人間にとって科学とはなにか, 湯川秀樹 梅棹忠夫, 中公新書 132, 1967年
・日本の誇る『知』の巨人、二人が、これまた巨大なテーマに挑んだ対談録。あとがきの梅棹氏の言葉に「先生は大物理学者であり、私は未完成の人類学者である。」とあるように、今でこそ『巨人』ですが、対談当時梅棹氏は47歳で『知的生産の技術』を出す前なので、今ほどの知名度は無く、世間的にはブレーク前の頃かもしれません。
・日本の文化遺産と言ってもいいのではないかというほどの内容ですが、そんな本でも現在絶版。日本の出版制度に問題があると思わずにはいられません。私が知らないだけで同様の本がたくさんあるのでしょうね。近年の新しいタイプの古本屋の出現は、そんな読者の不満をカバーするという点で意義のあることではないでしょうか。
・中国古典からの引用多数。
・「もともと私の厭世思想は老子や荘子に結びついていた。ところが老子や荘子の思想は、一方において、すぐれた自然哲学でありながら、同時に最も根源的な意味における科学否定論でも会った。好奇心などあるから、まずいことになるのだ。それを捨てなさい。情報量・交通量がふえるから、うるさいことになるのだ。隣の村との通信・交通もしない方が賢明なのだ。二千何百年か前の、こういう主張が、二十世紀後半の科学文明の中に生きる私たちにとって、他のあらゆる主張にもまして、痛烈なものになってきたのである。」p.iii
・「量子論をつくりだした物理学者マックス・プランクが、繰り返し使った言葉に、「人間からの離脱」というのがあります。」p.5
・「老子の最初に「道の道とすべきは常の道にあらず」とありますが、これを曲解すれば、――あるいは正解かも知れんが――二十世紀の物理によくあてはまる。」p.8
・「十七世紀のデカルトは、まず自明なものから出発せよといっている。だれが考えても、どうしても否定できない自明なものをまず正確に把握して、それを原理として、そこから演繹論理・形式論理を発展させ、だんだんとほかのことを理解してゆくのがよろしいのだというわけです。」p.9
・「湯川 物質とかエネルギーとかいう概念に入っていないものとして、重要なものがいろいろある。中でも、従来の物理学の領域に比較的近接しているもの、一番つながりがありそうなものは「情報」です。」p.17
・「一般的にいえば、ある一定の「知識」――この知識という概念は大変くせもので、再検討を必要とすると思いますが――とにかくある知識を所有しているものが、それを所有していないものに与える。それが情報でしょう。 もっとも一般的な形で情報に定義を与えるとすれば、これはたいへんむつかしいことになるでしょうが、私は、可能性の選択的指定作用のことだ、というようないい方も考えてみています。たとえば、われわれが日常使うような意味の情報も、実は「ああ考えられる」「こうも考えられる」というふうにさまざまな可能性があるときに、そのさまざまな可能性の中で、「実は、これがそうなんですよ」と、一つの答えを選択して与えてくれるもの、それが情報ということの、もっとも一般的な性質ではないかと、私は考えているのですが……。」p.18
・「湯川 このエントロピーというのは「だんだんと増えてゆくことはあるけれども減ることはない」という特徴をもった一種の物理量です。「際立った状態からだんだんとありふれた状態に移ってゆく傾向」を「エントロピーが増える」というふうに物理学では表現している。」p.20
・「生物というものは、存在すること自体が情報であるというところがある。「もの」であると同時に情報であるという存在です。」p.25
・「情報というものの持っている性質はいくつかあると思うのですが、一つ大事なことは、ジェネレーティブ generative だということです。生みだす力です。なにか「型」のようなものがあって、そこにものを詰めこんだら、同じものがいくらでも出てくる。そういう、ジェネレーティブな性質を持っている。」p.30
・「私の知っている限りでは、いままでの物理学は死んでいる世界の話なのですね。少なくとも生命というものを問題にする必要のない世界の話なのですね。それに対して、生物学の世界は、生命のある世界の話です。この二つがどう結びつくのか。それが長い間の問題だったわけです。」p.32
・「いまの科学は、実際のところ、人間を問題にできるようなものじゃない。」p.37
・「実は、私は、大切なのは「納得」ということだと思うのです。」p.42
・「梅棹 意味を伝えるということは、自分とは異なる情報体系をもっている他人から発せられたものを、受け手の方が、みずからの体系の中に、いかに組みこむかということでしょう。組み込み方が大事なのであって、うまく組み込めないというのは納得がゆかんということですよ。」p.47
