちらです」とばかり言って詳しくは言わず、なお、山深く道もない方へ分け入っていくので、無敵の不審はいよいよ晴れ難くなり、「もしかするとこれは只者ではなく、当山の天狗が自分の胆気を試すつもりか、または山賊が自分を騙して仲間のいる場所へ連れて行くに違いない。おのれ何にもせよ、ただではおくものか」と、懐より弾丸(注)という物を取り出し、僧の頭の鉢も砕けよとばかりに打ちかけた。
注:鉄砲の弾丸ではなく、「弾き弓」(玩具のパチンコやスリングショットのようなもの)で使う小さな鉄球。達人は道具を使わずに手で投げて、相手を殺傷できる。
 ところがこの僧は、事も無さげな気色でてくてくと歩いて行くので、無敵は、確かに狙ったと思ったが外したのか、と無念に思い、続けて同じところを狙って打ち、既に弾丸の数が五発に及ぶとき、この僧は手を挙げて首筋をさすり振り返って、
「おふざけは止しなされ」
と、何事もなかったかのように言った。これには無敵も攻撃する気をなくしてしまい、「さては名に聞く僧正坊とかいう天狗(鞍馬山僧正坊、俗にいう鞍馬天狗)かもしれない。それならば下手に攻撃するよりも、一緒について行って、ひとつ道術の奥義でも学んでやろう」と思うようになって、その後は手向かいもせず、ただ念のため、心の中で摩利丈夫の呪を唱えながらついて行った。

 やがて、とある山あいの茂った木立ちの中から、炬火(たいまつ)の光が多数群がってこちらへ向かって歩み来るのを、あれは何だと見ていると、それは僧を迎えに出てきた人々であった。いずれも屈強な男たちで、素襖の肩を絞り上げ、袴も高い位置で括り結った者が数十人、恭しく僧の前に畏まった。僧は無敵を指差し、
「このお方は、旅の途中で懇意になったので、お連れした客だ。皆、お供せよ」
と命じたので、男たちが無敵の前後をとり囲んで、この並木の中を十町ばかり行くと、大きな屋敷に着いた。
 その佇まいは大きな国の国守でも住んでいそうな立派なもので、主人の僧がまず入って無敵を招き入れて上座に直り、その後ろにある屏風を、少し押し退けたのを見れば、年の頃十八九の美しい女が二三人、居並んでいて、
「今宵の客人は、なかなか素敵な御方ですわ。出て来て、おもてなしなさいませ。奥方はまだお休みではないでしょう」
と、奥をさし覗くと、僧の妻と思える女が一間を隔てた方に控えていた。妻は、屏風を畳んで、木丁の帷子を半ば絞り上げ、物深く思い患っている様子で机に寄り掛り、何やら手まさぐりしていたが、無敵の方を少し見起こして涙を拭い、それでもまだためらっているところを、僧がひたすらにすかし招くので、少しこちらへいざり寄って座った。

 それにしても、客人が来たというのに、そんな妻の態度が訝しく思えた時、僧が重ねて無敵に語るには、
「私は元々、この田に住んで年久しく、山賊や強盗を生業とする身で、日夜、このやつれた僧の姿に本心を偽り隠し、ある時は都に出て、ある時は丹後や若狭、江州の地を踏み、多くの旅客や女、富貴な家の若い奴などを欺いて連れて来て、衣服だろうと太刀だろうと何でも剥ぎ取って、生活の糧としています。今、あなたを伴って来たのも、実はそのつもりだったのですが、あなたの武勇が人に超え、天晴れの手利きだったので、私も悪念を翻し、今宵の月を一緒に楽しむ友にしようと思いました。先ほどの弾丸も、私だったから命を保ちましたが、普通の人があなたの武勇に逢ったなら、助かる人はいないでしょう。お互い様ですから、今は心をお許しいただきたいと思います。私もまた、あなたを害する心はありません。ほら、あなたが打った弾丸は全部ここにありますので、お返しいたしましょう」
と手を挙げて首筋を払ったかと思えば、先ほど打ちかけた弾丸が五つともはらはらと出てきた。
 無敵はこれを見て大いに驚き、
「さては、ことごとく中ったのですな。それなら、この弾丸が和尚の脳を疵付けないはずはないのだが、和尚の首の後ろを見ても、ひとつも傷がないのは、どうしたことですか」
と言うと、僧がまた答えるには、
「私は元々、護身の妙を得ており、剣術もまた、人に超える腕前ですので、今まで一度も疵を蒙った事がありません」
と語った。

 程なくして、料理が出来たようで、無敵の前に数十膳が運び据えられた。続いて、奥の間より美を尽くした直垂を着飾った男が数十人出てきて、皆、膳についたので、僧がまた、この人らに引き合わせて言うには、
「彼らは皆、私達一党の義弟たちです。お前ら、この客人に武勇をあやかるがよい。もし、何も知らないままこの人に出会ったなら、きっと今頃、お前らの手足はばらばらになり、骨は狼の腹の中だ。さあ、存分にもてなせ」
と言いつけ、酒を二三献参った。
 座の趣もだいぶ進んできた頃、僧がまた無敵に、
「私は、最前も言ったように、この生業を勤めて四十年余りになります。今はもう年老い、力も弱くなってきたので、この辺で生業を止めて、後生の罪も恐ろしく思うので、仏への勤めもしなければと考えています。ところで、私には子供が一人いて、剣術も受身も軽業も、みな私より勝る腕前です。しかしながら、つくづく思うに、このような事を生業とするのは、人としての道に背くことです。振り返ってみれば、私が長年この道に長じてきたのは、その昔、何某と名乗って仕官していた頃、剣術の妬みから私を恨む人がいたのを、その人を返り討ちにして官を退いたのですが、その後は世を渡る術もなく、食に飢えても、再び奉公することもできず、心ならずも盗人になってしまいました。それでも、倅だけはどこかへ修行に出し、武芸の家でも起こさせようと思ったのですが、悪事には進みやすく、盗賊の仕方ばかり鍛錬して、なかなか私の手にも負えなくなってしまいました。今は、あなたの手を借りて、かの倅を手打ちにしようと思っています。このようなこと、あなた以外に頼むべき技量を持った人はいません」
と、切実に訴えた。
 無敵も、僧が俗世間から身を隠して生活を営むとすれば、このような生業に身を落とすのも無理はないが、さすがに元は武士たる者、零落したとはいえ、その子にまでも、辻斬りや追剥ぎなどの生業をさせるのは、これまた人の道ではないと納得し、「あなたがそこまで思い詰めているのならば、如何様にも御心にお任せいたしましょう」と請け合った。
 僧が、実に嬉しそうに笑み、「おい、林八」と呼んで、出てきた者を見ると、未だ十六七に過ぎない年頃で、髪形や物腰、手足の先まで美しく白く、まるで玉を刻んで人にしたかの如く光り輝くようで、無敵も、思わず心が揺らいでしまった。
 どんなに耐え難いことだとしても、これほど立派な若者を、殊に剣術の妙を得たような人を、僧の思うようにならないからといって、自分に殺させようとするとは、無敵には、僧の心の底が測り難かった。無敵は、
「他人の身としても惜しいと思うのに、ましてあなたは父でしょう。それを憎んで殺そうと思うとは。慈悲の道を考えることはできませんか」
と言ったが、僧は笑うばかりで何とも答えず、ただ「殺し給え」とばかり言って、もう、無敵の前に、かの弾丸五つと、二尺ばかりの棒を得物として差し出している。
 僧は林八を招いて、
「お前は、この客人の御相手をして、逃げきってみせよ。仕損じるのは恥だぞ」
と言い付け、両人を連れて一間に入れ、外から錠を下ろした。
 その中は、二間の板敷で四方に聖行燈という物をかけたばかりであった。
 林八は、馬鞭一本を手に取っているばかりで、刃物などは持っていない。無敵はたやすい相手だと思い、常に鍛錬している弾丸を打ちかかったが、林八は鞭を振り上げて、過たず弾丸を叩き落とし、すぐさま飛び上がって梁の上に逃れた。無敵が二発目を打てば、また飛び退いて、今度は無敵の後ろに回った。払えば前、くぐれば馬手(右手)、あるいは戸の桟を走り、鴨居に立ち、壁を伝うこと蜘よりも早く弾丸をかわし、ついに無敵は、五つの弾丸を悉く打ち尽くしてしまった。
 止む無く無敵は、腰の物を抜いて飛びかかり、真二つにしてくれんとばかりに、丁と斬りかかれば、林八は鞭で刀を受けて払う。それはさながら神か鬼か、神通力を得た人のようで、無敵から僅か二尺に足らずのところを付き巡り、無敵も幾度か手を尽くしたが、斬れども突けども林八のいいようにあしらわれて、疵ひとつつけることができなかった。

