続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

母国語と外国語、国際人たる日本人にとって、語学力の基礎とは、日本語に他ならない

2010-12-17 | 教育学講座
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 最近、テレビでは、誰かが喋っている内容を、字幕で表示することが多くなっています。

 「飾り文字」なども多用して、内容を、耳だけでなく目でも確認でき、なかなか面白い手法だと思います。
 ただ気にかかるのは、誤字がやたらに多いことですが、まあ、テレビ局の方も忙しいでしょうから、多少の校正間違いには目を瞑りましょう。

 また、若手芸能人の中には、平気でおかしな表現をする者もいますが、若い奴なら、これも勉強不足ということで大目に見てもいいでしょう。
 ただ残念なのは、その若手が中堅の年齢になっても、喋り方に全く進歩がなく、勉強不足のままでいるのは頂けません。

 さらには、呆れたことに、とあるコマーシャルの科白で「全然いいね」というのがあり、私は、コピーライター氏の良識を疑いました。
(「全然~否定表現」の文法に異論があることは承知していますが、今日はあえて触れません)

 テレビは言葉が商売道具です。
 それならば、自分の商売道具には、もっと責任と誇りを持たねばなりません。

 もし、寿司屋が腐ったネタを客に出したらどうなるでしょう。
 責任と誇りのある寿司屋なら、その日のうちに暖簾を畳むでしょうね。
 前述のコピーライター氏は、大切な商売道具を自ら台無しにしてしまったわけで、もはやコピーライターとして飯を食う資格はありません。

 さて、「そう言うお前の日本語はどうなんだ」というご批判は、聞こえなかったことにして・・・

 幼児の英語教育が盛んになっています。
 小さい頃から英語に親しんでいれば、大きくなって苦労せずに済む、ということでしょうが、私はこの考え方に大反対で、2人の息子にも、英語教育など施していません。

 私たちは、中学・高校と6年間も英語を勉強していながら、大学の英文科へ進学したり、学校以外で猛勉強したとかいった人を除いて、たいていの人は、外国人との簡単な英会話さえできません。
 その反動で、私たちは、英語が喋れる人を無条件で尊敬し、頭のいい人だと思ってしまいます。

 しかし、それを通り越して、「英語さえ喋れれば、頭が良くなるんだ」と思い、「子供には、とにかく英語を」と考えていないでしょうか。
 現にそうしている方には失礼ですが、それは大いなる勘違いです。

 たしかに、小さい頃から英語に親しんでいれば、発音の正確さなども含め、英語力は身につくと思いますが、母国語である、日本語力のほうはどうでしょう。
 もし、子供を英語教室に通わせていて、英語はそこそこ喋れるようになっていたとしても、学校で、国語の成績が芳しくなかったとしたら、こんな本末転倒はありません。

 日本語力とは、単に語学力の問題ではありません。

 日本の風俗、歴史、習慣、そして日本語の文法による論理構成(駄文の最後に例示しています)など、外国人が決して真似のできない部分にこそ、真の日本語力が潜んでいます。
 たとえば、すらすらと日本語を話す欧米人でも、「侘び・寂び」「謙譲語」「そこはかとなく」などは理解できないといいます。

 ここが母国語と外国語の違いです。

 母国語を最もよく覚える幼児期には、言葉一つひとつの意味、漢字一つひとつの意味、文法、文章の読解力や、さらに歴史的背景や語源など、母国語をしっかり教えなければなりません。
 母国語を、さらには、言語というものの基本構造をしっかり理解していれば、英語に限らず、その他の外国語だって言語には違いないのですから、覚えるべきものを覚え、理解するべきものを理解しさえすれば、何カ国語でも習得可能です。

 逆に、母国語さえ満足に喋れず、名詞や動詞・形容詞、主語や述語・目的語の区別もつかないような奴に、外国語など到底会得できるはずがありません。

 その証拠に、外国語の教科書や参考書といえども、解説は、日本語で書かれているでしょう?
 日本語の文法を理解していないくせに、日本語で書かれた外国語文法の解説を理解できる者など、いるわけがありません。


 国語の先生には、そうした点、もっと頑張ってもらいたいものです。

 そして、しっかりした読解力で吸収した知識と知恵を基に、優れた理解力で外国語を習得したならば、豊かな表現力を以って、きっと国際人として活躍できるはずです。

 私が敬愛する、ジョン・レノンの好きな日本語は「おかげさま」だったそうです。

 世話になったことなどないはずの、初対面の人に対しても「おかげさま」と言う、日本人の、他人への気遣いの心を、イギリス人のジョンが理解していたというのは、オノ・ヨーコと一心同体だった、彼ならではのことだと思います。

 日本語を母国語とする諸兄諸姉、「おかげさま」という言葉を、こんなに大切に扱ったことがありますか?
 もう一度、わが母国語を、見直してみませんか?


