柔らかい時計, 荒巻義雄, 徳間文庫 207-2, 1981年
・人間の精神世界を主題にした妄想系SF短編集。六編収録。「SFなんて皆、妄想じゃないか」と思われるかもしれませんが、作中の登場人物が妄想するという意味での "妄想系" です。あまり一般受けはしなさそうですが、私的にはひさびさド真ん中ストライクの作品でした。まだこんな未知の凄い作家がいたとは。どうしてこれまで私のアンテナに引っかからなかったのか不思議に思い、著作リストを見てみると、どうも私があまり手を出さない娯楽小説(?)の作品を主に書いているためのようです。
・巻末には何故か丁寧な、『自筆個人年譜』と『書誌総目録』付き。
・2009年【読書記録】印象に残った本暫定第1位! ……なのに現在絶版中。
●『白壁の文字は夕日に映える』
・「「そうね。わたしたちの患者よりも、あなた方の馬やアメリカ人の飼っているイルカの方が、はるかに優れているといいたいのでしょう。でもね、……」突然マルグリットは今にも泣き出しそうなくらい真剣な表情をわたしにむけた。「彼らは人間なのよ。わたしたちの同胞なのよ」 「単に、人間の型をしたけものといえませんか」 マルグリットが本気で怒ったのはその瞬間だった。マルグリットが蒼ざめた。 確かにわたしのいい方は悪かった。だが、わたしの言い方の方が現実的なのだ。わたしは、自分のいい分を訂正しなかった。残酷だったが、正しいのだ。」p.15
・「遺伝工学の研究がわたしたちの研究と協力しあえば、IQ50程度のコンパクトな象さえが、街を歩きまわる日も不可能ではないのだ。」p.16
・「<魔女の槌>という妖術裁判の手引書の存在を教えられたのもこの本だった。<魔女の槌>は十五世紀末に書かれたおそるべき魔女研究の書だった。わたしも思うが、この著書ほど、合理的で論理的な外見をとった独断が、ある邪悪な目的のために駆使された例は数えるほどしかない。」p.23
・「わたしは静かにマルコフにいった。「彼だって、課題を解決したぜ、見事に。将しく身体的能力によって……。知的な能力によらずしてね」(中略)もし人類が、進化の過程で、翼を手に入れたとしたら、飛行機は発明されなかっただろう。人類は空をとぶために、知的能力の助けを必要としないのだ。もし、わたしの仮説が正しいとすれば、バラードにとって、知的能力は不要だった。 バラードに知能はいらないのだ。」p.35
・「――『ナンシー・メイヤーソンのような超能力者は、これまで我々精神医学界が看過してきた空白の領域、精神薄弱者といわれる不幸な人々の中に、発見されぬまま、幾多となく存在していたのかもしれない。それは人類の全てが進化の過程の中で圧殺してしまった能力、潜在しながら、知能という人類特有の能力の発達によって陰のものとなった能力であり、我々が総称して本能と呼ぶ広大な領域、即ち動物たちの多くが、その能力によって生存している領域のうちにあって、……もし我々がこの能力を解放する手段を発見したとき、そしてこの本質的に原始の野性と密接に結合している能力を、人類の理性によって管理せしめることが可能となったとき、我々の文明は、その様相が一変してしまうにちがいない。古来、我々にとって進化の概念とは……』」p.42
・「「バラードは、超人的能力を持った幼児なのね」とマルグリットは眉をひそめながらいった。「わがままな子供。衝動のままに行動する。現実という壁を勘定にいれて、決して回り道をしない。我慢や忍耐、延期や断念を拒絶する赤ん坊……。この彼の幼児的(アンファンティール)な<退行>をどうやって防いだらいいのかしら」 「<退行>じゃないと思います」とわたしはいった。「バラードの場合は……」 「では、どう説明するの、あなたは」と彼女は尋ねた。 「系統発生的に我々とはちがう進化の道をたどりつつある新人類の一つの変異型ではないかと考えるのです」 マルグリットは沈黙した。」p.48
・「悪魔や魔女伝説にまつわる様々な記録は、その時代の人々にとって単なる妄想や空想の産物だけだったか。口伝えに伝えられているうちに、多くの歪曲と脚色がなされたとしても、その原形は事実的な何かから発生したのではなかっただろうか。たとえば空とぶ魔女の原型は……」p.50
