続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

継続は力なり

2017-06-19 | 史学講座
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください

↓今回は、この文章の続きです
「天然の奇人・和蘭人の化物」

 江戸の雰囲気を味わいたくて古文書解読の勉強を始め、1年少し経って、楷書に近く、平仮名の多い文書なら何とか読めるようになったのが、駄文の頃です。
 しかしまだまだ、草書で、しかも平仮名が使われていない和漢文(注参照)の文書は半分も読めなかったのですが、いつかは読めるようになりたいと、引き続き勉強に精出していました。

(注)和漢文
 ほぼ漢字のみで書かれている文書だが、私たちが国語の授業で習う「漢文」とは違い、日本人が作り上げた、漢文に似てはいるが、文法や語句が本来の漢文とは違う、いわば和製の漢文。中世以降、公文書によく使われ、江戸時代からは、広く文書に用いられるようになった。


 そして、この駄文を綴ったのが2013年11月ですから、それから3年半が経過しました。

 梅雨の中休み、大分県立先哲資料館と、臼杵市歴史資料館へ出かけてまいりました。
 大分県立先哲史料館では昨年新たに収蔵された資料を、また臼杵市歴史資料館では臼杵藩主が参勤交代をした様子を、多くの図説とともに、記録されている文書も、数多く展示されており、当時の様子がよく分かる内容でした。
 もちろん、私の目的の一つは、展示されている古文書をできる限り読んでやろうということで、鼻息荒く出かけて行ったのですが・・・

 ほとんど読めました。
 書かれている文字の95%くらい、物によっては100%完璧に。いや~、嬉しかったですね~。
 嬉しさのあまり、誰かに読んで聞かせたいぐらいでしたが、周りは知らない人たちばかりだし、聞かされる方はたまったものではないでしょうから、自制しておきましたが。

 古文書を読みたいと思って勉強を始めたのが、かれこれ5年近く前。
 1年半ほどで、十返舎一九の戯作本など、ひらがなの多い文書は読めるようになりましたが、漢字ばかりの文書には全く歯が立たず、ネットから拾ってきた資料を見ても茫然とするばかりでした。
 あまりにも高い壁を前に、もう、ここで止めようかとも思いましたが、まあ、やるだけやってみて、無理だと思ったところで止めればいいやと、無謀なもう一歩を踏み出しました。
 が、思っていたより壁は高く、ひらがなが読めるようになるには1年ちょっとだったものが、和漢文が読めるようになるには3年以上かかってしまいました。それでも、昨日読めなかったものが今日は読めた、ということの繰り返しで、遂に、95~100%の読解率となったわけで、まさに継続は力なりです。

 ただ、展示されている文書は公文書のようなもので、右筆や、それなりの教養を備えた役人の手による、比較的きれいな文字ばかりですが、もちろん古文書はそうしたものばかりでなく、癖字や、殴り書きに近い文書も数多くあり、まだまだ私の技量では、そのような文書を読むことは叶いません。
 また和漢文でない、本物の漢文で書かれた文書は、そもそもチンプンカンブンでした。
 さらには、江戸時代の文書は読めるようになったのですが、それ以前の、中世の文書は、書体も文体も違い、なかなか読めません。

 要するに、「読めた読めた」と威張ってはいますが、そもそも「読みやすい」文書だった、というに過ぎないのが、悔しいところです。


 さて今後、癖字や殴り書きの壁は、楽観的に、いつか越えられるものと、挑戦していこうと考えています。
 その後、本物の漢文に挑戦するかどうかは・・・その時に決めましょう。

天然の奇人・和蘭人の化物

2013-11-16 | 史学講座
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください


 前野良沢は、言わずと知れた「解体新書」編纂者の一人です。
 教科書では、「解体新書」の翻訳者は杉田玄白と教わりますが、オランダ語の実力は前野良沢が随一であり、共著として知られる中川淳庵が続き、杉田玄白の語学力は取るに足らず、実質的な翻訳者は前野良沢であり、杉田玄白は、極端な話、前野良沢が訳したものを書き記したに過ぎない、というのが、最近の研究による、日本史の新たな「常識」となっています。

 さて、秋の日長、ご覧のような講演会に出かけてまいりました。
 大分県立先哲史料館では、現在、中津藩医である前野良沢に関する展示を行っており、この日は、大分大学の鳥井教授から、前野良沢や解体新書についての講演があり、講演後は、学芸員による展示品の解説があり、どちらも非常に興味深く、有意義な午後でした。
 内容については、いちいち説明してもきりがありませんので、省略するとして、展示品を観覧するにあたり、私にとって、大変うれしいことがありました。

 私は、歴史好き、特に文化史が好きで、わけても江戸文化に大変興味を持ち、それが高じて、十返舎一九や山東京伝などの戯作や、鳥山石燕(妖怪画)を、原文で読みたいと思うようになり、昨年来、古文書解読の勉強を進めてきました。・・・ナントカの手習いで。

 それが今回、展示品の中には、解体新書翻訳の苦労話をまとめた、杉田玄白の「蘭学事始」もあり、もちろん古文字で書かれているのですが、展示してあるその書物が、ほぼ読めたのです。
 1年前の私には考えられなかったことで、勉強の成果が実戦で確認でき、非常にうれしかったとともに、書物を通じて杉田玄白の書斎にお邪魔しているような錯覚さえあり、ひとときのエアー江戸訪問を堪能しました。
 ・・・作者の書いたものを直接読み、時空を超えて江戸の雰囲気に浸って悦に入る、それがしたくて古文書の勉強を始めたようなものですから、今回の成果はひとしおです。

 「蘭学事始」も、わざわざ古文書で読まなくたって、現代の活字本はいくらでも出版されているのですが、それでは、「江戸の空気」に触れることは不可能でしょう。
 しかし、残念ながら私に読めるのは、印刷された書物のように、楷書に近い字体が精いっぱいで、草書で書かれた書簡などは、半分も読めませんでした。

 まあいずれ、「半分も」が「半分は」になり、「半分以上」「大半は」になればいいのですが・・・学成り難し。  


日本天文学会 公開講演会 天文学の歴史と今:麻田剛立

2012-09-24 | 史学講座
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください

 秋の日、こんな講演会へ出かけてきました。


 私は歴史も好きですが、天文など科学も好きです。で、新聞で見つけたのが、これ。
 今般、学会の成果発表が大分大学で行われるのを機に、一般向けの公開講演会が行われるということで、早速出かけてきました。

 講演会は3部から成り、
第1部:「麻田剛立と江戸の天文学」
 東京大学・鹿毛敏夫 先生
第2部:宇宙の中の地球と太陽‐太陽でスーパーフレアは起きるのか?」
 京都大学:柴田一成 先生
第3部:第二の地球を求めて」
 国立天文台・田村元秀 先生
という内容で、見事に、過去・現在・未来という構成でした。

