続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

巻6の11 桐の葉を以って、弟を封ずる事

2017-08-27 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、成王(?-前626)という王が、弟の叔虞という人と共に遊んだとき、唐土には、国の王を決めるときに、珠を作って王の印として与える習慣があったので、成王は弟の叔虞に向かって、戯れに桐の葉を切って珠を作り、
「お前にこれを授けて、この国の王に任ずる」
と言った。
 後日、家来の史佚という者が、
「吉日を選んで、弟君の叔虞様を王に即位させましょう」
と言う。成王は大いに驚き、
「朕は、戯れに叔虞を王に任ずると言ったのであって、それは真意ではない」
と言ったが、史佚は、
「天子ともあろうお方が、仮にも戯れの言葉などあってはなりません」
と言って、ついに弟を即位させた。
 王というのは位が貴く、臣というのは位が卑しいものであるが、道理を弁えるという点においては、いかに位が貴い者であっても、無理に臣を屈服させることなどできない。だから、天子のみならず、一家の主君たる者が、仮にも戯れ偽れば、下の者は上を疑ってしまい、何事をも信じることができず、一家は滅亡の道を辿るだろう。
 だから、田子方(魏の智慧者)も、
「偽りは事の賊なり」
と言ったのである。
 幽王(?-771)が燧火を上げても、天下の諸侯が集まらなかったのも(注)、みな、下を偽ったからである。

(注)幽王は、后の褒姒が笑わない女であったため、戯れに、燧火を上げて天下の諸侯を集めたところ、褒姒が大いに笑ったことに味を占め、たびたび同じことをしていたら、そのうち諸侯は集まらないようになってしまい、敵国が攻めてきたときも燧火を上げて諸侯を集めようとしたが誰も集まらず、そのまま敵に滅ぼされてしまった。

巻6の10 釼を水中へ落とす事

2017-08-17 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、楚国に愚かな人がいた。
 ある時、舟に乗っていて、腰に差した釼を、誤って水の中へ落としてしまった。そこで、この者は知恵を働かせて、落とした場所が後で分かるよう、舟に印をつけて、
「この印のところから水の中へ落とした。これを頼りに探せばいいのだ」
と言った。
 しかし、舟は水の流れるにまかせて進むが、釼は落ちた所に留まっているから、舟に印をつけたとしても、何もならない。そうした理屈も分からずに、印さえ付ければよいだろうと思ったこの男は愚かであるが、翻って見れば、世の中の人も、万事、早合点や勘違いをする点は、この男と変わりがない。

巻6の9 介子、推綿上山にて、焼け死する事

2017-08-03 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、晋の文公(前696-前628)という人は、晋の献公(?-前651)の本婦人の子であったが、献公が驪姫(?-前651)という妾を寵愛していたので、驪姫は、本婦人の子である文公をひどく憎んでいた。
 そしてついに献公へ讒言をして、文公を殺そうとしたので、文公は恐れて他国へ逃げた。その時に、共に付き従って逃げ去った者は、狐偃、趙衰、顛○、魏犨、介子推、以上5人であったが、そのうちにも介子推(?−前636)は、他のどの臣よりも、とりわけ忠功が深かった。曹という所で、文公が飢えて死にそうな時、介子推は自分の股(もも)を裂いて文公に食べさせ、辛うじて命を助けた、というようなこともあった。

 その後、献公が死んで、文公は本国へ帰って献公の跡を継いだが、その、逃げ走った時に付き従って忠功をなした者どもへ、残らず爵禄を与えたのだが、ひとり介子推を忘れて、爵禄をも与えなかったので、介子推はこれを恨んで、綿上山という山へ引き籠って、文公に仕えようとしなかった。 
 それでも文公が、いまだ介子推を思い出さなかったので、介子推に付き従う者たちが、「一蛇独怨(龍が天に上るのを援けた蛇たちのうち、他の蛇は龍と一緒に巣に入ったが、1匹の蛇だけは、怨みを抱いたまま巣に入らなかった)」という語を文公の宮門に書き付ければ、文公はこれを見て、初めて介子推の事を思い出し、自分が俸禄を忘れて与えなかった事を後悔し、急ぎ人を遣わして、俸禄を与えようと召し呼んだが、子推は山を出ようとしなかった。