・「「ぼくのいいたいのは、そういった魔女裁判批判のことじゃないんだ。あの裁判は、中世、近世史を通じて、人間の狂気の産物だったと思う。たしかに、妖術にしろ魔女にしろ、99%までは、病める者たちの想像上の産物であり、幻覚であり、錯覚であったはずだ。だが仮りにだが、1%でも事実が含まれていなかっただろうか。夜空をとぶ魔女が本当にいたのではなかったのか。また姿なき悪魔によって、実際に女が妊娠させられたことがあったのではないか……」」p.52
●『緑の太陽』
・「競りは、決して活気のあるものではなかった。それでも、最低値30カノンからはじまった競りは、徐々にあがっていった。この溝の中の強姦殺人屍体は、現場の保存状況からいって、かなり価値あるものにちがいなかった。」p.73
・「きっと、彼女は、採取作業をはじめる前に、<現場>の状況を点検し、場合によっては修正を加える必要があるかだうかを、考えているのだ。が、女はやがて<現場>の保存が完璧であることに満足した様子だった。わたしが調べてきた屍体芸術の知識によると、現実感(リアリティ)が必須の条件となるらしいのだ。ほんの少しでも局外者に荒されると、値打ちが、キズ物としてさがってしまう……。」p.75
・「表現のテクニックは見事だった。死の決定的な瞬間が、再現されていた。そして、<固定>されていた。 屍体芸術の最高の秘技が、そこにあった。ナンシーは、氏の瞬間以来、永遠化されているのだ。時間はそこで停止する。時間と共に化石化したのだ……。」p.78
●『大いなる正午』
・「《お前たちの種族は、時間を空間化して考える癖があるようだな。たとえば、時計という面白い道具があるらしい。それは、お前たち種族には、時間を直接知覚する感覚器官が発達していないためなのだろう。だが、空間は知覚できるらしい。それ故、お前たちは時計という道具を造りだした。時間を空間的なものに翻訳し、空間化して知覚するという方法を思いついた》」p.147
・「その男の空間と時間の理論、生命と物質、純粋持続の概念など、またそれに続く後代の思想家たち、たとえばフッサールなど現象学派に属する連中なども、所詮はお前たち種族の生物学的能力の限界が、その存在論の大前提としてあったことを疑いもしなかったようだな。といっても、お前たち種族の宇宙的地位から言って同情すべき点はあったが……、としても、精緻を極めたそうした思想体系も、結局は知覚能力の限界とともに、限定された真理に過ぎなかった」p.148
・「しかし、われら<ハ>族にとっては、時間は有限なのだ。有限であるばかりか、時は加工し得るもの、裁断し、分割しそして集結させ得るもの、それより巨大なエネルギーをも掘り出し得るものなのだ。つまり、君たちの文明が物質を基礎に置いて成り立っているように、われわれに在っては、時こそが基本単位であるのだ」p.149
・「秘渓の峡で、こうして行なわれた異なる世界の種族の邂逅は、ヒトに大いなる智慧をさずけたようであった。彼には、<ニ>の<ウ>と、ヒトの<亜>世界とは、共に同一の法(ダルマ)によって律せられているようにも思えた。」p.153
・「それは<ニ>の上にいるもの、その越者の深遠にして計り知ることのできぬ設計意図より為されているようにも思われた。 というのも、ヒトはその過去において拾い読みした啓蒙哲学書の記憶をたどりながら、ライプニッツを思い浮かべていたからである。そのほとんど同時代人であるスピノザが、神を唯一原因として演繹して壮大無比の大ピラミッドを体系化したのに対し、この男は窓のないモナドより出発して、神の帰納的照明を試みた。その幾つかの教説の、最後の予定調和説――、そこで彼は神の設計意図を想定している!」p.155
・「《それは何だ。いや、ちょっと待て。大いなる正午! そうだ、<ニ>よ、おれも思い出したぞ。それは、おれたちの近代に在って超人を夢みた一人の夢想家の念頭に啓示された想念であった。『神は死んだ』と街頭で叫んで狂人扱いにされた男だ。権力の意志を志向して宇宙的巨人たらんとした男……! その名は<ニ>ーチェ……。ディオニソス的生成流転する宇宙の真相を直視できた哲人だ。ピラミッド状にそそり立つひとつの巨岩、その名を橄欖(かんらん)山と言った。ある日突然に、彼はこの山に対峙してその啓示を受けたといわれる。そうか、<亜>の硬さはかの橄欖山の硬さだったのか。それは偶然の暗号だのか、それとも何者かが彼に啓示を与えたのであろうか……。そして、あの "ツァラトゥストラ" の中に唱われる永劫回帰の歌……夜半の鐘が遠く十二度響きわたるとき、その回帰を主題とする "ツァラトゥストラ" の第三部は閉じられる――。『苦痛は言う、滅び行け、と。さあれ、すべての快楽は永劫を冀(ねが)う――!――深き深永劫を冀う――!』と》」p.164