 無敵も、力の限りを尽くして、冨田一流の極意、秘術を用いて縦横無尽に攻撃をしかけたが、なかなか薄手の一つをも負わせられず、もはや戦う意欲も殺がれてしまい、しばし控えていたところ、僧が表より声をかけ、「両方とも互いに引き給え」と、錠を開けて両人を部屋から出した。
 僧は無敵に向かって、
「さてさて比類なき働き、おそらく貴方は、この道の奥義を得たものと見えます。しかしながら、今しばらく戦い続ければ、御身も無事では済みますまい。ただ林八のことは、我が子ながらこれ程の妙手を得て、立派な若者になったので、不憫と思わない訳ではありませんが、ひたすら盗賊の業を悦ぶので、所詮、亡きものと思い、貴方の働きを願って託したのですが、それさえ及ばないとなれば仕方がありません。今はお休みください」
と、酒を勧めた。

 夜もすがら、二人は兵法の口伝、秘術など、まだ話し足りなかったところを委しく伝えあっているうち、早や夜も七つの頃になるようで、月の光もやや薄らぎ、鶏の声が微かに聞こえてきて、無敵は帰ろうとした。僧もまた名残惜しげに立ち、しばらく無敵を見送って、屋敷の中へ戻って行った。
 その後は、朝霧が深く立つ中を二三町も過ぎたと思うに、早や、棟門が立ち並んでいた屋敷も見えなくなっていた。茫然としつつ、踏み知らぬ山道を分けつつ、よく分かららないままに歩いて行くと、漸く人里が見えてきた。急いで近づき、都への道を尋ねているうちに、そこが静原より大原に通う山道だということが分かった。
 無敵は、この出来事がどうしても訝しくて、二三日後に、また、かの道を尋ねてみたが、道を間違ったのであろうか、ついに、再び屋敷を探し当てることはできなかった。

巻5の1 花形の鏡 附 難波五人男が事

2018-05-27 | 御伽百物語:青木鷺水
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 摂州難波の津、白髪町という所に住む阿積桐石とかいう人は、その昔は儒医として名高く、かつては仕官をも勤め、富貴の栄耀をも究めた人物であるが、さる仔細があって、この所に引っこんで逼塞の身となってから、今は世を渡る術もなくなり、今日の命を育むべき道もなかった。
 だから、身命を保つには、学び得た儒の道を広めるより他はないと思い、昨今の、俗っぽいばかりで、鬼神の説に馴染み陰祀にまみれ、儒学の名を徒に称するだけで、釈迦の骨を有難がる者ばかりが数知れずいる世の中で、この輩の目を覚まさせて、正しい道へ進めさせるにはこれしかないと、自ら工夫して無鬼論というものを造り、書に著そうとした。

 そうして執筆しているある日、桐石は、草稿半ばに至って気疲れがして心が倦むままに、しばらく卓に寄りかかって居眠りをしてしまった。すると夢か現か、忽然として桐石の側に人が立っていて、手を差し伸べて桐石の肘をしっかりと捉え、引き立てようとするので、振り仰いで見ると、何とも恐ろしく、背の丈は天井につかえるほどもあり、二つの眼は姿見の鏡(手鏡)に紅の網を懸けたように血走り、角は銅(あかがね)の榾木を並べたに生え、髪らしき物は、銀(しろがね)の針を散らしたように見え、左右に牙の生えた口が耳の辺りまで裂けた鬼が、屹(きっ)と目を見合わせて立っていたので、桐石は身の気が弥立ち手足は戦慄いて、人心地を無くして打ち伏していると、この鬼は、
「お前は生半可な儒学に迷い、道に背いて、鬼などはいない物だと勝手に決めつけ、猥りに後輩を欺き、世を惑わす説を流して、安易に飯の種にしようとした。鬼神などいないと考えているようだが、お前がいくら智のある奴だと言っても、孔子や孟子に及ぶわけではあるまい。だから、我がここに現れ、お前を連れて黄泉の庭に至り、善悪応報の道がある様を知らせてやろうぞ」
と言うと桐石の腕を取り、引提げて飛び上がった。

 雲に乗り、風に従い、四五里程も行ったかと思うと、一つの大きな門に着いた。その構えは、例えるなら難波で見馴れた城のようであった。白い鬼や赤い鬼どもが鉄杖を取り、剣戟を構えて大庭に居並んでいる有様は、何とも言えないほど恐ろしい。連れて来た鬼は、桐石を階(きざはし)の基に引き据え、雷のような声を出し、
「武州大日本難波津の書生、桐石を召し捕って参りました」
と叫んだ。
 しばらくあって、奥より、玉の冠を戴き牙の笏を取り、威儀を正した人が静かに歩み出て、玉扆(ぎょくい=玉座の屏風)に座し、その左右には侍衛や百官が、列を厳かにして座した。そしてこの王は桐石に詔して、
「汝は愚迷の才に驕り、みだりに無鬼の邪説をなした。この故に、今、汝を召し寄せて、その無知蒙昧な考えを改めさせるものである。速やかに帰って有鬼論をつくるべし。鬼らよ。こやつを率いて、地獄がある事を見せてやるがよい」
と宣いもあえぬに、獄卒が桐石を連れて、別の場所に至った。

 そこは、たとえば仁徳の社のような構えに金銀をちりばめたようで、その宮中に五葉の花形をした鏡があって、玻璃の臺(うてな)に据えられていた。桐石が走ってこの鏡に向かおうとすると、鬼が、
「生ある者は、この鏡に向かってはならない。これはこれ浄玻璃である。人間が一生の間に犯した罪悪を悉く辿るから、もしお前がこれに向かって罪悪の相が現われたなら、お前は再び生きて娑婆に帰ることはできない」
と教えたので、桐石は身震いして控えた。
 するとそこへ、男女の区別も判らないほど、手足は疲れ痩せて糸のようで、腹は茶臼山を抱えたような者が五人、四つん這いになって来たのを、情けを知らぬ獄卒どもが鉄杖で散々に打ち立て打ち立て、この鏡の前に追い進ませた。どうなることかと見ていたら、不思議に、この鏡の一葉毎に、五人の罪が各々現れた。それを見て桐石も、彼らが何者か悟った。彼らは最近、難波で男伊達と聞こえた五人の哀れ者の、なれの果てであり、桐石は、不憫に思って眺めていた。

 この男伊達の親分で庄九郎という者の親は、ある時、田畑の事で近所の者と争いをし、庄屋を相手に訴訟をするべく、訴状を懐にして大坂の方へ赴いた道で、どうしたことか頻りに腹が痛みだし、曾根崎の天神に参って、しばらく拝殿で休んでいたが、いつとなく少し微睡んだ夢心に、数多の騎馬に乗った人が、この社に入り来て、
「三○村の地神、しばらくの間、雷を借り申したい由の御使いに参りました」
と言う。すると中から衣冠の人が四五人、小さな車を押し出して、使者に貸し与えている、というところで夢から覚めた。そこで、急いで帰って、近辺の村にも言い聞かせ、自分も、麦の頃だったので、急いで麦を悉く刈り込んだところ、二三日過ぎて大雨・雷電夥しく、洪水は逆巻いて、川も溢れるまでとなり、その洪水が村を襲ったので、庄九郎の親が言った言葉を信じて麦を早く刈り入れた者は、危うく難を逃れたが、この言葉を戯言だと思って麦を放っておいた者は、大きな被害を受けてしまった。
 ところが、被害を受けた者たちは、庄九郎の親のことを悪く言い、庄屋に仇があるから、山伏を頼んで災難が起こるよう祈らせたのだ、などと言い触らしたので、かねて怨敵であった庄屋も、これに力を得て庄九郎の親を悪しざまに取りなした。
 庄九郎親子は、住む所を追い立てられ、この難波の町に住むこととなったが、庄九郎の親は、この事が原因で病になって、ついに世を早くしてしまった。それで庄九郎も、世の人々を怨むようになり、この報いをするべく思い立ち、まず、同じ心を持つ友人と共に男伊達と号し、肘に入墨などして、悪の一党となった。庄九郎ら一党は、
「生きて父母の勘当を恐れず、死して獄卒の責めを恐れず。千人を殺して千の命を得たり」
とうそぶいて、明け暮れ、刀や暴力に身を任せるようになった。そして、どこへ行っても、三○村の者は見つけ次第に仇を取ってやろうと、常に大脇差を放さなかった。
 彼らは、夜な夜な道頓堀のあたりを練り歩き、弱そうな奴や、少しでも粋がっている者がいれば、自分らの腕に任せて手ひどく当たれば、大抵は、平和な世の中で武器など扱ったことのない者ばかりであったので、たやすく餌食となった。
 そして一党は髪形も奇妙なものに変え、着る物から腰の物まで珍奇な格好をして、女遊びも派手に浮世を謳歌し、また、被害にあった者も、後難を恐れて泣き寝入りするしかなかったので、庄九郎ら一党はいよいよ図に乗って、もはや自分たちに敵対する者はいないと笑い、いよいよ無法に募り、人が恐れるのを面白がって此処かしこにのさばった。

