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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】増補版 日本の技術は世界一

2008年05月25日 22時27分35秒 | 読書記録2008
増補版 日本の技術(ワザ)は世界一 先端企業100社, (編)毎日新聞経済部, 新潮文庫 ま-17-2, 2003年
・日本で創造された、世界でナンバーワンのシェアをもつ製品や、世界一高度な技術の紹介。毎日新聞に連載された記事をまとめたもの。一社につき約2ページ読みきりの形で100社が掲載されている。また、各章間に、第一線で活躍する会社の経営者や技術者のインタビューも6編収録。
・いかんせん各記事の字数が少なく内容が物足りない印象です。『プロジェクトX』ばりの、技術開発の苦労話や、サクセスストーリーなどをもっとじっくり読みたい。
・考えてみると、自分の身の周りは、先人のたゆまぬ『発明』『開発』『技術』の集積で囲まれていることを改めて実感しました。
・「何でもいいのである。常識という邪魔者を破壊して、新しい常識を作り出す。それが新しい世の中を動かしていくのだ。それが経済の原点であり、人間の生き方の原点なのだ。」p.6
・「実例を見る限り、世界一になるにあたって、政府なんかに頼った形跡は皆無だ。政府の政策なんかに頼っているようではろくなものになれないのである。何かをなそうとするのなら、政府のほうが頼ってくるようにならなければいけないのである。」p.8
・「「いいものなら、海の向こうの町工場の製品でも受け入れる。米国のビジネスは、スピーディーで明快だ」と澤村社長は思った。」p.64
・「「研究室でモノができるわけない。創造性は学問の追及では生まれない」という信念だった。」p.69
・「シャープペンシルの製造から事業を興したシャープは、」p.114 これは知らなかった。
・「――モノづくりの今後をどう見ていますか。
 世界にないモノをつくるか、世界にない作り方をするか。日本のモノづくりは、この二つしかないと思います。企業経営者は、何が新たな中核技術になるかを見抜き、経営資源を集中していかないといけないのでしょう。
」p.116
・「点滴など医薬用のアミノ酸でも、味の素(江頭邦雄社長)は圧倒的シェアを持つ。世界の医薬用アミノ酸の年間消費量約1万5000トンのうち約60%を占め、「世界中の点滴に味の素製造のアミノ酸が含まれている」と言えるほどだ。」p.138
・「「恋をするときれいになる」。昔からなんとなく、そう言われてきたが、資生堂(池田守男社長)は1993年5月、この俗説を世界で初めて科学的に証明した。」p.150
・「資生堂CS開発センター長の坂本哲夫さんは、「心と肌の関係は、第四世代のスキンケアと呼ばれ、今後注目されるでしょう。CBRCでの発見は、健康な皮膚の研究をしなかったら生まれていなかった」と成果を強調している。」p.151
・「農民が土を大切にするように、工場も人を大切にしなければならない。工場の工という文字は「たくみ」と書きます。その意味を忘れないでほしいですね。」p.194
・「というわけで、この本を手にとると、「日本も捨てたものじゃないな」という気がしてくるはずである。」p.233
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【本】ひとに<取り入る>心理学

2008年05月21日 08時05分01秒 | 読書記録2008
ひとに<取り入る>心理学 好かれる行動の技法, 有倉巳幸, 講談社現代新書 1683, 2003年
・人に気に入られるためにこびへつらう、などといった一般的な狭い意味の範疇ではなく、人間関係を円滑にするための技術としての『取り入り』という、その定義を拡張した視点から書かれた本。
・常にこれだけのややこしい処理をし続けなければ日常生活を平静におくれない人間とは、非常にメンドクサイ生き物です。
・「実は、テレビドラマのような誇張されたゴマすりはしないだけで、多かれ少なかれ私たちは、他者に取り入っているのです。その中には、気遣いやマナーといったかたちで、用いられているものもあります。(中略)昔と比べ、多くの人々と関わり、多様な役割を担っていかなければならない現代では、「取り入り」は、むしろ不可欠のものになっていると言えるでしょう。」p.3
・「さて、こうした世間一般の状況を踏まえて、本著では、取り入りがいかに私たちの人間関係の中で多用されているか、またそうした行動が、人間関係を作り維持していく上でどのように重要なのかを明らかにしていきたいと思います。」p.4
