続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

地獄、地獄絵図

2019-07-16 | 言語学講座
 だいたいどの宗教でも地獄という概念は持っており、それぞれの宗教が想像する地獄では、大勢の人間が責苦を受けて泣き叫んでいる様子が、絵図などに描かれています。
 これに似た状況として、戦争で、たくさんの人々が傷つき死んでいく様を、「地獄のようだ」「地獄絵図だ」ということがあります。

 しかしこれは、地獄や、そこで働く鬼たちに対して、非常に失礼な表現です。

 なぜなら、地獄の業火に焼かれるのは罪人と決まっていますが、戦争では、無実の人間、殊に女子供までが情け容赦なく斬られ、焼かれ、引き裂かれています。
 閻魔大王も地獄の鬼たちも、無実の女子供まで苛むようなことは、決してしません。そんな無慈悲なことをするのは、人間だけです。
 そう、人間は、鬼もしないようなことを、歴史上、飽くことなく繰り返しているのです。

 そのような人間たちを見て、地獄の鬼は、一体、どう思っているのでしょうね。
 きっと「鬼畜にも劣る奴らめ」と見下していることでしょう。

合戦の火蓋を切る

2019-06-20 | 言語学講座
 この慣用句がおかしいというわけではありません。
 では何かというと、この言葉が使われた状況に違和感を感じました。

 あるテレビ番組で、源平最後の合戦、壇ノ浦の海戦を特集していたのですが、その中で、「合戦の火蓋が切って落とされました」と言っていたのです。
 「戦いの火蓋を切る」という慣用句は、昔の火縄銃で、火薬を入れる火皿が、剥き出しのままでは暴発する危険があるので、火薬を入れた後は蓋(火蓋)をしておいて、いよいよ射撃をする時にその蓋を開ける(切る)ことが語源です。

 しかし、鉄砲伝来は1543年ですが、壇ノ浦の海戦はそれより350年以上も前の1185年です。
 もうお分かりですよね。壇ノ浦の海戦で火蓋は切られていないのです。まだ弓矢の時代でしたから。
 まあ、慣用句は慣用句ですから、鉄砲が用いられていない合戦に「火蓋を切る」という表現を使っても、別に間違いではありません。
 でもねえ・・・

 テレビや映画の時代考証では、物や服装などには十分注意を払っていますが、言葉も、その言葉が生まれていない時代を扱う場合は使わない方が賢明で、この例でも語源に思いを至らせれば、いくら何でも源平合戦に火縄銃を語源とした火蓋は相応しくないと、私は思うのですが、いかがでしょう。

 では何と言えばよかったか。
 源平合戦での飛び道具は弓矢でした。そして、物事の始まりを表すことを「嚆矢」と言いますが、これは昔の合戦で、矢の先端に風を切って音を出す仕掛けを取り付けた、鏑矢(かぶらや)を放って、戦いを始める合図としていたのが語源です。
 ですから番組では、「戦いの嚆矢が放たれた」と言えば、時代も考慮した良い表現になったと思うのですが、どうでしょうか?
※嚆矢と鏑矢は構造が少し違うのですが、音が出るという機能では同じに考えて差し支えありません。

 ついでながら、戦いの火蓋を切って「落とす」というのは、同じように物事を始めるという意味の「幕を切って落とす」との混用ですから、二重に違和感を覚えましたが、この点は単なる勘違いなので、ここでは、これ以上触れないことにします。

 「それは考え過ぎ、拘り過ぎだ」というご意見もおありでしょう。
 でも、私は拘ります。拘ることで、歴史を理解する上でその時代の雰囲気、もっと言えば臨場感が掴めると思うからです。
 矢がひょうひょうと飛び交う壇ノ浦に火縄銃が存在したら、雰囲気も臨場感もぶち壊し、もはやオーパーツですよね。

怪我の功名

2014-07-28 | 言語学講座
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*過失と思われたことや、何気なしにやった事が、意外に良い結果になること。