●『柔らかい時計』
・「火星症研究家として著名な<火星のウエルズ>の報告書によると、火星の住民三万人の全数つまり百%が、地球の尺度でいう発狂状態にあるという。いわば、この惑星全体が、一種の気狂い病院というわけで、<ウエルズ>にいわせると、地球側の精神医学研究者にとって火星は、研究対象の宝庫なのだそうだ。殊に、最新の学問的傾向、比較社会学的生態学、社会的異常生態学(ソーシャル・アブノーマル)の分野からは、火星こそ絶好の惑星社会だと主張されている。」p.175
・「その時はじめて<ワタシ>はあの<柔らかい時計>というやつを見たのだった。 イシャウッド教授が、何気なく机の縁に置いた時計だった。 「珍しい時計ですね」と私は目を丸くして叫んだ。 「これですか、私の発明した新蛋白質で造ったものです」と教授はいった。「ちゃんと動いて時を刻みますよ。温度をうんと上げれば、チョコレートのように溶けてしまいますが、常温ではほらこの通り」 なるほど、柔らかい。それは、サルバドール・ダリの有名なあの絵のように、机の縁で、重力の法則通り折れまがって、だらり、下へ垂れ下がっていた。」p.183
・「サルバドール・ダリと松葉杖の特別な心理学的関係のことを、<ワタシ>は知っていた。屋根裏部屋の物置の中で、使い古したそれを見たとき、彼は衝動的に、一緒にいた女を足腰のたたぬほどぶちのめしたという逸話がある。そして、この松葉杖はダリの絵の中にしばしば現われる。これこそサルバドール・ダリの目指す柔らかい世界を支えるつっかい棒として必要な象徴的な小道具でもあった。」p.190
・「「私は、朝から鱈腹食べるたちでしてね」といいながら、<ダリ>氏は召使いから鉄皿の上でまだジュウジュウ音をたてて焼けている目覚し時計を受けとった。 時計は変形して、だらりと皿の縁までひろがっていたが、まだ動いていた。 <ダリ>氏は、それめがけて、息の根をとめるようにフォークをつき刺し、ナイフで刻みはじめた。喜悦のために顔はくしゃくしゃに変形していた。」p.195
・「つまりこういうことなのだ。柔らかい時計を摂取したために誘発された彼の嗜食症的傾向が顕在的な力を得、火星の時間を食い、その旺盛な主観的消化液が客観的時間を胃袋の中で消化改変し<排泄>しているのだ。きっとそうにちがいなかった。この火星の時空構造は脆弱だ。<ダリ>氏の強力な消化液なら容易に影響されうる性質のものだった。」p.198
●『トロピカル』
・「人間は自分をとりまく "世界" の絶対性を信じて安定している動物だ。価値観とか法則性とか信念体系とかいうものによりかかって安住しているのだ。」p.261
・「いまぼくが信じている仮設が正しければ、ぼく自身を含めてこの "世界" は、心霊子(プシコン)的世界であるのだろう。この "世界" の構成物質は、心霊子という非物質的粒子によってできあがっているのかもしれない。時間旅行者の肉体がタキオン化つまり心霊子的存在になっているのではないかという学説をどこかできいたような気もする……。」p.271
●『大いなる失墜』
・「Kはぼんやりと赤外線を放つこの地球軌道上に建造された中空の巨大な新しい天体を夢想していた……。もし、このような大天球ができたとき、人類は真の楽園をうるのであると。そのときまでに人類は変革され、この新しい天地に適応し、飢えることもなくこの空間を遊歩するのであると……。」p.333
・「巨大という意味が、何であったかということをKは悟っていた。まさしく、それとしかいいようのないそれは、そこに存在していたのだ。Kは、存在ということの重さを、重みとしてずっしりと悟った。あるのだ。まさに在るのだった。あるというのは、こういう存在のあり方を指していうのだ。Kは、あるということが、これほどまでに、おそろしいものだとは、今まで知らなかった。いまや木星は、空をおおいつくしていた。限りない広がりの大部分をおおいつくしているのであった。」p.336