 そんな具合だから、いつの間にか、親の仇を報せんと思い立った心ざしも忘れ、町のあちこちに出没して夜は廓に揚がり、悪事ばかりを働き回っていた、その刑罰に値する夕べまでの罪業、全て三千七百カ条の科が悉く鏡に現れ、後生を助かるべき善事はいささかもなかった。しかし、せめて死期に及んで前罪を悔い、念仏の功徳にすがる機会を与えられたので、この五人の者どもは真実に反省をして阿弥陀の名を唱えた。
 しかし閻魔大王の沙汰は、死期に至って命懸けで念仏して、今までの悪心を翻すとの願を起こし、御助け頂きたいと、心底から唱えた念仏であっても、これまでの悪事を帳消しにすることはできない。ただ、この一遍の念仏によって、三千七百カ条のうち千七百カ条分の罪は赦され、阿鼻大城に落ちるべき罪人ではあるが、減刑して、彼らは畜生道に落ちて梟の身に生まれ変わり、二万劫を経てからもう一度、人間に返すべし、との判決になった。
 それから獄卒どもは、かの五人を引き立て、また雲に乗って行くと見えたが、鶏の時を告げる声がして、大福院の鐘の響きに夢から覚めてみれば、白髪町の曙の中に、桐石は机にもたれながらうつ伏せなったままであり、妻は傍らでうたた寝をしている、元の通りであった。

巻4の4 絵の婦人に契る 附 江戸菱川が事

2018-05-20 | 御伽百物語:青木鷺水
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 世に名画と言われる絵画が神に通じて妙を顕すことは、古今、和漢の記録に数多くある。これらの、妙を得たと言われる人が描いたものは、花鳥人物ことごとく動いて絵から離れ、さまざまな態をなすことは、本物と同じで変わるところがない、ということは、古くから言い伝えられている。
 今の世でも、風流の絵を描く著名な画家は、波濤の果て、鯨が寄り来る蝦夷の千島までも、自分が描きたい風景を求めて出かけて行く。しかしそのために、千金を費やし、万里の道も遠しとせず、ただ自分の芸術を極めることだけに心を奪われて、終いには家を損なうなど、身を持ち崩してしまう者さえいる。
 その始まりを尋ねれば、武州江戸村松町二丁目に住んで、菱河吉兵衛(菱川師宣)と名乗る人こそ、最も優れた絵画の名手であった。菱河は、絵画の道を選んでから、草木や鳥獣では心を動かすに足りぬと言って、多くは人物の情を心に込め、有名な芝居を観ては、若女方や若衆方などの身ぶりを筆に写すようになった。
 その絵は、人物のありのままを見事に彩り、多くの人が菱川の画風を称賛し、世間でも有名になったので、今でも菱川の絵姿という名跡が多く残っている。
(注:原文では菱川についての説明が長く、いちいち記していたのではくどくなるのと、少々、慎みのない表現も含まれているので、割愛する。ただ、菱川師宣は「見返り美人」などで有名であるが、春画も数多く手掛けている、とだけ付け加えておこう)
 洛陽室町のほとりに等敬という書生が住んでいた。等敬は、学問所に通う道で古い衝立を見かけ、買い求めて帰り、何気もなくこの衝立を見ると、片面に美しい女の姿絵があった。年の頃は十四五ばかりに見えて、目元や口元、髪の形や立ち姿など、言葉も及ばぬ程しおらしく、彩色鮮やかに描きなされ、芙蓉のまなじりは恋を含み、丹花の唇は笑みを顕しており、等敬はつくづくと見とれ、心を迷わせて、しばらく眺めていた。
 等敬は、「このような女が世にいるのならば、露の間ほどの情けでいいから女に逢って、そのために、もし、この身が徒(いたずら)になったとしても惜しくはない」とまで恋するようになり、寝ても覚めても女の面影が頭から離れず、とうとう病気にまでなる程であった。
 そんな様子を聞いた等敬の親しい知人が、等敬を憐れに思って、
「君は、この絵姿の由来を知っているか。これは菱川が心を尽くし、気を詰めて、直にこの人に向かって姿を写したものだ。だからこの絵には、その女の魂を移したとも言える。この人のことを想い、一心に念じ呼ぶならば、必ず何らかの応答があるはずだ。その時には、百軒分の酒を買ってこの絵に供えれば、この人は必ず、絵の姿を離れて本物の人間となるであろう」
と、懇ろに教えて帰った。
 これを聞いて等敬は、世にも嬉しく思い、毎日念じ、心を尽くして呼んでいたところ、果たして応えの兆しが見えた。そこで、急いで百軒分の酒を買って絵の前に供えたら、不思議にもこの姿が地を離れ、淑やかに歩み出てきた。その姿は、絵の中でも類稀な美しさであったものが、立ち居振る舞いから心映え情けまで、また、類なきものであった。
 そしてついに偕老の契りをなして、末永く、等敬の本意どおりに縁が結ばれたのは、まことに珍しいためしである。

巻4の3 恨み晴れて縁を結ぶ 附 高山の喜内田地を売る事

2018-05-13 | 御伽百物語:青木鷺水
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 近江の国、守山辺に喜内とかいう農民がいた。生まれつき正直者で、かりそめにも人に対して悪いことはせず、逆に、自分のことを顧みなくても、人のため良い事であれば世話をするような心映えの者であった。しかし前生の因果によって、兎角、稼いでも稼いでも貧乏暮しから抜け出せず、日を追うごとに生活もままならなくなってきた。そこで、少しばかり持っている田地を人に貸して耕作してもらい、収入の助けにしようと思い立ち、あちこちと人を頼んで耕作してくれる人を探していた。
 すると、その近くに住んでいる藤太夫という農民がいて、非常に欲深く、わずかな利益も貪り、一銭の事でも惜しみ、人の手前も外聞も恥じることなく、汚いまでにケチな者であったが、この、喜内が田地を貸そうとしている話を聞いて、早速、欲を越し、何とか安く価を値切り、我が物にしてやろうと悪知恵を働かせ、長年庄屋に召し使われている十太郎という男に話を持ちかけた。藤太夫は、
「今、喜内が田地を貸そうとしているらしいが、それについて頼みたい事がある。それと言うのも、喜内には年貢の未納があって、しかも、それが積もり積もって七八百匁もあるものだから、喜内は貧乏が日毎に増していって、とうとう田地を人に貸し、何とか収入にしようとしているらしい。うまい具合に、喜内の田地はうちの田と並んでいて、実は前々から、あそこを手に入れたいと思っていたのだが、人の田を借りて耕やすだけでは詰まらない。元々が貧乏性な喜内のことだから、たとえ人に貸したり質に入れたりしても、どうせそれで富貴になるわけではあるまいし、ここはお前が口を利いて、喜内が田地を売る気になるよう説得してくれ。そして、もし売ろうという話になったら、庄屋さんは慈悲深い人だから、田地を売ろうという喜内のことを考えて、年貢の未納のことは言い出さないと思うが、売買の値段が決まった上で、庄屋さんが席を外したら、年貢の未納の話を持ち出して、未納分を更に値引きさせてくれ。そうしてくれれば、定めどおりの仲介料に加えて、未納分として値引きさせた額の十分の一をお礼しよう」
と酒を勧め、うまいことを言って頼めば、この男も欲に迷い、安く請け合って帰った。
(注:江戸時代は、田畑の貸借や質入れ、売買などをする際には庄屋を介し、証文に庄屋の認印が必要であった)
 さて、喜内が善人なのはよく知られているので、近辺の農民たちは彼の貧乏を気の毒に思い、皆して、できるだけ裕福な所へ田地を預けさせ、喜内に恙ない生活をさせたいと思い、さまざまと駆け巡り、いい話をたくさん持ってきて、何やかやと世話をしてくれた。しかし、庄屋のところにいる十太郎が、いろいろと難癖をつけては承知せず、今は喜内も詮方なく、この田地を売ってでも当面の収入にしようと思い始め、他の人にもそう言い出していた。
 すると十太郎はしめたとばかりに、かの藤太夫に売買の話を持ちかけ、しかも喜内の足許を見て、安く値切ってきた。喜内も、心の中では大いに不満であったが、貧乏に苦しめられているのはどうしようもなく、僅か二十両の値で売る約束をした。
 ところが、ここに至って藤太夫は、かねて企んでいたとおり年貢の未納を言い出して、金を渡そうとしていたところから八百匁を差し引いてを支払った。喜内は、しまったと思ったが、未納分の年貢について決めておかなかったのは自分の手落ちだと思い、なす術もなく、藤太夫の言うとおりにするより他なかった。
 藤太夫は、用の済んだ喜内を帰らせようと、自分が持ってきた酒を喜内に一二献進めて、愛想なく、すぐに盃を納めた。奥にはなお、酒や膳が整えられていて賑わいあっていたが、喜内に取り合う者は誰もなく、賑わいも喜内には素気なく騒々しいばかりで、やがて、その座を立って帰って行った。
 それにしても、この藤太夫の仕打ちといい、売価を値切られた上に年貢の未納分まで差し引かれた無念さは、ひとしおの恨みとなり、喜内は根が真っ直ぐな人間だけに、憤懣やるかたなく、そんなことなら、今宵の内にでも藤太夫の家に火をかけて藤太夫の財産を焼き払い、せめてもの慰めにしようと思いつき、このことを妻に語った。
 妻は懇ろに諌めて、
「あなたの心にいた善には、どのような悪が入れ替わって、そのような筋の通らない考えができてしまったのでしょう。私がたまたま法談(仏教の説諭)をちらりと聞いたところでも、仇は報ずるに恩をもってすべし、と言います。菩薩や空也上人の境地までなくとも、せめて、そのような悪業はなさいますな。貧乏なのは天命です。貧乏から起こった怨みではありますが、天命を弁え、前生の因果を思えば、恨むべき人もなく、悲しむべき身もないものです。どうかどうか、そのような悪しき心を起こして、さらに後生の罪を作らないでくださいまし」
と、泣きつ笑いつ説得した。しかし喜内は、聞いているふりをして、納得はしていなかった。
 その夜更け、人が寝静まった頃、喜内は密かに、焚き付けになる物や摺火打ち、塩硝(火薬の原料)などを懐にして、藤太夫の家へ急いだ。ところがちょうど藤太夫の家では女房が産気付いて、取り上げ婆などが走り入ったりと物々しい様子なのを見て、喜内は、
「そもそも、私が仇と思っているのは誰かというと、藤太夫ひとりではないか。今、藤太夫ひとりに恨みを報わせるため、藤太夫の家に火をかければ、この産婦はもちろん、そのほか近辺の人まで同じ禍に巻き込んでしまって、そうなれば恐ろしい天罰が待っているに違いない。恨みを晴らす相手は一人で十分なのに、勢い余って後生の罪を背負い込んでしまうのは、私の本意ではない」
と思い返して、持ってきた放火の道具を、溝の中へ捨てて帰った。