・「これらの行動に共通するのは、いずれも、相手との関係において、自分の立場をよくしたいという目的があることです。そして、それは相手に気に入られること、好かれることで達成しやすくなると考えられます。」p.29
・「よく好きな異性のタイプに優しい人を挙げる人がいますが、お見合いなどで相手を選ぶ際に、実は「優しい人」は選べないのです。私たちは、「優しそうに見える人」を選んでいるのです。」p.45
・「なぜ外見が重視されるようになってきたのでしょうか。  その原因の一つは、私たち一人ひとりがコミュニケートする人数が増えてきたことにあると思います。」p.46
・「性格というのは、「さまざまな状況における比較的変わらない反応の仕方」ととらえてもよいでしょう。」p.51
・「相手に自分が求めていることを引き受けさせるために、言い換えれば説得する上で、求める側がもっている性質のことを社会的影響と呼びます。」p.59
・「南カリフォルニア大学の心理学者ジェラルド・ジェリソンは、20人から日常生活での発言を録音し、その発話データを分析したところ、人間がうそをつく回数は、一日平均200回(八分に一回)であるという結果を得ました。「うそ八百」ならぬ「うそ二百」といったところでしょうか(読売新聞、1997年4月8日)(中略)例えば、特に似合っているわけでもないのに、「その服お似合いですね」と言ったり、ちょっと約束の時間を過ぎてしまったときに、普段と同じような混み具合なのに、「いやあ、道が混んでいてねえ」と言ったりすることを、この調査では「うそ」にあたるとしています。」p.83
・「私たちがもつ「意見」というものには、絶対に正しい意見というものはありません。例えば、「人に迷惑をかけてはいけない」や「堕胎はしてはいけない」「困った人は助けるべきだ」など、これらは、皆が合意の上で正しいとしている意見であって、こうした正しさの程度のことを心理学では、「合意的妥当性」と言います。」p.86
・「つまり、うその多くは、受け手である相手にとっては、「見破れない」からです。見破れないからこそ、私たちは、うそをついても体面を守ることもできますし、相手にゴマをすることもできるのです。」p.89
・「なぜ取り入りが嫌われるのか、おおよそ理解されたでしょう。つまり、行動は利他的であるのに、その目的が利己的であるからなのです。」p.93
・「例えば、接待ゴルフで、取り入られる側が空振りをしたり、大きくコースを外れたりしたときには、通常見てみぬ振りをするでしょう。そのようなときにお世辞を言えば、かえって相手を不快にさせてしまいます。相手の欠点やミスに触れないことも、相手を高く評価する方法なのです。」p.99
・「言い換えれば、効果的なお世辞とは、取り入られる人のために、取り入られる人だけに言っていると取り入られる人に思い込ませるものということになります。」p.104
・「一方、どのように伝えるかですが、肯定的な評価をずっと伝え続けるより、最初は否定的だけれど、後に肯定的な評価を伝えるようにしていく方が、取り入られる側の評価が高くなることが明らかになっています。」p.107 いわゆる『ツンデレ』が効果的。
・「余計なお世話は、言い換えるならば、その人が課題に対して自分で選択し決定することや、自分でできることを妨げているということになります。心理学では、こうした状況で生じる反応を心理的リアクタンスと呼びます。」p.136
・「さて、本章では、取り入りを他者高揚、意見同調、親切な行為、自己卑下と、大きく四つの行動群に分け、それぞれの行動の特徴や効果について検討してきました。」p.143
・「目的達成のためならば、手段を選ばないという考えに立つことをマキャベリ主義といいます。」p.154
・「取り入りにおいては、セルフモニタリングという能力が重要であると考えられてきました。この能力は、対人関係において、自分の振る舞いや感情をよく観察し、それらを調節したり統制したりする能力を指します。」p.174
・「ここまでに度々言及したように、筆者は、すべての取り入りが悪いとは思っていません。新たな人間関係を作ったり、周囲との関係を維持したりしていく上で、むしろ必要な取り入りもあると考えています。なぜならば、人間関係は、好意によって結びつき、嫌悪によって離れるものだからです。」p.203
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【本】遺伝子が語る生命像