 それぞれの内容を、ここへ、くどくどと述べ立てても仕方がないので、駄文では一点に絞ってみます。

 最先端の科学については、専門家はもちろん、興味のある人は多くを識っています。
 しかし科学史については、華々しい最先端に比べれば、どちらかというと地味な分野ですが、私のように「人間とは」というテーマを掲げている者にとっては、むしろその方が、人間そのものについて考える材料を与えてくれます。

 さて、掲題の麻田剛立について、私は、江戸時代の天文学者であるという以外、あまり詳しくは知りませんでした。
 しかし、ちょっと調べてみると、何とわが郷土、豊後国(大分県)出身だったのです。(脱藩したんですけどね)
 おまけに、弟子には幕府天文方の高橋至時がいて、孫弟子には、初めて正確な日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬がいるではありませんか。何だか嬉しくなってしまいました。

 さて、講演の終わりに、質疑応答があったのですが、聴衆の質問に演者の鹿毛先生も、「はっきりとした理由は分からない」とおっしゃっていた点が、私にはちょっと引っかかったので、調べてみました。

 麻田の業績などについては、リンク先をご確認いただくとして、ひとつ面白いのが、麻田の活躍した時代です。
 麻田の名が知られるようになったのは、宝暦13年(1763)の日食予測ですが、翌、明和元年(1764)には、田沼意次が老中に就任して、世の中は自由闊達な雰囲気となり、蘭学をはじめとして、西洋文化や西洋学問(もちろん天文学も)が発達します。
 これに呼応するかのように、麻田は西洋天文学を発達させ、反射望遠鏡や、全天を360度に分けた渾天儀(天文観測用の分度器)を使用します。
・・・それまでの渾天儀は、中国流の、全天を365度25(地球の公転周期)に分けたものでした。

 しかし西洋の学問が、事実上解禁に近かった時代は、田沼意次の失脚とともに、終わりを告げます。

 代わって登場するのが松平定信で、ご存知、寛政の改革を行った老中ですが、寛政の改革の一環に「寛政異学の禁」というのがあり、それまでの西洋学問は一掃されてしまいます。
 とはいえ、天文学は暦を作る上で重要ですから、幕府も、天文学には一目置いていたようですが、それでも、西洋かぶれのようなことは、難しくなっていったと思われます。

 そのせいかどうか、麻田も、寛政元年からは、せっかく使っていた西洋流の360度渾天儀ではなく、元の中国流の、365度25渾天儀に戻しています。
 仮にこのとき、360度渾天儀が故障していたとしても、修理ぐらいわけのないことですから、このあたり、寛政異学の禁が、関係していないとは言えないようです。

 会場からの質問は、この、「なぜ寛政元年から、360度渾天儀の使用をやめて、365度25渾天儀に戻したのか」というものだったのですが、専門家を差し置いて僭越極まりないですが、私の素人考えでは、そう思える、というところです。

「白河の 清きに魚の 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき」

 おあとがよろしいようで。お退屈さまでした。

そうだったのか コロンブス(1492)、バスコ・ダ・ガマ(1498)、マゼラン(1522)

2012-09-05 | 史学講座
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください

 「そうだったのか編」(と勝手に名づけている)も3回目ですが、今回は、今まで疑問にさえ思っていなかったけれども、考えてみれば、「なぜ」という思いが湧いて当然の出来事です。

 3人の偉業については、改めて述べるまでもありませんが、念のため、一通りお浚いしておきましょう。

*コロンブス:イタリア人
 ポルトガルに援助を申し入れるが断られ、スペインの援助を得て、インド航路を発見すべく出発。1492年にアメリカ大陸を発見。
*バスコ・ダ・ガマ:ポルトガル人
 ポルトガル王の命令により、1498年、アフリカ喜望峰回りのインド航路を発見。
*マゼラン:ポルトガル人
 スペインの援助により、西回りインド航路を発見すべく、南アメリカを回って太平洋へ出て、世界一周を達成する。


 コロンブスが「アメリカ大陸」を「発見」したのではないことと、マゼランが世界一周を達成した「のではない」ことは世界史の常識ですが、今回の話とは関係ないので、駄文では、文部科学省検定教科書に最大級の敬意を表して、両者の業績とします。
<念のため補足を・・・>
 コロンブスは自分の発見した土地が新大陸だとは夢にも思わず、インドだと信じて疑いませんでした。そこで、原住民を「インド人」の意味で「インディアン」と呼んだのです。さらに、そもそも原住民がいる以上、「発見」という概念は成立しません。
 マゼランについては、世界一周の途上、1521年にフィリピンで死亡しており、翌1522年に世界一周を果たして帰国したのは部下のエルカーノ他でしたから、本来、この名誉は彼らに与えられるべきです。・・・1521年に死亡したマゼランが、1522年に世界一周を達成したと教えている世界史の授業は・・・バカバカしいにも程があると思うのですが・・・
 ただし、マゼランが若い頃インドまで来ていた事実を挙げ、「史上初めて地球上のすべての経線を横切った人物」としてマゼランを弁護する論もありますが、それは後世判明したことで、当時のマゼラン自身にその認識はありませんでしたし、仮にそれを肯定するとすれば、世界一周の開始と終わりの年号は、マゼラン生誕と死亡の年号を採用しなければなりません。

 ま、どっちでもいいですが・・・

 まずは3人の国籍と、援助をした国に注目してください。
*コロンブス・・・国籍イタリア、援助国スペイン(当初、ポルトガルに断られる)
*バスコ・ダ・ガマ・・・国籍ポルトガル、援助国ポルトガル
*マゼラン・・・国籍ポルトガル、援助国スペイン


 ごく単純には、自国の王に援助を申し入れるのが当然でしょうが、冒険家たちにとっては、援助さえしてくれるのならどこでもよかったことが、これらから伺えます。バスコ・ダ・ガマは自国の命令を受けていますが、これも、たまたま自分の国籍と援助をした国が一致したと見るべきで、他国がいち早く彼に有利な条件を示していたら、そちらへなびいたかもしれないことは、容易に想像がつきます。
 また各国についても、自国の利益に与する者なら国籍など問わなかった、特にスペインは、敵国であるはずのポルトガル人マゼランを採用していますから、節操も何もあったものではない、という観さえあります。

 まとめると、世界を小さくした3つの偉業には、次のような図式ができあがります。
「ポルトガルは、コロンブスの申し出を断ったばかりに彼を手放してしまい、スペインに先を越された。焦ったポルトガルはバスコ・ダ・ガマを使ってスペインに追いついた。追いつかれたスペインは、なりふり構わず敵国ポルトガル人であるマゼランを登用し、覇権を回復した」
 ということで、ポルトガルでもスペインでもどっちでもいいのですが、とにかく、これによりインドへの航路が開かれ、新大陸発見というオマケまでついて、ヨーロッパ各国は、海路での、アジア進出を果たし、日本史への関わり合いとしては、1543年種子島への鉄砲伝来、1549年キリスト教伝来へとつながります。