 それから喜内は、かの僅かな金を元手に、酢や醤油、酒などの醸造を家業とし、夜を日に継いで稼ぎ、正直に働いたので、日を追って富が増していき、田畑や牛馬にも事欠かず、家門は広くなり、多くの使用人を抱え、昔の貧乏が嘘のように暮らしは楽になった。
 それに引きかえ藤太夫は、近年、水害や旱魃が代わるがわる襲って不作が続き、あるいは家の中で病者が絶えることなく、または、僅かの利欲に目がくらんで金銀を投資しては損を出してしまうなど、今は生業をしようにも元手がなく、今日の暮らしさえ困難になってきた。しかし、宝は身の差し合わせ、とか言う言葉もあるとおり、田地を売り払えば、今の急を何とか凌げると思い立ち、近辺の人にも相談し、あるいは頼みなどして駆け巡ってみたけれど、皆は、藤太夫がケチで汚い者だと知っていたので、誰もまともに取り合ってくれず、気ばかり焦る日々を送っていた。
 そんな折しも、藤太夫が田地を売りたがっている話は、喜内の耳にも入ってきた。喜内はこれを聞いて願ってもない幸いと喜び、以前、藤太夫が自分にした仕打ちを、今度は自分が藤太夫にしてやろうと思案を巡らせ、例の庄屋の所にいる十太郎に、藤太夫の年貢の未納を尋ねると、八百匁ほどあると言う。それならば、かつて自分が売った田地を買い戻させ欲しい旨、藤太夫に掛け合ってくれるよう頼めば、十太郎もまた眼前の謝礼に迷って、安く請け合った。
 さて、田地の売買をする時も、藤太夫にはまだ、少々不満なところもあったが、ようやく買おうという人が現れたのは幸いだと思って、代金を金二十両に定め、証文を作成しようとして一同が集まった時、喜内が買主だという事を知って驚嘆した。そして、いよいよ証文を渡そうとする時になって、例の、年貢の未納の話を持ち出され、とうとう八百匁を差し引かれて金を受け取った。また喜内は酒を持って来ており、藤太夫ばかりに一二盃ほど呑ませて、さっさと帰してしまった。

 藤太夫はつくづくと、自分が作った仇の報いだとは思い知ったが、それにしても喜内のことが身に染みて恨めしく、憎くて、どうしても今夜は喜内の家を焼き、せめて財産を失わせて、自分の胸を晴らしてやろうと一筋に思い込み、藤太夫も焚き付けや火打ちなどを入れた包みを携えて、喜内の家へ行き、時を伺って門の様子を聞いていた。ところがその時、喜内の家でも女房が産気付いていて、人々が慌ただしく行き通っているのを見て、藤太夫にも慈悲の心が起こり、怨みを抑え、火の具を溝に投げ入れて帰って行った。
 夜が明けて、たまたま表に出た喜内がこれを見つけて大いに驚き、火の道具を取り上げて、いろいろと騒いでいるうち、昨日、藤太夫が書いた受取り証文の反故を見つけた。喜内は、
「因果というものは不思議なものだ。俺が、あの田を藤太夫に買われた時の恨みを晴らすため、火をつけようとした事は、誰も知らないままだった筈だ。そうであれば今、藤太夫が田を俺に買われて憤るのも無理はない。もし俺があの夜、藤太夫の家を焼いてしまっていたら、俺の家もまた、藤太夫に焼かれてしまっていただろう。我ながら、よくぞあの時、悪念を翻したものだ。この陰徳が今になって陽報の喜びとなったに違いない」
と思い巡らした。
 そして、喜内は銀十枚を包んで藤太夫の家に行き、昔、自分が田を売った時から、今日、自分が見たものまでをつぶさに語り、
「今は互いに恨みを晴らし、この因果を恐れて、これからは人にも善を勧めようではないか。今日からは私を他人だと思わないで欲しい。私も二心ない証に、あのころ生まれた君の子は男の子で、手を折って数えるに確か今年は十才になるだろうが、私の子は昨夜生まれて、しかも女の子で、年の程もちょうど似合うから、これをいいなづけて、一族の好を結ぼうと思う」
と語ったところ、藤太夫も喜内の志を感じ、前非を悔いて、互いに盃を酌み交わして一門の契りを結んだ。
 その後、二つの家は互いに富貴の身となって、今でも栄華が尽きずにいるという。