2008年05月18日 22時06分20秒 | 読書記録2008
遺伝子が語る生命像 動く遺伝子をさぐる, 本庶佑, 講談社ブルーバックス B-644, 1986年
・生物学、生命科学、分子遺伝学、遺伝子工学、どう呼んだらいいのかよくわかりませんが、その分野の第一線で研究を続ける著者の手による入門書。"科学ライター" の文章では出せない生の声の迫力があります。難易度やや高め。20年前以上の本ですがそんなに内容が古くは感じません。この分野は、今では発展が早すぎ、広まりすぎて、どこまでいっているのやら、それに関連した研究をしていてもよく把握できないような状況です。
・「しかし、1960年代後半の、いわゆる学園紛争の真っただ中に身を置いた経験から、私は学問の世界と社会との間に厚い壁を設けることには、やや批判的なのである。あの長い貴重な時間をかけて私たちが考え続けた結論は、  「科学研究が社会と完全に遊離して行なわれるべきではない」という唯その一言に尽きるような気がする。」p.7
・「遺伝現象が遺伝子という独立した単位により、混じり合わない形で親から子へ伝えられるという新しい概念は、メンデルによって初めて打ち立てられたのである。これを「粒子説」と呼んでいる。」p.18
・「進化を考える上で重要な点は、遺伝子の変異は個々の細胞で起こるが、子孫に伝えられるのは生殖細胞の遺伝子に起きた変異だけであるということである。一方、自然選択は個々の個体に働くが、その選択の結果が集団内に定着するかどうかが鍵となる。したがって進化を分子レベルで説明するためには、一個一個の細胞の中における遺伝子の変異を説明すると同時に、大きな集団の中におけるダイナミックな生存競争をも説明する必要がある。」p.22
・「機能を持ったヒトの遺伝子はおそらく約10万個。全設計図にある塩基の総数は約30億であるのに対し、われわれが現在まで構造を知りえた遺伝子の数は、おそらく1000個以下であり、塩基の配列としては10万程度にすぎない。」p.26
・「さて、それでは細胞に感染し増殖するウイルスは生命体と言えるであろうか。(中略)生物の三つの特性(自己複製、自律性、適応性)のうち、ウイルスは、かろうじて自己複製能力を持つと言えるであろう。(中略)見方によっては、もっとも原始的な生命体とも言えるし、逆に生命体にとって、もっとも大切な自己複製能力以外の不要な部分をなくした、もっとも効率のよい生命体という考えもある。(中略)やはり生物に近く、両者の境にある不完全な生命体と見るのが妥当であろう。それはやはり、ウイルスが遺伝子を持っているからである。」p.31
・「過激な条件を加えて無理に二重鎖をほどいて一重鎖とした(これを「変性する」と称する)後、再び適当な条件にもどして待っていると、一重鎖はもとの相手を見つけて安定した二重鎖を作りあげる。この反応を「ハイブリッド形成」と呼んでいる。」p.40
・「これは、まったくの空想であるが、今日の遺伝子の一般的な形はDNAであるが、ひょっとすると、最初に生じた生命体の遺伝子型はRNAであり、非常に早い時期に、RNAのつなぎ換えという機能が、生命体にとって不可欠な機能として備わったのかもしれない。」p.56
・「「遺伝子工学」あるいは「組換えDNA技術」と呼ばれるものの基本は、遺伝情報のテープを自由自在に編集する技術である。今日ではテープの暗号を解読し、短いものなら人工的に遺伝情報を合成することも、また、異なる情報をつないで新しい遺伝子を作り出すことも可能である。」p.72
・「遺伝子図書館は、さまざまな異なる遺伝子を含んだファージまたはプラスミドの集合体として、その組換えDNAを冷凍庫に保存すれば、半永久的に特定の生物種の設計図を保存することができるのである。」p.90
・「生物界の不思議な現象の一つとして、多様性があげられる。(中略)ところが、このような多種多様な生物における生命の基本的な仕組みを探ってみると、その根底には驚くほど共通の原理が横たわっていることに気がつく。  遺伝物質は、ほとんどの生物においてDNAから作られており、DNAに刻みこまれた遺伝情報の言語(トリプレットコドン)は、すべての生物について基本的に同じである(多少の "方言" を持つ生物も最近発見されているが)。」p.98
・「このようにして、遺伝子は増えたり、その位置を変えたり、またいらない部分を削除したりするというダイナミックな変化をしていることがあきらかになった。」p.106
・「要約するならば、免疫系の多様性の基礎は、偶然による遺伝子の変異と、その結果生じた多数のリンパ球のクローンを選択して役に立つものを増やすという、この二つの仕組みによって支えられているのである。」p.120