・人間の精神世界を主題にした妄想系SF短編集。六編収録。「SFなんて皆、妄想じゃないか」と思われるかもしれませんが、作中の登場人物が妄想するという意味での "妄想系" です。あまり一般受けはしなさそうですが、私的にはひさびさド真ん中ストライクの作品でした。まだこんな未知の凄い作家がいたとは。どうしてこれまで私のアンテナに引っかからなかったのか不思議に思い、著作リストを見てみると、どうも私があまり手を出さない娯楽小説(?)の作品を主に書いているためのようです。
・巻末には何故か丁寧な、『自筆個人年譜』と『書誌総目録』付き。
・2009年【読書記録】印象に残った本暫定第1位! ……なのに現在絶版中。
●『白壁の文字は夕日に映える』
・「「そうね。わたしたちの患者よりも、あなた方の馬やアメリカ人の飼っているイルカの方が、はるかに優れているといいたいのでしょう。でもね、……」突然マルグリットは今にも泣き出しそうなくらい真剣な表情をわたしにむけた。「彼らは人間なのよ。わたしたちの同胞なのよ」 「単に、人間の型をしたけものといえませんか」 マルグリットが本気で怒ったのはその瞬間だった。マルグリットが蒼ざめた。 確かにわたしのいい方は悪かった。だが、わたしの言い方の方が現実的なのだ。わたしは、自分のいい分を訂正しなかった。残酷だったが、正しいのだ。」p.15
・「遺伝工学の研究がわたしたちの研究と協力しあえば、IQ50程度のコンパクトな象さえが、街を歩きまわる日も不可能ではないのだ。」p.16
・「<魔女の槌>という妖術裁判の手引書の存在を教えられたのもこの本だった。<魔女の槌>は十五世紀末に書かれたおそるべき魔女研究の書だった。わたしも思うが、この著書ほど、合理的で論理的な外見をとった独断が、ある邪悪な目的のために駆使された例は数えるほどしかない。」p.23
・「わたしは静かにマルコフにいった。「彼だって、課題を解決したぜ、見事に。将しく身体的能力によって……。知的な能力によらずしてね」(中略)もし人類が、進化の過程で、翼を手に入れたとしたら、飛行機は発明されなかっただろう。人類は空をとぶために、知的能力の助けを必要としないのだ。もし、わたしの仮説が正しいとすれば、バラードにとって、知的能力は不要だった。 バラードに知能はいらないのだ。」p.35
・「――『ナンシー・メイヤーソンのような超能力者は、これまで我々精神医学界が看過してきた空白の領域、精神薄弱者といわれる不幸な人々の中に、発見されぬまま、幾多となく存在していたのかもしれない。それは人類の全てが進化の過程の中で圧殺してしまった能力、潜在しながら、知能という人類特有の能力の発達によって陰のものとなった能力であり、我々が総称して本能と呼ぶ広大な領域、即ち動物たちの多くが、その能力によって生存している領域のうちにあって、……もし我々がこの能力を解放する手段を発見したとき、そしてこの本質的に原始の野性と密接に結合している能力を、人類の理性によって管理せしめることが可能となったとき、我々の文明は、その様相が一変してしまうにちがいない。古来、我々にとって進化の概念とは……』」p.42
・「「バラードは、超人的能力を持った幼児なのね」とマルグリットは眉をひそめながらいった。「わがままな子供。衝動のままに行動する。現実という壁を勘定にいれて、決して回り道をしない。我慢や忍耐、延期や断念を拒絶する赤ん坊……。この彼の幼児的(アンファンティール)な<退行>をどうやって防いだらいいのかしら」 「<退行>じゃないと思います」とわたしはいった。「バラードの場合は……」 「では、どう説明するの、あなたは」と彼女は尋ねた。 「系統発生的に我々とはちがう進化の道をたどりつつある新人類の一つの変異型ではないかと考えるのです」 マルグリットは沈黙した。」p.48
・「悪魔や魔女伝説にまつわる様々な記録は、その時代の人々にとって単なる妄想や空想の産物だけだったか。口伝えに伝えられているうちに、多くの歪曲と脚色がなされたとしても、その原形は事実的な何かから発生したのではなかっただろうか。たとえば空とぶ魔女の原型は……」p.50