 蛇足ですが、最近の小学生は算数で、計算問題はよくできるのに、文章問題が解けない傾向にあると言われます。
 しかしそれは、問題文の意味や、何を問われているのか、そして問いに対する正しい答え方は何か、ということが分からないからで、つまりは、算数ができないのではなく、国語ができないからなのです。

 ・・・ということを、ある機会に、学校の先生に話したら、「正にそのとおり」と賛同してくれ、私は、我が意を得たり、という思いでした。


 さて最後に、前述の通り、「日本語の文法による論理構成」の例を紹介します。

 たとえば自分の家族を紹介するとき、日本語なら、
「父、母、姉、私、弟、これだけです。」と言いますね。
これが英語なら、
「Father,mother,sister,me,brother,that's all.」となります。

 太字・下線部の論理構成、すなわち、日本語による思考回路と、英語(に代表されるラテン語系言語)による思考回路の、違いが分かりますか?

 分かっている方には、駄文は、釈迦に説法でしたね。

教育が必要なのは・・・

2010-10-05 | 教育学講座
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 学校では、授業中の徘徊など、教室崩壊が問題になっているそうです。
 脳や発育の障害や、多動症(ADHD)などの病気が原因であれば、きちんと治療し、少なくとも症状が発現しないようにするべきですし、また、そうできることでしょう。

 しかし、単なる躾の悪さであるのなら、原因は明らかで、そうであれば、対処方法もおのずと明らかです。

 私が子どもの授業参観へ出掛けたときも、なるほど、よそ見をしたり、先生の話を聞いていない子どももいましたが、まあ、小学生ならこんなものかな、と思える程度でした。

 ところが、この問題は、どうやら別のところに原因がありそうです。

 参観日には、多くのお母さん達と、お父さん達もちらほら見られます。
 ところが、そのお母さん達の中に、子どもの授業参観そっちのけで、廊下で、お母さん同士でのお喋りに夢中になっている方が、少なからずいました。
 もちろん、保護者同士が「こんにちは」「いつもお世話になっています」と挨拶するのは当然ですから、そのことを言っているのではありません。
 お母さんたちのお喋りは、教室の中まで響いてきて、授業をしている先生の声を掻き消してしまうほどの嬌声です。

 そしてついに、あろうことか巡回の先生に、「授業中ですから、静かにしてください」とたしなめられる始末です。

 また、運動会に出掛けた時は、ビールを飲んでいる親がいました。昼食の時ならまだしも、競技中に、です。

 運動会は学校教育の一環であり、親が運動会を見るのは、授業参観と同じです。
 授業参観中にビールを飲む親は、さすがにいないようですが、運動会が授業参観と同列だと、なぜ思わないのでしょう。

 つまり、こうした場面に応じてどう振舞うべきかきちんと自覚し、自律した態度をとれない、けじめのない親が増えており、当然、そうした親の姿を見て育った子は、授業中であろうとも、授業中にあらざる行動をとってしまいます。

 「暑い中、運動会を見てるんだから、堅いこと言うな」と思う方もいるかもしれませんね。
 でも、学校とは堅いところです。少なくとも子どもには、そう教えなければなりません。

 子どもの問題は親の問題である。
 なるほど、その意味が良く分かる出来事でした。
 本当に教育が必要なのは、自覚のない親のほうです。

子どもに教える、ということ

2006-02-23 | 教育学講座
 絵画など芸術の創作には、感性とともに技術が必要です。それは車の両輪のように、どちらが欠けてもだめで、しかも片方が伸びれば、それにつれてもう片方も伸びる、といったことの繰り返しにより、感性と技術が相互に磨かれ、表現力となっていくものだと思います。
 ところで、私は絵が描けません。小学校の頃は、図画の時間が苦痛でした。だから今でも、仕事仲間が、現場の見取り図や機械の配置図など、チョチョイと描くのを見ると、思わず尊敬してしまいます。

