続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

認め難い現状さえ認めれば、怒りの矛先を向けるべき相手が違うはず

2011-09-13 | 社会学講座
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経産相「辞任は当然」…被災者から怒りと失望(読売新聞) - goo ニュース

 大臣が、福島を「死の町」と表現したことで、これが福島の方々、ひいては日本国民みなの怒りを買ったとして、辞任に追い込まれました。
 死の町などと表現するから、また、断定するような物の言いをするからいけないのです。

 物には言い方というものがあります。
 横文字で、しかも語尾をぼやかし、「ゴーストタウンのようだ」とでも言っておけば、揚げ足を取られずに済んだのかも知れません。

 ・・・いや、決して揶揄するつもりも、ましてや福島の皆さんを誹謗するつもりもありませんので、この点は、誤解のないよう、先に申し上げておきます。

 失礼を百も承知で申し上げますが、福島原発近くの町は、家々が建ち並んでいるにもかかわらず人っ子一人いない状況に間違いはなく、こうしたニュースを見れば誰でも、現在の町の状態について持つ認識は大同小異です。
 そうであれば、誰がどんな言葉を使って表現するかといった違いはあるものの、「ゴーストタウンのよう」な現状は、現状として認めざるを得ません。

 そしてその状態は、除染作業がなければ、放射性セシウムの半減期だけを考えても、少なくとも200年は続きます。
 除染作業をしたとしても、数十年は人が住めないでしょうし、住もうとするなら、残存放射線を浴び続ける危険を冒すほかありません。

 規模が桁違いな例で、参考にならないかもしれませんが、プリピャチを始め、チェルノブイリの近隣地域には、千年近く人が住めません。
 西暦2001年に、「新しいミレニアムが始まった」と祝った皆さん、プリピャチに人が住めるようになるのは西暦3000年、次のミレニアムまで待たなくてはならないですよ!!
 これを「死の町」と呼ぶのはどうですか?「ゴーストタウン」ならいいのでしょうか。

 ついでながらプルトニウムの半減期は2万4千年・・・戻り住む者がいるとすれば、それは、もはやホモ・サピエンスではないかもしれません。

 つまり、誠に残念な話ですが、このままでは、福島から避難した方々が、生きているうちにもう一度「元どおりの我が家」に住める可能性は、まず、ありません。
 避難した方々の中にも、理科系の学校へ進んだ方や、原子力に興味を持って自分で調べた方がいると思いますが、そうした方々には自明の理です。
 自分自身に死病の診断を下すようなもので、認め難いと言えばこれほど認め難い話もないでしょうが、正確な診断は下さなければなりません。

 「死の町」という表現の是非はともかく、誰かがいつかは公式に、「絶望的である」ことを言わなければならないのに、責任を取りたくないから、今まで誰も言った人はいませんでしたが、正直に表現した大臣は、「いけにえ」にされてしまいました。

 現状を正確かつ端的に言い表した大臣は辞任に追い込まれ、野党は早速、総理大臣の任命責任だ何だかんだといっていますが、それは対策を遅らせる以外に何の効果もありません。

 それよりも問題の本質は、一国の大臣をして、そう発言せしめたのは何なのか、ということのはずです。 

 言うまでもなく、未曾有の原発事故です。
 マスコミは、避難されている方々へインタビューをしたようですが、「大臣の発言は不適切だ。すぐに辞めろ」という発言をした方々しか報道しておらず、私が前述したような意見や、その他の意見があっても開陳せず、スキャンダルを盛り上げることに汲々としています。

 表現ひとつをあげつらって、視聴率や部数売り上げ、まして政争の具にする時間やエネルギーがあったら、「大臣をしてそう発言せしめた」原因を作った側に、怒りの矛先を向けるべきです。 

 インタビュー映像の中に、「(辞任した)大臣は、福島のことを何も考えていない」という趣旨のものが多くありました。
 しかし述べてきたように、私から見れば、「福島のことを何も考えていない」のは、マスコミと、当の大臣以外の国会議員みなです。

 大臣も「表現がまずかった」点は陳謝した上で、辞任はせず、
 「だからこそ自分は、『死の町』を一日でも早く『生の町』に復活させるべく、自らの職務に邁進する」
との決意を表すべきだったと思います。

 そうすればこそ、「200年は住めない」「少なくとも数十年は住めない」と申し上げた私の浅学など吹き飛ばす知恵も出てこようというもので、私もまた、それを願って止みません。

 しかしそれは、少なくとも10日間、遅れてしまいました。

遠大で狡猾で、どう転んでも儲かる仕組み。計画した奴は天才だな

2011-07-01 | 社会学講座
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 世の中に、便利な電化製品を次々と送り出す。
⇒電機業界が儲かる。

 便利な電化製品をさらによい性能にして、世の中に送り出す。
⇒電機業界が儲かる。

 電化製品を、もっと便利に使えるよう、待機電力を食う製品を送り出す。
⇒電機業界が儲かる。

 電力が足りないからと、原子力発電所を建設する。
⇒電機業界が儲かる。

 原発が事故を起こして、収束に機材を投入する。
⇒電機業界が儲かる。

 原発が稼動しなくて電力が足りなくなるからと、「節電商品」を開発して売りまくる。
⇒電機業界が儲かる。

 脱原発の動きが強まり、太陽光など再生可能エネルギーによる発電プラントの建設が始まる。
⇒電機業界が儲かる。

 いやはや、お見事。


事故が起こらないことを前提としている事故対策に何の意味がある?

2011-04-27 | 社会学講座
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 つくづく思った。
 わが国の事故対策は、諸外国と違い、「事故が起こらない」ことを前提としている事故対策なのだと。

*静岡県浜岡原発。
 東南海地震震源地の真上にある。

*新潟県柏崎刈羽原発。
 フォッサマグナ真っ只中にある。

*愛媛県伊方原発。
 中央構造線(巨大活断層)のすぐ側にある。
 東南海地震の津波に対して無防備な上、原子炉は福島より脆弱。

*2011年4月26日付け新聞記事(要旨)
 福島の事故を受け、各電力会社は、バックアップ用発電機や電源車を配備した。
 が、それらでは発電能力が足りず、計器等は動かせても、原子炉を冷却安定停止状態にすることはできないことが判明した。

 各電力会社は、「原発は絶対に安全です」と言ってきたが、この世に「絶対」などということなど、あろうはずがない。

 いや・・・ひとつだけ「絶対」があった。

「『絶対』という言葉を、絶対に信じてはいけない」

理論以下、現実以下が「想定外」とは、是如何に?