 ・・・と、教科書ならここで終わり、学生はこの事実を暗記して、受験に臨むでしょう。
 しかし、それでは面白くないので、大航海時代の幕を開いた科学の発達を紹介します。

*13世紀前半頃のヨーロッパで、羅針盤が揺れる船上でも使えるよう改良され、遠洋航海が容易になった。
*1474年、天文学者トスカネッリが、地球球体説を唱えた。・・・ただし、地球球体説そのものは紀元前からあったものの、科学的証拠に乏しかった。


 ローマ帝国を代表とするように、それまで航海といえば地中海が主で、大西洋は、陸地を視認できる沿岸部はともかく、大海原へ向かって船を漕ぎ出そうものなら、無事帰還する保障はありませんでしたが、羅針盤の改良と天文学の発達(天体観測)とが相俟って、目印ひとつない広い海へ進出しても、正確に元の港へ帰ってくることができるようになりました。
 これにより、未知の海域へ船を進める下地はできあがります。

 また古来より、地面は平らではなく球ではないか、ということは何となく言われてきました。もちろん、その「何となく」の理由は、今から考えれば全く正しかったのですが、トスカネッリはそれを詳細に研究し、西回りで地球一周する計画まで立て、この地図を携えたコロンブスは、ご存知のとおりの業績を上げたわけです。
 ただし、トスカネッリは地球の直径を実際より小さく計算していたため、コロンブスは死ぬまで自分の勘違いに気づかないままでした。

 こうしてヨーロッパ各国が、大西洋、結果的に太平洋まで進出するお膳立ては整いました。

 では、ここからが本題です。

 私も、漫然と事実だけを記憶して受験に臨んだ口なので、気づきもしなかったのですが、もう少し歴史の勉強に余裕があり、各々独立した事実を有機的に繋ぎ合わせることができたなら、次の疑問を持ってもよかったはずです。

 そもそもヨーロッパ各国は、なぜ、それまで使っていた陸路のシルクロードに見切りをつけ、新たに「海路」を求めたのか?

 単なる冒険ではあり得ません。冒険には人的損失とともに莫大な費用がかかり、「投資」に見合う「利益」が見込めなければ、各国とも金をドブに捨てるような真似はしません。実際、ポルトガルは、コロンブスの申し出を一旦は断っています。
 だから、大航海時代のお膳立てが整ったとしても、腹が減っていなければ、膳に食らいつく必要はありません。逆に、「節操なし」のような真似をしてまで食らいつくには、シルクロードでは腹が満たされない、十分な理由があるはずです。

 その理由には、次の事実が関係してきます。
*1299年、オスマン帝国(私と同年代の方は、オスマン=トルコ帝国と覚えておいででしょう)が勢力を広げ、現在のトルコあたりを支配し、シルクロードによる東西貿易の中継地として栄えた。

 私も試験のため、ふんふんとこの事実を覚えていただけで、あまり深く考えなかったのですが、「東西貿易の中継地」というのが鍵でした。

 オスマン帝国の隆盛は、インド・中国と貿易をするヨーロッパ各国にとって、重大な問題となります。すなわち、オスマン帝国はシルクロードのど真ん中に位置しています。
 そしてオスマン帝国は、領土内を通過する者に高額の税金をかけたのです。
 そうかといって、オスマン帝国を迂回するには、黒海やカスピ海をも迂回しなければならず、ロシア領土へ入り込むとともに、回り道と、冬は極寒のため損失は多くなり、下手をすれば商隊は全滅してしまいます。
 ですから、オスマン帝国の税金はもちろん、商隊の損失を防ぐためにも、海路が求められたのです。さらには、陸路でラクダに荷を運ばせるより、船を使ったほうが、はるかに多くの荷が運べ、当然、利益も比例して大きくなります。
 実際、ポルトガル(バスコ・ダ・ガマ)は莫大な利益を上げ、当時のヨーロッパ随一の強大国となりました。

 歴史に残る大発見の動機が「税金逃れ」だったとは、想像もしていませんでした。
 でも、人間臭くていいですね。

 それにしても、それぞれ独立した事件だと思っていたコロンブス、バスコ・ダ・ガマ、マゼラン、オスマン帝国が、こんなふうにつながり、さらに、社会科の歴史ではなく理科の歴史である羅針盤やトスカネッリさえも、ここにつながってくるとは、なるほど、歴史は総合科学であることを、改めて認識しました。

 こんな事実を学生の頃に教わっていたら、私の社会科の成績も、もう少しよかったかもしれませんが、歴史に「if」は許されませんからね。残念ながら。

やはりそうだったのか 長篠の戦(1575):鉄砲の三段撃ち

2012-08-31 | 史学講座
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください

 これもまた、私が長い間疑問に思っていたことです。
 まずは鉄砲の三段撃ちについて、「常識」となっている事実をおさらいしてみましょう。

『火縄銃は、一発発射してから次を発射するまで時間がかかり、その間に騎馬や歩兵が襲来したり、敵が矢の射程距離内まで攻め入って来たりするので、必ずしも効果的な兵器ではなかった。明智光秀はこの点を改良すべく、鉄砲隊を三列に配置し、先頭が撃ったら後ろに下がり、二列目・三列目が続いて射撃を行い、その間に最初の射手は次の発射準備をしてまた撃つ、ということの繰り返しで、間断なく射撃を行うよう工夫し、実際に長篠の戦において、武田軍を壊滅させた。この画期的な戦法は、戦国時代の戦闘を一変させた』

 見事な戦法で、確かに火縄銃の弱点を克服しており、なるほど武田騎馬隊が大敗を喫したのも頷けます。
 この戦術は映画やドラマでたびたび再現されていて、号令に従って、足軽が一糸乱れず射撃・交替を行っているのは、まるで一幅の絵画を観るようです。

 ところが絵画といっても、有名な「長篠合戦図屏風」(江戸時代)では、まさに私の疑問どおり鉄砲隊が三列になっていません。(一部、前後して並んでいる者もいますが、三列ではないし、全体の状況からして、たまたま重なったと見るべきでしょう)
 が、これほど衝撃的な戦法を絵師が失念するはずはなく、少なくともこの屏風絵が描かれた当時には、三段撃ち戦法が「常識」ではなかったことを示しています。
 ・・・これだけでも、鉄砲の三段撃ちが否定される有力な証拠ですが。

 では、私たちの「常識」となっている三段撃ちの要点をまとめてみましょう。

1.三千丁の鉄砲隊が三列になり、一列ずつ、号令に従って一糸乱れぬ一斉射撃を行った
2.三千名の足軽が次々と交替で、みな、射撃をした
3.飛び道具は、弓矢から鉄砲へと、その後の戦術が一変した