 文公は、いかにしても子推を呼び出し、恩賞を与えたく思ったが、どうしようもない。ある者が申し上げるには、
「とかく、山に火をかけて焼き払えば、子推も出てくるでしょう」
と言ったので、文公は、「それもそうだ」と、多くの人を遣わして、綿上山に火をかけて焼き払ったが、ついに子推が出てくることはなく、木を抱いたまま焼け死んでいたという。

 こうした経緯で、この山は介山と名付けられた。後の人はこれを憐み、子推が死んだ日が近づくと、前後三日の間は、火を焚くことを禁じているという。今でも唐土には、冬至の後、105日にあたる日は、介子推が死んだ日として、飢食といって、火を忌む風習がある。

巻6の8 原穀、祖父(おほぢ)を山へ捨つる事

2017-07-21 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、どこの出身かは分からないが、原穀という人がいて、年は若かったが、才智は類がないほど人に優れていた。
 その頃、原穀の祖父は、年を取って体も弱り、立つことも不自由になってしまったので、父母は困り果て、祖父を山へ捨てようと言い出した。原穀はまだ15歳であったが、涙を流し、父母を諌めたが聞き入れられず、手輿を作って祖父を乗せ、父子で遠い奥山の高い所に捨ててしまった。
 さて、父子が帰っている時、原穀が手輿を捨てずに、遠い道のりを持ち帰っているのを父が見て、
「お前はどうして、その輿を捨ててしまわないのだ」
と言えば、原穀が、
「それは、今度、父が年老いた時、山へ捨てる場合のために、持ち帰っているのです」
と言ったので、父は大いに恥じ、ついに祖父を輿に乗せ連れて帰り、その後は、ひたすら孝行を尽くした。
 原穀は、類なき孝行な孫であるとして、その名を世に上げることとなった。
 親に悪い点があって、子が諌めようとしても、聞き入れてもらえなかったら、子としてはどうしようもない。それを原穀は、父の悪に従いながらも、父の悪を諌め、また父に逆らわぬようにしながら、父を孝道に引き入れることに成功した話は、ひとかたならぬ孝孫であることを示している。

巻6の7 餅をくはんとて、無言をする事

2017-07-09 | 理屈物語:苗村丈伯
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 昔、濱田という所に、きわめて愚かな夫婦がいた。
 隣から餅を三つ贈られたので、夫婦は各々一つずつ食べて、残るひとつを「おれが食う」「わたしが食べる」と争っていたが、夫が言うには、
「それならば、今から無言を始めて、無言を破った者を負けにして、無言を続けて勝った者が食べることにしよう」
と言えば、妻も、
「そうしましょう」 
と言って、無言競べを始めたが、お互いに、この餅を食べようと思う一心で、夫婦共に、三日経っても、物ひとつ言う事がなかった。
 その折しも、ある夜、盗人が入って来て、家の物を残らず盗んで行ったけれども、これを見ながらも、夫婦は、餅を食べたいという心ばかりで、声を上げて呼ばわる事もせず、互いに悶々としていたが、妻は、「この、わずかの餅を食べるために、多くの家財を盗まれては大損だわ」と思って、声を上げて、
「盗人が来た」
と呼ばわれば、夫は喜んで、
「そうれ見ろ、無言を破ったな」
と言って、餅を取って食べ、盗人のことは気にかける様子すらなかった。
 世の中には、少しの利益を得るために、ついには命を滅ぼすほどの大損をする者もいる。それらはみな、この夫婦に同じである。