2011-03-26 | 社会学講座
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 まず最初に、今回の震災で犠牲となられた方々に対して、深く哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災され、不自由な生活を余儀なくされている方々には、月並みですが、励ましの言葉をお贈りしたいと思います。
****************************

 ・・・さて・・・

 いかに地震国日本といえども、全く想定外のことであり、あらためて、自然災害の恐ろしさを思い知ることとなりました。
 このような地震が発生し、甚大な被害をもたらし、原発までもが危機的状況に遭うなどとは、一体誰が予想し得たのでしょう・・・

・・・くそくらえったら、この野郎。ウソこくなこの野郎。こきゃあがったな、この野郎・・・


 今回の地震はM9.0、確かに日本の観測史上としては最大です。
 しかしそれでも、世界の観測史上では4番目です。(最大は1960年チリ地震が9.5、記憶に新しいところでは2004年スマトラ島沖地震が9.3)
 しかも理論上は、小惑星衝突などの外的要因を除いた地球自身の地殻変動では、最大10.0までの地震が起こりうるそうです。(ちなみに10.0とは、今回地震の、30倍以上のエネルギーです)
 いずれにせよ、理論値は別にしても、少なくとも今回以上の地震が、過去3回、実際に観測されています。
 
 そうであれば、9.0が「想定外」などとは、口が裂けても言えないはずです。
 今、テレビで会見している、いかにも学業優秀そうな面々は、想像力が欠如しているばかりでなく、事実にさえ学ぼうとしない、愚か者といわれても仕方ないでしょう。

 学業優秀ということは、きっといい大学を出ていて、当然、中学・高校において歴史も立派な成績で履修したはずですが、「履修」はしたけれど、全く「学んで」いないと断言できます。
 つまり、年号や事件はしっかり記憶していても、ただ単に詰め込んだだけで、それがどんな意味を持っているのか、では将来にどう応用すればいいのか、などとは考えたこともないのでしょう。

 同じように、大学で履修した科学や技術についても、単に詰め込んだだけで応用が利かない、それがまさに今、日本中を巻き込んだ大騒ぎに繋がっているのです。

 ベクレルとシーベルトの区別もつかない素人に何が分かるか、といった顔で会見をしている面々、そんなに分かっているのなら、先頭きって現場に飛び込んだらどうですか?

 面々、「隗より始めよ」という故事成語は、受験勉強では必須ですから、ご存知ですよね?

 え?、知ってはいるけれど、応用はできない・・・なるほど・・・

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(2011年3月27日追記)
 ・・・と思ったら、案の定、昔の事例を基に指摘された大津波の危険性を無視していたようで、「歴史に学んで」いなかったことが証明されました。
 もっとも、「鳴くよ(794)ウグイス平安京」などと違って、貞観津波(869年)なんて、大学入試には出てきませんからね。
静岡新聞記事より

ねむの木学園 残高1億円のはずが84万円 あまりの怒りに・・・

2011-02-20 | 社会学講座
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宮城・ねむの木学園長覚知 残高1億円のはずが84万円(朝日新聞) - goo ニュース

 あまりニュースの話題は取り上げないつもりだったのですが・・・

 このニュースを聞いたときは、怒りに体が震えました。

 宮城まり子さんと言えば、吉川英治文化賞を受賞した才女であることはもちろん、私財をなげうって肢体不自由児の療護施設「ねむの木学園」を設立、運営するなど、まことに人間として頭が下がる思いで、私は尊敬しておりました。

 また、ご存知の方も多いでしょうが、作家である故吉行淳之介の愛人(事実上の夫婦)としても知られ、私は吉行淳之介も好きで、著作も多く読み、やはり尊敬する作家の一人でした。

 それにしても・・・

 「ねむの木学園」は、宮城まり子さんが、一生懸命に守っている施設で、吉行淳之介の存命中は、吉行氏も、影に日向に支援をしていたに違いありません。

 単なる横領であっても、もちろん、許されることではありません。
 しかもそのお金は、「ねむの木学園」の運営資金です。

 それを食い物にするとは・・・
 私は加害者へ向かって、ここに、あらん限りの罵詈雑言を並べ立てても、まだ気が済みません。

 正直に、誠実に、子供たちを援けていただけなのに、人の心を持たぬ者によって、このようなことにされてしまうとは。

 宮城さんの無念さ、察するに余りあります。

 駄文は、ろくに推敲もせず書き連ねました。文脈が支離滅裂なところに、私の、ぶつけようのない怒りを読み取っていただければ幸いです。


平等ではない命。一番大切なのは何なのか。制度が不備なら、悪法などくそくらえ

2011-01-11 | 社会学講座
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 難病に苦しみ、日本では認められていない治療によってしか、命を救われる可能性のない人が、多くの善意に支えられ、外国に渡り、無事治療を受けて帰国した、というニュースを耳にします。
 助かった本人はもとより、親御さんのお気持ちを考えると、心底よかったと思います。

 先日も、サッカーの試合を観戦に行ったら、スタジアムで、高校生のボランティアが、難病に苦しむ男の子を救うための募金に頭を下げ、声を張り上げていました。
 私も妻も、通り過ぎようとした足を止め、募金箱へ、幾許かの気持ちを納めさせていただきました。

 そうしていながら、私の気持ちの中には、しっくりこない点があるのも事実です。

 外国の最先端医療を受けるためには、通常、個人ではとても負担できない、途方もない費用がかかります。
 そこで、親や親戚・友人・同僚などが有志となって「救う会」を結成し、広く募金活動などを行い、目標額に達したところで、患者と付き添いの家族が渡航する、といったことが、よく行われています。

 しかし、そうして治療を受ける機会に恵まれた人は、まだ運がいいほうで、助かった人の陰には、ニュースにこそなりませんが、助かる機会さえ与えられず、失意の内に亡くなっていった人が、数多くいるはずです。

 そうした人々のことを思うとき、釈然としないものが残ります。

 じゃあ、皆、平等に命を失ったほうがいいのか、というと、決してそういうわけではなく、たった一人でも、命が助かることに異を唱えるつもりはさらさらありません。
 それどころか、知人にそのような人がいれば、すすんで救う会へ参加するでしょうし、まして我が子のこととなれば、なり振り構わず、泥を喰もうとも、募金に頭を下げて回ることでしょう。