 次に、私の疑問点です。

1.号令による一斉射撃
 三千丁は誇張でしょうが、鉄砲の数を少なく見積もっても、一列につき数百名が並んでいたとすれば、1m間隔でも、端から端まで数百mもの長さになるわけで、ただでさえ鬨の声が響き渡る戦場で、指揮者の号令が末端まで届くとは思えません。たぶん、指揮者の近くにいて、号令の聞こえた者が撃ったのを合図に、聞こえなかった者も射撃を開始したと思われ、少なくとも、一糸乱れず、とはいかなかったでしょう。
 また、受けて立つ武田軍にしても、最初の一発は不意打ちでどうしようもなかったでしょうし、織田軍が武田軍を十分引き付けていれば、武田軍はなす術なく犠牲者の山を築いたでしょうが、その後は、武田軍とて撃たれっぱなしのはずがなく、織田軍が種子島(鉄砲)を使用していると判ったところで、一斉突撃は断念して新手を講じるはずで、織田軍が斉射を続け、無謀にも突撃する武田軍がばたばたと倒れるという、映画さながらの図式は成立しないと思われます。
 したがって、整然と射撃したのは最初の一発だけで、その後は3人一組が各自の判断で射撃したとみるのが妥当ですが、まあ、この方法でも、結果的に間断なく射撃を行って弾幕が張られ、武田軍は前進できなかったでしょう。
 ただ、武田軍の敗戦は必然としても、なぜ武田軍が、壊滅的なまでの打撃を被ったのかという、別な疑問が残ります。

2.3人が交代して射撃を行った
 最大見積もって三千人全員が同じ腕前なら、この方法でもいいでしょう。しかし射撃そのものの腕前とともに、迅速に次の射撃準備をする腕前も含めて、皆が同じ技量であったとは到底考えられず、足並みは乱れることになります。
 また、仮に3人が交代で射撃するとなれば、撃ち終わった者は大急ぎで最前列から最後列へ移動し、弾込め作業をしつつ中間列へ、さらに再び最前列へ戻って撃ち、また・・・という繰り返しで、甲冑を身に着け鉄砲を抱えた重装備でこれをやっていたのでは、屈強な男でもへとへとになるでしょうし、そんな状態で射撃という精密作業を行うのは不可能です。
 おまけに、三千人がひしめき合ってそうこうしているうちに、転倒したり、手元を誤ったりで、火薬に引火し自爆してしまう危険性だってあります。
 こうした問題点は、事前に鉄砲隊が稽古を行えば、すぐ明らかになるはずです。
 安全で効率的で疲労も少ないのは、3人の配置を固定しておき、3人の中で最も射撃に秀でた者が最前線で撃ち方だけに専念し、あとの2人には弾込めを担当してもらう方法です。
 ・・・と、私でも考えつく程度の戦法を、光秀ほどの智将が思い至らなかったとは、これまた考えられないことです。

3.戦術が一変した
 これは考えられません。なぜなら、その後の局地戦は言うに及ばず、天下を決する25年後の関ヶ原においてでさえ、「関ヶ原合戦図屏風」に見られるとおり、主力は歩兵と弓矢でした。もちろん、鉄砲や大砲も使用され(屏風絵の中には、勇猛果敢で知られる薩摩鉄砲隊が描かれており、これはさもありなん図です)、それなりの効果を挙げましたが、戦闘の主役ではなく、ましてや趨勢を決めるには至っていません。

 ・・・家康が、小早川秀秋の本陣へ向かって脅しのために撃ち込んだ鉄砲が、秀秋に出陣を決意させ、東軍を勝利へ導いた、と言う意味では、鉄砲は、紛れもなく趨勢を決めた主役ですが。

 もし、以降「戦術が一変した」のであれば、関ヶ原は歩兵の乱戦ではなく、銃撃戦となっていたはずですが、規模が違うので単純比較はできないものの、「関ヶ原合戦図屏風」の中で鉄砲を構えている兵は、「長篠合戦図屏風」のそれよりも明らかに少なく、「関ヶ原」は「長篠」よりも戦術的に退行していることとなり、通説と「長篠合戦図屏風」および「関ヶ原合戦図屏風」の間には、埋めがたい矛盾が生じてしまいます。

 さて、最近の研究では、私が「あり得ないだろう」と思っていた疑問に対し、まさに「あり得ない」という結論を下していますので、以下にはそれを要約しましょう。

 まず三段撃ち戦法について、それが否定される根拠として、文献上、三段撃ちの記述が、ただ一点(およびそれから派生した各資料)を除いて存在しないこと、私が何となく合理的でないと思った戦法の細かい点が、現地踏査や鉄砲の射程距離・射撃間隔、人馬の進撃速度、鉄砲隊の配置などの科学的合理的な計算、さらには実演によって、困難ないし不可能と判明したものです。
 ただ、ひとつ不可解だった武田軍壊滅の理由は、弾丸が機関銃のように連続して降り注いだからでも、武田軍が無謀に突撃したからでもなく、武田軍が、鉄砲の煙幕で戦場が覆い隠されるという、それまで経験したことのない状況に置かれ、味方の劣勢に気づかず、戦況判断を誤って、のこのこと織田鉄砲隊の眼前に兵を進めたからでした。

 また、「長篠合戦図屏風」から「関ヶ原合戦図屏風」に至るまでの絵図および諸資料に見られるとおり、戦術や築城の様式が一変したという事実は、どこにも見当たりません。長篠の戦のあとでも、鉄砲の役割は決定的というほどではなく、刀と弓矢を戦の中心に据えるという戦法に基本的な変化はなかったことを、「関ヶ原合戦図屏風」は忠実に描いています。

 以上まとめれば、三段撃ち戦法は存在せず、鉄砲が、戦術はもとより築城形式まで変えてしまった事実はない、という結論です。
 よって、鉄砲伝来の年号「以後、予算(1543)は鉄砲に」という語呂合わせも、予算みなを鉄砲につぎ込むというほどでもなかったというわけです。

 そうすると、なぜ根拠薄弱な三段撃ちが、かくも広まったのか、という疑問だけが残ります。
 これは調べていくうちに、またもやそうか、という事実に行き当たります。

 長篠の戦を記録した、最も信頼できる資料としては、17世紀に、信長の家臣であり、実際に長篠の戦にも参加したであろう太田牛一が著した、「信長公記」という書物があるのですが、もちろんこの中に、三段撃ちの記述は全くありません。
 ところがそのあとに、同じく信長の家臣である小瀬甫庵という人が、「信長公記」を参考にして「信長記」(注:混同を防ぐため、こちらは「甫庵信長記」と呼ばれる)を著しているのですが、この中に「だけ」三段撃ちが登場します。
 そして、前者「信長公記」が事実の記録に徹した軍記物であり、非常に信憑性の高い第一級の資料であるのに対して、後者「甫庵信長記」は脚色を多く加えたり、甫庵自身の思想を散りばめたり、ひとつの合戦をまるまる創作するなど、記録というより文学作品として、娯楽性の高い物語になっています。
 しかし、正確な資料と、読んで面白い物語では、どちらが人口に膾炙するかというと、まあ、残念ながら後者であり、ちょうど史実の赤穂浪士ではなく歌舞伎の忠臣蔵が人々の固定観念となってしまったように、長篠の戦における三段撃ちが定説として伝えられたのは、止めようがなかったのかもしれません。