・「「ぼくのいいたいのは、そういった魔女裁判批判のことじゃないんだ。あの裁判は、中世、近世史を通じて、人間の狂気の産物だったと思う。たしかに、妖術にしろ魔女にしろ、99%までは、病める者たちの想像上の産物であり、幻覚であり、錯覚であったはずだ。だが仮りにだが、1%でも事実が含まれていなかっただろうか。夜空をとぶ魔女が本当にいたのではなかったのか。また姿なき悪魔によって、実際に女が妊娠させられたことがあったのではないか……」」p.52
●『緑の太陽』
・「競りは、決して活気のあるものではなかった。それでも、最低値30カノンからはじまった競りは、徐々にあがっていった。この溝の中の強姦殺人屍体は、現場の保存状況からいって、かなり価値あるものにちがいなかった。」p.73
・「きっと、彼女は、採取作業をはじめる前に、<現場>の状況を点検し、場合によっては修正を加える必要があるかだうかを、考えているのだ。が、女はやがて<現場>の保存が完璧であることに満足した様子だった。わたしが調べてきた屍体芸術の知識によると、現実感(リアリティ)が必須の条件となるらしいのだ。ほんの少しでも局外者に荒されると、値打ちが、キズ物としてさがってしまう……。」p.75
・「表現のテクニックは見事だった。死の決定的な瞬間が、再現されていた。そして、<固定>されていた。 屍体芸術の最高の秘技が、そこにあった。ナンシーは、氏の瞬間以来、永遠化されているのだ。時間はそこで停止する。時間と共に化石化したのだ……。」p.78
●『大いなる正午』
・「《お前たちの種族は、時間を空間化して考える癖があるようだな。たとえば、時計という面白い道具があるらしい。それは、お前たち種族には、時間を直接知覚する感覚器官が発達していないためなのだろう。だが、空間は知覚できるらしい。それ故、お前たちは時計という道具を造りだした。時間を空間的なものに翻訳し、空間化して知覚するという方法を思いついた》」p.147
・「その男の空間と時間の理論、生命と物質、純粋持続の概念など、またそれに続く後代の思想家たち、たとえばフッサールなど現象学派に属する連中なども、所詮はお前たち種族の生物学的能力の限界が、その存在論の大前提としてあったことを疑いもしなかったようだな。といっても、お前たち種族の宇宙的地位から言って同情すべき点はあったが……、としても、精緻を極めたそうした思想体系も、結局は知覚能力の限界とともに、限定された真理に過ぎなかった」p.148
・「しかし、われら<ハ>族にとっては、時間は有限なのだ。有限であるばかりか、時は加工し得るもの、裁断し、分割しそして集結させ得るもの、それより巨大なエネルギーをも掘り出し得るものなのだ。つまり、君たちの文明が物質を基礎に置いて成り立っているように、われわれに在っては、時こそが基本単位であるのだ」p.149
・「秘渓の峡で、こうして行なわれた異なる世界の種族の邂逅は、ヒトに大いなる智慧をさずけたようであった。彼には、<ニ>の<ウ>と、ヒトの<亜>世界とは、共に同一の法(ダルマ)によって律せられているようにも思えた。」p.153
・「それは<ニ>の上にいるもの、その越者の深遠にして計り知ることのできぬ設計意図より為されているようにも思われた。 というのも、ヒトはその過去において拾い読みした啓蒙哲学書の記憶をたどりながら、ライプニッツを思い浮かべていたからである。そのほとんど同時代人であるスピノザが、神を唯一原因として演繹して壮大無比の大ピラミッドを体系化したのに対し、この男は窓のないモナドより出発して、神の帰納的照明を試みた。その幾つかの教説の、最後の予定調和説――、そこで彼は神の設計意図を想定している!」p.155
・「《それは何だ。いや、ちょっと待て。大いなる正午! そうだ、<ニ>よ、おれも思い出したぞ。それは、おれたちの近代に在って超人を夢みた一人の夢想家の念頭に啓示された想念であった。『神は死んだ』と街頭で叫んで狂人扱いにされた男だ。権力の意志を志向して宇宙的巨人たらんとした男……! その名は<ニ>ーチェ……。ディオニソス的生成流転する宇宙の真相を直視できた哲人だ。ピラミッド状にそそり立つひとつの巨岩、その名を橄欖(かんらん)山と言った。ある日突然に、彼はこの山に対峙してその啓示を受けたといわれる。そうか、<亜>の硬さはかの橄欖山の硬さだったのか。それは偶然の暗号だのか、それとも何者かが彼に啓示を与えたのであろうか……。そして、あの "ツァラトゥストラ" の中に唱われる永劫回帰の歌……夜半の鐘が遠く十二度響きわたるとき、その回帰を主題とする "ツァラトゥストラ" の第三部は閉じられる――。『苦痛は言う、滅び行け、と。さあれ、すべての快楽は永劫を冀(ねが)う――!――深き深永劫を冀う――!』と》」p.164