 ではなぜ、難病に苦しむ人は、途方もない費用をかけ、海外まで出かけていって、治療しなければならないのでしょうか。

 答えは簡単です。現在の社会制度が、そのような人を救う制度になっていないからです。

 制度には、大きく分けて、医療費を皆で負担しあう「健康保険」と、医療行為を律する「法律」とがあります。

 まず健康保険では、いわゆる「保険の利く」治療を細かく定めています。
 それに外れたものには「保険が利かない」こととなっており、そうした治療を受けたければ、全額を個人で負担しなければなりません。
 たしかにこの制度は、怪しげな「治療」で金を巻き上げる奴や、必要のない治療や投薬を行うなど、儲け主義の輩を排除するために大切なことです。

 ところが、前述のような最先端医療にも対応しきれておらず、保険の適用範囲になりません。

 これは単なる怠慢です。

 主治医が、「この方法しかない」と言うのなら、第三者の医療チームが、妥当性を検討すればいいことです。
 それが外国にしかない技術ならば、外国に出かけていく費用も含めて、保険適用にすればいいことです。

 また法律では、臓器提供の年齢制限など、さまざまな制約があります。
 理由はいろいろあるようですが、そのことによって、助かる命をむざむざ見殺しにしていることも事実です。

 法律は、世の中の幸福を目的としています。
 不幸や不平等を生み出す法律は、明らかに間違っています。

 難病に限らず、万一、あなたの子どもが命の危機に瀕しているとして、子どもを救うには、あなたが法を犯す以外にないとしたらどうしますか?
 私なら、「法律などくそくらえ」とばかりに法を犯すでしょう。

 「悪法もまた法なり」?
 はい。それでも「くそくらえ」です。

 最も大切なことは何でしょうか?
 言うまでもなく、命を助けることです。

 制度によってその目的が阻害されるのなら、そんな制度は役に立たないものです。
 また、お金持ちの命は助かって、貧乏人は見殺しにされるような世の中が、正しいはずはありません。

 要は、制度にしろ法律にしろ、そこに、人の命を助けるために最善の方法を採る、それを阻害する要素など、毫もあってはなりません。

 我が身につまされなければ、なかなか実感の湧かない問題かもしれませんが、考えておくことは必要です。

 私と妻が募金に協力させていただいた男の子、治療が功を奏し元気に帰国した、というニュースを、一日でも早く聞きたいものです。

免許とプロの責任・矜持、故意か過失か未必の故意か

2011-01-03 | 社会学講座
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 車は、免許がなければ、公道上で運転してはいけません。

 これが、塀で囲まれた私有地の中などであれば、道路交通法の適用がありませんから、免許なしで運転しても構いませんが、公道で運転する場合に、自分勝手な運転をされたのでは、他の車や歩行者に危害を加えるおそれがあります。
 ですから、車を確実に運転する技術や、安全な運行をするための知識を備えた者にだけ、免許が与えられているのです。

 さて、人間は誰でも過ちを犯します。ですから、過ちならまだ許せますが・・・

 幼児が、赤信号で横断歩道を渡ったとしても、幼児は交通ルールを知らないのですから、幼児を責めるのは間違っています。
 小学生が、赤信号なのについ道路へ飛び出したとしても、小学生ぐらいでは、まだまだしっかりした注意力が備わっていませんから、学年に応じて叱られるぐらいでしょう。

 しかし、大人が赤信号を無視したらどうでしょう?
 さらに、免許を持って運転している車で、信号無視をしたらどうでしょう?
 その大人は、全面的に責められても仕方ありません。

 なぜなら、大人は交通ルールを知っているという前提で、社会が成り立っているからです。
 さらに、車を運転する人は、交通法規を知っているという前提で、免許が与えられています。
 では、交通法規を守らなかったらどうなるか、これまた免許保持者は知っています。

 知らないでやってしまったことに罪はありません。(知らないことそのものが不注意である場合を除いて)
 また、不注意でやってしまったことは、罪ではあるけれど、少しは同情すべき点があります。

 しかし、知っててやったことや、やってしまった結果がどうなるか分かっていたことは、故意であり、過失ではありません。
(明らかな故意がなくても、結果が分かっていたことや、普通の人間なら予測して当然のことは、「未必の故意」と言って、故意と同等に扱われます)

 車で事故を起こして、他人を死なせたり怪我をさせれば、過失として、刑法第211条:業務上過失致死傷罪に問われます。
 飲酒や暴走など悪質な場合は、刑法第208条の2:危険運転致死傷罪に問われます。

 しかし私は、故意、もしくは未必の故意による犯罪であれば、刑法第199条:殺人罪でもおかしくないと思うので、わざわざ殺人罪より軽い罪である、危険運転致死傷罪を規定している理由が判りません。
 おまけに、裁判所はなぜか重い刑を科するのに及び腰で、業務上改質致死傷にしても、危険運転致死傷にしても、最高刑を科すことは滅多にありません。
 一体、飲酒運転や暴走運転の、どこに情状を酌量して、減刑する余地があるというのでしょうか。

 脆弱なビルはたやすく崩壊して、死者を出してしまう。だから法令で定められた建築基準を守らなければならないことぐらい、プロの建築士なら知らないわけはありません。
 知ってて違法な建築をしたのなら、殺人罪に問うてもおかしくありません。

 食品の消費期限を偽装すれば、食中毒になったり、最悪、死者が出る場合もありえます。
 プロの食品業者が、知っててやったのなら、殺人罪や傷害罪でもおかしくありません。

 知らなかったとしても、それぐらい知らないのはプロとして失格で、過失を通り越して故意(もしくは未必の故意)と認定してもいいのではないでしょうか。

 さらに、免許が必要な車の運転などには、その技能と知識があるから免許を与えられているわけで、これもまた、過失ではなく、故意もしくは未必の故意として、道路交通法ではなく、刑法の条文を適用するべきでしょう。

国の利益、国の損失、国は頼りになるか、ならないか。この国に安心して住めるのか

2010-12-02 | 社会学講座
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 損失を防ぐことは、利益を守ることと同じ意味です。

 国に責任があるとして提訴された事件の裁判では、法務省のお役人さんが、「国」として法廷に立ちます。
 そして、責任の有無、責任がある場合は賠償金額などについて、できるだけ国の損失を防ぐため、言い換えれば、国の利益を守るために奮闘します。
 その結果、賠償責任がない、ないしは賠償金額を少なく抑えられれば、国の利益が守られたことになります。

 このような裁判では、基本的に、科学的に検証して「間違いない」とされるものに限って、国側の責任を認め、「疑わしい」ものは、却下される仕組みになっています。

 そして、国に責任があるかどうかは、その事件について、国がどの程度関わり、事件の発生ないし被害の拡大について、阻止しうる立場であったかどうか、が問題になってきます。

 ところが現実的には、公害病の認定、原爆被害者の認定、そのほかの裁判で、国に責任がないとして、原告の訴えが退けられる事例は、枚挙に暇がありません。
 さらに、責任が疑われる場合でも、時効その他の法理(一般的には屁理屈とも言われます)によって、「被害者」が「泣き」をみる結果になっています。

 お役人さんは、国の利益を守るべき立場の方ですから、なるべく責任を認めず、認める場合でも、個々の認定については、「真っ黒」でない限り認定しないという姿勢が出来上がってしまいました。
 こうしたお役人さんの努力により、国は損失を免れ、言い換えれば、国は利益を守ることができるのです。

 しかし、ここでよく考えてみてください。
 国の利益とは何でしょう?