 それでも、現在私たちが、忠臣蔵はお芝居であり、史実は少し違うのだということを知識として持っているように、長篠の戦も、物語は物語として無邪気に楽しむ傍ら、史実はこうであるという、正しい見解を世に知らしめる機会はいくらでもあったはずですが、現在に至るまで、大衆はともかく、研究者から文部科学省までもが三段撃ちを支持してきたのには、「またもやそうか」という経緯があります。

 明治時代、日本が軍備の近代化を進めていた頃、軍は、日本の合戦史をまとめ、士官の教育に利用していました。それ自体、別に悪くも不思議でもないのですが、その中で長篠の戦に関する部分では、こともあろうに正確な資料である「信長公記」を無視し、物語の「甫庵信長記」にある三段撃ちを史実として採用しており、この点は悪いし不思議です。
 資料をきちんと調べれば、三段撃ちが史実ではないことぐらい明白なのですが、それでも三段撃ちを史実として採用したのには、そうするべき理由があったからに違いありません。

 その理由は推測するしかありませんが、おそらく軍としては、三段撃ちという、それまでの常識を覆すような発想で敵に勝利した勇ましい話は、士官の士気を鼓舞するのにうってつけだったのでしょうし、また、西洋の軍備を取り入れて近代化を進めていた時代に、やはり西洋の兵器を効果的に使って戦術を一変させた三段撃ちは、時代に迎合し、富国強兵政策を強力に援護するものだったのでしょう。

 そして、その「間違い」は訂正されることなく、現在も教科書に堂々と記載されています。もうそろそろ訂正されてもいい頃なのに、未だになされていないのは、文部科学省の怠慢・・・旧弊に固執する体質・・・に他なりません。

 歴史的事実が、政治によって歪曲された例は、古今東西、枚挙に暇がありません。
 歪曲するには、歪曲しなければならない理由があるからですが、その理由は少なくとも、歴史を学び、これから社会へ羽ばたく学生にとって有益な理由ではありえません。
 もっとも、受験のためだけに歴史を学ぶ学生にとっては、三段撃ちが史実であろうとなかろうと、どちらでもいいことで、入試を実施する側も、それが事実であろうとなかろうと、教えたことをどれだけ忠実に覚えているかだけが重要ですが、それは、受験勉強が全く意味のない知識の詰め込み(しかも間違った知識)であることを、逆説的に証明してしまい、歴史「を」学ぶのではなく、歴史「に」学ぶという態度を、全く育まなくなってしまいます。

 歴史に学ばなかった者がどういう失敗をしてきたかは、言うまでもありません。
 ・・・ということさえも学ばないとすれば、もはや言うべき言葉もありませんが。

やはりそうだったのか 元寇:文永の役(1274)、弘安の役(1281)

2012-08-28 | 史学講座
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください

 歴史の知識といえば、たいていは学生の頃に勉強した(詰め込んだ、と言うほうが適切かな)ことが全てで、その後、新しい知識を仕入れていない限り、何十年経っても、その知識が、その人の「常識」として留まっています。

 さて、掲題の元寇ですが、学生時代を何十年か前に過ごした私と同年代の方にとっては、以下の内容が「常識」だろうと思います。

『2回にわたる元寇で、武器や戦法に勝れた元軍は、日本軍を散々悩ませましたが、2回とも、夜中に暴風が来て、船に戻っていた元軍は一夜にして壊滅しました。この暴風雨を、日本人は後々まで「神風」として崇めました』

 この「2回とも」という部分が、私にとって長い間の疑問でした。

 軍事により一大帝国を築いた元が、軍事上重要な情報である東シナ海の気象を知らないはずはなく、わざわざ台風の季節に艦隊を仕立ててやってくること自体、腑に落ちませんし、さらには、同じ間違いを二度も犯し、十数万の兵士を犠牲にして自滅するなど、どう考えても軍事大国らしからぬ過ちです。
 それでも、天気予報などなかった時代、一度目は「読みが外れた」かとも解釈できますが、一度目が失敗した時点でその将軍は更迭(たぶん処刑)され、後任の将軍は前回の失敗をよく検討して事に臨むのが軍事というもので、こんな行き当たりばったりの、まるでわざと兵士を海に沈めるような作戦などあり得ない、という疑問です。

 ところが、最近になって知ったのですが、やはり、元寇についての古い「常識」には、裏があったようです。

 まずは、説明上、鍵となる事項を整理してみましょう。
1.文永の役では約3万、弘安の役では約15万の兵が来た
2.文永の役は1274年11月、つまり台風の季節ではない
 弘安の役は1281年6~8月で、これは台風の季節
3.日本側の記録によると、文永の役では一夜にして元軍が引き上げたが、弘安の役では確かに暴風雨によって壊滅した
4.軍は、元軍単独ではなく、元および元が服属させた高句麗・南宋との連合軍であった。
 特に弘安の役では、元以外の兵が10万を超えていた

 以上から、最新の学説は次のようになっています。

1.兵力について
 文永の役で、わずか3万の動員ということは、少なくとも文永の役においては、元に、本気で日本を征服する意図はなかったと思われる。それよりも15万を動員した弘安の役が本番で、文永の役は、日本側の防衛力を確認する前哨戦と見るのが適当。
 ただ、一旦引き上げることで、元軍は自らの装備(てつはう・蒙古弓など)を明かしてしまうとともに、日本側に防衛体制増強(防塁など)の余裕を与えてしまっているのは、元軍戦略上の不手際だろうが、後述のとおり「日本侵略があまり本気ではなかった」としたら、日本側にわざとそうさせたのかもしれない。

2.台風について
 文永の役は11月だから、台風が来ることは、まず、あり得ない。
 また、文永の役が自主的な撤退であったのなら、弘安の役に際して、元軍が迂闊にも気象条件を考慮の外としたのは、まあ、不可解ではない。
 さらには、これも前述のとおり、「わざと」の可能性さえある。

3.元軍撤退理由について
 文永の役は前述のとおり「前哨戦」と見るべきなので、日本側の戦力を測るという目的が達成されれば長居は無用、さっさと引き上げるのが合目的的である。
 弘安の役で台風が来たのは事実で、15万のうち10~12万が海に沈み、これは間違いなく敗戦である。