巻6の6 日なたを君に献ずる事

2017-06-13 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、宋の国に農夫がいた。家は貧しく、常に薄い衣を着て、辛うじて冬を越していた。
 が、ようやく春にもなり、田に行って仕事をしていたところ、日が背中に当たって暖かくなったので、農夫は喜んで、
「さてさて、太陽というのは重宝なものだ。こんなに人を暖かにするものは、またとあるまい」
と思って、綿布の暖かな衣服がある事さえ知らなかった。
 その農夫が妻に語るには、
「世の中に、日に当たるほど暖かなものはあるまい。それなのに世間の人は、こんなものがあることも知らずに、寒さを嫌うばかりだ。では、この重宝な暖かさを国の王へ申し上げて、ご恩賞に与ろうと思う」
と言って、大いに喜び勇んだ。
 まことに、井の中の蛙は大海を知らずという語は、これのことである。愚かな人は、自分が持っている限られた僅かな知恵だけが、世の中みなに通用すると思ってしまう間違いを犯すが、これは、天に橋を立てて登るような行為であり、慎むべきである。

巻6の5 斉の閔王の后、頸に宿瘤ある事

2017-05-31 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、斉の閔王の后は、頸に大きな宿瘤があったので、その名を宿瘤(しゅくりゅう)といい、もとは卑しい民の娘であった。

 その昔、閔王が東郭に遊んだ時、その地方の民百姓は、閔王の御出ましということで、皆、出て見ていたが、宿瘤は蚕の世話をするため桑の葉を採っていて、王を見に行こうとはしなかった。閔王が不審に思って、
「朕が地方へ遊びに出れば、民百姓はみな朕を見に来る。それなのに、そなた一人、一度も朕を見に来ようとしないのは何故だ」
と尋ねれば、宿瘤は答えて、
「私は父母の教えを受けて桑を採っています。いまだかつて、王が遊びにいらっしゃっているのを見に行け、という教えを受けたことはありません。ですから私は、王を見に行かなかったのです」
と言う。閔王は大いに驚き、
「お前は胆(きも)のある女だ。しかし惜しいことには、瘤があって醜い娘だ」
と言えば、宿瘤が言うには、
「私の仕事は、父母の教えを受けて、ひたすら桑を採ることです。容姿の美醜などを気にかけ、宿瘤があることを憂える必要はありません」
と言ったので、閔王はいよいよ驚き喜び、
「これは賢女である。后にしよう」
と言って、車に乗せて連れ帰ろうとすれば、宿瘤は、
「父母にも告げずに家を出て、男性のところへ行くような女を奔女と言います。私には父母があるのに、事情を知らせもせずに王の后となったなら、私は奔女になってしまいます。王は、そんな奔女を后にしたいのですか」
と言ったので、閔王は大いに恥じて、彼女を帰した。
 その後閔王は、黄金百枚を贈って、かの宿瘤を娶ることとなった。宿瘤の父母は大いに驚き、
「ちゃんと衣服を着替え、沐浴して行きなさい」
と言ったが、宿瘤が言うには、
「私は初め、この格好で王にまみえました。それを今、衣服を替えて行ったなら、王は分からないではないですか」
と言って、ついに、初めに桑を取っていた時のままで行き、閔王にまみえた。
 その後は宮中も、この宿瘤の働きでよく治まり、その噂は隣国まで及んだ。

