科学の哲学, 柳瀬睦男, 岩波新書(黄版)260, 1984年
・著者による、科学と哲学をテーマにした『科学基礎論』という講義を基にしてまとめた本。理系だけではなく文系の学生も広く対象にしていた授業とあって、その言葉は平易なものです。しかし、そこで語られる概念は歯ごたえあり。
・「「物とは何か」の質問は、まず物質の構造を問題にしています。しかし構造だけでなく、本質は何かを問題にしています。 また「変化とは何か」という問題から法則の発見がひき出されてきます。(中略)そして面白いことは、この変化とは何かを追求している間に、これとちょうど反対の問題である「変化しないものは何か」、「変化しないとはどういうことか」という問題を考えることになりました。」p.4
・「現在の物理学を一言でいえば、エネルギーの学問であるといえそうです。 「エネルギーとは何か」という問いかけは、「物の本質は何か」ということにつながってきます。そして、それと同時に、第二の問いかけである「物はどういうふうに変化するか」に対しても、今のところ根本的な答えとなっています。 「物の本質は何か」――「エネルギーである」。 「変化は何か」――「エネルギーがいろいろな状態に変わることである」。」p.27
・「相対性理論の重要さは、もちろん、ローレンツ変換、時間と空間の相対性を示した点で大切ですけれども、エネルギーという考え方から見て、物質がエネルギーであるということをはっきり数量的に示した点が最も重要な結論かもしれません。」p.34
・「前に述べたように、これはギリシアの昔からの哲学の根本問題でした。万物は全部変わるか、全く変わらないのか。それに対して、変わるものと変わらないものがあるから、変わるという言葉が意味をもつというわけです。」p.37
・「エネルギーの役割の大切な点は、いろいろな物理学の基本法則の適用限界を決めるということです。だいたい物理学の基本方程式は三つか四つしかありません。古典力学の基本方程式、電磁気学の基本方程式、相対性理論の基本方程式、それから量子力学の基本方程式の、だいたいこの四種類で全部話が尽きます。」p.39
・「エネルギーを考えるときに、まだよく分からない領域は、依然として「生き物」です。基本的には、結局、原子で全部話はつくはずです。なぜかといいますと、「生物」は炭素をもとにした原子の複雑な構成から成っているからです。ところが不思議なことには、これだけを使っても分からないことが「生物」の中にたくさんあるのです。」p.41
・「生物はエントロピーの増大の法則に反するようなことを、日常茶飯事としておこなっています。これはなぜでしょうか。」p.43
・「データとはラテン語で「与えられた物」という意味です。自然から与えられた材料。」p.72
・「特に量子力学をやると、いつでも i と π は一緒にくっついて出てきます。それは一体どういうことか。円運動が、すべての運動の基本にあるからだと思います。」p.100
・「ですから、論理学は、抽象的な、わけの分からない式を扱っているようですけれども、実際の生活の中に案外役に立ちます。会議をしたり、相談したりする時に、このことを頭においておけば、時間の節約にもなりますし、また、いろいろと活用もできる。」p.117
・「演繹というのは、ある一つの命題があった時に、その命題から必然的に導き出されるような結論を導き出すことです。帰納というのは逆に、経験的に知られたある命題があった時に、その命題をいくつか集めて、その命題の中に共通している結論は何か、その命題のどれにもあてはまるような共通の結論がないかを考えていく推論の仕方です。」p.119
・「自然科学ではっきりと規定される言葉だけを使っていますと、理論をつくることができない。どうしても日常言語――自由に変えることのできる柔軟な言葉――でないとできないのです。科学言語で科学理論をつくるという試みは、意図としてはよかったのですが、今のところは結局失敗に終っています。」p.122
・「だから、心理学の場合には、二値論理だけでデータを処理すると実情に合わないという考え方が出てくるのです。しかし、それでも、最後は全部二値論理を基礎において考えておかないと、意味のある命題が一つも出てこないという結果になります。」p.137
・「日常生活で真理と認めているものを、無条件に自然科学でも認めると、いろいろ不都合が起こる。」p.153
・「有限回の現象の一致がなぜ無限回の現象との一致になるか、つまりその法則が不変である、いつでもどこでも成り立つということを、どうして保障できるかという問題ですね。それがこの存在的な真理の一つの根本的な問題、そして自然法則の真理性の根本的な問題です。」p.157