・「遺伝子病という言葉は、いわゆる遺伝病よりも広い範囲を指し、遺伝子そのものに何らかの以上があることにより起こる病気をすべて含んでいる。(中略)今日、まだ遺伝子病とは断定はできないが、根底に何らかの遺伝的素因を持つといわれている病気は多い。(中略)逆に、遺伝的な要因がまったくない病気は少ない。」p.146
・「木村資生の中立説は、「進化は単に変化である」ととらえている。すなわち、遺伝子の変異に善悪の価値観はない。進歩か退歩かに関係なく遺伝子は変わり、選択は死による個体の排除を通して働く。すべての事象はきわめて偶然性に富んだものであり、その偶然性の産物(新しい種)が環境と相対的条件との中で、著しく子孫をふやしたり、また偶然の結果、この地球上から姿を消したりするのである。」p.156
・「生命の存在は、偶然性に富んだものであるという事実を認識することから、生命の価値観は、新たなものとなっていく。」p.158
・「生命体は、常にきちっと決まった一本の道を、始めからまっしぐらに歩むのではなく、一定の許容幅と複数の可能性をもっているのである。このことが、生命体にとってもっとも必要な、生命の安定性を保証するものなのであろう。」p.160
・「この "余白" は無駄ではなく、ヒトの設計図にとっては未来に備える大切なものかもしれない。余白がない大腸菌は、もしかしたら、未来への展望が少ないのではなかろうか。」p.163
・「しかし、私は生命には寿命がある方が幸せではないかと思う。老化の研究は決して不死を目指すべきではなく、天寿をまっとうできることを目的とすべきであろう。いつまでも死なない人間など、きわめて恐ろしい存在ではなかろうか。」p.173
・「私たちの遺伝子を調べて、生まれた直後に、「あなたは20パーセントの確率でガンになる」とか、あるいは、「あなたは10パーセントの確率で糖尿病になる」ということが予言されれば、その人は、かなりじゅうぶんな配慮を行って、自分の天寿をまっとうすべき努力をすることができるだろう。」p.173
・「私は生命に関する東洋思想を実践する手段として、遺伝子工学を応用することを夢みる。私たちの食料をすべて遺伝子工学的手法により、微生物を使って生産することは可能であり、それは完全ではないが、もっとも理想に近い罪悪感の少ない方法ではあるまいか。」p.177
・「地球上において、われわれ人類が永久不滅であると信ずることは不可能です。過去の地球の歴史を見れば、必ずわれわれは滅ぶわけで、われわれがいかに滅ぶかということは、やはりわれわれが考えなければいけない問題です。」p.187
・「不条理に立ち向かい黙々と岩を押し上げるシジフォスのごとく、常に絶望と努力との緊張関係の中に人生の最大の喜びがあるのではないかと思う。すべてが満たされたとき、人は最も絶望するのではないだろうか。  全存在をかけて運命に立ち向かう人間の黙々とした闘い、これは仏教の悟りに近い状態であり、また学問そのもののような気がする。」p.199
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【本】門

2008年05月13日 22時00分54秒 | 読書記録2008
門, 夏目漱石, 新潮文庫 な-1-6(45), 1948年
・枯れた空気の中で暮す、過去に秘密を持った夫婦の日常。
・『バケツ→馬尻』の当て字にビックリ&ナルホド。調べてみると漱石オリジナルの有名な当て字だとか。
・『禅』に興味を覚えた。
・「宗助は先刻(さっき)から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいてみたが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつく程の上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肘枕をして軒から上を見上ると、奇麗な空が一面に青く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の窮屈な寸法に較べてみると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩くり空を見るだけでも大分違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日を小時(しばらく)見詰めていたが、眩(まぼ)しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。生じの中では細君が裁縫をしている。」p.5 「小説家になるのはあきらめよう」 もし小説家を志していたとしたら、そう思ってしまいそうな書き出し。志望を成就するにはこれを読んで尚、書き続けるだけの強い意思が必要か。
