ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】二重らせんの私 ―生命科学者の生まれるまで―

2008年12月18日 22時01分34秒 | 読書記録2008
二重らせんの私 ―生命科学者の生まれるまで―, 柳澤桂子, ハヤカワ文庫 NF223(4224), 1998年
・ある女性生命科学者の半生記。子供の頃の生き物に対する思い出からはじまり、当時としては珍しい日本人女性としてのコロンビア大学への留学、そこで研究に明け暮れる日々やPh.Dを取るまでの様子などが生き生きと描かれています。しかし、順調に思えた研究生活も病気のために断念せざるを得なくなってしまったそうで、本書では詳しく書かれていませんが、原因不明の難病でかなり長い間苦しまれたようです。
・写真は40年以上も前のもの。そんなに昔には全然見えませんが。
・自分の研究生活と引き比べてしまうと、やはり桁違い。好奇心の旺盛さからしてまず違う。
・「私は、植物が悲しんでいる証拠をみつけたいと思って、野原や川原を歩きまわった。踏みにじられた草にそっと耳をつけてみた。折れた葦のそばに何時間もしゃがんみ込んで何か苦しみの音を立てるのではないかと見つめつづけた。」p.17
・「私は、生物のもつもう一つの側面を見たような気がした。生物というものは、可能なことはなんでもするものだという強い印象をもった。そして、実験結果を解釈していくときに求められる思考の柔軟性の重要さを学んだ。」p.63
・「DNAについての研究が進むにつれて、生物がおたがいにDNAを混ぜ合わせるということが、生物の進化にとってたいへん重要なのではないかと考えられるようになってきた。(中略)しかし、雌雄がなくてもDNAを混合することは可能である。なぜ卵と精子が存在するのかは依然としてよくわからない。」p.86
・「しかし、アメリカでは事情はまったくちがっていた。学生が理解できないのは、教える側に能力がないからであるという視点があった。そのために、教科書や実習ガイドをいかにわかりやすく書くかという工夫が真剣になされていた。」p.115
・「ニーレンバーグは、私の右側の少し前の席におり、オチョアが私の左手後ろに座っていた。この二人の間で激しい議論が起こると、私はちょうどまん中にはさまれて、その激しさに身を縮める羽目になった。」p.142 両者ともノーベル賞受賞者。
・「これらの展示品を見ると、実際に自分の目で見るということがいかにたいせつであるかということがわかる。いくら教科書で習っても百科事典で調べても得られないものをこの博物館は惜しみなく発散していた。」p.158
・「演奏者も一、二階の聴衆よりも天井桟敷の人々の反応に注意を払う。演奏は舞台から一方的に発信されるものではなく、聴衆の反応との相互作用で一つの表現が作りあげられていく。すばらしい演奏に聴衆が熱狂すれば、演奏者はそのエネルギーを吸いあげて、さらにすばらしい演奏をすることになる。そのエネルギーの集中しているところが天井桟敷である。  私はほとんど毎週のようにカーネギー・ホールに通った。」p.160
・「Ph.Dは、ドクター・オブ・フィロソフィーの略号で、日本語に訳せば、哲学博士となる。「哲学」は、狭義の哲学という意味ではなく、語源通りの「知を愛する」という意味である。私はこの言葉が好きで、一つの学問分野に関しての深い知識をもつにとどまらず、広く「知を愛する人」になりたいと、いつも願っている。」p.162
・「少し勉強してみると、この大学院のカリキュラムすべてが、先人たちの思考のあとをたどることに向けて組まれていることに気づいた。過去をよく知ることによってはじめて未来が見えてくることもわかった。」p.163
・「センセイは文章の書き方においても素晴らしい教師であった。まず、論理の構築をしっかりすること。次に適切な言葉を入念に選んで文章を書いていく。できあがったものは声に出して読んでみて、文章のリズム、音感、言葉の重複、単語の重みのバランスを配慮して磨きあげる。  これは日本語の文章にもそのままあてはまる。日本語ではこれにさらに視覚イメージがよいかどうかも考えに入れなければならない。」p.180
・「日本人は自国の言葉を覚えるのにかなりの労力と時間を費やす。そうやって覚えた言葉は他の国々の言葉とはあまりにもかけ離れているために、外国語はまったくはじめから学びなおさなければならない。しかし、私は外国語を学べば学ぶほど、日本語が美しく思われ、日本語の美しさにのめりこんでいった。語感、調べ、リズム。そして、その奥に潜む歴史までもがいとおしいものに思われてきた。」p.188
・「いのちとは何であろうか。「生物という構造の上に生じる現象」であると私は思う。からだのどこを切っても "いのち" という物質は見つからないであろう。それでも、いのちはからだの隅々にまで満ちているように感じられる。」p.198
・「発生学の実験が軌道に乗って、順調に成果があがってきたところで、思いもよらないことがおこった。病気である。私は原因もわからないまま、入退院をくりかえした。」p.201
・「人間は欲を捨てることはできるが、自己意識までは捨てることができない。ここに人間の限界がある。すべての人間が自己意識をもつということは、おそらくDNAの中に自己意識の神経回路をつくる遺伝情報が記されているのであろう。  哲学の中にも生命科学の知識を取り入れる必要があるのではなかろうか。しかし、生命科学によって人間の存在すべてが説明されつくすということはないであろう。宇宙や他の生物との関連における人間の存在の検討という大きな哲学が要求されているように思われた。」p.207
・「お金がからんできたために、生命科学の様相は一変してしまった。(中略)知の女神、アルマ・マターの足元にひれ伏して、自然の驚異の一端について教えを乞うという姿勢は失われた。人間は自然を自分のしもべとしてかしずかせ、それをお金儲けに利用しようとしているのである。知を一つの文化として、芸術として、人間の精神世界の営みを守っていこうという姿勢をたもつことは困難になってきた。」p.213
・「DNAは地球上に生命が誕生して以来書き継がれている、地球上最古にして最新の古文書である。そこには、「われわれはどこからきたのか」「われわれは何か」ということが書かれている。そのような文章を人間が地球上ではじめて読み解くということは、たいへんうれしいことである。芸術的価値の非常に高い仕事であると思う。しかも、実用面でも役にたつ。  しかし、その文章には、「われわれはどこへいくのか」ということは書かれていない。」p.215

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