巻4の2 雲の浜の妖怪 附 鵜取兵衛あやしき人に逢う事

2018-05-05 | 御伽百物語:青木鷺水
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 能登の国、一宮にある気多神社は、能登の大国主にして羽咋郡に鎮座する神である。多くの祭祀がある中で、毎年十一月中の午の日は鵜祭りといって、丑の刻に至ってこれを勤めるのに、十一里を隔てた鵜の浦という所より、いつもこの神事のため、鵜を捕え、籠に入れて提げ来る役人がいる。彼の名は鵜取兵衛といって、代々同じ名を呼び伝える習わしであった。
 去る元禄の頃、この鵜取兵衛が、いつものように神事のため、鵜の浦に立って鵜を捕えようとしていたが、数ある鵜の中でも神事を勤める鵜はただ一羽のみであるところ、今宵は珍しく二羽の鵜が寄って来たのを、何気なく一羽だけ捕えようとしたが、思いがけず二羽とも捕まってしまったので、不思議だとは思いながらも、ついでに二羽とも持って帰ることにした。
 そして捕えた鵜を籠に収め、一宮へと急いでいたところ、年の程は二十ばかりと見える惣髪の男で、書物を懐に入れていかにも学問などに通じていそうな書生が、この鵜取兵衛に行き逢って道連れとなり、しばらく話などをして連れだっていた。ところがどうしたことか、俄かに書生が腰を引き始めたので、「どうしたのですか」と問えば、書生は、
「急に疝気が起こって、今は足を運ぶのも難しくなりました。どうかその鵜籠に、暫くの間、乗せてください」
と言うのを、鵜取兵衛は冗談だと思い、
「お安い御用です。乗ってください」
と言えば、書生は立ち上がって、
「では、乗せていただきます。御免ください」
と言ったかと思えば、書生はたちまち鵜籠の中にいた。しかし、それほど重たいわけでもなく、書生が鵜と並んでいるのを、不思議なことだとは思ったが、咎めるほどのことではないし、なお道すがら話して行くほどに、一宮まで、あと二里ばかりになった頃、かの書生が鵜籠より出てきて、
「さてさて、今宵は良い道連れに出会えたので、足を休めることができました。このお礼に、ぜひ振舞いをしたいと思いますので、しばらくこちらでお休みください」
と申し出た。鵜取兵衛も不敵者なので、
「では、御馳走になりましょうか」
と、荷を下ろした。
 すると書生は口を開いて、何か物を吐き出すと見えたが、それは、大きな銅(あかがね)の茶弁当一つ、高蒔絵をした大提げ重一組を吐き出した。この中にはさまざまの珍しい食物や、魚、野菜、あらゆる肴が満ち満ちており、鵜取兵衛に食べさせ、酒も数盃に及んだ時、かの書生が、
「私は、一人の女を連れて来たのですが、あなたに遠慮して言い出せず、今に及んでしまいました。お邪魔でなかったら、呼び出して一緒に呑もうと思うのですが」
と言うので、鵜取兵衛が、
「何の遠慮することがありましょうや」
と言えば、又、口より女を吐き出せば、年の頃十五六ばかりと見え、容顔美麗で愛らしい女であった。書生もいよいよ興をもよおして酒を呑んでいたが、だいぶ酔ったようで、そのうち横になって寝てしまった。
 すると、その女が鵜取兵衛に向かって、
「私は、この人と夫婦になった時、兄弟のない身の上で、気を遣う親類もいないと偽ったので、この人も、私一人ならば何所までも一緒に行って養ってやろうと誓いを立て、私もここまで慈しみ恵み申して来ました。けれども本当は、私には一人の弟がいて、この夫に隠して養っていおりました。今、この夫が酔い伏している隙に、呼び出して物を食べさせ、酒なども呑ませようと思います。ですから、夫の眠りが覚めても、決してこのことを夫に言わないでください」
と口止めをして、この女もまた、一人の男と金屏風一双とを吐き出し、夫の方にこの屏風を立てて目隠しとし、かの男と語らいながら酒を呑んでいた。

 そのうち、早や夜も七つ過ぎになろうかと思う頃、かの酔い伏したる書生が欠伸をして起きようとする様子を見せたので、女は驚いて、先ほど吐き出した男と屏風とを呑んて、何事もなかったかのように、傍らに座っていた。書生はようようと起き上がり、鵜取兵衛に向かって、
「さても今日は、さまざまと御世話になり、ここまでの道をご一緒いただきました。また、酒にもお付き合いいただき、楽しく過ごすことができて、誠に忝ない次第です」
などと一礼し、さて、かの女をはじめ弁当敷物など悉く呑み尽くして、白銀の足打ち(折敷)一具だけを残して、鵜取兵衛に与え、別れて行った。
 鵜取兵衛は、この足打ちを持って宿に帰り、まず、この怪しい話を妻に語り、貰った足打ちを自分の家の什物として他人にも見せたりした。
 しかし、初めに、確かに二羽捕まえたはずの鵜が、一羽しか籠に入っていなかったのも、また怪しい事であった。

巻4の1 有馬富士 附 二本松の隠れ里

2018-04-28 | 御伽百物語:青木鷺水
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 摂州有馬郡塩原山の温泉は、世に有馬の湯と称して、近郷はもちろん遠くの方からも、馬や徒歩でやって来た人々が日夜に群がり、疲労や病気など各々の悩みに応じて、案内人の教えるままに湯治をすれば、速やかに百発百中の験があるということで、第三十五代舒明天皇が治世三年の時に初めて行幸してから、千年を経た今日にまで至り、その繁栄は綿々として絶えることがない。そして、この湯で生活を営み、湯治をする病者の世話を生業とする者もまた少なくなかった。
 それは去る建久の頃より、人々が土地を均して建物を構え始め、やがて十二の房が軒を連ねて湯槽を十二に分け、湯治客が押し寄せるようになったが、無用な醜い商売争いを避けるため、房ごとに大湯女・小湯女と名付けた女を雇い、五畿七道の旅人の世話をさせるようになった。それがいつとはなく、色を媚び情けをつくる恋慕愛執の場となり、夜の一刻、千金を使い果たしてでも儚い夢を望んだり、果たされない約束が交わされたり、寝言を当てにするような倣いが、常となってしまった。

 ここに玉笹の仙助という男は、その昔、越後の高田で名ある武士であったが、さる仔細あって、延宝年中に一族を引き連れて、年ごろ住み馴れた高田を立ち退き、丹州の雲原という所に田地を買い求め、武士を辞めて農民となり、気楽な生活に身を転じた。
 仙助は、明けても暮れても、碁、将棋、連歌の席、または琴、三味線、尺八など、様々な遊興をし尽くしたが、それにも飽きてきたのか、このごろは、ひたすらに色の道に耽り、楊国忠の肉陣とかいう、座った周りに美人を大勢居並ばせ、冬の寒い嵐を防がせたという話を聞いて、自分も真似をしてみたくなった。そこで、京、江戸、大坂は言うに及ばず、あちこちの国々へ美人の絵図を携えた人を遣わし、姿かたち、目つき物腰の良い美女を十人抱えて肉陣の遊びするぞと思い立ち、千金を惜しまずに方々より呼び集め、尋ね求めた。ところが、目当ての美女はわずか七人しか集まらず、「絵に合うような女が見つからない。世の中に女はいないのか。どうしたものだろう」と思っていた。

 それが此のたび、ある人が語るには、摂州有馬の湯本大蔵町というあたりに、高町無三とかいう針医者がいて、いつもはその辺り近郷の村で療治するのを生業としているが、その傍ら、貧しい家の娘や頼るあてのない寡(やもめ)の子などを引き取って、この村の湯女や、京、江戸、大坂の色を売る里、あるいは大名高家で茶の間や湯殿の宮仕えなど、それぞれに仕立て、果敢ない勤めに今日の命を繋がせている人がいる、ということを聞いた。
 仙助は、それならば、彼を尋ねてみれば望みが叶うのではないかと思い立ち、ついでに湯治で養生もしようと思い、早速、旅に赴き、夜を日に継いで大蔵町に着くと、無三の客となって心中の程を語れば、無三もまた、仙助の富貴さと執念に折れて、心安く請け負うことにした。
 無三は、
「それでは、いつ、御供いたしましょうか。国法の御禁制があって、そのような女たちをここに養い置くわけにはいきませんので、離れた所に置いております」
と語り聞かせた。それから四五日も過ぎたと思う頃、仙助と無三は忍びやかに宿を出て、北へ向かって行くこと三里ばかりして、三田村とかいう里に着いた。無三はここで駕籠を帰し、仙助と二人で二本松の傍へ行くと、程なく、大きな門構えがあり、そこは、昔は名高い寺だったと見えて、庫裏や客間などが昔風の構えであったが、軒は破れ、瓦は落ちて、狐か梟の住処とも言うべき有様で、本堂と思しきところも、一角が崩れて雨漏りがしているようである。
 この本堂には、丈六の佛を客殿の広庇に据え置いていたが、仙助は見馴れぬ事どもに心置かれ、これは何だと思っていると、無三は、こともなげに佛の膝によじ登り、仏像の左の乳首を取って引き上げれば、大きなる穴が空いていた。

 仙助を招いて、共にこの穴より這い入ると、不思議なことに、佛の腹の中に、また広い道があって、十間ばかりも進んだかと思うと、また大きな門構えがあった。初めに見た門構えとは違って、こちらの棟門は玉を磨き金銀をちりばめ、心も詞(ことば)も及びがたく、かつて太閤秀吉が伏見城の御殿を普請した有様もこのようであったかと思え、金閣の東山殿にも匹敵する構えに見えた。
 まず無三が門に入って案内すると、年の頃十四五の童子六七人が水色の直垂に小結の烏帽子着て出迎え、無三を見て手招きして、
「こちらの主人は、久しく、貴方様がこのほどお出でになるのを待っていました。どうぞお通り下さい」
と誘われ行くと、ここの主人らしき人は五十路になるぐらいかと見え、折烏帽子に水干をきちんと着こなし、八つ藤の指貫(袴)に沓を履いて、螺鈿の椅子に倚りかかっている。その高貴な有様に、仙助は心惑い魂を失うばかりに戦慄して控えていたが、無三が何ともないような顔をして静かに歩み寄れば、この主人は恐れている気色で、椅子から立って迎え出て一礼をした。
 そして無三は、仙助の方を振り返って、主人に対して、
「この方は、高田の何某とおっしゃって、弓馬に名のある御方である。よく饗応(もてなし)をせよ」
と言って仙助に引き合わせ、
「我が今日ここへ来たのは、この御方を誘い、お連れするためであった。しかし今、急に用事ができたので帰ることになった。お前たち、決してこの御客に粗相があってはならないぞ。ここに置いた女どもを、皆、召し出して饗応せよ」
と言って帰ると見えたが、たちまち姿を消してしまった。
 仙助は、いよいよ怪しく思いながらも、貴人に馴れ馴れしく話しかけるわけにもいかず、ただ畏まり居ると、かの主人が仙助を奥の方へ誘った。そこで、唐織の深縁をさした二帳台に、紫檀の椅子に古金襴の帳をしたところに仙助を座らせ、自分は少し引き下がって、錦の深縁をさした二帳台に置いた白檀の椅子に直った時、十八九より二十四五までぐらいの、姿形が非常に清げで、玉を連ねて作ったような女が二十人ばかり、行き通いさし集って、さまざまの肴や膳を整え、心を尽くし、酒を勧め、謡舞などを始めた。