・「いずれにしても、経験論的な立場に立っても、ある原理は少なくとも認めないと学問的な体系にならないということは分かりますね。少なくとも論理的な意味での矛盾の原理を認めなければ、この経験論的な立場でも法則というものは認められない。それから斉一性の原理も認めなければ法則は出てこない。因果性の原理については、現象面にあらわれてくるデータの処理に関しては、因果性の原理を認めなければ規則をつくりあげることはできないのです。そして前にもいったように、実際の自然科学の現場では、哲学的な立場がどうであろうと、素朴実在論の立場を認めなければ仕事ができない。従って、その基礎にある原理を認めざるを得ないはずです。」p.169
・「懐疑論者は次のように主張します。『「白墨が今ここに在る」という言明は、触覚なり視覚なりを起こした対象が外にあり、その対象が原因となってある結果を私の中に及ぼしたから、われわれはその結果から原因を推測しているにすぎない。目で見た感覚とか、さわった感覚とかを総合した感覚の原因として、ここに何かがあるという推論をしているから、ここに白墨が在ると言っているのであり、何ら自明(trivial)なことではない、つまり、「白墨が今ここに在る」という言明は、直接経験ではないから、それほど自明ではない』というのです。」p.174
・「結局、わたしの言いたいことは、こういう懐疑主義の立場をとってもどこかでそれも破れるだろうということです。少なくとも考えている自分についての懐疑を、徹底させることができないということです。」p.182
・「ところでわれわれにとってもっと大切なのは、その基礎を探って自然科学の真理性を哲学的に確かめることです。まず、われわれが自分の自我を認めること。自意識の中で、あるいはわれわれの指向が外に向いているときだけではなくて、こんどは内側へ戻ってきたときに、自分自身を認めること。そこから自分自身の体と外界――目に見えるものだけでなく、見えないものも含めて――を認めること。それは哲学的には実在論の立場です。そういう態度がやはり、一番われわれにとって健全な態度ではないのか。」p.189
・「自然科学が何故正しい自然の理解を私達に示すといえるのか、何故圧倒的な応用性を持ち、人類全体の生活のすみずみまで支配するほどの力を発揮しているのか、その根拠をさぐり、私なりに、実在論的な立場から、基礎付けをこころみたものです。 個々の知識を学びとるよりも、どのような問題があり、どんな道具立てが使われているのか等の基本的なことがらへの関心と刺激が得られれば本書の目的は果たされます。」p.194
・著者による、科学と哲学をテーマにした『科学基礎論』という講義を基にしてまとめた本。理系だけではなく文系の学生も広く対象にしていた授業とあって、その言葉は平易なものです。しかし、そこで語られる概念は歯ごたえあり。
・「「物とは何か」の質問は、まず物質の構造を問題にしています。しかし構造だけでなく、本質は何かを問題にしています。 また「変化とは何か」という問題から法則の発見がひき出されてきます。(中略)そして面白いことは、この変化とは何かを追求している間に、これとちょうど反対の問題である「変化しないものは何か」、「変化しないとはどういうことか」という問題を考えることになりました。」p.4
・「現在の物理学を一言でいえば、エネルギーの学問であるといえそうです。 「エネルギーとは何か」という問いかけは、「物の本質は何か」ということにつながってきます。そして、それと同時に、第二の問いかけである「物はどういうふうに変化するか」に対しても、今のところ根本的な答えとなっています。 「物の本質は何か」――「エネルギーである」。 「変化は何か」――「エネルギーがいろいろな状態に変わることである」。」p.27
・「相対性理論の重要さは、もちろん、ローレンツ変換、時間と空間の相対性を示した点で大切ですけれども、エネルギーという考え方から見て、物質がエネルギーであるということをはっきり数量的に示した点が最も重要な結論かもしれません。」p.34
・「前に述べたように、これはギリシアの昔からの哲学の根本問題でした。万物は全部変わるか、全く変わらないのか。それに対して、変わるものと変わらないものがあるから、変わるという言葉が意味をもつというわけです。」p.37
・「エネルギーの役割の大切な点は、いろいろな物理学の基本法則の適用限界を決めるということです。だいたい物理学の基本方程式は三つか四つしかありません。古典力学の基本方程式、電磁気学の基本方程式、相対性理論の基本方程式、それから量子力学の基本方程式の、だいたいこの四種類で全部話が尽きます。」p.39
・「エネルギーを考えるときに、まだよく分からない領域は、依然として「生き物」です。基本的には、結局、原子で全部話はつくはずです。なぜかといいますと、「生物」は炭素をもとにした原子の複雑な構成から成っているからです。ところが不思議なことには、これだけを使っても分からないことが「生物」の中にたくさんあるのです。」p.41