 国は国民がいて存在するものです。
 したがって、国の利益とは、国民の利益を意味します。
 では、上のような事例の場合、本当に国民の利益が守られたのでしょうか?

 賠償金額を抑えることは、税金の支出を抑え、たしかに国民の利益を守ることです。
 しかし、個人の力では避けようのなかった公害や戦争、国の失策、また、因果関係の立証は困難だが、蓋然性や相関性のある事例などについてまで、被害者に、非常に厳しい態度で臨むのが、「国民の利益」でしょうか。

 ましてや、最近の福祉行政のように、予算に限りがあるからなどという本末転倒な理由で、個々人への賠償額や支給額を低く抑える、さらには認定そのものの基準を厳しくしたり、あまつさえ認定の申請そのものを門前払いにするなどとは、言語道断、あまりの無責任さに怒りさえ覚えます。

 国家賠償請求訴訟などのニュースで、「不当判決」と書かれた垂れ幕を掲げながら裁判所から出てくる原告団の映像を見れば、誰しも、
「理屈ではそうかもしれないが、もう少し何とかならないのか」と思い、
「じゃあこの事件、一体誰が悪いんだ」となり、
「もし自分が同じような被害にあっても、国は、何もしてくれないんだなあ」
「国なんか、ちっとも頼りにならないや」
と思うでしょう。

 この、国に対する「頼りにならない」という不信感は、国にとって計り知れない損失です。
 国民が国を信用しないのですから。

 それは、わずかな金銭を抑えたぐらいで引き合うようなものではありません。
 国への不信感が増せば、国民に愛国心などなくなって当然でしょう。
 だからこそ、「国旗及び国歌に関する法律」などというものまで制定し、学校で、愛国心を「強制」しなければならないところまで来ているのです。

 なるほど、訴訟を起こす者の中には、「言いがかり」に等しい提訴や、便乗したと思われるような被害救済を訴える者、一部の訴訟マニアと呼ばれる暇人もいて、そうした詐欺師まがいの者や、濡れ手に粟を狙う者を排除するのは大切なことです。

 しかし、因果関係が疑わしかったり、責任の所在に多少不明確な点があっても、全くの「シロ」でない限り、
「困ったときは、国が何とかしてくれるんだ。ああ、やっぱり国は頼りになる」という安心感、それが
「この国に生まれてよかった」
と、国を栄えさせる原動力になり、わずかな賠償費用を抑えるような目先の利益より、将来に亘って、はるかに大きな利益になることは、多言を要しません。

 納税者の皆さん。
 避けようのなかった事態で、損害を被った気の毒な方々に、我々の税金が使われることに反対ですか?

 私は、そうした方々を救済するための税金なら、どうぞ使って下さいと、喜んで納めます。

 少なくとも、下らない無駄遣いをされるより、はるかに「国民の利益」すなわち「国の利益」になると思いませんか?

拝金主義者・金の亡者・餓鬼、不労所得を望むのは我々と五十歩百歩

2010-11-25 | 社会学講座
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 「法律に該当するかどうかは、併せプリズムを使うようなものだ」と、学生の頃、教わりました。

 たとえば殺人では、殺害方法や動機など様々な「色(事情)」があるわけですが、それを、第1のプリズムを通して、刑法第199条殺人罪という1つの「色」に該当するかどうかを検討します。
 そして、殺人罪に該当するとなったら、第2のプリズムで「各色(事情)」に分解し、動機、方法、自首や逃走、反省の程度などを勘案して、どの程度の罰が適当か、ということを決定します。

 そこで五十歩百歩の故事を2つのプリズムに通してみると、まず第1のプリズムでは、「逃げた」という共通項が浮かび上がり、「卑怯者」という点では同じことだと分かります。
 次に、第2のプリズムに通すと、50歩と100歩という違いが浮かび上がり、「程度」の違いによって、卑怯者の度合いに相違を認めるか否か、という問題点が浮かび上がります。

 この問題に、正解というものはありません。

 1歩でも逃げれば、その時点でみな「卑怯者」であり、歩数の違いは問題にならない、という考え方もありますし、戦場で50歩逃げるのと100歩逃げるのとでは雲泥の差だ、というのも間違いではありません。
(五十歩百歩の故事成語は、もっぱら前者の意味で使われていますが)

 ただし後者を採用した場合、では、50歩の者がどれくらいの罪で、100歩の者がどれくらいの罪か、ということを算定しなければならず、また、51歩の者はどうか、1万歩の者はどうか、といった微妙な問題も発生します。

 さて、世の中では、金銭にまつわる犯罪や、犯罪とまでは言えないけれど、道義的に見て疑問のある金銭問題は日常茶飯事です。

 法令に違反したとすれば、これは言い訳のできないことであり、罪の重さに応じた罰を受けるのは当然です。
 しかし法律とは切り離して、そうした者たちへの「拝金主義者」「金の亡者」といった類の、社会的な非難を考えてみるとどうでしょう?

 そうした者たちに限らず、誰でもお金は大好きです。もちろん私も大好きです。

 我々は、正当な労働をして得た報酬のほかに、もし、濡れ手に粟の収入があれば、大歓迎します。
 そんな儚い夢を見て、庶民は、宝くじを買ったり、手軽なギャンブルをしてみたりします。

 宝くじにしろ、ギャンブルにしろ、合法的ではあるけれど、正当な労働の報酬ではない点には違いはなく、また、利益を得る人がいる影には、必ず、損失を被る人がいるのも、厳然たる事実です。
 また、道端で100円玉を拾ったら、たいていの人は、ポケットに入れてしまうでしょうが、これは濡れ手に粟というだけでなく、刑法第254条:遺失物等横領罪(一般的には、拾得物横領と言われています)という、まごうことなき犯罪です。

 では、庶民がそのようにして儲けを得ることと、「金の亡者」が得た儲けを、プリズムに通してみたらどうでしょう。

 まず第1のプリズムでは、不労所得や、微罪ながらも犯罪行為、あるいは道義的に問題がある方法によって利益を得た、という共通点が浮き彫りとなり、両者に違いはないということになります。
 さらにそれを第2のプリズムに通すと、額の違いが浮かび上がります。