 仙助がこの有様をつらつらと眺めるに、「俺が、国許で絵姿に映し、あっぱれな美人だと思ったのも、ここの女に比べれば、花の傍らの枯れ木か、孔雀の前の梟としか思えない」と、いつになく心勇み、興に乗じて大いに酒を酌み交わした。
 その中でも、花川とかいう女は、年は少し盛りを過ぎたと見えるが、声よく歌い、器量も一入(ひとしお)に勝れていたので、仙助もこれに目が移って、宵が深くなるににつれ、自然と花川の側へ寄って目を合わせると、花川もまた心ありげな様子で、仙助がまだ呑み足りないと見たのか、自ら酌をしに立って来た。
 花川の、衣に身を包み、楽器に合わせて歌う声から扇の手の身ぶりまで、何とも言えない美しさであった。仙助がつらつらと聞き入っていると、主人が、
「俄かに用事ができて、国守に召されることになりました。程なく帰りますので」
と、仙助に暇を乞い、夜はいまだ子の刻ばかりであったが、供まわり、騎馬、数多く引き連れて出て行った。
 そのあとは女だけの座敷となったので、仙助は、今こそ思う事を言わでやと、花川と一間の閨に入って、千夜も一夜と思うほどに、偕老の契りを深くした。
 ところが仙助の睦言に、花川は打ちしおれ、涙汲みつつ、
「ときに貴方は、どうした経緯でここに来られたのですか。妾(あたし)は、もと近江の国高嶋の者で、坂上田村丸利仁将軍(東北で活躍した坂上田村麻呂は、同じく東北で活躍した藤原利仁と融合して、前記のように語られる場合がある)に仕えていた海津の細目と言う者の姫でございます。利仁将軍が高嶋を所領していた時、禁中の何某とかいう侍を誘って、飽きるほど芋粥をご馳走しようと、連れて来たことがございます。(この話は芥川龍之介の「芋粥」で有名)父はその頃、利仁将軍に仕えて暮らしていて、私もわずか七つばかりの年でしたが、この飯綱(いづな=想像上の動物で狐の仲間)使いにさらわれ、幻術に迷わされて年月を重ねる程に、今は早や幾許の年月も過ぎてしまい、もう、国元との縁も絶えてしまったかと思えば、悲しくて仕方ありません。貴方も、もしここから逃げ出さなければ、永くこの里の捕らわれ人となって、世を惑わす者どもの手先として駆り出されることでしょう。ここらいる人はみな、そうした人々ばかりです」
と語り続けて泣くに、仙助は大いに驚き、
「おぬしは何の話をしているのだ。高嶋に利仁将軍がいたというのは、第五十代桓武天皇の御世で、それから千年近く経っている。今は既に第百十四代中御門天皇の世で、年号も元禄と改元されてから三年だ。おぬしが語る芋粥の話は、宇治拾遺という物に記し伝えられ、世間の人々が口すさみに語るものだ。そのような嘘をつくものではない」
と咎めた。
 とは言いながら、さしあたって、自分の身の上をどうしたものかと思案していると、花川が、
「そのように、この里を、奇妙な、不思議な所と思われるのも、無理はございません。でもそれは、後でゆっくりお話しいたしましょう。とりあえずは、妾が言うようにしてください」
と言って、白い被り物で仙助の頭を包み、
「主人が帰って来たら、天照大神をはじめ、諸々神号を唱えてください。主人は必ず侘びを言うでしょう。そうでなければ、助かる方法はありません」
と教え置いた。
 程なく、夜が明けようとする頃、かの主人が帰ってきた。仙助が花川の教えたとおり大声をあげて祈ると、主人は大いに仰天し、頭を地につけて命乞いをし、
「花川の骸骨め。我を裏切ったな。そのせいで、こんな災難に遭う羽目になった。我の幻術もこれまでだ。もはやここに住むことは叶わない。命ばかりは助けてくれ」
と、再三呼ばわり逃げ去った。
 花川は仙助に向かって、
「妾は、貴方と深い縁があったからこそ、契りをなすことができました。あの主人は、昔、津の国、龍泉寺にいて、仲の悪い修行者を肥前の国まで投げ飛ばすほどの幻術使いでした。でも今は、去ってしまったので、もう安心です」
と言った。
 それから仙助は花川を妻にして、二年ばかり過ごしていたが、ふと故郷が懐かしく、帰りたいと思うようになって、妻にこの事を話したら、妻もまた、
「妾は、幽冥に許されて、仮にここに来た身ですが、その日数は限られていて、実は今日で期限が尽きてしまいました。ですから貴方も、もう元の所へお帰り下さい。そして、この二年間のお情けを忘れないでいただけるなら、妾のことを哀れにもお思いください」
と、懇ろに語り、仙助を伴い、刃物で東の壁を切り開けると、一番始めに入ってきた時の、仏の乳の穴に似ているような穴が開き、ここから仙助を押し出したかと思うと、そこは図らずも、有名な武州江戸浅草にある駒形堂の、縁の下より這い出てきた。
 それからというもの、漸う物乞いをしながら命を繋いで元の丹州に帰ったが、わずかに二年あまりと思ったのが、国に帰ってみれば、二十年が経っていたということである。

御伽百物語 序

2018-04-22 | 御伽百物語:青木鷺水
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 春は、穏やかな日があったり嵐の日もあったりするが、今日はのどかな日だ。誰か訪ねてこないかなあと、外を眺めていると、ほころび始めた梅が芳しく、夕日が着物の袖に映り、風がまた何とも言えず心地よい。
 そうこうしていると、私の梅園の入り口に、いつもの友人達がやって来たが、その中に見慣れない人も交じっていて、その人は四五年ほど東の国々を旅して、有名な山や旧跡、神社や名寺などを残らず訪ね、誦経して歩いたという聖で、もう大分年が寄っていて、髪はもちろん眉や髭まで黒いものが一本もない。
 思いがけない客をもてなすにも、この人は誰だろうと思って友人に聞くと、
「こちらは、六十六部のお経を勉強なさって、諸国を巡り歩いておられた方で、行く先々で、憂うことや恐ろしいことを見聞きし尽くして、この春に、この地方へ来られた世捨て人だ。昨夜から私のところに泊まっていて、夜通し語り明かし、有難い話なども聞いていたのだが、その中に、他所では聞いたことのない稀有な物語もあって、私一人で聞くのは勿体ないと思って、今宵はここへお連れしたのだ」
と言うので、私も心を動かされ、
「それでは、ぜひ、話をお聞かせください。私は物忘れがいい方なので、書き留めて残しておきたいと思います」
と、硯を引き寄せて一つひとつ書いてみると、いつ終わるとも知れず、話しも話し、聞きも聞き、次第に言の葉が茂っていき、その数、十枚ずつまとめた紙が十束にもなるかと思うほど、息をもつかぬ勢いで書き留めていたので、私の方が手は疲れ、眠たくもなってきたのに、聖の話は一向に止まらない。
 そんな次第だから、聞き間違いもあるだろうし、書き落とした話もあるだろう。明日にはお帰りになってしまう方だから、後日に聞き直すことも叶わない。
 これを、御伽百物語として、ここに記す。