 我が家では時々、休日などの夕食には、ビデオでも観ながら、ピザ、焼き鳥、枝豆、フライドポテトなどをつまんで、のんびり過ごしています。
 カミさんは、ピザは生地やソースから作り、焼き鳥は肉を切って一本一本、串に刺して焼きます。自家製なら、手間はかかりますが、好みの味付けにでき、安上がりです。
 でも、枝豆とフライドポテトは、安くて手間もいらない冷凍食品を使っています。

 さて、そのフライドポテトですが・・・

 品数が多いときは、カミさんもてんてこ舞いです。
 先日は、他の料理に気を取られ、うっかりフライドポテトを揚げ過ぎたようで、普通ならキツネ色に揚がるところが、日焼けしたキツネぐらいの色に揚がってしまいました。
 「ごめ~ん」と言いながら出してきたフライドポテトを、まあ、多少焦げ臭いかもしれないが、食えないこともないだろうと一口食べて・・・

 これが旨いの何の。
 少し焦げた部分が、ちょうど良い香ばしさとなって口の中に広がり、また、外側がよく揚がっているので、カリカリとした歯応えで、いつものフライドポテトより、ずっといい按配でした。
 私や息子たちが口々に「旨い、旨い」と言うので、失敗作への皮肉かと思っていたカミさんも、自分で食べてみてびっくり。

 まさに怪我の功名です。
 考えてみれば、飯(米)にしても肉にしても、澱粉や蛋白質が炭化しない程度に焦げたものは、香ばしくて、食欲をそそりますよね。
 これからフライドポテトを作るときは、同じ揚げ方をしてくれ、とは、私や息子たちから、カミさんへの要望です。
 駄文を読んだ諸兄諸姉も、揚げ方ひとつで風味がまるで違いますから、ぜひ一度お試しあれ。

 ただ、「失敗作」がこうなったわけですから、全く同じように「失敗」するのは難しいかもしれません。次回は本当の「失敗作」を食わされる羽目になるかもしれませんが、「失敗は成功の母」ということで。

土芥寇讎

2014-01-29 | 言語学講座
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 土芥寇讎(どかいこうしゅう)。読めました?
 私も、まあ、知っているから読めますが、書けといわれても書けません。
 この土芥寇讎という言葉自体、江戸の元禄期に編纂された「土芥寇讎記」という書物以外、たぶん他にはないでしょう。

 さて、語源は『孟子』で、その一節に
「君の臣を視ること土芥の如ければ 則ち臣の君を視ること寇讎の如し」
とあります。
 意味は、
「君(殿様)が臣(家来)を土や芥のように視て(取扱って)いれば、臣は君を仇のように視る」
というものです。

 下の立場にある者が、上に立つ者をどう見做しているかは、偏に、上に立つ者の態度如何による、というのは、これは理解できます。
 ところがここで、上の者が、下の者を土や芥のように冷遇していれば、下の者は、上の者を「仇」とまで思ってしまう、というのは、なるほど、指摘されてみれば、そこまで憎く思ってしまう気持ちも、さもありなんと思えます。

 では、「仇」がいるなら、次にとるべき行動は何でしょう?
 言わずもがな、「仇討ち」です。

 無論、現代社会では、仇がいるからといって、そう短絡的に、仇討ちという実力行使に打って出るわけには行きません。現実的には、合法的な方法で、たとえば警察力を頼んで「仇」を特定・拘束し、司法の場で、相応の「仕置き」を与える、というのが、秩序を維持する上でも、最も妥当な方法です。
 「土芥寇讎」の語源をみても、上司が部下を殴打したり、パワハラやセクハラの類があれば、これは司法の場で白黒つけることもできます。

 しかしその「仇」に、違法性がなかった場合は、どうしたらいいのでしょう?
 当然ながら前述の方法は採用できませんから、「仇」がいるとしても、さまざまな状況判断により、涙を呑んで諦めるのが、まあ、賢い選択といえます。