 そう考えると、「金の亡者」と我々との間には、実は、儲けた額の違いしかありません。

 これを今度は五十歩百歩の故事に当てはめてみると、不労所得を得た時点で、みな「拝金主義者」や「金の亡者」なのか、100円や庶民の小遣い程度なら良くて巨額なら悪いのか、さらに、100万円はどうか、9999万円ならどうか3億円はどうか、といった問題に行き当たります。

 もちろん、正解はありません。

 我々は、つい、不労所得に近い形で巨万の富を得た者に対して、やっかみ半分、悪い印象を持ってしまいがちです。

 しかし、キリストは、群集が、罪を犯した女に投石で罰を与えようとしているのを制止して、「この中で、罪のない者だけが、石を拾うがよい」と言いました。

 はたして我々の中に、「拝金主義者」や「金の亡者」に対して、「石を拾う」ことのできる人は、いるのでしょうか?

 それとも、人間とはそもそも「餓鬼道」に堕ちるべきものなのでしょうか?

不喰周粟

2010-11-10 | 社会学講座
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不喰周粟
「周の粟を喰らわず(しゅうのぞくをくらわず)」と読みます。

 もっとも私が最初に知った時は、「周粟を喰まず(しゅうぞくをはまず)」と読み仮名を振っていて、今でも私はこの読みのほうが、味があって好きです。

 殷の時代、周の武王は、周囲の批判も聞かず、父である文王の葬儀もそこそこに、主君にあたる殷の紂王を討ち、天下を周のものとした。
 武王の家臣である伯夷と叔斉は、武王に仕えるのを恥とし、遠く山に隠れ住み、周の国に行けば粟があるのに、周の粟を食べることを潔しとせず、薇(わらび)をとって食べていたが、とうとう餓死してしまった。
 人々は、その筋の通った行いを、大いに称えた。


 武王や伯夷と叔斉の行動の裏には、もう少し複雑な事情が絡んでいるのですが、そうしたことはさておいても、「不喰周粟」は、命を賭しても筋を通す、その行為を潔しとする、という意味で使われます。

 ごく普通に考えれば、筋を通して王と訣別するぐらいならまだしも、何も死ぬことはないじゃないか、というのもごもっともです。
 しかし、彼らにとっては、その粟が周の地に生えているというだけで、食べるのも汚らわしく、それくらいなら死んだほうがまし、という程の出来事だったのでしょうから、これは当事者でなければ、その気持ちはわかりません。

 筋を通して眼前の不正な利益を放棄するという意味で、似たような言葉に、
「盗泉の水は飲まぬ」
というものもあります。

 さて、犯罪による利益は論外ですが、世の中にはいろんな「周粟」、つまり、筋の通らない利益があります。
 周粟だと知ってて食べる人もあれば、知らずに食べている人もいます。
 周粟なのに、立場や利益、保身や既得権益のため、あえて周粟でないと主張する場合もあります。
 さらに、そうした周粟であるのに、周粟でないと自分で信じきっている、救いようのない奴もいます。

 周粟を、単に筋が通らないだけではなく、他人の犠牲や健康被害、不幸など、社会的な「負」の上に成り立っている利益とすれば、さらに範囲は広がり、交通事故、公害、戦争、格差、我田引水の公共事業など、現代文明の病理を基とした恩恵は、多くが周粟となってしまうかもしれません。

 幸い(?)にも「事業仕分け」によって、周粟の一部は、化けの皮を剥がされつつありますが、まだまだ「皮」に止まっており、「身」や「骨」にまで斬り込んでいくには、到底及んでいません。

 これらすべてを食わないとすると、現代社会は瓦解してしまいますから、それはなかなか困難なことです。
 しかし、困難ではあるけれど、周粟は、元々人間が作り出したものですから、周粟を無くすることは、決して不可能ではない、と私は断言します。

 その第一歩として、皆が今、享受している利益の陰に何かが隠れていやしないか、誰かが泣いていやしないか、といったことを常に考えることは大切で、できる限り周粟をなくしていく、そうした努力が、我々には必要です。

 だいぶ前の話ですが、テレビで、カカオの実を採集するガーナの少年が紹介されており、私は息子と一緒に観ていました。

 息子と同い年ぐらいの少年は、学校にも行かせてもらえず、わずかな賃金で、ヘルメットや命綱など何もなしで高い樹に登って実を採る仕事をさせられ、いつ墜落して死んでも不思議ではなく、親方も、落ちて死んでもそれは本人の責任、という態度でした。
 実際、そうした事故は時々起こっているそうです。

 先進国では考えられないことですが、富める国の者が、貧しい国の、少年たちの命を犠牲にして食べるチョコレートも、実は「周粟」かもしれません。

 しかし悲しいことに、だからと言って私たちがチョコレートを食べるのをやめてしまったら、少年はわずかな賃金さえも貰えなくなり、もっと過酷な労働や生活を余儀なくされてしまうでしょう。

 せめて私は、自分とあまりにも違う境遇に置かれた少年の姿を、まばたきもせずに見つめる息子に向かい、チョコレートを食べるたび、あの少年のことを思い出し、感謝して食べるように、と諭さずにはいられませんでした。

 少年は、今も元気で、私の息子と同じように成長しているでしょうか。

エコカー、エコポイント、税金の行方はエコ贔屓で、貧乏人は踏んだり蹴ったり

2010-10-31 | 社会学講座
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 天下の不公平制度、搾取制度である、エコカー、エコポイント制度も、間もなく終了します。

 終了する理由は、「財源を使い切ったから」ということらしいのですが、本当に必要である制度ならば、きちんと財源を確保して、少なくとも確保の目処はつけた上で、恒久的に制度を維持するべきでしょうが、そうしないこと自体、この制度が、本当はどうでもいい制度だった、という証左です。

 これらの制度は、不況にあえぐ自動車業界、電器業界が、政府に「何とかしてくれ」と頼み込んで、当時の政府も「よしわかった」と、応じたことから始まりました。
 しかし、あからさまに自動車や電器を優遇したのでは、批判が集中するに決まっていますから、地球環境だとか何とか、もっともらしい理由をつけて「エコ」贔屓したに過ぎません。
 「よしわかった」と応じた側の腹は、全然痛みませんからね。痛むどころか、腹が、肥えた人もいるんじゃないでしょうか。