●『柔らかい時計』
・「火星症研究家として著名な<火星のウエルズ>の報告書によると、火星の住民三万人の全数つまり百%が、地球の尺度でいう発狂状態にあるという。いわば、この惑星全体が、一種の気狂い病院というわけで、<ウエルズ>にいわせると、地球側の精神医学研究者にとって火星は、研究対象の宝庫なのだそうだ。殊に、最新の学問的傾向、比較社会学的生態学、社会的異常生態学(ソーシャル・アブノーマル)の分野からは、火星こそ絶好の惑星社会だと主張されている。」p.175
・「その時はじめて<ワタシ>はあの<柔らかい時計>というやつを見たのだった。 イシャウッド教授が、何気なく机の縁に置いた時計だった。 「珍しい時計ですね」と私は目を丸くして叫んだ。 「これですか、私の発明した新蛋白質で造ったものです」と教授はいった。「ちゃんと動いて時を刻みますよ。温度をうんと上げれば、チョコレートのように溶けてしまいますが、常温ではほらこの通り」 なるほど、柔らかい。それは、サルバドール・ダリの有名なあの絵のように、机の縁で、重力の法則通り折れまがって、だらり、下へ垂れ下がっていた。」p.183
・「サルバドール・ダリと松葉杖の特別な心理学的関係のことを、<ワタシ>は知っていた。屋根裏部屋の物置の中で、使い古したそれを見たとき、彼は衝動的に、一緒にいた女を足腰のたたぬほどぶちのめしたという逸話がある。そして、この松葉杖はダリの絵の中にしばしば現われる。これこそサルバドール・ダリの目指す柔らかい世界を支えるつっかい棒として必要な象徴的な小道具でもあった。」p.190
・「「私は、朝から鱈腹食べるたちでしてね」といいながら、<ダリ>氏は召使いから鉄皿の上でまだジュウジュウ音をたてて焼けている目覚し時計を受けとった。 時計は変形して、だらりと皿の縁までひろがっていたが、まだ動いていた。 <ダリ>氏は、それめがけて、息の根をとめるようにフォークをつき刺し、ナイフで刻みはじめた。喜悦のために顔はくしゃくしゃに変形していた。」p.195
・「つまりこういうことなのだ。柔らかい時計を摂取したために誘発された彼の嗜食症的傾向が顕在的な力を得、火星の時間を食い、その旺盛な主観的消化液が客観的時間を胃袋の中で消化改変し<排泄>しているのだ。きっとそうにちがいなかった。この火星の時空構造は脆弱だ。<ダリ>氏の強力な消化液なら容易に影響されうる性質のものだった。」p.198
●『トロピカル』
・「人間は自分をとりまく "世界" の絶対性を信じて安定している動物だ。価値観とか法則性とか信念体系とかいうものによりかかって安住しているのだ。」p.261
・「いまぼくが信じている仮設が正しければ、ぼく自身を含めてこの "世界" は、心霊子(プシコン)的世界であるのだろう。この "世界" の構成物質は、心霊子という非物質的粒子によってできあがっているのかもしれない。時間旅行者の肉体がタキオン化つまり心霊子的存在になっているのではないかという学説をどこかできいたような気もする……。」p.271
●『大いなる失墜』
・「Kはぼんやりと赤外線を放つこの地球軌道上に建造された中空の巨大な新しい天体を夢想していた……。もし、このような大天球ができたとき、人類は真の楽園をうるのであると。そのときまでに人類は変革され、この新しい天地に適応し、飢えることもなくこの空間を遊歩するのであると……。」p.333
・「巨大という意味が、何であったかということをKは悟っていた。まさしく、それとしかいいようのないそれは、そこに存在していたのだ。Kは、存在ということの重さを、重みとしてずっしりと悟った。あるのだ。まさに在るのだった。あるというのは、こういう存在のあり方を指していうのだ。Kは、あるということが、これほどまでに、おそろしいものだとは、今まで知らなかった。いまや木星は、空をおおいつくしていた。限りない広がりの大部分をおおいつくしているのであった。」p.336