・「生物はエントロピーの増大の法則に反するようなことを、日常茶飯事としておこなっています。これはなぜでしょうか。」p.43
・「データとはラテン語で「与えられた物」という意味です。自然から与えられた材料。」p.72
・「特に量子力学をやると、いつでも i と π は一緒にくっついて出てきます。それは一体どういうことか。円運動が、すべての運動の基本にあるからだと思います。」p.100
・「ですから、論理学は、抽象的な、わけの分からない式を扱っているようですけれども、実際の生活の中に案外役に立ちます。会議をしたり、相談したりする時に、このことを頭においておけば、時間の節約にもなりますし、また、いろいろと活用もできる。」p.117
・「演繹というのは、ある一つの命題があった時に、その命題から必然的に導き出されるような結論を導き出すことです。帰納というのは逆に、経験的に知られたある命題があった時に、その命題をいくつか集めて、その命題の中に共通している結論は何か、その命題のどれにもあてはまるような共通の結論がないかを考えていく推論の仕方です。」p.119
・「自然科学ではっきりと規定される言葉だけを使っていますと、理論をつくることができない。どうしても日常言語――自由に変えることのできる柔軟な言葉――でないとできないのです。科学言語で科学理論をつくるという試みは、意図としてはよかったのですが、今のところは結局失敗に終っています。」p.122
・「だから、心理学の場合には、二値論理だけでデータを処理すると実情に合わないという考え方が出てくるのです。しかし、それでも、最後は全部二値論理を基礎において考えておかないと、意味のある命題が一つも出てこないという結果になります。」p.137
・「日常生活で真理と認めているものを、無条件に自然科学でも認めると、いろいろ不都合が起こる。」p.153
・「有限回の現象の一致がなぜ無限回の現象との一致になるか、つまりその法則が不変である、いつでもどこでも成り立つということを、どうして保障できるかという問題ですね。それがこの存在的な真理の一つの根本的な問題、そして自然法則の真理性の根本的な問題です。」p.157
・「いずれにしても、経験論的な立場に立っても、ある原理は少なくとも認めないと学問的な体系にならないということは分かりますね。少なくとも論理的な意味での矛盾の原理を認めなければ、この経験論的な立場でも法則というものは認められない。それから斉一性の原理も認めなければ法則は出てこない。因果性の原理については、現象面にあらわれてくるデータの処理に関しては、因果性の原理を認めなければ規則をつくりあげることはできないのです。そして前にもいったように、実際の自然科学の現場では、哲学的な立場がどうであろうと、素朴実在論の立場を認めなければ仕事ができない。従って、その基礎にある原理を認めざるを得ないはずです。」p.169
・「懐疑論者は次のように主張します。『「白墨が今ここに在る」という言明は、触覚なり視覚なりを起こした対象が外にあり、その対象が原因となってある結果を私の中に及ぼしたから、われわれはその結果から原因を推測しているにすぎない。目で見た感覚とか、さわった感覚とかを総合した感覚の原因として、ここに何かがあるという推論をしているから、ここに白墨が在ると言っているのであり、何ら自明(trivial)なことではない、つまり、「白墨が今ここに在る」という言明は、直接経験ではないから、それほど自明ではない』というのです。」p.174
・「結局、わたしの言いたいことは、こういう懐疑主義の立場をとってもどこかでそれも破れるだろうということです。少なくとも考えている自分についての懐疑を、徹底させることができないということです。」p.182
・「ところでわれわれにとってもっと大切なのは、その基礎を探って自然科学の真理性を哲学的に確かめることです。まず、われわれが自分の自我を認めること。自意識の中で、あるいはわれわれの指向が外に向いているときだけではなくて、こんどは内側へ戻ってきたときに、自分自身を認めること。そこから自分自身の体と外界――目に見えるものだけでなく、見えないものも含めて――を認めること。それは哲学的には実在論の立場です。そういう態度がやはり、一番われわれにとって健全な態度ではないのか。」p.189
・「自然科学が何故正しい自然の理解を私達に示すといえるのか、何故圧倒的な応用性を持ち、人類全体の生活のすみずみまで支配するほどの力を発揮しているのか、その根拠をさぐり、私なりに、実在論的な立場から、基礎付けをこころみたものです。 個々の知識を学びとるよりも、どのような問題があり、どんな道具立てが使われているのか等の基本的なことがらへの関心と刺激が得られれば本書の目的は果たされます。」p.194