 それでも、耐え難きに耐え兼ねたら・・・

 冷凍食品の農薬混入事件では、もちろん、無関係な不特定多数の消費者に危害を及ぼした犯人の行為は、断じて許されるべきものではありません。

 しかし事件の深層を思いやるに、派遣切り、雇い止め、賃金の実質的減額、その他の合法的な「労働者いじめ」とも言うべき事例が巷間に跳梁跋扈するご時世、この事件で、最も検証されなければならないことは、「君の臣を視ること土芥の如」くではなかったか、もしそうであれば、「臣の君を視ること寇讎の如」きであったとしても、何ら不思議はありません。
 さらに、非合法と知りつつも、何らかの形で「仇討ち」を試みようとする者が現れるのも、時間の問題であったといえるでしょう。

 願わくば、模倣犯が続きませんように。

 冒頭の、「土芥寇讎」の語源となった孟子の一節には、実は前段があります。
 「君の臣を視ること手足の如ければ 則ち臣の君を視ること腹心の如し」
 意味は、
「殿様が家来を、手足のように体の一部だと思っていれば、家来も殿様を、体の中心と思って大切にする」
ということです。

 孟子の教えは、だてに2300年も受け継がれているのではありませんよ。

医者を選ぶのも寿命のうち

2014-01-19 | 言語学講座
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 「医者を選ぶのも寿命のうち」とは、よく言われる言葉ですが、本当にそうですね。
 以下は、父の身に降りかかった災難です。

 元々、胃の具合が悪かった父は、2年ほど、とある消化器の町医者にかかっていましたが、少し前から、下痢が続くということで、その医者に、腸の治療も受けることになりました。
 ところが、約3ヶ月間、薬を変えてみたりと、いろいろな治療をしていたのですが、一向に下痢が止まらず、10キロ近く体重が落ちてしまい、体力だけでなく気力さえも落ち込んでしまう始末です。
 それなのに、医者は、大腸の細胞診もせず、「おかしいねえ」と言いながら薬を変えるばかりなので、ここに至って、母から私に、「ちっともよくならないから、もっと大きな病院で精密検査を受けたほうがいいのではないか」と相談があり、私も一緒に、その医者を訪れてみることにしました。

 しかし医者は、「何が原因だかよく判らない。少し入院してみるか」と言うばかりです。
 母の話で、いい加減業を煮やしていた私は、「もっと大きな病院で精密検査を受けてみたいから、総合病院を紹介してくれ」と言いました。
 すると医者は、「紹介しろというなら紹介してもいいが、どこに行っても、原因は判らんよ」と、言いました。
 私と、一緒にいたカミさんには、それは負け惜しみの捨てゼリフにしか聞こえませんでした。

 それでも一応、紹介状を書いてもらい、総合病院へ行くと、検査も兼ねて、すぐ入院となりました。
 2・3日ほど絶食して、点滴で栄養を補給した後、流動食が出され、また、薬も、町医者での薬は使用せず、総合病院が新たに処方しました。

 するとあら不思議。数日もすると、父の下痢は、回数が減り、水様便から軟便へと改善され、2週間も経つ頃には、通じは1日1回程度、便も形ができるなど、驚くほどの回復ぶりで、そうなると父は食欲も出て、みるみる元気になってきたのです。

 その頃には、いろんな検査の結果も出揃ったので、私たちは主治医から説明を受けました。

 父の腸は、通常より多くコラーゲンが沈着しており、そのため、腸の機能が低下し、下痢をしたのだろうということでした。
 ところが、そのコラーゲンが沈着した原因(単一、かつ確定的ではないですが)というのが、町医者で2年間にわたって処方されていた、胃の薬の成分によるものだったのです。・・・その成分がコラーゲンの沈着を招くことは、医師や薬剤師なら知っていて当然、少なくとも調べればすぐに判る事実です。
 それが原因(少なくとも誘因)なら、こちらの総合病院に入院して、以前の薬を断った途端に快方へと向かったのも、辻褄が合います。
 町医者で3ヵ月間、悪くなる一方だったものが、総合病院ではわずか2週間で良くなる一方、という結果になったのです。