・「「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。  「何故」  「何故って、幾何(いくら)容易(やさし)い字でも、こりゃ変だと思って疑り出すと分からなくなる。この間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違った様な気がする。仕舞には見れば見る程今らしくなくなって来る。――御前そんな事を経験した事はないかい」  「まさか」」p.7
・「やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口から寂(しん)としていた。夫婦は例の通り洋燈(らんぷ)の下に寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋燈の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼等は毎晩こう暮らして行く裡(うち)に、自分達の生命を見出していたのである。」p.62
・「彼等は、日常の必要品を供給する以上の意味に於て、社会の存在を殆んど認めていなかった。彼等に取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼等にはまた充分であった。彼等は山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた。」p.137
・「彼等の生活は広さを失うと同時に、深さを増して来た。彼等は六年間の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を堀り出した。彼等の命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事の出来ない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合って出来上っていた。彼等は大きな水盤の表に滴たった二点の油の様なものであった。水を弾いて二つが一所に集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事が出来なくなったと評する方が適当であった。」p.138
・「彼から云うと所謂公案なるものの性質が、如何にも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。自分は今腹痛で悩んでいる。その腹痛という訴えを抱いて来てみると、豈計(あにはか)らんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたら可かろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。」p.190
・「書物を読むのは極悪う御座います。有体に云うと、読書程修行の妨げになるものは無い様です。」p.193
・「食後三人は囲炉裏の傍でしばらく話した。その時居士は、自分が座禅をしながら、何時か気が付かずにうとうとと眠ってしまっていて、はっと正気に帰る間際に、おや悟ったなと喜ぶことがあるが、さて愈(いよいよ)眼を開いてみると、やっぱり元の通りの自分なので失望するばかりだと云って、宗助を笑わした。」p.195
・「この面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。  「もっと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ」と忽ち云われた。「その位な事は少し学問をしたものなら誰でも云える」  宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後に鈴を振る音が烈しく響いた。」p.200
・「「決して損になる気遣は御座いません。十分坐れば、十分の功があり、二十分坐れば二十分の徳があるのは無論です。その上最初を一つ奇麗に打(ぶ)ち抜いて置けば、あとはこう云う風に始終此処に御出でにならないでもすみますから」」p.202
