続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

願西といふ法師舎利の罰を得し事

2019-01-06 | 諸国因果物語:青木鷺水
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください

 山城国新田に与十郎という者がいた。
 彼の家には不思議な本尊があり、二尺ばかりの御長立像で、なかなかの名作と見えたが、いかなる仏工の作かは分からなかった。ただ、惣身より次々と舎利が湧き出てきて、いつ見ても舎利が七つ八つほど蓮台の上に落ちていて、絶えることがなかった。
(注)舎利=釈迦の遺骨。上では、骨の欠片らしいものが湧いて出るのを、仏像から出てきているので、舎利と信じている
 これを聞いた人々は、遠い国から遥かな道も厭わず信心の歩みを運んで、ひとたび拝み奉って、後生の善果を得る事を願う人も多く、あるいは、さまざまなご利益を求めて、この舎利を一粒貰い受け、七宝の塔を建てて香花を捧げ、一心に祈る人も少なくなかった。
 そのような人のところへ貰われていった舎利は、また自ずから分かれて二十粒三十粒と増えていった。ところが、悪い心を持ったり、不信心になったりしたときは、増えた舎利はことごとく減って元の一粒になってしまうなど、霊験あらたかであったので、五畿内にこの噂は広まり、皆が尊び持て囃した。
 そして、いつしか人々の信心は弥増さり、参詣の人は引っ切り無しに訪れていたが、与十郎は無欲の者で、人の施物を貪る心などなかった。それでも、人々が何かと心付けをして生活には困らなかったので、余生を裕福に暮らそうと、六十の暮より隠居して本尊の守に専念し、大切に秘蔵していた。
 ここに、南部から引っ込んできた願西という道心が、新田に小さな庵を結んで二三年ほど住んでいて、この本尊に験がある事を羨み嫉み、何とかしてこの本尊を自分の物にし、世を渡る生業の種にしたいと思っていた。
 しかし、そんな具合だから、願西は、簡単に盗む手立てもなく、さまざまと方法を考え続けていた。
 ある時、いい方法を思い付き、都へ登ったついでに、仏師の店にあった立像二尺ばかりの古い仏を買い取り、秘かにこれを打ち割って、与十郎方から貰っておいた仏舎利を胎内に納め、惣身に小さな穴をあけ、元通りにくっ付けて仏前に供え、香花を奉って二日ばかりしたら、中に入れた舎利が分かれて、ぼろぼろと穴からこぼれ出て来た。
 願西は、これで日頃の念願が叶ったと、急いで仏壇を綺麗に飾り、庵も煌びやかに普請しつつ、近隣の村中へ、
「愚僧はこの程、都の黒谷に法事があって参り、旅の道すがら、筑紫の菩提寺の出家と一緒になって、伏見の宿に泊まったのだが、その出家は宿で頓死してしまった。同宿した誼もあり、また、僧の役目だと思って、彼の死骸を野辺に送って土葬にしてやろうと、棺桶を背負って宿を出たのだが、二三町も過ぎた頃、殊のほか背中が軽くなったように思えて、下ろしてみると、棺桶の中に死骸はなくて、この本尊がおわしました。しかも舎利が湧いて出るなど、まことに尊い仏にましまする。いざ、参り給え。拝ませて進ぜよう」
と触れ歩いた。
 すると、人々が群集となって、我も我もと、この本尊を拝みに来てみると、願西が言ったとおり、本尊からは舎利が湧いて出ており、その有難さは言うばかりもなく、めいめいは数珠を差し伸ばして仏の御手に触れ、または善の綱(仏像の手にかけて、参拝者に引かせる綱)にすがって、後のほうからでも仏の御姿を拝もうと、押し合いになった。
 そうこうしていると、善の綱に多くの人が取り付いて、あっちへ引っ張りこっちへ揺すったせいか、とうとう本尊は引き倒されてしまい、御手は折れ、胎内に込めておいた仏舎利百粒ばかりが、惣身にあけた穴から一度にさっと零れ出た。それを見た人々は、有難い舎利だとばかり、我先に折り重なって取り合いとなり、ついに一粒残らず皆に持って行かれてしまった。
 願西は、企んだ事がとんでもない結果になり、あまつさえ舎利は残らず拾われてしまい、腹立ち紛れに本尊を台座より引き降ろし、叩き割ってしまった。

 その時、右手に小さな棘が一つ刺さったと思ったのが、日が経って、そこが大きな腫物となり、三百十日ほど患った後、手から体中が腐って死んでしまった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。