 さて、思い起こせば私が幼稚園児の時、こんなことがありました。

 お絵かきの時間に、私は、画用紙の上半分を占める大きな空と太陽、その下で、手足を精一杯広げて遊ぶ自分や友人たち、といった構図の絵を描きました。当然、デッサンや色使いなど、複雑な絵画の技術は持ち合わせていない頃なので、心に感じたままを画用紙に写しただけですが、描きながら、楽しく遊んでいる気分になって、我ながらよく描けたと思っていました。
 ところが、それを見た先生は、私の絵を半分に折り、「上半分(つまり空と太陽)は不必要だ。この絵は下半分しか価値がない」という意味のことを言ったので、私は悲しくなり、すっかりやる気をなくしてしまいました。それ以来私は、元々芸術のセンスなどなかったところへ持ってきて、絵を描いても、また自分の描いたものが頭から否定されるのではないかと思うようになり、絵を描くのが大嫌いになってしまいました。

 今にして思えば、空や太陽といったあたりまえの事象は省き、人物に焦点をあてて描くほうが、構図など技術的な面では優れていることを教えたかったのだ、ということは分かります。しかし感性のみで描いたものに、技術的な欠点を指摘されても、そもそも技術と呼べるほどの技術が存在しないのですから、稚拙な技術の部分をわずかに残して、あとはみな否定されるしかありません。
 ただ、このときでも、先生が、短所を貶す言い方ではなく、「お外で、お友達と遊んで楽しかったのね。じゃあ今度は、人を中心に大きく描いたら、もっと楽しさが伝わってくるよ」という具合に、長所を伸ばす言い方であったなら、私は「今度はもっと上手に描いてやろう」と向上心をもつことができ、下手なりに、今でも図面ぐらいは描けたかもしれません。

 子どもの才能を伸ばすのは、難しいですね。
私の子どもも、お絵かきをしますが、私は、決して貶すことはありません。「上手に描けたね。楽しかったんだね。これがパパかい?パパは大きいだろ?もっと大きく描いてよ」という具合です。ただ、もう少し大きくなれば、「ここは悪い」という言い方もしようかと思います。
 私は、躾など「してはいけない」ことを教える場合は、叱ったりと、否定的な表現で教えていますが、勉強や芸術やスポーツなど「どんどんしなさい」ということを教える場合は、肯定的な表現で教えるよう、心がけています。

スポーツと健康維持

2006-02-14 | 教育学講座
 私が好きなスポーツは、ボウリングです。と言えば、「たいした運動量じゃないだろう」とおっしゃる方もいるのですが、「週に1度か2度ボウリング場へ行き、行けば10ゲームぐらい、月に50~60ゲームぐらい投げます」と付け加えると、「ほう、それは結構な運動ですね」と返ってきます。しかも、バドミントンやテニスなどでもそうですが、羽つきや球打ち程度のお遊びでやっている場合と、競技として本格的にやっている場合では、同じだけプレーしても、体の使い方がまるで違います。それはボウリングでも同じで、私は、プレー中は1ゲーム目で、もう汗が流れてきます。そのせいか、私の右半身は、腕、胸、指などが、左より明らかに大きく、太くなっています。
 また私は、アイススケートも好きです。だから、どちらかというと冬場のほうが、私はよく運動をしています。どちらも、無理せずマイペースででき、いい有酸素運動になっています。
 なぜそんなにするのかと言えば、どなたも、何のスポーツでも同じでしょうが、「好きだから」です。一生つきあえるスポーツに出会えたことは、健康維持にも役立つし、幸福だと思います。

 しかし私は、子どもの頃は「運動音痴」で、早生まれのため級友と比べて体格も小さく、体育の点数は、他の教科より低かったのです。

 私が子どもの頃は昭和40~50年代で、体育の先生にも、元軍人がたくさんいました。そのせいかどうか、体育の授業は厳しく、走るにしろ、投げるにしろ、とにかく競技で勝つことに主眼を置いて指導していました。また、学校での指導という性格上、個人競技より集団競技が多く、ましてボウリングやアイススケート(北国ではないので)など、お金のかかるスポーツを学校で教わることはありませんでした。したがって、集団競技が好きで、体格の大きな子、元々運動神経の優れた子にとっては楽しかったでしょうが、私のように運動音痴で、しかも学校で教わる種目に興味のない者は、体育の授業が面白くなく、スポーツ=しんどいもの、という図式を、自分の中に作り上げてしまいました。しかしよく考えてみれば、体育の授業以外では、友人たちと、ドッジボールなどの球技や、今なら親が目を回しそうな、肉弾戦とも言える乱暴な遊びを、好んでやっていたものです。してみると、私が嫌いだったのは体育の授業であって、体を動かすことそのものは、決して嫌いではなかったようです。