巻6の4 斉の景公の夢を占ふ事

2017-05-18 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、斉の景公(?-前490)という王が病にかかって、既に10日に及んでいた。
 ある夜、景公は、二つの太陽と戦って負ける夢を見た。
 そのあくる日、臣下の晏子が来たので、景公は晏子に問うた。
「朕は昨夜、二つの太陽と戦って負ける夢を見た。甚だ不吉な夢だ。朕は間もなく死ぬに違いない」
と言ったので、晏子は答えて、
「その夢を占う博士を召して、占わせてみましょう」
と言って、夢占い師を呼んだ。
 夢占い師はすぐに晏子のもとへ来て、
「何のご用でしょうか」
と訊ね、晏子が、
「しかじかの次第だ」
と語れば、夢占い師は大いに驚き、
「これは、書物を調べて、よく考えて占わなければなりません」
と言えば、晏子はこれを聞いて、
「いや、書物を調べる必要はない。景公の病は必ず癒る。なぜなら、病は陰で太陽は陽であるが、病身である景公が、2つの太陽と戦って負けた夢を見た。つまり1つの陰である病が、2つの陽である太陽に負けたということは、病が癒る兆しである。だからこれを夢占いすれば、景公の病は、速やかに癒るに違いない。お前は、このことを景公へ申し上げよ」
と教えたので、夢占い師が、晏子の言ったとおり景公へ申し上げたところ、その後三日ほどして、景公の病は完全に癒ってしまった。
 景公は大いに喜び、夢占い師に厚く俸禄を遣わしたが、夢占い師は辞退して、
「今回、夢を占ったのは、私の功績ではありません。晏子様が私に指示したとおりに申し上げただけです。であれば、これは晏子様の功績ですから、私の功績として俸禄を受けるわけにはいきません」
と言う。そこで景公は晏子を召して、この俸禄を賜ろうとすると、晏子が言うには、
「かの夢占い師が、私が教えたとおりのことを王へ申し上げたから、王の病は速やかに癒えたのです。もし夢占い師が私の言うことを聞かずに、邪説で占っていたならば、不吉な占いが現れたかもしれず、そうなれば王の病は治らなかったでしょう。ですから、私の言うとおりにしたのは、夢占い師の功績です。それに、この占いを私自身が申し上げたならば、王は信じなかったかもしれず、夢占い師の名があったから王も信じられ、その信ずる心に引かされて、病も早く治ったのです。これもまた、夢占い師の功績であって、私ではできなかったことです。そうだとすると私は、どうして功績もないのに俸禄をうけることができましょうか」
と言って、ついに受け取らなかったので、景公は仕方なく、両人に俸禄を賜った。
 晏子は他人の功績を奪わず、夢占い師は他人の能力を覆えず、世の人もみな、これを模範として、自ら功績を自慢するべきではない。

巻6の3 狐、死したる真似をして殺さるる事

2017-05-01 | 理屈物語:苗村丈伯
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 昔ある人が、4人連れで野道を通ったが、道の傍らに狐がいて、草の根を掘って土くれを穿ち、虫を食っていた。
 狐が、この4人の者が来るのを見て思ったのは、
「俺が逃げずに、このままここにいたならば、この4人の者は俺を殺すにちがいない。また、逃げたとすれば、追ってきて打ち殺すだろう。ここはひとつ死んだふりをして、この4人が行き過ぎた後に、ゆっくりと虫を食い、それから、どこへでも逃げるのがよかろう」
と思い定めて、四肢を伸ばし、目をふさぎ息をもせず、死んだようにして伏していた。
 かの4人の者は近づいて来ると、
「ここに狐が倒れている」
と言って、止めを刺そうと、あれこれ方法を探り、一人は「この狐の耳を切ったらいい」と言い、また一人は「尾を切るのがいい」と言い、また一人は「牙を切るべきだ」と言う。狐はこれを聞いて、伏したま思うには、
「初めから、こんなにひどい目に遭わされると判っていたら、どこへでもいいから、足に任せて逃げればよかったものを、死んだふりなんかするから、かえって災いを招いてしまいそうだ」
と歎き後悔したが、甲斐もない。しかし、
「耳、尾、牙を切られたとしても、命だけは助かるだろう」
と心の内に思った時、今一人が言うには、
「耳、尾、牙を切ったとしても、まだ死にはしない。とにかく首を切るべきだ」
と言ったので、狐は胆を潰し、
「もはやこれまでだ。首を切られたら、命も失ってしまう。このまま首を切られて死ぬのも、起きて逃げて殺されるのも、どっちにしても、命は助かりがたい。同じことなら、起きて逃げるほうが、もし逃げ延びて命が助かったなら、儲けものだ」
と決めて、起き上がり、一目散に逃げれば、4人の者はこれを見て、
「さては今まで死んだふりをして、俺たちを騙したな。憎い奴だ。それ、追い詰めて打ち殺せ」
と言うが早いか追いかけはじめ、ついに狐を捕えて、首を切り、足をも切り、狐は命を失ってしまった。
 自分の浅知恵で、人を欺き誑かそうとする者が、結局わが身に災いを招く事は、皆、この狐に同じである。