 命拾いとはこのことです。

 もしあのまま町医者にかかり続けていたらと思うと、ぞっとします。
 そこで出されていた薬が原因だとすれば、そこにかかり続けている限り、原因は永久に判らず、最悪の事態に至っていたでしょう。
 他でもない、その医者自身が「原因は判らんよ」と言ったぐらいですから。

 さて、後日談ですが・・・

 総合病院としては、その町病院から紹介を受けたわけですから、原因が判明し、治療方針が立ったところで、元の町病院へ戻すのが病院同士の「流儀」らしく、これ以降の継続的な治療は元の町病院で、ということになり、父は総合病院からの手紙を携えて、町病院へ行きました。(私は気が進みませんでしたが・・・まあ、父の意向を尊重して)

 手紙を見た町医者は、「原因は判らんよ」と言ったことも忘れ、「ああ、そう」といった態度だったそうです。
 そんなぐらいですから、自分のところで処方した薬が原因だったことや、それを見逃して原因を追加し続け、父の容態を悪化させたことについては、一言もありませんでした。

 父の世代では、医者といえば雲上人に等しいものでしょうが、私の世代では、医者といえどもサービス業に過ぎず、「病気を治してナンボ」の商売との認識です。
 まして、病気を見つけられないどころか、結果的とはいえ、悪化させていたのですから、これまで払った治療費を返してもらいたいぐらいです。

 その日の夜、私とカミさんがその医者に押した烙印は・・・言うまでもありませんね。

羊頭狗肉

2013-11-03 | 言語学講座
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 羊の頭を看板として掲げていながら、実際には狗(犬)の肉を売っている、ということから、粗悪品を良品と偽る場合のような、ごまかしの意味で用いられます。

 食品偽装では、普通のネギを九条ネギと「誤表示」したり、牛脂注入肉をステーキと「誤表示」したり、まさに羊頭狗肉の事例が、あちこちで発生しています。

 しかし高額な料金を払って偽装料理を食べた客だって、出されたものを見ても、さらには口にしても、普通のネギと九条ネギ、牛脂注入肉とステーキとの違いが判らないのですから、それに対して文句をつけるのは、自らに判別能力がないと吐露しているようなもので、これは恥の上塗りでしかありません。
 だったら、出されたものが何ネギだろうと何肉だろうと、関係ないじゃありませんか。

 それなのに、なぜ、こうした偽装が問題になるのでしょう?

 それは、客は、旨いものを食べたいと願って、高級ホテルのレストランで食事をするのではないからです。

 では、何を願っているかというと、味などは二の次でもいいから、高級食材を使った料理を食べたがっているのであり、さらには、高級レストランでの食事を願っているのであり、もっと言えば、高級ホテルの高級レストランの高級料理に対して高額の料金を支払ったという自己満足、ないしは、そうした高額の料金を払う財力があるという自己誇示をしたがっているに過ぎません。
 また、他人を食事に招待した場合は、いかに高級な店に連れて行ったかという点のみが問題であり、食事の旨さなど問題でないことには、多言を要しません。

 つまり、客の満足感は料金の高さに比例するので、料金は高ければ高いほどいいのですが、店側としても、根拠もなく高額な料金を設定するわけにはいきませんから、高級な食材を使い、調理に手間暇かけて人件費を上乗せすることが、店にとっても、客にとっても、互いの利害が一致する点になります。

 だから今回、ホテルが食材を偽って叩かれているのは、偽ったことが悪いのではなく、偽ったことがバレて客の満足感を損ねた点が悪いのです。
 嘘もつき通せば本当になる、とは、よく言ったものです。