4.連合軍であったこと
 元は高句麗・南宋を服属させたが、両国の残存が元におとなしく従うはずはなく、元にとってそのような不満分子は厄介者に過ぎない。
 また攻略した国の者を、次の侵略戦争で尖兵として使うのは常套手段であるが、高句麗・南宋人にとっては、自分らの国を侵略した元に対しての忠誠心などあろうはずもなく、彼らの士気は極めて低く、戦役前の造船においても、日本での合戦においても、まるでやる気がなかった。

 これらのことから導き出される結論は、

『元の日本侵略作戦は、あまり本気であったとは考えにくい。それでも、元からの国書を無視した日本を痛い目に合わせねば、元の威光に傷がつくから、勝敗に関わらず、攻めてみたものである。そして首尾よく日本を攻略できれば、それはそれで良し、もし攻略できなくても、不満分子である高句麗・南宋の兵は全滅するから、どっちに転んでも元にとっては都合がいい、という戦いであり、結局、後者の結果に落ち着いた。ただ、暴風雨によって、高句麗・南宋兵だけでなく、元軍そのものにも壊滅的な打撃が及んだのは計算外だったらしく、元は、海軍力の弱体化を招いた』

というものです。

 これには目から鱗の落ちる思いがしたと同時に、私が、辻褄が合わないと思っていた点にも、なるほど高句麗・南宋という「捨て駒」での戦ならさもありなん、という明快な回答をくれるものでした。

 さて、歴史上の事実はこれで整理がついたとしても、それではと湧き上がる疑問、「なぜ、歴史的事実が正しく伝わらず、歪曲された事実が伝わり、あまつさえ学校で検定教科書を用い、そう教え続けたのか」という点についてはどうでしょう?

 これには、前記4つに続く鍵、

5.私の世代では、学校の先生(旧文部省というべきか)にも太平洋戦争経験者が多かった

という事実を、残念ながら、付け加えねばなりません。

 圧倒的な軍事力を誇る元軍が、終始優勢に戦を進めていたにもかかわらず、一度ならず二度までも、偶然・・・つまり人智を超えた・・・暴風雨によって壊滅し敗退した、という事実(ではありませんが)からは、次の結論が導き出されます。

『日本は神国であり、たとえ夷敵が攻めてこようとも、最終的には「神風」が吹き、寸土も侵されることなく、わが国は勝利する』

 これが、私たちの先生が少年時代を過ごしたであろう戦前の、国威高揚によるものであることに疑いの余地はありません。このように勇ましくも神々しい話は、軍国少年らの心に深く刻み込まれ、戦後、純粋な少年らが大人になって数十年経っても、その呪縛から解き放たれることはなかったのです。

 戦前・戦時中の教育について知れば、まるで集団催眠とも言える教育ですが、私は、それは終戦とともに消え去り、戦後は民主的な教育に姿を変えたものとばかり思っていました。しかし、意図していなかったと信じたいですが、戦前教育の影は、戦後数十年にわたって影響を残し続けていたのです。

 では、日本側の記録で明らかなように、そもそも文永の役では「神風」など吹いていないにもかかわらず、なぜ永きにわたって、吹いたことになっていたのでしょうか。

 歴史編纂の際に資料とした、八幡神を喧伝する「八幡愚童訓」という書(宗教書であり、歴史を正しく伝えた書ではないことに留意してください)の中に、「2度とも神風が吹いた」という記述があるそうです。
 これが、明治時代の富国強兵政策華やかなりし頃、歴史の教科書を編纂する際に都合よく利用されたであろうことは、想像に難くありません。
 つまり、元寇という歴史を捻じ曲げてしまった「戦犯」は、この編者だったのです。

 教科書の歴史が間違っていて、元軍が2度とも暴風で壊滅したと教えていたとしても、真実が詳らかになったのなら(もとから分かっていたことでしたが)、それは新しい事実を教えればいいわけですから、取り返しのつく過ちです。
 しかし、根拠のない「神国」や「神風」を信じ込まされて、先の大戦で自暴自棄な作戦によって散華した若者たちの命は、取り返しがつきません。

 それにしても、私も迂闊でした。
 疑問を持ったのなら、とことん調べてみればよかったと、今になって悔しく思います。(もっとも、そんな力量などありませんでしたが)
 しかし今なら、インターネットという方法で、居ながらにして簡単に調べることもできますから、歴史に限らず、疑問に思ったことは間を置かず調べる、という基本を実践したいものです。

 たった一つの誤った歴史観が、かくも重大な結果を招くといった、「過ちは繰り返しませぬ」ように。

宇垣纏(1890-1945)

2012-07-24 | 史学講座
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください

 先にお断りしておきますが、私は戦争を心底憎んでおり、武人を尊敬することは、古今東西あり得ません。(政治家として、または人間としての尊敬は別として)
 これは駄文「歴史上の英雄と戦争・人間」にも記したとおりです。

 しかし、尊敬はしませんが、歴史を学ぶにあたって最も重要な観点、「人間とは何か」および「それを自分にどう活かすか」を考察する上で、非常に興味を惹かれる人物はいます。

 その中の一人が、表題の人物、宇垣纏(うがきまとめ)です。


*以下の駄文において、宇垣纏の評価に対する異論は、一切受け付けません。

 宇垣纏海軍中将は、太平洋戦争末期、爆弾を抱いて敵艦に体当たりする、いわゆる「特攻」を立案・計画、そして数多くの兵士に実行させた中心人物です。
 そして終戦の日の夕方、つまり玉音放送が流れた後に、部下十数名を連れて出撃し、宇垣自身を含めて全員が帰還しませんでした。
 しかし玉音放送の「後」、つまり終戦後に出撃し未帰還となったため、戦死とはされず、宇垣の行動は「部下を道連れにした自殺」との評価が大勢で、戦死ではないから階級の特進もありませんし、長い間、靖国にも祀られていませんでした。

 ・・・このあたり、学識者の間でも、玉音放送を以って「終戦」とするか、宇垣が出撃前に語ったように「玉音放送はあったけれど、停戦命令はまだ届いていない」の弁を支持するかで、論争は止みません・・・ので、異論は受け付けない次第です。悪しからず。

 いずれにせよ、宇垣の行動が計画的で、終戦~勝利にしろ敗北にしろ~の際には、自分が死へ追いやった数千名の部下たちに対し、冥土で詫びるつもりだったことに疑いの余地はありません。
 写真は、最後の出撃直前に、自分の棺桶となる「彗星」の前で撮影されたものですが、どう見ても、とてもこれから死に行く人間の顔ではなく、むしろ晴れやかで喜ばしい表情であり、宇垣自身、「自分に武人としての死に場所を与えてくれ」と言っていることからも、その表情には、「これで、やっと死ねる」という安堵が観て取れます。
 それは、特攻を行った兵士たち自身は言うに及ばず、死を命令した側の、苦悩の裏返しが、こうした表情を創ったのでしょう。