 たしかに、消費燃料や消費電力を抑えた製品は、地球環境の保護に寄与するとは思いますが、まだまだ立派に使える車やテレビや冷蔵庫を捨てて、新しいものを購入することほど、地球環境を破壊するものもないでしょう。
 つまり、功罪比べれば、罪のほうが大きいと思いますが、皆さんはどう思われますか?
 ちなみに我が家の車やエアコンは、とっくに生産中止となった、10年以上前の製品です。

 また、減税をしたということは、国に、本来入るべき税金が入らないことですし、家電にポイントをつければ、これまた国から多大な出費が必要となりますが、それが税金から支出されることは、言うまでもありません。
 では何かでその埋め合わせをしなければならないはずですが、それは、我々が納めた税金で埋め合わせるより他ありません。

 しかし、車にしろ家電にしろ、恩恵を受けるのは、数百万円もする車や、数十万円もする家電を、ポンと買い換える余裕のある者が多くを占めます。(もちろん、新規に必要になったから、とか、壊れたので仕方なく買い換えた、という方もいるでしょうが)

 私たち貧乏人には、余裕のある人たちが恩恵を受けるために税金を納めたつもりなど、毛頭ありません。
 逆に、諸事情あって貧困にあえぐ人々や、重い病気で困っている方、今の日本を豊かにしてくれた大先輩であるご老人、といった方々のための税金なら、喜んで納めます。

 それでも、エコカー・エコポイント政策に十分な経済効果があって、富が公平に分配されるのなら、それはそれで文句は言いません。

 「エコ」贔屓のおかげで、車や家電は売り上げを伸ばし、企業は利益を上げ、企業内の社員は上から順番に利益を享受し、株主には配当金が入って、投資家は株の利ザヤや含み益を得ています。
 その反面、自動車会社も家電会社も、派遣切りはするわ、賃金(賞与を含み)カットはするわ、労働者に対して非人間的とも言える労働を強いるわ、死者や病者の山を築くわ。

 庶民にとって、納めた税金をそんなことに使われた揚句にこの仕打ちでは、怒って当然です。

 さて、では一体誰が政府にそのような政策を採らせたのでしょうか?
 (いつも同じ結論で面白くないでしょうが)決まっています。それで最も利益を享ける者です。

 経団連の、先々代会長は自動車関連でした。また先代会長は家電関連でした。そして現会長は、車や家電に樹脂などの素材を提供する化学関連です。
 3人とも、高そうな背広を着て、栄養がいいのか、恰幅の良い、艶々とした方々です。
 きっと、我々の血肉を吸い上げているからなんでしょうね。

ニッポニア・ニッポン、種の保存と環境保護

2010-10-26 | 社会学講座
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 ニッポニア・ニッポン(Nipponia Nippon)とは、トキの学名です。

 日本語には「トキ色」という、色を表す言葉がありますが、どんな色だかすぐにひらめく方は、おそらくいないでしょう。(ちなみに、トキが翼を広げたときに、光が透けて見える、赤に近いピンク色のことです)
 しかし、今でも「柿色」や「蜜柑色」、「葡萄色」が通じるように、昔はトキ色という言葉が通じていたこと自体、日本人なら誰でも、「トキ色」と言われれば、「ああ、あの色か」と合点がいくほど、トキはどこにでもいる鳥だったのです。

 トキは、佐渡トキ保護センターをはじめ、数個所で繁殖・飼育が続けられ、2010年現在、約170羽にまで増えたそうです。
 ただしこれらは、みな中国産トキの子孫であり、純日本産のトキは、2003年に推定36歳の「キン」が死んだことで、完全にいなくなりました。
 もっとも、中国産と日本産に分類学上の違いはありませんから、まだ種としては「絶滅」というわけではありません。

 地球上に存在した種の99%は、既に絶滅しています。
 恐竜のように、地球外の要因によるものもありますが、多くは、環境の変化に適応できなかったり(恐竜もそうですが)、捕食者によって絶滅へ追い込まれたり、より強い生物にエサを奪われ、取って代わられたり、といった理由によるものです。

 絶滅する種は、種としての寿命が尽きているのです。
 それは、他の99%の種と同じく、環境や捕食といった要因が、その種を栄えさせる時から、その種を絶滅させる時へと移ろっただけのことです。
 それが地球の歴史であり、自然なことです。
 無論、人間もトキも例外ではなく、いつかは99%の内に入ることでしょう。

 さて、そうであれば、絶滅しつつある種を保護するのに、どんな意味があるのでしょう?

 「人間が、環境を変えてしまったり、乱獲したせいで、その種が絶滅の危機を迎えている。だから、人間の手で回復しなければならない」という考えかたは、一応、もっともです。

 アメリカで、最盛期には空が真っ黒くなるほどの個体数を誇ったリョコウバトは、みな、ステーキになってしまいました。
 日本でも、島を埋め尽くすほどのアホウドリは、羽毛布団になってしまいました(まだ絶滅はしていませんが)。
 トキも、乱獲や、農薬の影響などで、水田でトキの餌となるドジョウやカエルがいなくなったことが原因で、気がついた時には、トキは、自然界で繁殖が継続できる個体数を下回ってしまったのです。

 このほか森林の減少、炭酸ガスによる地球温暖化、その他人間が原因となって、絶滅または絶滅の危機に瀕している種はたくさんあります。

 しかし人間とて生態系の一部であり、人間自身が生き延びるためには、他の生物を、食料にしたり、衣服にしたりと、必要があって動物を殺したり、環境を変えてきたのであり、それが悪いと言われても、人間としては、食うものも食わず、着る物も着ずに生きていくわけには行かないのです。

 ただそれが、文明の力を用いて、ゆったりとした地球の時間の流れに比べれば、はるかに短い時間で、劇的な、それこそ絶滅に追い込むほどの変化をもたらしたため、人間は自らの行為を、「これはひどい」と評価するわけです。

 でもよく考えてみれば、今この瞬間にも絶滅してゆく種があるわけですが、それらのほとんどは、人間の行為など関係なく、種としての寿命が尽きたものたちです。

 だからと言って、「人間の手で種を絶滅させてもかまわない」というつもりはさらさらありません。
 人間には、過去を振り返り、将来の展望を拓く知恵があります。種の絶滅を、自分たちの行動の評価指標として、環境や生態系保護を行おうというのは、決して悪いことではありません。

 間違っていただきたくないのは、大目的は環境保護であって、種の保存は手法の一つだという点です。
 そして、環境を保護することで、結果として種も保存されれば、もちろんそれに越したことはありません。

 しかし、それでもなおかつ絶滅してしまう種は、環境の変化に弱いとか、捕食者から逃げるのが下手であるとか、元々、種としての長寿を保つことができない進化をたどったもので、人間の手によらなくても、いずれ近いうちに絶滅する種だったかもしれません。