 こうしたことが発覚すれば、たとえば、女性を口説きたい男性が、せっかく高級ホテルでの食事に誘ったのに、出てきた料理が実は二流だったと後で分かれば、その男性は気の毒にも二流男の烙印を押され、フラれてしまったかもしれません。
 しかしこれが、実は二流食材であっても、ずっとバレずにいれば、「夢」は壊されずに済んだのです。
 「どうせ嘘をつくのなら、死ぬまでつき通して欲しかった」という都々逸は、ある面、真実ですね。

 正論としては、わざわざ嘘をついた上でバレないために労力を割くぐらいなら、最初から正直に、九条ネギなら九条ネギを使ってさえいれば、そもそもバレるとか、「誤表示」とかいった問題自体が発生しませんから、堂々としたものですし、必要な経費が料金に上乗せされていたからといって、文句をつける客はいないでしょう。

 「偽装は、食の安全を蔑ろにするものである」という意見は、一応、もっともです。
 しかし今回の件では、店側の、安全性に問題のある食材を使ったとか、衛生管理状態が悪かったとかいったことは問題になっておらず、「食の安全」は確保されており、食を提供する側の、最低限の良心は守られています。(そこまでいっては、オシマイですが)

 であれば、何が問題かというと、前述のとおり、客が、「本当に」求めていたものを提供しなかった、という点に尽きます。

 まあ、味ではなく、支払った料金を問題にしている方々なら、目の前に出された高級牛肉料理が、実は安物の牛肉であっても、さらには豚肉であっても、もっと言えば馬肉だろうが鹿肉だろうが、どうせ判りっこありません。

 馬と鹿の違いが判らない愚か者のことを呼ぶ故事成語は何か、言うまでもなく「馬鹿」です。

鯨飲馬食

2013-07-10 | 言語学講座
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 鯨の如く大量に飲み、馬の如く大量に食べる、という意味です。
 また、同義語に「牛飲馬食」というのもありますが、飲むほうは、「鯨」と「牛」なのに、食べるほうは両方とも「馬」で、馬にしてみれば、「何で、両方ともオレたち馬なんだよ」と、甚だ不名誉に思っているかもしれませんね。
 言うまでもなく、酒を大量に飲めば消化器や肝臓を傷め、物を大量に食べれば生活習慣病を招き、どちらも、悪ければ死に至りますから、これらの言葉は、ふつう、そうした行為を戒める目的で使われます。

 さて、私は動物が好きなので、馬はもちろん、鯨や牛の名誉も回復しておきましょうか。

 まず、飲むほうですが・・・

 飲むと言っても、鯨も牛も水は飲みますが、酒は一滴も飲みません。酒などという不健康な物を飲むのは人間だけです。
 例外的に、高級食肉牛にはビールを飲ませたりしていますが、牛が望んで飲み始めるわけではなく、肉を霜降りにしたいという人間の都合で、無理やり飲ませているわけですから、これは無視して差し支えないでしょう。
 また鯨も、大口を開けて海水を取り込みますが、餌のプランクトンを漉して、不要な海水は再び吐き出してしまいます。これに対して、酒飲みが酒を吐くのは、悪酔いしたときぐらいなものです。

 さあ、こうしてみると、「鯨飲」にしろ「牛飲」にしろ、人間なんかと比べては、鯨や牛に失礼だと思いませんか?

次に食べるほうです。

 確かに馬は、非常にたくさんの餌を食べます。
 しかし、たくさんと言っても、馬の体格や運動量から見れば、ごく適切な量であり、馬は、いや、馬でも鹿でも猪でも野生の動物は、必要なだけ食べているに過ぎず、人間のように、一日の消費カロリー量をはるかに超え、不必要なまでに食べることはありません。
 まして、大金を投じて美食に耽り、多量のカロリーを摂取しておきながら、太るからと、これまた大金を投じてダイエットをする、などといった馬鹿馬鹿しい真似をする生物など、人間をおいて他にはありません。(←ここから、「馬鹿」という言葉が生まれました・・・ウソです)