 と、ここで宇垣に対する評価の大団円を演じてもいいのですが、まあ、それは歴史家に任せましょう。・・・どうせ決定的な結論は出ないでしょうから。

 さて、私が宇垣に興味を持ったのは、まさに、この写真を見てからでした。
 憎むべき戦争という愚行の最中において、さらに特攻という自暴自棄な作戦を実行した人物が、場違いとも言える程、このように穏やかな顔で死地に赴いた、それは歴史に学ぶ上で、「人間とは何か」という私の考察心を呼び起こすに十分過ぎる写真でした。

 そうして宇垣について調べるうち、驚くべき事実に突き当たりました。(研究者にとっては、別段驚くことではありませんが)

 宇垣が出撃したのは、わが郷里、大分基地からだったのです。
 当然、写真も大分で撮影されたものです。
 これだけでも、郷土を深く愛する私には、興味をそそるに十分なのですが、さらに私個人にとって、「大分基地」というものが、重要な意味を持っています。

 大分市にあった航空隊大分基地は、戦後、民間の大分空港として生まれ変わり、同地に新日鐵大分製鐵所ができるまで、大分の、空の玄関口として活躍しました。
 その、旧大分空港の南側、少し離れたところに、父の実家(私にとっては祖父の家)があり、また、祖父の畑が空港のすぐ側にあり、私自身の幼い記憶にも、畑仕事を手伝っている向こうに、旅客機が発着していた様子があります。

 この話を父にしたところ、終戦当時14歳だった父も、基地があったことは憶えていて、「兵隊さんが、飯の入った桶を運んでいるのを見た」と言っていました。(その兵隊が、運んでいる飯を手づかみで盗み食いしていたのを見て、「こりゃ、日本はもうダメだ」と思った、とも言っていましたが)
 そうすると、もしかすると父は、宇垣中将を目にしたことがあるかもしれませんし、さらには、片道切符を手に離陸する宇垣機を、そうとは知らず見送った可能性だってあるかもしれません。
 戦争下での、海軍中将の所在などは極秘事項だったでしょうし、当時の父に、将兵の階級や顔の判別などつこうはずもありませんから、今となっては、確かなことは何一つありません。

 そして、旧大分空港の移転以来、田園は都市へ変貌し、祖父の畑も今は幅40mの道路になってしまいました。
 しかし、私のおぼろげな記憶にある昭和40年代初頭の長閑な田園風景は、昭和20年当時と大差ないはずで、宇垣中将が最後に見た、その同じ空や風景を、父も私も見た、とは言えると思います。

 日本にとって忌まわしい記憶の最終章が、人も景色も、かくも穏やかであったこと、それが戦争を知らない私の記憶にもつながっている、「歴史」が「現在」につながっているという、頭で理解していたはずのことを、電撃となって実感させられた瞬間でした。

 これらの事実から翻って、「人間とは何か」を考察すれば、私は、特攻などという愚かな作戦を指揮した者とは、どのような鬼畜であろうかと想像していたのですが、写真で見る宇垣の顔は、まるで仏のようで、人間はやはり人間であった、という結論に至ります。

 また、「それを自分にどう活かすか」を考察すれば、子供たちの教科書には、私や妻が現実として見聞きしてきたことが、「歴史」として載っており、私たちの年代には、歴史の生き証人として、それらを後世に伝える責務があると思います。・・・父が私に語ってくれたように。

 さて、では次男坊の、社会科の宿題でも手伝いましょうか。

耳なし芳一と安徳天皇(1178-1185)、諸行無常

2010-10-22 | 史学講座
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください

 前回の続きというわけでもありませんが・・・
 私は歴史上の人物で、安徳天皇には特別な思い入れがあります。


 安徳天皇は、源平最後の合戦、壇ノ浦の海戦において、もはやこれまでと覚悟した二位の尼(平清盛の妻、平時子:安徳天皇の祖母)に抱かれ、入水しました。
 平家物語では8歳と書かれていますが、これは数え年齢で、満年齢では6歳、しかも壇ノ浦の海戦が新暦の5月ですから、現代でいえば、小学校に入学して間もない頃に相当します。

 そんないたいけな子どもなのに、源平の争いに幕を引くため、周りの大人が寄ってたかって、彼を死に追いやってしまったわけです。
 安徳天皇は、死んで戦いの終止符となる、だたそれだけのために生まれてきた、と言わざるを得ません。

 死を以って終戦の象徴とならなければならなかった人物には、豊臣秀吉の子、秀頼(22歳)などもいますが、秀頼はもう大人ですから、武士として、自分の役割や運命を理解していたでしょう。

 しかし安徳天皇には、自分が天皇であるという自覚はなかったでしょうし、なぜ死ななければならないのかといった理由はおろか、自分がこれから殺されるんだということさえ理解していたとは思えません。
 ただ無力にも、祖母に抱かれたまま、運命に従っただけで、悲しさ・哀れさはひとしおです。

*「平家物語」より
 「そもそも尼前(あまぜ)、われをばいづちへ具していかんとはするぞ」
 (おばあちゃん、ぼくをどこへ連れて行くつもりなの?)

 二位殿、やがて抱き参らせて、「波の底にも都の候ぞ」と慰め参らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ。
 悲しきかなや、無常の春の嵐、忽に花の御姿を散らし、いたましきかな、分段の荒き波、玉体を沈め奉る。
 (二位の尼、やがて安徳天皇をお抱きになって、『海の下にも都はございますわよ』とお慰めになって、千尋の海の底に沈みなされた。
 なんと悲しいことだろう、無常の春の嵐は、たちまち花のような安徳天皇の御姿を散らしてしまい、なんと痛ましいことだろう、切れぎれの荒い波は、安徳天皇の御肉体をお沈めになった)


 この、「平家物語」巻十一の十、「先帝御入水の事」は、何度読み返しても、その度に目の奥が熱くなります。

 私が安徳天皇のことを知ったのは、小学生の頃に読んだ、小泉八雲の怪談「耳なし芳一」でした。
 少年向けの読みやすい本でしたが、恐ろしい話に加え、おどろおどろしい挿絵に、背筋が寒くなったものです。

 やがて大人になり、耳なし芳一の舞台である壇ノ浦へ、自分の足で出かけ、安徳天皇を祀ってある赤間神宮(山口県下関市)に参拝し、陵墓も見学し、子どもの頃の読書を追体験しました。


赤間神宮の水天門
海で死んだ安徳天皇のため、竜宮城を模していると思われます。
安徳天皇陵
・・・無論、ご遺体は、神璽・宝剣とともに、関門海峡の底です。

平家一門の墓碑銘
左端に、安徳天皇を抱いて入水した、従二位尼平時子の名があります。

 自分の意思と足で、歴史に残る事件の舞台を見たのは、壇ノ浦が初めてでした。
 だから、「本当に壇ノ浦があるんだ。800年前の、本当の出来事だったんだ」というのが正直な感想で、またそれはその後の、歴史の証拠を自分の目で見てみたい、という動機にもなりました。
 そしてそれは、古墳など考古学上の史跡を、カミさんとともに見学して回ることへつながっています。

 さらに、自分に子どもができたことで、幼子が、大人の都合で殺されていく不条理さが非常に憎く思われ、同時に、安徳天皇の運命を思うと、涙が流れてきます。

 仕方がなかったとはいえ、祖母である二位の尼は、船縁に立った時、安徳天皇の、澄んだ瞳を見つめて、何を思ったのでしょうか。

 私にとって、まさに平家物語の冒頭「諸行無常」、そして歴史、戦争、人間、死生・・・そうした哲学の象徴たるのが、安徳天皇です。

歴史上の英雄と戦争・人間

2010-10-20 | 史学講座
ご訪問ありがとうございます→にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ←ポチっと押してください

 歴史上の人物で、あなたが尊敬するのは誰ですか?