巻3の4 五道冥官

2018-04-15 | 御伽百物語:青木鷺水
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 洛陽下嵯峨太秦の西に祠があって、人々はみな五道の冥官と呼んでいるが、本来は車前の宮といって、清原真人頼業(きよはらのまさとよりなり)を葬った地だということである。その昔、亀山天皇が嵐山に行幸した時、この塚印の石の前で、関白兼平公の車を曳いている牛が俄かに地に伏して、進まなくなってしまったことがあった。供の人々が怪しみ、そのあたりを馳せ巡ると、丸い石が草むらの中にあるのを見つけた。さらにこの石の下に、うず高く築き上げた形跡があるのを不審に思って、まず、この石を取り除こうとしたが、誰も石を持ち上げることができない。それほど大きくない石に見えたが、上がらない物は仕方がないので、毎年の勧進相撲にも抜き手として選ばれるような相撲取りを集めて、これを上げさせようとしたが、やはり上がらない。そこで、辺りの者を呼んで尋ねたところ、この石には何やらいわくがあると教えられたので、それ以上手をかけることはやめ、この石を神と崇めて、車前の宮と言うようになった。
 それより年を経て、次第にこのあたりにも民家が多く建ち、名にしおう嵯峨の丸太、黒木などを売り買いする賑やかな所になれば、いつしか車前の名も忘れられ、宮は五本の榎の木の陰に隠れ、民家の裏に埋もれ果てようとしていた。
 そのような折り、元禄改元があった年、この祠の前にある家に住んでいた権左衛門とか言う者は、代々、黒木を商う家に生まれたが、生来、あまり賢い人物ではなかった。
 八月十四日の夜は、いつもに増して月はさやかに澄み渡り、二千里の果てまでも雲の漂う姿が見えないほどまで照り通し、風雅を解さない権左衛門でさえも、月の景に興を催され、縁側の障子を開けて、煎茶で口を潤し、「明晩の名月を、古人も楽しんだんだろうな」などと独り言を言いながら、月を眺めていた。
(注:旧暦8月15日は、中秋の名月である)

 時が過ぎ、月も高く上がった頃、どこからともなく異臭がしてくるので、怪しいと思って見渡したところ、しばらくして、例の車前の宮にある奇妙な土が俄かに動きだして、むくむくと高くなってきた。うくろもち(モグラ)か何かだろうと見ていると、たちまち地の底より、衣冠束帯をきちんと着こなした公家風の男が一人現れ出て大きな声を出し、
「さてもよき月の景色や」
と言ったので、権左衛門は肝をつぶし逃げて、片隅に這い隠れ、障子に小さな穴をあけて覗き見るに、この男は庭の中をゆるゆると嘯き歩いている。年は四十ばかりで、その立ち振る舞いは、どこかの貴人でもあるのか気品に満ちている。しばらくして、内裏女房と思しき容顔美麗なる女が十余人、女の童や卑女(はしため)らしき供人を大勢召し連れて、表より入って来た。
 公家は腰元を召し寄せ、大庭に花を飾り、筵などの敷物を整えさせ、各々が淑やかに居並んでいるが、このあたりには見慣れぬ人々ばかりで、酒肴を整え、謡い戯れる気色は怪しくも恐ろしく、権左衛門は、このあたりに住む年を経た狐狸などが、自分を誑かしに来たのだと思い、手元にあった木枕を引き寄せ、かの庭前へひょいと投げつけて驚かせてみれば、かの公家が少し振り返り、怒って言うには、
「我は、この月が清かに、夜、静かなるを愛でて、しばらくこの楽しみをしておったのに、人の興を醒まさせるとは憎きなり。誰かある、誰かある」
と罵れば、地の底より一丈ばかりの鬼が二匹飛び出てきて、その有様は言葉にできないほど恐ろしく見えた。
 そして、かの公家が、権左衛門が隠れ居る方を指して、
「この者の、冥途にいる親兄弟を連れて来い」
と命令すれば、鬼たちは畏まって御前を罷り立ったが、しばらくして、鬼どもに前後を囲まれて御前に来た人間たちを見ると、疑いもなく、皆、この二十余年程の間に死去した両親や兄たちであった。いずれも喉に鉄(くろがね)の枷を嵌められ、手は鉄の鎖に繋がれ、その浅ましい有様を見た権左衛門は、目の前が暗くなり、思わず声を立てて悲しみ、「これは一体どうしたことだ」とむせ返り、忍び泣きつつ聞いていると、かの公家が怒った声を出し、引き立てられた両親や兄に向って、
「我が、たまたまここに出て目の保養をしていたところを、あの愚人めに興を醒まされた。お前たちは、この男に礼儀というものを教えていなかったのか」
と言えば、父母たちが皆、頭を地につけて申すには、
「娑婆と冥途は遥かに隔たっていて、人間と霊鬼も違う世界に住んでいますので、我々も、いつも夢に出たり、現に教えて、いろいろと説教してきたのですが、息子がこのような悪をしてしまい、その科(とが)は父母である私達にございます。ただ幾重にも、御憐みを頂きとうございます」
と、涙を流し掻き口説き、誠に苦しげなる風情に、公家も、この言葉に納得し、皆を冥途へ追い帰した。

 公家はまた、
「この愚人を捕えて来い」
と言った。
 権左衛門は、次は自分の番だと知って恐ろしく、どうしようか、逃げたとしても遁れられるものではないと思えば、手足は戦慄き膝は震え、ただ気を詰め息を殺して、汗びっしょりになって居ると、権左衛門が隠れている縁先へ二匹の鬼どもが飛んで来て、赤い手鞠のような物を権左衛門の方へ投げつけた。それが権左衛門の口に飛び込んできたと思ったら、その鞠は熱い鉄の縄で、程なく権左衛門は大庭に釣り出され鉄杖で散々に打たれたが、その苦痛は世に喩えるものさえない。叫ぼうとしても声が出せず悶絶する姿に、権左衛門の妻子や眷属どもは慌て泣き叫んだが、権左衛門自身も、妻子や眷属のそんな様子を見て、誤って仕出かした身の科(とが)が悔しく、ひたすらに手を合わせ頭を地に摺って、血の涙を流して詫びるばかりであった。
 そんな権左衛門の姿を見て、居並ぶ女官たちも、その公家に詫びて、
「この愚人の悪行はごもっともですが、凡夫の身の浅ましさ故、冥官のことさえ知らず、地獄極楽の話などは、僧や法師が人を説教するときの方便ぐらいにしか思っていなかったために犯した過ちですから、知ってて犯した罪よりは軽いでしょう。今はもう、許してあげてください」
と、口を揃えて宥めれば、公家も漸う心が和らいだと見えて、庭を立ち、女衆とうち連れて表の方へ去って行った。
 権左衛門は、その後、中悪のような病に憂えたが、五六日も過ぎれば癒えたという。
 これより、この宮の霊は、誰言うとなく噂になって洛中の人にも知られ、ついに五道の冥官と崇められるようになり、元禄の頃より皆が詣ではじめたのも、この話によるものである。

巻3の3 奈良饅頭

2018-04-07 | 御伽百物語:青木鷺水
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 いにしえの都、奈良の京二条村に住んでいた林浄因は、もと宋の国の人であった。花洛建仁寺第二世の龍山禅師が宋へ行ったとき、この林浄因に逢ったのだが、浄因も龍山に帰依して、浅からぬ膠漆の交わりを持った。宋が元になって、順宗皇帝至正元年に及び、龍山禅師は帰朝したが、これは第九十七代光明天皇(北朝)在位の、暦應四年のことである。
 林浄因も龍山禅師の徳を慕い、禅師に伴って日本に来て、今の南都二条村に住居を構えた。昔はこの村が奈良の都であったので、晒や味噌など奈良の名産品も、なお、ここにある。
 浄因もこの里に住もうと思ったが、それにはまず、家業というものがなくては生活できないと思い巡らせ、古くは諸葛孔明が造り広めたという饅頭を作って広めたところ、我が朝の人もあまねくもてはやし、吉事にも凶事にも用いるようになった。
 しかし、この家では林の名を姓にせず、塩瀬という姓を名乗った。それは、その昔、浄因の遠祖は林和靖(=林逋)という詩人であったが、浄因は、自分が詩人の後裔でありながら、詩で名を上げるのではなく、食べ物で名を上げたのでは、詩人だった先祖に恥を与えると思ったので、林ではなく塩瀬と名乗ったそうである。