 どうですか?鯨飲馬食も牛飲馬食も、非常に健康的な食生活でしょう。

 人間だけですよ。暴飲暴食をするのは。

蛇足

2013-07-04 | 言語学講座
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 蛇足とは、誰でもご存知ですが、「余計なもの、要らないもの」という意味です。

 ところが、つい最近知ったのですが、江戸時代の医者でもあり文学者でもあった苗村丈伯の著書「理屈物語」では、別な意味に説明しています。

<蛇足>
 楚の偉い人が、召使いたちに、一杯だけ酒を与えた。召使いたちは「皆で分けて飲んでも、少しずつになってしょうがないから、地面に蛇の絵を描いて、一番先にできた者を勝者にして、そいつが酒を飲む事にしよう」と決めた。そして、中でも絵の一番うまい者が、真っ先に蛇の絵を描き上げたので、その者は酒を飲もうとしたが、他の者がまだ絵を描き上げていないのを見て、「なんだ、みな、まだ描いていないのか。私にはまだ余裕がある」と言って、蛇の絵に足を描きたした。それを見ていた一人が、彼から杯を奪い取り、酒を飲み干した。先の者が文句を言うと、酒を取った者は、「蛇に足はない。だから、お前が描いたのは、蛇ではない」と言った。


 とまあ、ここまでは「理屈物語」の説話も、巷に伝えられている話と同じで、巷の話では、先に書いたように、この故事により、「蛇足」を、「余計なもの、要らないもの」という意味である、と説明しています。

 ところが、「理屈物語」では、次のように続きます。

 この故事から、自分のことを自慢する者を「蛇を描きて、足を添える者」という。

 俄かに信じ難い俗説ならともかく、きちんとした記録に名を残す苗村丈伯が、著書の中で、明らかに間違ったことを言うとは思えません。
 また、同じ「理屈物語」の中では、これもよく知られた「矛盾」「守株」「朝三暮四」「人間万事塞翁が馬」などの語源となった物語も紹介され、「・・・という話から、○○という言葉が言われるようになった」で締めており、これらの用法は今と変わりませんから、「蛇足」だけ、いい加減なことを言ったとも考えられません。

 してみると、「理屈物語」が刊行された江戸時代には、「蛇足」は、上の意味で使われていたのでしょうか?
 それとも、「理屈物語」の中では、この故事成語を「蛇足」とは書いておらず、「蛇を描きて、足を添える者」と書いていますから、「蛇足」という言葉自体、「理屈物語」以降の時代に成立したものなのでしょうか。

 といった疑問点について、ネットなどで散々調べてみましたが、さっぱりヒットせず、調査は暗礁に乗り上げてしまいました。

 今回ばかりは降参です。
 駄文を読んだ諸姉諸兄、情報をお待ちしております。なにとぞ、よろしく。

杞憂

2013-06-08 | 言語学講座
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*杞憂
 古代中国では、大地は正方形で、四隅を天柱という柱が支えていると考えられていたが、その杞の国の人が、天が崩れ落ちてきはしないかと心配して、夜も眠れず、食事も喉を通らなかったという話から、極端に心配性なことや、取り越し苦労のことをいう。


 杞の時代には、空がどうなっているかなど、知りようがありませんでしたから、天は屋根のようなもので、それが崩れ落ちるというのは、杞の人にとっては、少しは現実味のある話だったのかもしれません。
 しかし、科学の発達した現代では、天はただの空気の層だと分かっていますから、その天が落ちてくるなど、二重の意味で馬鹿げた心配だと言えます。

 ・・・はたして、本当にそうでしょうか?