・「梅棹 科学というものは、いろいろな人間の持っているいろいろな体系の中に、強引に新しい情報を組みこませるためにできた、かなりうまいシステムだ。科学は、一定のトレーニングを経さえすれば、だれにでもかなり大量の情報を組みこませることができるシステムです。」p.48
・「しかし文章が相当に効いてきますね。効いてくるというのは、よそに対して効くだけでなく、その人自身にとって重要なことじゃないかと思うのです。」p.49
・「梅棹 私は数の起源は動物の個体性にあると思うんです。数は物理的には出てこないのではないですか。」p.53
・「湯川 人間はイメージを非常によく利用する。とくにそれを図式化することがありますね。たとえば仏教でいうと曼陀羅。」p.62
・「いわば科学が次々と出てくるのは、人間存在の根本原理としての一種の生殖作用の延長ではないか。」p.74
・「人間はだいたい人生に目的を持っている生物です。サルはサルの生涯において、目的を持っているであろうか。これは大問題だと思うんです。」p.76
・「科学の中にも目的がある。さっきは子供を産むことに目的はないというたけれども、科学を生むことに目的はないというたけれども、やはり固有の目的、子供は生むために生むのだという固有の目的みたいなものがあって、子供はやはり上手にしっかりと生まんならん。なにかそういうことがあるように思うんです。」p.86
・「梅棹 「人間にとって科学とはなにか」を問題にするならば、対比的に「人間にとって宗教とはなにか」ということももう一つ考えてみなければならないでしょう。これを対比して考えると、科学の特徴がはっきり出てくるかもしれないと思います。」p.93
・「一つは小説を書くというのは、結局九十パーセントまで勇気の問題やね。自分の中の障害を突破して書く。これをしなきゃいかんでしょう。一種の捨身ですわね。」p.94
・「科学というのは、一種の自己拡散の原理である。自分自身をどこかへ拡散させてしまう。自分自身をなにか臼のようなものの中に入れて、杵でこなごなに砕いて粒子にしてしまう。それを天空に向って宇宙にばらまくような、そういう作業だということです。自分という統一体をなくしてしまう。」p.95
・「科学がそういう迂遠な理論に走って日常性を欠いていることに対して、非常に強い批判が一方では出てくるけれども、その批判に対して科学は必ずしも直接的な答えを出せないと思うんです。どっか離れたところがある。」p.97
・「梅棹 もし「人間にとって科学とはなにか」という問いかけが、科学の直接の応用とか、どういう効果をもたらすのかということを問題にしているのだとすれば、科学というものは本質的に無意味なものだという答を出さざるを得ないことになりかねないと思うんです。」p.98
・「湯川 科学者をつき動かしているのは、これは、やはり執念ですね。」p.103
・「梅棹 自分自身を客観化する、あるいは関係それ自体を客観化してゆくことが事実起こりつつある。「関係」を対象とする科学が出てくるかも知れません。」p.125
・「湯川 最近、科学の客観化、相対化という傾向がいちじるしくなっているように思えるのです。科学が絶対的なものでないという意識が強くなった。」p.126
・「科学はつねにわからんことを前提にして成り立っている。わからんことがいつでもたくさんある。ところが宗教は、原則としてわからんことがないんです。宗教には、初めにまず説明があると思うのです。科学は、なんでも説明するものだというふうに一般に考えられているけれども、逆なんですね。宗教こそ、なんでも説明する。その説明が宗教への確信を支えている。科学は、なにか確信的でない。科学というのはつねに疑惑にみちた思想の体系なんですね。」p.128
・「当為性というのは、一種の変圧作用です。変圧器が作用するんです。そこでボルテージが上がりよる、生命のボルテージが。生命の流れという全体を全体にした上で、自分のところで変圧器を使うて、そのすべてのエネルギーをこの一点に凝縮して、ボルテージを高めるということです。それが「生きている」ということの一つの内容です。 科学はこれとは違います。「当為」に対する「認識」、これは科学の本質でしょう。(中略)「当為」は自己凝縮の原理、「認識」は自己拡散の原理です。」p.135
・「科学というものは、社会的にいえばある特殊な階層の人、個人でいえば特殊なアドベンチャラーズ、精神的アドベンチャラーズの独占物ではなくなってきた。大衆科学時代にきている。それと同時に、科学がもともと持っていた野性味みたいなものも、また失われつつある。科学の創造力が弱ってくるということかもしれない。」p.141