 発育期に、基礎的な体力や身体能力を身につけさせることが大事なのは、言うまでもありません。また競技で勝つための指導が悪いというわけではありません。しかし誰もがトップアスリートになるわけではありませんから、それ以外にも、子どもたちには、できるだけたくさんのスポーツを経験させ、その中から自分にあったスポーツを選び、健康維持、体力維持、さらにはストレス解消など精神面での健康を保つ上でも重要であることを教え、スポーツを「楽しむ」という習慣を、一生の宝として身につけさせる、そういった視点からの「体育」も必要だと思います。誰でも、好きなスポーツには言われなくても取り組みます。それなのに、運動嫌いの子どもをつくってしまうのは、指導方法を誤っている学校の責任が大きいと思います。

 また、スポーツを観る楽しみも教えるべきです。幸い大分には、サッカーの大分トリニータ、バスケットボールの大分ヒートデビルズがあり、国内最高レベルのプレーを観ることができるし、プロ野球のオープン戦が開催され、花園に常連の高校ラグビー部もあります。ボウリングでも、各センターが時々、国内やアメリカのトッププロを招待しています。学校の、授業の一環として、こうしたレベルの高いスポーツを観戦するのも、意義あることではないでしょうか。

けふは旧仮名遣ひで書かうと思ふ

2006-01-04 | 教育学講座
 と云っても、旧仮名遣ひを本格的に勉強したことなどないので、間違つてゐる箇所もあるやに思ふが、ご寛怒願ひたい。

 私は、戦後の国語教育で、旧仮名遣いを廃止してしまつたことを、非常に残念に思ふ。もちろん、よい点も多々あるのだが、失つてしまつたものは、それに倍する大きさであらう。
 英語では、現代のアメリカ人がシェイクスピアを読んでも、表現が古い点を除けば、違和感なく読めるといふのに、現代の日本人は、わずか100年前の文学でさへ、読むことができない。これは大変残念なことであるとともに、文化に対する大きな損失である。

 日本語は、世界の中でも、最も難しい言語のひとつに数へられる。そこで戦後、国語教育を易しくして、誰でもが読み、書き、話すことができるやうにした。しかしながら、難しいからこそ持つてゐた、日本語の微妙な表現、特に書き言葉での表現が失われたのではないか。

 たとへば、トランプのゲームを考へてみやう。(国語をゲームに喩へる不謹慎さは、お許し願ふ)
 七並べやババ抜きなどは、ルールが簡単なゲームで、子どもでもすぐに覚へられる。しかしルールが簡単といふことは、勝負の駆け引きなどもあまりなく、単純であるが故に、大人にとつてはつまらない。
 ところがポーカーやコントラクトブリツジなどの難しいルールは、子どもにはとても覚へられない。しかし、ルールをきちんと理解した大人にとつては面白く、さらにポーカーフェイスといつた勝負のテクニックも加わり、ゲームをこの上なく味わひ深くしてゐる。
 つまり、単純なもの程、覚えやすいがつまらない。難しいもの程、覚えにくいが味わひがある。

 おわかりだらうか?
 戦後の新仮名遣ひは、子どもの七並べであり、戦前の旧仮名遣ひは、大人のブリッジである。
 現代の日本人は、誰もが新聞を読める。これは戦後国語教育の功績である。しかし、新聞を読むことはできても、読み取るところまでできているのか、文章を読んで、その意味するところをきちんと理解できているのか、甚だ疑問である。それは、文字を読む訓練はなされているが、文章を読む訓練がなされていないからである。かつて私は、自分が書いた文章の真意を、全く間違えてとられたことがある。しかし同じ文章で、正確に真意を汲み取つてくれた人もゐたので、文章のほうが悪かつたとは思はない。
 いにしへの文人による流麗な文体は真に美しい。しかし私にも読めない。もし読めたならば、現代語訳なんかを読むより、遥かに深い感銘を受けるであらうと、残念に思ふのである。

 英語などは、日本語に比ぶれば記号に等しい単純な言語である。(私が英語を話せるといふ意味ではない)それゆゑ、表現できることには限りがある。しかし日本語は、さらに旧仮名遣いは、奥の深い言語である。ゆゑに多彩で微妙な表現ができる筈なのだが、現代の日本人自身が、それを捨て去つてしまつているのは、慙愧に耐へない。