続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

男の一念鬼の面に移る事

2019-02-22 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 京都油小路に小間物屋庄右衛門という者がいた。
 その女房は、十二三の頃よりさる方に勤め、髪かたちも人に勝れ、琴三味線も上手であったので、ゆくゆくは一国の御奥にもなるのではないかと言われていたが、心様が妄りで色深い人だったため、十八九の頃には親元へ帰ってきていて、それが、ふとした縁で庄右衛門に連れ添い、早や六七年にもなり、二人には、六つと四つの二人の子がいた。
 庄右衛門は小間物を売って、いろんな家に出入りしていたので、それらの家の女中などと話をするうち、芝居話や物真似などをそこそこに覚え、流行り歌の端々をも少しは歌えるようになった。ただし、今時の小間物屋は、大抵の者が、これぐらいの取柄がなければ商いにならない。そんな音曲の楽しみを得た庄右衛門は、さらに、出入の小座頭や魚屋の男など、気の置けない仲間と共に、御日待だ庚申だという内証の遊びにも、時々は出掛けていた。
 その頃は、宇治外記とかいう浄瑠璃の太夫が人気を博していて、庄右衛門も通って、いろんな演目を見ては楽しみ、庄右衛門自身も稽古してみたりしていたが、折節は、何かの理由を付けて、かの外記を聞いて振る舞いをすることも度々あり、これが縁で、庄右衛門は外記とも親しくなった。
 庄右衛門方へ出入りするようになった外記は、たまたま庄右衛門が留守でも、家人に浄瑠璃を聞かせ、家に泊まったりすることも少なくなかった。
 それどころか、庄右衛門の妻に心を移して、人知れず何かと言い寄るに、女房も生まれつき気が多く、しかも音曲などの芸人に惹かれるのは女心の習いで、いつしか割りない仲になって行った。
 外記はいよいよ庄右衛門の女房に心を奪われ、恋に眩んで、
「私には未だ定まった妻もいない。貴女のように情ある人を引き取って、一生、自分のものとしてみたいと思うにつけ、寝ても起きても、それが心にかかって、この恋しさは遣るかたもない」
などど口説いた。
 そして、庄右衛門の女房と相談して、あれこれと策を巡らせ、来たるべき時節を窺っていた。
 そんなある時、庄右衛門が三十六七歳に及んで痘疹(はしか)を患い、しかもかなり重かったので、様々に療治の手を尽くしたところ、ようやく本復した。
 ところが入れ替わりのように、六つになる上の息子の庄太郎が、食べ物にでも中ったのか病気になり、それでも治療の甲斐あってか、少し回復してきた。
 そうかと思うと、今度は女房が、何かは判らないが病気になり、物もあまり食べられなくなってしまった。
 周りの者は、女房の方は、庄右衛門と息子の庄太郎が続けて病気になり疲れが出たのだろうなどと、薬を呑ませたりもしたが、あまり回復せずに、調子の悪いままであった。
 女房は、庄右衛門はまだ病後の回復が本調子でなく、息子も未だ回復しきってはおらず、母親にせがんで泣くので、病でふらふらになりながらも、子の世話をしていた。
 こうまで病人が続くと、庄右衛門は、これは只事ではないと心配になった。そこで、この二三年ほど、一月二十八日には必ず訪れる常徳院とかいう山伏が、今年も来たのに頼んで、当卦を見て貰ったところ、
「今年は夫婦ともに、禍害という卦に当たり、禍は災い、害は人を殺害する卦です。その上、離の卦も出ており、離は夫に別れ、妻に別れ、子を失う年です。これを祈祷するには、七日の間、夫婦は場所を変えて寝て、互いに目も見合わせず、物を言う事も忌み、仮に離別したつもりで過ごしてください。その間に私が祈り加持をして、夫婦の縁を結び直して参らせましょう」
と言う。
 庄右衛門宅に来ていた外記も、これを聞いていて、
「この程の不幸を転ずるには、兎にも角にも、言うとおりに祈祷を頼むのがいいでしょう」
と勧めた。
 そして常徳院は、家の中にしめ縄を張り、敷壇を構え、この壇の左右を仕切って夫婦を置き、互いに物も言わず目も見合わせぬようにと、固く戒めた。亭主は夜の寝覚め淋しく、これでは七日も過ごし難いと思ったが、我が身のため家族のためと心を取り直し、気を持ち固めていた。
 明日は七日の満参という夜、常徳院が来て
「この程は恙なく勤めて、早や明日は願成就の日です。最後の仕上げに、今夜は、夫の方から仮の暇状(離縁状)を書いて渡してください。今宵は縁切の行いを勤め、明日は生まれ変わって、めでたく縁を結ばせ申しましょう」
と言う。
 心に添わぬ事ながら、庄右衛門は硯を引き寄せ、三行半に妻を離縁する旨の手形を書いて渡すと、女房も涙を零して受け取り、そのまま硯箱の中へ収めた。
 かくて夜が明けるままに、常徳院の指図で、先ず女房を祇園の厄神へ参らせ、
「この人がお帰りになったら、また、庄右衛門殿も参りに行きなさい。二人とも帰って来たら、祝言めでたく取り結びましょう」
と言って、常徳院は帰って行った。
 庄右衛門は、これで所願が叶った心地して、女房の帰りを今か今かと待っていたが、日が暮れても帰って来ないので、心もとなく悲しくなり、あちこちで穿鑿したところ、常徳院と外記とが共謀して庄右衛門を陥れ、女房を離別させ、今頃は大津百石町の辺に逃げている、ということが判った。
 庄右衛門の腹立ちは山々であったが、偽にもせよ、ひとたび暇を取らせた女であれば、今更どうすることもできず、思い悩んだ挙句に乱心して、井戸へ身を投げて死んでしまった。
 そんな事など露知らず、外記と女房は、事が思い通りに運んで嬉しいばかりの月日を送っていた。
 明くる年の三月、外記は、久しく都の花を見ておらず、懐かしいので、女房を伴って京都に上り、東山の桜を見巡り、帰りには壬生の大念仏などを拝んで、ついでに近所の子供への土産にしようと、鬼の面を一つ買い求め、道すがら手に提げて大津の宿へ戻り、その夜はくたびれて、夫婦とも早くに寝た。
 ところが、女房は、恐ろしい仮面が眼を見開き声を怒らせて、頻りに呼ぶ夢を見て、目が覚めた。女房は、あまりの恐ろしさに、傍らの外記を起こそうとしたが、いつもと違い、殊更に寝入っている様子であった。女房は、後から掴みかかられるように覚えて、行燈の火を大きくして後ろを振り返れば、昼間に買ってきた鬼の面が、大きな口を開け、眼を怒らして飛び掛かって来たので、あっと言って外記にしがみついたが、そこをすかさず鬼の面は、女房の左の肩先に喰らいついて、喰いちぎった。

 あまりの騒ぎに外記も目を覚ましたが、この有様を見て気を失い、誰も介抱する者がいないまま、昼頃になってようやく正気になり、何とかその場をごまかして、寺へ逃げて隠れていたが、隠し通せるものでもなく、どこかへ行ってしまった後、原因の分からない病気になって、死んでしまった。

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