・「アヘンは非常に不完全なくすりで弊害の方が大きくてだめですが、将来、もっと手のこんだ楽しいくすりがいろいろ出てくるでしょうね。いまはビタミンとかホルモンとか飲むけれども、そんなのよりも、人間の心理状態に非常にうまい影響を及ぼすようなものの方が盛んになるかもしれない。」p.152
・「そういうところまでゆきますと、人間に生き方の問題というのは主観の問題か、客観の問題か、むつかしいことになる。人間は社会的な存在ですから、主観だけですむかどうか知りませんよ。しかし、私は最後は主観が勝つのじゃないかと思う。心理的なものの方が強いのじゃないかと思う。そこに一種の「絶対」が出てくる。自分が思いこんでしまったら万事解決、おしまいじゃないか。」p.152
・「梅棹 科学は目的があってはじまったものではない。できてしもうたもので、だからそういう意味では非常に根元的、生命的なものです。人工物と考えては間違うと思うな。」p.154
・「これは、科学の本質についてつねから考えをめぐらせている二人の科学者の、いわば内省の記録であるといってよいであろうか。」p.172
・「その点、この対談は、きれいごとの科学論ではおわっていない。できあがったものとしての科学の紹介や解説ではなくて、科学を生みだす原動力になっているもの、科学者の心の中にあるドロドロしたものに、いくらかはふれることができたかと思う。」p.173
・「科学者はしばしば自覚しない科学至上主義者である。科学者の書く科学論は、だから、多くの場合、科学の栄光をたたえ、科学の教えをとくことに終始してしまうのである。」p.174
・「そもそもいままで科学者が、「人間にとって科学とはなにか」と問うことはなかったのではないだろうか。科学は、むしろ人間をこえた存在であり、超越的な、神にも似た存在ではなかっただろうか。そういう意味では、ここに「人間にとって」の科学の意味を、あらためて問うているというのは、「科学の人間化」のこころみといえるのかもしれない。」p.175
?とうい【当為】(ドイツSollenの訳語)哲学で、現に存在すること、必然的であること、またはありうることに対して、かくあるべし、かくすべしとしてその実現が要求されること。カントでは、至上命令としてかくすべしと命ずる定言命法を意味するが、目的論的倫理学では、望ましい目的や価値を実現するための手段としてなすべき行為をさす。
・日本の誇る『知』の巨人、二人が、これまた巨大なテーマに挑んだ対談録。あとがきの梅棹氏の言葉に「先生は大物理学者であり、私は未完成の人類学者である。」とあるように、今でこそ『巨人』ですが、対談当時梅棹氏は47歳で『知的生産の技術』を出す前なので、今ほどの知名度は無く、世間的にはブレーク前の頃かもしれません。
・日本の文化遺産と言ってもいいのではないかというほどの内容ですが、そんな本でも現在絶版。日本の出版制度に問題があると思わずにはいられません。私が知らないだけで同様の本がたくさんあるのでしょうね。近年の新しいタイプの古本屋の出現は、そんな読者の不満をカバーするという点で意義のあることではないでしょうか。
・中国古典からの引用多数。
・「もともと私の厭世思想は老子や荘子に結びついていた。ところが老子や荘子の思想は、一方において、すぐれた自然哲学でありながら、同時に最も根源的な意味における科学否定論でも会った。好奇心などあるから、まずいことになるのだ。それを捨てなさい。情報量・交通量がふえるから、うるさいことになるのだ。隣の村との通信・交通もしない方が賢明なのだ。二千何百年か前の、こういう主張が、二十世紀後半の科学文明の中に生きる私たちにとって、他のあらゆる主張にもまして、痛烈なものになってきたのである。」p.iii
・「量子論をつくりだした物理学者マックス・プランクが、繰り返し使った言葉に、「人間からの離脱」というのがあります。」p.5
・「老子の最初に「道の道とすべきは常の道にあらず」とありますが、これを曲解すれば、――あるいは正解かも知れんが――二十世紀の物理によくあてはまる。」p.8
・「十七世紀のデカルトは、まず自明なものから出発せよといっている。だれが考えても、どうしても否定できない自明なものをまず正確に把握して、それを原理として、そこから演繹論理・形式論理を発展させ、だんだんとほかのことを理解してゆくのがよろしいのだというわけです。」p.9
・「湯川 物質とかエネルギーとかいう概念に入っていないものとして、重要なものがいろいろある。中でも、従来の物理学の領域に比較的近接しているもの、一番つながりがありそうなものは「情報」です。」p.17