・「「いえ信念さえあれば誰でも悟れます」と宜道は躊躇もなく答えた。「法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩く様に遣って御覧なさい。頭の巓辺(てっぺん)から足の爪先までが悉く公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するので御座います」」p.206
・「自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲(たた)いても遂に顔さえ出してくれなかった。ただ、  「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞こえただけであった。」p.208
●以下、解説(柄谷行人)より
・「重要なのは、作品において三角関係がどのようにとらえられたかという点にある。『それから』とちがって、『門』の場合は、三角関係の把握は、「愛」または人間の「関係」はもともと三角関係としてあるのではないかと感じさせる程度に深化している。」p.227
・「われわれがある女(または男)を熱情的に欲するのは、彼女(または彼)が第三者によって欲せられているときである。もちろん、三角関係として顕在化しない場合ですら、恋愛はそのような構造をもつ。」p.228

?じんぜん【荏苒】 Ⅰ 歳月のめぐりゆくさま。また、物事がのびのびになるさま。延引。  Ⅱ 歳月が経過するさま。のびのびになるさま。「荏苒日を過ごす」
?しま【揣摩】(「揣」は情をはかる、「摩」は意を推す意)事情を、こうだろうと推測すること。「揣摩憶測」
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【本】大人の科学マガジン vol.17 ふろく テルミンmini

2008年05月11日 22時07分36秒 | 読書記録2008
大人の科学マガジン vol.17 ふろく テルミンmini, Gakken, 2007年
・たまたま書店をブラブラしているときに目に入り、手にとって見る。話には聞いていたけど、これがそうか。どんな音がするんだろう。ムズムズ。そして思わず衝動買い。価格2300円。電池は付属していないので注意。これが今年2月の話で、それから3ヶ月ほど放置して、5月に入ってようやく組み立てて遊んでみました。
・雑誌部分は律儀に最初から最後まで読みました。内容は8割方、テルミンに関するあれこれで、工学一般に関する話題もありなかなか勉強になります。
・テルミンの方は、15分ほどで組み立てることが出来ましたが、とにかくチューニングが難しい! 苦労してせっかく合わせても、本体を支える左手を一度離してしまうと、またやり直しなのが難点。音程をとる以前の問題です。実際どんな音が出るかは、下記ページで動画を見ることができます。
http://otonanokagaku.net/magazine/vol17/
・未知の物体の組立作業によるワクワク感から子供の頃を思い出し、ちょっと懐かしい気持ちに。
・「1921年、第8回全ロシア電子技術会議で「テルミン」は発表され、話題を呼ぶ。全国の電化を推し進める当時の指導者レーニンは「音楽を電化」したテルミンを招き、演奏させ、感激したという。」p.4
・「テルミン独自にして最大の特徴、魅力、それは楽器に直接手を触れることなく、空間にかざした手の位置によって音程と音量を調節する演奏法だ。」p.6
・「テルミンの音は「女性の声に似ている」と言われることが多いが、そもそもテルミンの正式名称は「テルミンヴォックス」。ヴォックスとは、「声」という意味である。」p.8
・「竹内 テルミンで大切なのは、ある音を弾くとき、その音でどれだけぴたっと止められるかです。音楽の本質は動的なものですが、テルミンの場合、基本的な訓練がどれだけできているかによって音色が変わってくる。日本で評価された理由の1つは、日本人は、テルミンの演奏に不可欠な「止まる」というスタティックな制御に幼い頃から慣れているからかもしれません。」p.12
・「竹内 テルミンが人を惹きつける理由の1つに「演奏の難しさ」があると思います。」p.13
・「梯氏は、楽器演奏の世界は間もなく再び映像と融合する、と考えている。もともと音楽はライブでしか楽しむことができなかった。それは、常に演奏家の動きを目の当たりにしながら音楽を楽しむことができたことを意味する。しかし、レコードが誕生し、人々の間に録音を再生して聴くという楽しみ方が広まっていったことに伴ない、耳で聴く楽しみと、目で見る楽しみは別々のかたちで発展していった。今では多くの人が音楽と映像の分離を当たり前だと捉えてしまっているが、それは音楽の歴史のなかではごくごく最近のことなのである。」p.40