 スマトラ・ボルネオ島では、森林の減少により、オランウータンの絶滅が危惧されています。

 森を回復することで、オランウータンが絶滅の淵からよみがえれば、それが最も望ましいことです。
 しかし、オランウータンを檻に入れて「保護」し、森林の減少には歯止めをかけない、というのであれば、全く話が逆です。

 また中国では、ジャイアントパンダの保護に力を入れていますが、ジャイアントパンダは生殖器に異常があり、種としての存続は、自然の中では絶望的です。
 それなのに保護しようとするのは、ジャイアントパンダが非常に愛らしい動物であるとともに、中国としては格好の「売り物」だからです。

 トキにしろオランウータンにしろジャイアントパンダにしろ、彼らを「保護」するのは、人間のご都合主義、もしくは自己満足に過ぎないと思いませんか?
 その証拠に、愛らしくもなく売り物にもならない他の種は、絶滅するに任されているではありませんか。

 生物多様性条約?
 今まで散々環境破壊をしてきた先進国の考えることなど、どうせ本音は、最終的には、人間にとって役に立つ(愛玩も含む)生物、「カネになる生物」が対象です。

 さて、話をトキに戻しますが、私は、日本のトキ保護センターは設立すべきでなかったと思っています。

 必要があったからトキを殺したのは仕方がないとしても、繁殖の限界を下回るまでに殺し続け、生息環境を奪ってしまったことは、日本人が愚かだったと認めざるを得ません。
 こうして我々は、ニッポニア・ニッポンの学名を持つ純日本産のトキを、とうとう「絶滅」させてしまいました。
 それは、中国からトキを輸入し殖やすことぐらいでは、到底回復できない罪です。

 そのことを我々は、トキの剥製を見るたびに思い出し、新たな自然保護への決意としたほうが、これから先、生半可な自然保護を謳うより、はるかに有効であるとともに、我々の手にかけられて死んでいった純日本産トキへの、せめてもの供養になると思うからです。

 「代わりのトキがいるからいいんだ」では、純日本産トキが浮かばれません。

 さもなければ、ニッポニア・ニッポンの次に絶滅するのは、ニッポンジンだということになるかもしれませんよ。
 そうなってしまっても、純日本産でなくてもホモ・サピエンスに違いはないから、ということで、他国から「輸入」して殖やしますか?

さだまさし氏の「償い」 その2

2010-09-23 | 社会学講座
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 歌そのものの背景について考えてみます。
 そもそも、何故ゆうちゃんは事故を起こしてしまったのでしょうか。

 歌では、配達帰りの雨の夜、疲れていたために人影への反応が遅れて、被害者を轢いてしまったことになっています。
 では何故、ゆうちゃんは疲れていたのでしょうか。また、夜にもかかわらず、配達の仕事を続けていたのでしょうか。

 勿論、前日の夜遊びが過ぎて疲れていたとか、昼間にサボってて夜になってしまったとかいうのなら論外ですが、おそらくそうではなく、毎日、夜にまで食い込むほど仕事が忙しく、ゆうちゃんには連日の疲労が蓄積していたに違いありません。
 そうであれば、ゆうちゃんの会社は、一体、どういう運行管理をしていたのでしょうか。
 従業員が過労運転をしていると知りながら、さらに過労運転を強いるような業務命令を下し続けた会社の責任は、どう問われたのでしょうか。

 事故を起こしたのは確かにゆうちゃんの過失ですが、その過失を誘発ないし原因を作った会社の責任こそ、厳しく追及されて然るべきで、一個人に全ての責任を負わせていい問題ではありません。
 ゆうちゃんでなくとも、ゆうちゃんと同じ状況に置かれた普通の人間なら、誰でもゆうちゃんになってしまう可能性があります。いや、必然性があります、と言ったほうが適切でしょう。

 そして事故後、ゆうちゃんは被害者の奥さんに賠償金の仕送りを続けています。
 しかし、従業員が仕事中に起こした事故であれば、遺族は会社に対して損害賠償を請求できますし、自動車には強制・任意の保険がかかっているのが普通で、賠償金の大部分は保険で賄えるはずです。
 それともゆうちゃんの会社は、社用車に保険もかけないようなところだったのでしょうか。

 事務的な言い方ですが、保険や会社としての賠償で、賠償問題はおおむね解決されるはずで、ゆうちゃんの気持ちは気持ちとして、ゆうちゃん個人が「薄い給料袋の封も切らずに」毎月仕送りを続けなければならないはずはありません。

 断言しますが、ゆうちゃんは、会社から無理を強いられ、事故の、全ての責任まで負わされた被害者です。

 何故そんなことにされてしまったかといえば、そうなることで、最も都合の良い誰か(一人とは限りません)がいるからで、その誰かさんにとっては、被害者の命、遺族の悲しみやその後の生活、狂ってしまったゆうちゃんの人生なんか眼中になく、それよりももっと好きで、守りたいものがあったのです。
 それが誰だったか、それが何だったかは、言うまでもないでしょう。

さだまさし氏の「償い」 その1

2010-09-21 | 社会学講座
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少々古い話なので、大勢の方があちこちで論じておられるとは思いますが。


2001年、4人の少年が、男性に対し、足が当ったと口論の末、三軒茶屋駅のホームで4人がかりで暴行を加え、くも膜下出血で死亡させた。
 主犯格の少年2名が傷害致死罪に問われ、裁判の中で2名は「申し訳なく思います」「自分という人間を根本から変えてゆきたい」などと反省の弁を述べた。
 しかしその一方、事件自体は、酔った被害者がからんできたことによる過剰防衛であると主張するとともに、裁判中の淡々とした態度や発言などが、反省しているかどうか疑問を抱く態度を繰り返していた。

 2002年2月19日、東京地裁は、懲役3~5年の不定期実刑の判決を下した。
 判決理由を述べあげた後、山室惠裁判長が被告人らに対し「唐突だが、君たちはさだまさしの『償い』という唄を聴いたことがあるだろうか」と切り出し、「この歌のせめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と異例の説諭を行った。




 この話は、裁判官が流行歌を引用して被告に説諭した異例の出来事として、当時、マスコミにも大きく取り上げられました。その論調は、事件が事件だけに、さすがに直截的に揶揄するものではありませんでしたが、「厳格であるべき裁判官が、流行歌なんか持ち出してきやがって」と、呆れを言外に匂わせるものでした。