 確かに、天そのものが落ちてくるなどとは、考えられないことです。
 しかし、天から落ちてくるものを考慮に入れると、危険は至るところにあります。

 杞の時代(紀元前8世紀~紀元前5世紀)には、鳥のような動物や、雨や雪などの自然物、まれには隕石などぐらいしか、天から落ちてくるものはありませんでしたし、隕石以外はさほど危険なものではなく、隕石も、確率的には心配の外としても差し支えありませんでした。

 ところが現代、空を飛んでいるのは、雨や鳥ばかりではありません。
 人工的な飛翔物体、飛行機や人工衛星は言うに及ばず、もしかすると某国から突然、ミサイルが飛んでくるかもしれないのです。
 さらには、風に乗って、自然物ではない有害物質が飛来してきます。
 ついでに、オゾン層の破壊により、一昔前よりもはるかに多量の紫外線が、地上に降り注いでいます。

 さあ、これでも、天から落ちてくるものを心配するのが「杞憂」でしょうか?

 アメリカ軍のオスプレイが空から落ちてくるかも知れず、仮想敵国のミサイルが飛んでくるかも知れず、公害対策などないに等しい隣国から有害物質の微粒子が飛来し、事故を起こした原発から放射性物質が降り注ぎ、紫外線で目がやられ皮膚ガンができるかもしれない。

 そんな心配をしだすと、私は、夜も寝られず飯も喉を通らなくなるのですが、あなたは、そんなことありませんか?
 これは取り越し苦労でしょうか?それとも、心配して当然のことでしょうか?

 もし、心配して当然のことなら、普段、私たちがあまり気に留めないのはなぜでしょう?

 危険に対して慣れっこになり、鈍感になってしまう、これが最も危険なことだと思います。

朝三暮四

2013-06-03 | 言語学講座
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 新講座「言語学講座」の開講です。
 いろんな諺や成句、故事成語などで、私が、巷で使われている用法は何となくおかしいのではないか、と思ったものを考えていきたいと思います。

*朝三暮四
 宋の狙公は猿好きで、たくさんの猿を飼っていたが、エサ代が苦しくなったので、飼っている猿にトチの実を与えるのに、「これからは、朝に三つ、暮れに四つやる」と言うと、猿が少ないと怒ったため、「では、朝に四つ、暮れに三つやる」と言うと、猿たちはたいそう喜んだという。
 転じて、目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかないことや、うまい言葉や方法で人をだますことをいう。


 合計すれば一日に七つだから、たしかに結果は同じで、上記の用法をする限りは正しいのです。

 しかしよく考えると、実は、「朝三つ、暮れ四つ」と言われて怒った猿のほうが賢いのかもしれません。
 なぜなら・・・・

 狙公が、それまで好きなだけ与えていたトチの実を減らすようになったきっかけは、エサ代に苦しくなったからでした。それまでにも狙公は、家族の食事を減らしてまで、猿のエサ代を捻出していたぐらいですから、猿のエサを減らすというのは、苦渋の決断だったのでしょうが、ない袖は振れませんから、これは止むを得ないことです。

 であれば、「朝三つ、暮れ四つ」という約束も、それほど経済状況が逼迫しているわけですから、もし、ある日突然、狙公の破産が確定してしまえば、「暮れ四つ」の約束は「不渡り」になってしまうかもしれません。
 だったら、猿たちにしてみれば、貰える時に貰えるだけ貰っておこう、というのは、賢明な選択です。
 もちろん、夜の間に狙公が破産したのなら、その日の分は既に貰っていますから、何も変わりはありません。
 しかし、人が経済活動をするのは主に昼間で、破産が確定する可能性も、昼間のほうがはるかに高いわけで、そうであればやはり、朝に貰った後、暮れに貰えない心配をするほうが合理的です。

 つまり、先に多くのトチの実を貰おうとした猿たちは、賢かった、という結論になります。
 ところが人間は、その猿たちの堅実な判断を、「違いがないことに気付かない愚か者」として笑っているのです。

 きっと猿の学校では、「朝三暮四」という故事成語を、「違っていることに気付かない愚か者」という意味で教えているかもしれませんね。