 さて、この浄因、奈良にあって生業を勤めているうち、いつしか病身となって虚火(きょか=熱の出る慢性疾患)を患い、歳をとってからは度々眩暈が起こるようにもなり、死んでしまいそうな心地を覚えたので、龍山禅師の恵みを心に念じ、
「私の、このたびの病が治って、命算を延べられるならば、私が日本に来てからもうけた子のうち、一人を弟子に参らせます」
など、仏に向かってかき口説くように祈ることひたすらであった。
 そんなある日、浄因が寝ている寝屋の北にあたる壁の後ろあたりで、大勢の人が寄って何やら作業をしている音がしたので、看病の者どもに言って様子を窺わせたが、そこには誰もいなかった。そのようなことが七日ほど続いた後、突然、壁が透き通り、星のように明るく見えたので、浄因は驚いて、看病の者に指差して見るように言ったが、これも浄因以外の者には見えることがなかった。
 それから一日経ったら、透き通ったところがさらに大きくなっていたので、浄因が自ら立ち窺い見ると、壁の北は妻の化粧室にしている一間であるはずが、思いのほか広い野となっていて、草などがえも言われず生い茂っている中に、農民とおぼしき者が数人ばかり、てんでに鋤や鍬を取って穴の前に立ち来た。
 浄因の不思議さは言うばかりではなかったが、この者どもに訳を問えば、皆が跪いて答えるには、
「これは、花洛建仁寺の龍山禅師が御所分の地として、我らに命じ、ここを開かせ給うたものです。龍山禅師は、塩瀬浄因が重病になったとお聞きになって、我らに仰せ付けられ、この道を開かせ、取り急ぎ、この家に参った次第です」
と説明したが、その言葉が終わらないうちに、五・六人の騎馬侍が、鞍に乗る姿も鮮やかに、列をつくってこちらの方へ進んできた。するとその次には、一山の僧と見える法師どもが数百人と、児(ちご)喝食(かっしき・かつじき=寺の食事を知らせる稚児)たちが花を飾り取り囲む中に、龍山禅師が上輿に座していた。
 貴く有難く覚えた浄因が、少し退いて首(こうべ)を傾け、礼をして控えていると、穴の向こう二三間を隔てて、龍山禅師は輿を下させた。

 龍山禅師は、
「そなたの、この度の病は、すでに命運が定まっていて、もう寿命は残っていなかったのだが、私はそなたのため冥府に行き、再三にわたって嘆願し、十二年の命を申し受けてきた。今日からはもう、病を憂うことはないぞ」
と宣った。と思ったら、透き通っていた壁は元のようになってしまった。
 さて、このようなことがあってから、浄因は日毎に本復していったので、やがて、三人いる子のうち一人を連れて都に登り、龍山禅師の弟子とした。この子がすなわち、建仁寺の内で両足院の開祖、無等以倫だということである。
 まことに龍山禅師の聖は、はるか幽冥にまで通じるという、ありがたい僧である。

注:この話に出てくる人物はみな実在で、「塩瀬」は現在でも饅頭の老舗として続いている。

巻3の2 猿畠山の仙

2018-03-28 | 御伽百物語:青木鷺水
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 相州鎌倉の地に、御猿畠という山があって、この上に六老僧の窟(いわや)という窟があった。いにしえ、日蓮の徒の中に、六老僧と言われて、最も上足の名を得た僧が住んでいた岩窟ということである。
 時代は下がって、能州惣持寺の沙門で鶯囀司(おうてんす)という者は稀有の人で、才知にあふれ、学業にも優れ、仏の教えを弁舌流れるように語る人であった。そこで皆は衆議一同して、鶯囀司を住職の後継者にしようと推挙したが、鶯囀司は浮雲や流水のように転蓬(漂泊の身の上)の癖を持っており、住職になることをを望まなかった。人々はさまざまに勧め、挙げもてはやし、和尚、和尚と崇めていたが、鶯囀司はそれに飽き飽きして、夜、ひそかに寺を出て行ってしまった。
 どこへ行くというあてもなく、身に着けている物としては三衣袋、鉄鉢、錫丈ぐらいで、ほかに貯えた物もなければ、朝に托鉢し、夕に打飯(僧侶の食事)を乞い、喉が渇いては水を飲み、疲れては石に枕し、何か道楽をするわけでもなく、かなたこなたとさまよい歩いて、一つの里に三宿と逗留することはなかった。そうして、ある日は街に出て、ある日は難波津に杖を立て、心に感じるものがある時は詩を作り、歌を吟じ、諸国に至らぬ隈なく、訪ねぬ名所もない程であったが、どこも自分が定住するような地ではないと選び歩いていた。
 元禄六年の秋、鶯囀司は猿畠山に分け入り、かの巌窟にしばらく憩い仮初に安らいでいたが、何となく心が澄み、もはや浮世の事物も見尽くしたように思われたので、ここに住みつくのも悪くないと、ふと、思ったりもしたが、まあ、どうせ仮の宿りだろうと、禅衣を解いて襖とし、そこらの風景、暮れ行く色を眺めていた。この巌のほとりは大きな桐の木原で、枝は老い、梢は垂れて地を払うばかりに見えるが、秋が来たのを目には見えぬながら、風の訪れを桐の葉が落ちるのに感じて、折からのあわれが身に沁みるようで、かの西行の、
「秋立つと、人は告げねど、知られけり、み山のすその、風の景色に」
などの歌を思い出しながら景色を眺め暮らして、洞の内に蹲り(うずくまり)居て夜を明かしていた。
 ある日、十日夜(まつよい)の月が木の間より差し込み、虫の音は近く遠くに、松の調べが聞こえる様は、さながら俗世間を離れた魂が無何有の里に遊び歩くような心持で眺めていた折、無数の蜂どもが何処からともなく群がり来て、この桐の林を飛び回って鳴き始めた。
 鶯囀司が、「これはどうしたことだ。折しも日は暮れ、雲がかかる山中に蜂がこんなに飛び交うとは。蜜を吸うにしても昼間だけのことだろうに」と、しばし眺め入って聞いていると、蜂どもの声は人が物を言うように、ひたと吟詠している。何を言っているのだとろうと聞けば、
「住む身こそ、道はなからめ、谷の戸に、出入る雲を、主とやは見ん」
と歌っている。
 殊に、かの京極太政大臣宗輔(=藤原宗輔:1077-1162)という人は、たくさんの蜂を飼い、何丸角丸などと名を付けて呼び、御前に参った際には、「何丸、あの男を刺して来い」と、気に入らない者を刺すように命令すれば、蜂はその命令に従って人を刺したようなことが、十訓抄という書物に書いてあったが、それがこの蜂だろうかと、さし覗いて見れば、背の高さが一寸あまりある生身の人で、しかも翼が生えている者がいた。
 鶯囀司は怪しくも珍らしい虫だと思い、扇を広げて拄杖(しゅじょう=禅僧の持つ杖)の先に括りつけ、この蜂を一匹打ち落とし、袋に入れて置いた。

 そして、蜂が桐の木に群れつつ遊んでいるのは、もしかしたら露が好きなのではないかと、桐の葉を房ごと折って、その傍らに置いて眺めていたら、しばらくしてこの蜂が這い出てきて、少し嘆く声がした。すると忽ち人の形をした蜂どもが数十匹も飛んで来て袋のあたりに集まり、その様子は、捕まった蜂を慰めているかのようであった。
 さらにその後に続いて数多くの蜂が、あるいは小さな車に乗り、あるいは輦(てぐるま)で入り来た。
 この虫が、細く小さな声で何かを言っているので、鶯囀司が寝たふりをして聞いていると、主人とおぼしき者で、名を伏見の翁という者が、この捕われた蜂に向かって言うには、
「貴方様がこの不運に見舞われたので、私は筮(めど=蓍萩)をとって占ってみました。貴方様は既に死籍から除かれて、命の危険がない身です。何も嘆くことはありません。」
と慰めた。また増翁という者が来て、彼が言うには、
「このごろ私は、白箸翁(しらはしのおきな)と博奕をして、極上の紙を十幅、勝ち得ました。貴方様がこの難を逃れ出られましたら、礼星子の辞を綴って差し上げましょう」
など、惣(すべ)てみな、人間の世では知られていないことばかりを、終宵(よもすがら)語り明かして去っていった。
 鶯囀司は不思議な思いをしたが、夜も明けてきたので、袋の口を解いて蜂を放してやった。そして自らも窟を出て、極楽寺の切り通しを歩いて行ったところで、ふと、人に行き会った。背の高さは三尺ばかりで、黄色の衣服を着け、
「私は三清(道教の最高神格)の使者で上仙の伯という者の友で、名は民の黒人(くろひと)という者です。今宵、あなたが見た奇妙な出来事に。集まった人々は、皆、本朝に言い伝えられた日本の仙人たちです。そして難に遭ったのは、かの遊仙窟の読みを伝えた加茂の翁です。今、あなたの情けによって、ふたたび上侍の天に上ることができました、そこで、私を下して感謝を伝えるよう、言いつかったものです。あなたはまた、学業にも優れておりますので、その身に仙骨(仙人の骨相=ここでは仙人になる資格の意)を得て、近いうちに登天されることでしょう」
と言ったかと思ったら、たちまち消えていってしまった。
 その後、鶯囀司もまた、修行して諸国の名山勝地に遊んでいたそうだが、終に鶯囀司も、その行方は誰も知らぬところとなった。