巻6の2 狗(いぬ)の化けたるを怪しまぬ事

2017-04-08 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、桂陽の太守に、李叔賢という人がいた。
 この人の家では犬を飼っていたが、年をとったためか、常に化けて、いろいろの不思議が起っていた。
 ある時、この犬が後ろ脚を立てて、人が歩むように歩いていたので、家人はみな怪しみ恐れて、この犬を殺そうと言うのを、叔賢は、
「昔から犬や馬は君子に喩えられる生き物だ。この犬も、人が二本足で歩くのを見て、真似して歩いているだけだ。それを、どうして怪しみ恐れ、殺そうとするのだ」
と言った。
 その後、叔賢が県の奉行のところから帰って、冠を榻(しじ)の上に掛け置いていたのを、かの犬が冠を取って頭に頂いて歩いていたので、家人はことごとく驚き怪しんだが、叔賢はこれを見ても、少しも怪しまずに言うには、
「この犬は、冠を掛けた側を通ったから、誤って冠の緒が首にかかって、わざと頭に頂いたように見えるだけだ。ただそれだけなのに、どうして怪しむのだ」
と言った。
 その後、またこの犬が、かまどの前に居て火を焚いていたので、家人はみな怪しみ恐れたが、叔賢はまた、
「下女や童僕どもが、みな田へ行ってしまって、かまどの種火を焚く者が誰もいなくなっていたではないか。だから犬が、手伝いをしようとして火を焚いていたのだ。幸いに火の用心も良い。だったら、何を怪しみ恐れることがあるのだ」
と言って、全く怪しむ気色はなかった。
 里中の者は皆、これほど怪しい犬なのに、どうして殺さず、生かしたままにしておくのかと罵ったが、叔賢は、決して殺そうとはしなかった。
 それから数カ月して、かの犬も、とうとう死んでしまったが、だからといって、別段、奇怪なことは起らず、ここに至って、叔賢が賢明であったということが、自ずから明らかとなったわけである。
 古から、怪しいものを見ても怪しく思わなければ、その怪しみは自ずから破れるという。この叔賢の犬もまた、同じことである。
 世の中の人は、奇怪なものを見ては、必要以上に取り乱してしまって、そのために正常な判断力を奪われて、ついには家も命も失ってしまうものである。あるいは、奇怪な説を説く者があれば、人はみな信じてしまって、怪しげな道に陥ってしまうのも痛ましいことである。

巻6の1 荘子、魚の楽しみを知る事

2017-03-20 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、荘子(前369?-前286?)、字は荘周という人が、友の恵子という者とともに遊んでいたところ、荘子が、魚が水上に出て泳ぐ事の豊かなるのを見て、
「これこそ、魚の楽しみだ」
と言って感嘆したので、恵子がこれを聞いて、
「君は、魚でもないくせに、どうして魚の楽しみが分かるんだい」
と言えば、荘子が答えて言うには、
「君もまた、私ではないくせに、どうして私が、魚の楽しみを知っているか知らないか、それが分かるんだい」
と言った。

巻5の12 伯夷、叔斉、兄弟の事

2017-03-12 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、孤竹という所に兄弟がいて、兄は伯夷、弟は叔斉といったが、この2人の父は、何を思ったのか、弟の叔斉に国を譲ると遺言して死んでしまった。
 しかし叔斉が思うには、
 「いかに父の命令だとしても、弟としては、親の跡を取るべきではない」
と言って、兄の伯夷に譲ろうとした。しかし伯夷は伯夷で、
 「父の命令に背くわけにはいかない」
と言って受け付けず、互いに国を譲りあった末に、とうとう、一緒に国を捨ててしまったので、国民は別の血筋者を立てて、王の位を継がせた。

 その後、伯夷と叔斉は周の国に行って武王(前1023?-前1021?)に仕えたが、武王が殷の紂王(武王は紂王の臣下であった)を討ち滅ぼした時、
 「臣下が君主を討つなどということは、あってはならない。これは不義である」
と諌めたが、聞き入れられなかった。周りの者がこれを聞いて、
 「主君に対して何という言い草だ。この両人を殺してしまおう」
と言ったが、太公望(=呂尚 前1021?-前1000?)という人が、
 「いやいや、この者たちは義理堅いだけだ」
と言って許してやった。
 その後2人は、
 「こんな、不義な国の粟は、食べるわけにはいかない」
と言って、首陽山という山に隠れて、わらびを採って生活していたが、とうとう飢え死にしてしまった。
 2人のこうした行いは、孔子をはじめ、多くの者に賞賛された。
 孟子は、聖人の権力について説いているが、武王が紂王を討ったのは、天下を貪ろうとして討ったのではなく、天下の民がそれを切望していたが故、止む事を得ず、討ったものであり、これがまさに、聖人の権力である。
 だから、伯夷と叔斉がこれを憎むのは、聖人の権力を理解していないと解釈できるが、義侠心という意味では、2人の志は正しいものであったと言える。