 歴史好きな人のなかで、一番人気があるのは戦国時代、外国なら三国志の頃や、古代エジプトなどでしょう。
 そして歴史には、いろんな英雄が登場します。日本なら義経、信長、秀吉、東洋史では項羽、劉邦、秦始皇帝、西洋史ではアレキサンダー、ナポレオンなど。

 私もカミさんも歴史が好きで、一緒に遺跡巡りをするのですが、私たちが好きなのは古墳時代や縄文・弥生時代など古代史の分野です。
 だから我が家では、
「おい、遺跡が発見されたって、新聞に書いてあるぞ」
「へえ~。いつ頃の遺跡?」
「千年前の、平安時代らしい」
「なんだ、新しすぎてつまんないじゃない」
という、変てこな会話が成り立っています。

 さて私は、「歴史上の人物で尊敬するのは誰?」と問われても、武人の名を挙げることはありません。
 なぜなら、一般的に武人の業績は、戦、それも侵略戦争によって評価されるものだからです。

 侵略する側にとってみれば、大侵略を行った人物こそ英雄ですが、侵略された側は、大侵略ほど極悪人との評価を受けます。
 朝鮮出兵を行った秀吉は、日本では英雄なのに対し、韓国では侵略者として憎まれています。

 歴史上、ナポレオンは英雄と評価されています。
 逆にヒトラーは、史上最大の悪人と評価されています。
 しかし私には、ユダヤ人虐殺などの非人道的行為は別にして、他国へ武力で侵攻し、兵士や罪もない住民を殺戮し、土地や財産を強奪した、侵略行為に限って言えば、両者に何の違いがあるのか分かりません。

 昔は、他国を侵奪して自国の富を増やすのは「正義」でしたから、当時の価値観をどうこう言っても始まりませんが、現代の価値観に照らせば、そのような行為は「悪」であると認識すべきです。

 ついでながら、某超大国のように、「利益」に「正義」の名を冠して、他国へ武力で押し入ったり、他国の紛争に首をつっこんだりするのは、どう考えても「悪」でしょう?

 「歴史を作り上げてきたのは、戦ではないか」というご意見もおありでしょう。
 しかし正確には、「学校で教えるのは、侵略を正当行為と評価している戦の歴史ばかりであり、したがって、歴史といえば、皆が知っているのは、戦の歴史ばかりになってしまっている」と反論させていただきます。
 実際、教科書には、科学、文化、芸術、民俗などの記述は、オマケ程度しか載っていません。
 本当は、それこそが人間そのものであるのに、です。

 たしかに、戦によって、科学が長足に進歩したり、新しい思想が生まれたりと、歴史の転換点、飛躍点はいつも戦です。
 でも、「歴史を作ったのは戦」だとすると、人間とは即ち戦である、ということになってしまいます。

 もしかするとそのとおりかもしれませんが、しかしそれでは、あまりにも悲しすぎると思いませんか?

選ばれた情熱

2006-07-17 | 史学講座
 古代エジプトの王、ツタンカーメンの墓を発掘した人々が、墓の入口にあった「王の眠りを妨げる者は、死の翼に触れるべし」という碑文どおり、次々に怪死した事件は、ツタンカーメン王の呪いとして、あまりにも有名です。
 もっとも、科学的には、墓の中に封印されていたある種のカビが、人々に肺炎などを引き起こし、特に高齢者には致命的な症状を引き起こして死亡させた、というのが定説となっています。現代でも、ツタンカーメン王墓に立ち入った旅行者が、この肺炎を発症して亡くなるという事故が発生しています。

 さて、話をオカルトに持っていくつもりはありませんが・・・

 発掘のスポンサーであるカーナボン卿をはじめ、ツタンカーメンの「呪い」で亡くなった人は多数に上ります。しかしその中には、明らかに肺炎とは違う症状の者も数多くいます。また、高齢でない者も少なくありません。しかし何よりも、発掘に情熱を燃やしたハワード・カーターその人は、真っ先に死ぬどころか、生涯「呪い」を受けることなく、発掘をすべて終え、報告書をまとめたあと、66歳で死亡しています。
 また当時の発掘では、発掘者やスポンサーが、出土品を自国へ持ち帰るのは「常識」で、もちろんカーナボン卿もその一人でした。その意味では、利益に目がくらむことなく、純粋に発掘をしたのはカーターだけであったとも言えます。

 考古学の発見には、情熱の勝利と言うべき事例がたくさんあります。カーターがツタンカーメン王墓を発見したのもそうですし、ハインリッヒ・シュリーマンが、子どもの頃から夢見つづけていたトロイ遺跡を発見したのもそうです。

 私には、カーターもシュリーマンも、「選ばれた人」だったとしか思えません。カーターはツタンカーメン王に、シュリーマンはトロイ遺跡の人々に、「その情熱には負けた。お前になら見せてやろう。こっちを掘ってみろ」と選ばれたのです。
 たしかに、確率論などを持ち出してくれば、ツタンカーメン王墓もトロイ遺跡も、カーターやシュリーマンでなくとも、いつか誰かが発見したかもしれませんし、情熱を持って発掘にあたれば、発見の確率はより高くなります。しかし、そう考えるのは「畏れ」を知らぬ不遜な者です。

 先日、福岡市博物館で開催された「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」を、カミさんと見学してきました。また、早起きして福岡に駆けつけた甲斐あって、吉村教授の講演を聴くこともできました。(吉村教授にサインをもらって握手をする権利は、カミさんに譲りましたが)
 今回の目玉は、吉村教授が衛星を使って墓の位置を特定し、見事発見した、行政官セヌウの青いミイラマスクです。きっと吉村教授も、セヌウに「選ばれた人」だったと思います。

 日本の考古学史上、最大の謎は邪馬台国の卑弥呼でしょう。一体、いつ、誰が、卑弥呼に選ばれるのでしょうか?それとも卑弥呼は、永久に誰も選ぶつもりはないのでしょうか?