・「一般的にいえば、ある一定の「知識」――この知識という概念は大変くせもので、再検討を必要とすると思いますが――とにかくある知識を所有しているものが、それを所有していないものに与える。それが情報でしょう。 もっとも一般的な形で情報に定義を与えるとすれば、これはたいへんむつかしいことになるでしょうが、私は、可能性の選択的指定作用のことだ、というようないい方も考えてみています。たとえば、われわれが日常使うような意味の情報も、実は「ああ考えられる」「こうも考えられる」というふうにさまざまな可能性があるときに、そのさまざまな可能性の中で、「実は、これがそうなんですよ」と、一つの答えを選択して与えてくれるもの、それが情報ということの、もっとも一般的な性質ではないかと、私は考えているのですが……。」p.18
・「湯川 このエントロピーというのは「だんだんと増えてゆくことはあるけれども減ることはない」という特徴をもった一種の物理量です。「際立った状態からだんだんとありふれた状態に移ってゆく傾向」を「エントロピーが増える」というふうに物理学では表現している。」p.20
・「生物というものは、存在すること自体が情報であるというところがある。「もの」であると同時に情報であるという存在です。」p.25
・「情報というものの持っている性質はいくつかあると思うのですが、一つ大事なことは、ジェネレーティブ generative だということです。生みだす力です。なにか「型」のようなものがあって、そこにものを詰めこんだら、同じものがいくらでも出てくる。そういう、ジェネレーティブな性質を持っている。」p.30
・「私の知っている限りでは、いままでの物理学は死んでいる世界の話なのですね。少なくとも生命というものを問題にする必要のない世界の話なのですね。それに対して、生物学の世界は、生命のある世界の話です。この二つがどう結びつくのか。それが長い間の問題だったわけです。」p.32
・「いまの科学は、実際のところ、人間を問題にできるようなものじゃない。」p.37
・「実は、私は、大切なのは「納得」ということだと思うのです。」p.42
・「梅棹 意味を伝えるということは、自分とは異なる情報体系をもっている他人から発せられたものを、受け手の方が、みずからの体系の中に、いかに組みこむかということでしょう。組み込み方が大事なのであって、うまく組み込めないというのは納得がゆかんということですよ。」p.47
・「梅棹 科学というものは、いろいろな人間の持っているいろいろな体系の中に、強引に新しい情報を組みこませるためにできた、かなりうまいシステムだ。科学は、一定のトレーニングを経さえすれば、だれにでもかなり大量の情報を組みこませることができるシステムです。」p.48
・「しかし文章が相当に効いてきますね。効いてくるというのは、よそに対して効くだけでなく、その人自身にとって重要なことじゃないかと思うのです。」p.49
・「梅棹 私は数の起源は動物の個体性にあると思うんです。数は物理的には出てこないのではないですか。」p.53
・「湯川 人間はイメージを非常によく利用する。とくにそれを図式化することがありますね。たとえば仏教でいうと曼陀羅。」p.62
・「いわば科学が次々と出てくるのは、人間存在の根本原理としての一種の生殖作用の延長ではないか。」p.74
・「人間はだいたい人生に目的を持っている生物です。サルはサルの生涯において、目的を持っているであろうか。これは大問題だと思うんです。」p.76
・「科学の中にも目的がある。さっきは子供を産むことに目的はないというたけれども、科学を生むことに目的はないというたけれども、やはり固有の目的、子供は生むために生むのだという固有の目的みたいなものがあって、子供はやはり上手にしっかりと生まんならん。なにかそういうことがあるように思うんです。」p.86
・「梅棹 「人間にとって科学とはなにか」を問題にするならば、対比的に「人間にとって宗教とはなにか」ということももう一つ考えてみなければならないでしょう。これを対比して考えると、科学の特徴がはっきり出てくるかもしれないと思います。」p.93
・「一つは小説を書くというのは、結局九十パーセントまで勇気の問題やね。自分の中の障害を突破して書く。これをしなきゃいかんでしょう。一種の捨身ですわね。」p.94
・「科学というのは、一種の自己拡散の原理である。自分自身をどこかへ拡散させてしまう。自分自身をなにか臼のようなものの中に入れて、杵でこなごなに砕いて粒子にしてしまう。それを天空に向って宇宙にばらまくような、そういう作業だということです。自分という統一体をなくしてしまう。」p.95