「不喰周粟」(しゅうぞくをはまず、又は、しゅうのぞくをくらわず、と読む)の故事です。

 こちらもどうぞ⇒不喰周粟

巻5の11 儒子、呉王を諌むる事

2017-02-26 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土、呉の国が、荊という国を討ち滅ぼそうと計画した時、呉の国の舎人で儒子と言う人が、呉王を諌めよう思ったが、一向に聞き入れられないことを歎き、どうにかして諌めようと思い、毎朝、宮廷に出ては嘆き悲しんでいたところ、呉王は儒子を召して、
「どうしてそんなに悲しんでいるのだ」
と尋ねれば、儒子が言うには、
「私は、園に雀が多く集まっていると聞き、これを獲ろうと思って園に行ったのですが、雀を獲ろうと思う事ばかりが心にあって、自分の衣が、園の草葉についた露のせいで濡れてしまう事まで考えが至りませんでした。ですから、衣が濡れてしまったことを歎いているのです」
と言ったところ、呉王は、その真意を悟って、その後は、荊を討つ事を止めてしまった。
 儒子は、雀を獲ることを荊を討つことに喩え、衣が濡れてしまうことを、呉王が戦に負ける災いに遭うことに喩えたのである。
 主君に臣として仕える者は、主君が間違っているときは、さまざまな方法を以て、何とか主君を諌めて、正しい道に帰らせるべきである。ひとつの方法が用いられなかったからといって、みだりに主君を見限る事は、忠臣のするべきことではない。

巻5の10 年寄りて智なきは、むく犬に劣る事

2017-02-13 | 理屈物語:苗村丈伯
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 むかし、西大寺の錫然上人は、教養も才能もなかったが、年をとって腰が屈み眉も白い容貌は、徳の長じた様子に見えた。
 その錫然上人が禁中へ参内した時、西園寺内大臣殿(西園寺実衡1288-1326))が上人を見て、「何と尊いお方だろう」と信仰したのを、日野俊光(1260-1326)卿の三男、権中納言資朝(1290-1332)公がこれを見て、
「この上人は、年をとっているだけで、教養も才能も拙く、それほど尊むべき人ではない」
と言って、さらに後日、むく犬の、浅ましく老いさらばえて、毛も禿げたのを連れて来て、
「この犬が、尊く見えるかね」
と言った。
 真に、年が長けた人といえども、才智拙く、学もなければ、むく犬が年を取ったのと異なるところはない。たとえ年若く、卑しい位の者であっても、才智が人に優れ、学も至って深い人ならば、尊ぶべきである。

巻5の9 荘子、釣りたる魚を捨つる事

2017-01-30 | 理屈物語:苗村丈伯
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 唐土に荘子という人がいた。
 この人の友に恵子という者がいて、梁の王に仕え、多くの俸禄をもらい富貴な身分であった。
 ある時、恵子が大勢の供を連れて、宋の孟諸という沢を通りがかったが、折節、荘子が世を逃れて、この沢に引きこもり、釣糸を垂れていた。
 荘子は、友の恵子が、このように富貴の身になっても、なお、欲望の心が大いに深いのを見て、自分が釣った沢山の魚を、ほんの少しばかり残して、他はみな放ち捨てるところを、恵子に見せた。
 これは、魚は必要な時に必要なだけあればいいのであって、他は蓄える必要さえない。官に仕えるのも同じようなことで、富貴な身分になって栄華な暮らしをするようになると、必要以上のことばかりを欲するようになって、何の益もない、ということを教えようとしたものである。