 しかし私は、少し違う視点から話をしてみたいと思います。

 この歌に出てくる「ゆうちゃん」は、罪の重さを認識し、過ちは償わなければならないという、人間として当然の心を持っていたが故に、その心は被害者の奥さんにも届き、固く閉ざされたままだった奥さんの心の扉は、7年目にしてようやく少しだけ開かれました。
 それは、過ちは犯したけれども、本来のゆうちゃんは真正直な人間であり、被害者の奥さんもまた同じく真正直な人間であったため、人間として当然の気持ちが、人間として当然の気持へ通じたからに他なりません。

 しかしそもそも、加害者に人間の心が備わっていなかったならばどうでしょう。

 「償い」のように、人影に気付くのが僅かに遅れ、ブレーキが間に合わないということは、車を運転している者になら誰にでも起こり得る、すなわち、誰でも犯す可能性のある過ちです。
 一方、三軒茶屋の事件で加害者の少年らは、4人掛かりで執拗な暴行を加え、被害者を死亡させており、誰でも犯す可能性のある過ちとは程遠く、ごく特殊な人間が故意に引き起こした凶悪な犯罪です。
 しかも過剰ながらも防衛行為であったと、自らの正当化を図り、さらに、具体的に何をしたのかはよく分かりませんが、裁判中の態度も、およそ反省の色がないものだったようで、読み上げた反省の弁とやらも、おそらく弁護士の作文に過ぎないでしょう。

 人は誰でも過ちを犯します。だから人は、過ちならば許すこともできます。
 しかし、故意は許すことができません。

 故意に人を死に至らしめる犯罪を行い、しかもその行為を罪として反省することもなかった少年らは、人間として当然の気持ちなど毛ほども持ちあわせておらず、その点が、人間として当然の気持ちを持ち合わせていながら、過ちを犯してしまったゆうちゃんとは、決定的に違います。
 断言してしまえば、ゆうちゃんは人間でしたが、少年らは人の皮を被った獣です。

 説諭せずにおれなかった山室裁判長には悪いのですが、獣に人間の言葉は、まして人間の気持ちは、到底理解できませんし、なぜ反省の弁が人の心を打たないのかも、理解できません。
 獣にとっては、そんなことなどどうでもよく、自分がどれくらいの期間、檻に入れられるかの方がよっぽど重要な関心事であるに決まっています。
 残念ながら、人間である山室裁判長の気持ちは、獣たちには届いていません。

 それに、過ちで人を殺めてしまったゆうちゃんが、許されるまで7年もかかっているのに、弄ぶかのように人を殺めてしまった少年らへの刑が長くても5年とは、娑婆に居るのと刑務所に居るのとの違いを考慮したとしても、どう考えても不条理だとしか思えません。
 獣たちは5年間さえ経過すれば、すなわち2010年の今現在、大手を振って道を歩いているに違いなく、その獣は、明日、あなたの隣に座っているかも知れません。

 なお、この件についてさだまさし氏は、「法律で心を裁くには限界がある。今回、実刑判決で決着がついたのではなく、心の部分の反省を促したのではないでしょうか。この歌の若者は命がけで謝罪したんです。人の命を奪ったことに対する誠実な謝罪こそ大切。裁判長はそのことを2人に訴えたかったのでは」と述べています。
 少し裏読みになりますが、さだ氏も、山室裁判長の気持ちは理解しながらも、ゆうちゃんと少年らとでは決定的な違いがあって、裁判長の気持ちが少年らに響いたとは思っていないように見て取れます。

家畜人ヤプー

2006-10-15 | 社会学講座
 タイトルは、沼正三さんの名作ですが、表題と内容は関係ありませんので、念のため。

 アメリカ産牛肉を使った牛丼の販売が、限定的ですが、開始されました。
 BSE―CJD(狂牛病を原因とするクロイツフェルト・ヤコブ病)の防疫方法論はさておいて、どこの国が輸入しても、アメリカの基準で検査した牛肉では、アメリカ国内と同じ程度にBSE―CJDが発生するのは自明の理です。したがって、アメリカ産牛肉の解禁で、BSE―CJDがわが国で発生するのは時間の問題です。唯一、輸入再開の条件としてアメリカの基準に上乗せしたわが国の基準が、万全の防疫であった場合を除きますが、まあ、そんな可能性はないでしょう。

 某大手牛丼チェーン店は、真っ先にアメリカ産牛肉の使用を再開しましたが、国内で、数年後にBSE―CJDが発生した時、やはり真っ先に疑われることでしょう。もちろん、牛丼が原因だと断定することは不可能で、仮にできたとしても、基準を通過した牛肉を提供していたわけですから、牛丼チェーン店が法的に責任を問われることはありません。しかし、もはやその店の牛丼を食べようとする者はいなくなり、牛丼チェーン店は、100年の歴史に幕を下ろすこととなるでしょう。
 私?もちろん食べませんとも。私はその店を、国民の生命と引き換えに利益を選んだ、人命軽視も甚だしい、無責任極まりない会社だと評価します。また私は、「自ら不幸を招いた者には同情しない」という信念に基づき、ホイホイと牛丼を食べてBSE―CJDに罹った者へは、同情しません。つまり牛丼屋も犠牲者も「それみたことか」というわけです。
(注:「自ら不幸を招いた者には同情しない」というのは、「天は自ら助くる者を助く」という諺の裏返しです。念のため)

 さて、基準に従った牛丼チェーン店が、法的に責任を負わないとすると、ではその基準がおかしかったのではないか、という疑問が、当然出てきます。次には、誰がそんな基準を作ったのか、ということになります。誰が作ったのかは自明のことですが、日本では、「当時の技術ではそれが限界だった」とか、「当時最も信頼の置ける基準だった」とかいった屁理屈によって、基準を作った者は、誰も責任を負わない仕組みになっています。ただし、その程度の基準しか作れない無能を、代表として国会に送り込んだのは我々ですから、強いことは言えません。

 そうなると、自衛策を講じなければなりません。当面、アメリカ産牛肉を食べないことが最良の方法だと思います。アメリカは、直接的にしろ間接的にしろ、他国民の命や健康を犠牲にしても、自国の利益を優先させる国ですから、我々は、我々の命と健康という利益を最大限守らなくてはなりません。

 日本人は、問題のある飼料を食べさせられて太り、アメリカに利益をもたらすばかりの家畜人間ではありませんよ。もう、半分そうなってはいますが。
 さて、タイトルの「家畜人ヤプー」。この作品を読んだ方には、より、皮肉が分かると思います。今の日本人が読むべき、おすすめの1冊です。小説が苦手な方には、石ノ森章太郎さんや、江川達也さんが漫画化しています。