・「科学がそういう迂遠な理論に走って日常性を欠いていることに対して、非常に強い批判が一方では出てくるけれども、その批判に対して科学は必ずしも直接的な答えを出せないと思うんです。どっか離れたところがある。」p.97
・「梅棹 もし「人間にとって科学とはなにか」という問いかけが、科学の直接の応用とか、どういう効果をもたらすのかということを問題にしているのだとすれば、科学というものは本質的に無意味なものだという答を出さざるを得ないことになりかねないと思うんです。」p.98
・「湯川 科学者をつき動かしているのは、これは、やはり執念ですね。」p.103
・「梅棹 自分自身を客観化する、あるいは関係それ自体を客観化してゆくことが事実起こりつつある。「関係」を対象とする科学が出てくるかも知れません。」p.125
・「湯川 最近、科学の客観化、相対化という傾向がいちじるしくなっているように思えるのです。科学が絶対的なものでないという意識が強くなった。」p.126
・「科学はつねにわからんことを前提にして成り立っている。わからんことがいつでもたくさんある。ところが宗教は、原則としてわからんことがないんです。宗教には、初めにまず説明があると思うのです。科学は、なんでも説明するものだというふうに一般に考えられているけれども、逆なんですね。宗教こそ、なんでも説明する。その説明が宗教への確信を支えている。科学は、なにか確信的でない。科学というのはつねに疑惑にみちた思想の体系なんですね。」p.128
・「当為性というのは、一種の変圧作用です。変圧器が作用するんです。そこでボルテージが上がりよる、生命のボルテージが。生命の流れという全体を全体にした上で、自分のところで変圧器を使うて、そのすべてのエネルギーをこの一点に凝縮して、ボルテージを高めるということです。それが「生きている」ということの一つの内容です。 科学はこれとは違います。「当為」に対する「認識」、これは科学の本質でしょう。(中略)「当為」は自己凝縮の原理、「認識」は自己拡散の原理です。」p.135
・「科学というものは、社会的にいえばある特殊な階層の人、個人でいえば特殊なアドベンチャラーズ、精神的アドベンチャラーズの独占物ではなくなってきた。大衆科学時代にきている。それと同時に、科学がもともと持っていた野性味みたいなものも、また失われつつある。科学の創造力が弱ってくるということかもしれない。」p.141
・「アヘンは非常に不完全なくすりで弊害の方が大きくてだめですが、将来、もっと手のこんだ楽しいくすりがいろいろ出てくるでしょうね。いまはビタミンとかホルモンとか飲むけれども、そんなのよりも、人間の心理状態に非常にうまい影響を及ぼすようなものの方が盛んになるかもしれない。」p.152
・「そういうところまでゆきますと、人間に生き方の問題というのは主観の問題か、客観の問題か、むつかしいことになる。人間は社会的な存在ですから、主観だけですむかどうか知りませんよ。しかし、私は最後は主観が勝つのじゃないかと思う。心理的なものの方が強いのじゃないかと思う。そこに一種の「絶対」が出てくる。自分が思いこんでしまったら万事解決、おしまいじゃないか。」p.152
・「梅棹 科学は目的があってはじまったものではない。できてしもうたもので、だからそういう意味では非常に根元的、生命的なものです。人工物と考えては間違うと思うな。」p.154
・「これは、科学の本質についてつねから考えをめぐらせている二人の科学者の、いわば内省の記録であるといってよいであろうか。」p.172
・「その点、この対談は、きれいごとの科学論ではおわっていない。できあがったものとしての科学の紹介や解説ではなくて、科学を生みだす原動力になっているもの、科学者の心の中にあるドロドロしたものに、いくらかはふれることができたかと思う。」p.173
・「科学者はしばしば自覚しない科学至上主義者である。科学者の書く科学論は、だから、多くの場合、科学の栄光をたたえ、科学の教えをとくことに終始してしまうのである。」p.174
・「そもそもいままで科学者が、「人間にとって科学とはなにか」と問うことはなかったのではないだろうか。科学は、むしろ人間をこえた存在であり、超越的な、神にも似た存在ではなかっただろうか。そういう意味では、ここに「人間にとって」の科学の意味を、あらためて問うているというのは、「科学の人間化」のこころみといえるのかもしれない。」p.175
?とうい【当為】(ドイツSollenの訳語)哲学で、現に存在すること、必然的であること、またはありうることに対して、かくあるべし、かくすべしとしてその実現が要求されること。カントでは、至上命令としてかくすべしと命ずる定言命法を意味するが、目的論的倫理学では、望ましい目的や価値を実現するための手段としてなすべき行為をさす。