・「非接触で演奏し、楽器の側に音の高さを定める基準が無いテルミンは、一般に演奏法習得の困難な楽器と言われます。しかし制御の難しさは豊かな表現力と表裏をなしており、練習次第では個性が反映された美しい音色を奏でられます。
●チューニングを正しく合わせる
●演奏動作と音程跳躍の関係イメージを掴む
●客観的に聞く耳を持つ
以上が上達のポイントです。
」p.(2)
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【本】整理学

2008年05月04日 22時02分50秒 | 読書記録2008
整理学 忙しさからの解放, 加藤秀俊, 中公新書 13, 1963年
・前出『取材学』の姉妹書。あっと驚く魔法のような整理術を紹介するというよりは、「整理の本質とは何か」という著者の考察が主な内容です。その整理の対象は身近な本棚や仕事机だけでなく、人間、会社、都市にまで及びます。趣旨としては、「整理」から逃げるのではなく、楽しく付き合うことで「忙しさから解放」されよう、ということになるでしょうか。
・紹介されている整理法には、とくに「これを実践してみよう!」という目新しいものはありませんでした。
・「「忙しさからの解放」といっても、ラクな解放感をうけとっていただいては困る。整理は、人間にとっての、楽しい、そして無限の苦役の一つなのだから。」p.3
・「要するに、われわれの生活というものは、朝から晩まで、たがいに関係のないてんでんバラバラなことの連続でなりたっている。ひしめきあっている雑多なもの、まさにその混沌(ケオス)の渦のなかに、われわれ現代人の生命はおかれている。これは、まったくメチャクチャなことではないか。」p.5
・「心は千々に乱れて、おちつかぬ。イライラしながら、しかもしょっちゅうなにかしていなければ気がすまぬ。そして結局、なんにもできない。われわれは、あきらかに、活動過剰なのである。てんでんバラバラな、雑多なものに、おつきあいしすぎている!」p.6
・「では、なぜ、こういうことになったのか。  社会組織における細分化――分業が、ふつうの想像を絶するほどに、進化してしまっているからなのである。」p.8
・「これがわれわれのおかれている客観的事態であるとすれば、錯綜をきわめる連絡の糸をどのようにしておぼえておくかという問題こそ、現代人の基本的な問題であるといって過言ではなかろう。」p.26
・「われわれは、アタマでおぼえておくべきこと、あるいは、記憶の内容を、紙のうえのエンピツの痕跡という「もの」に移しかえることができる。(中略)記憶を「物化」したものを、ふつう「記録」と呼ぶ。」p.34
・「いいかえれば、だれでもが、現代社会では、記録者になりうるわけだ。  これは、文化史的にいえば、大へん新しい事態といえる。ついこのあいだまで、記録のための道具は、こんなに簡単、かつふんだんに手に入らなかったのである。」p.38
・「時と所におうじて記録の必要度を判断している人は、じつに少ない。現代の要求している人間の能力の一つは、まさしくこのような判断力であるはずである。」p.48
・「せっかく記録しておいたのに、それが出てこないというのは、記録したつもりのものが「忘却」されたのと、結果的にはおなじことである。要するに、いかにたんねんにメモをとり、新聞を切りぬいても、それだけでは何の役にも立たない。」p.53
・「われわれに必要なのは、ムダな「さがしもの」でイライラしたり困惑したりしないですむような、記録の「保存」の方法である。」p.54
・「図書館は知識の体系的分類の実験室なのである。」p.62
・「多少乱暴ないいかたかもしれないが、西洋の哲学史というのは、ある意味で、知識の分類学史、あるいは「知識についての知識」の歴史であったようにもみえる。」p.64
・「一枚の紙きれが、なにかのまちがいで、となりの分類項目にまぎれこんでしまったがさいご、もうそれは、なかなか出てこない。分類がゆきとどけばゆきとどくほど、「もとあったところにもどす」ことが至上命令になる。」p.75
・「「整理」というと、きれいサッパリ、キチンと片づいている状態を連想するのは、かならずしもまちがいではないのだが、逆はかならずしも真ではない。きれいサッパリと片づいていることが、すなわち整理ではないのである。」p.84
・「人工頭脳は、まさしく「頭脳」の名にふさわしい。たんに情報を記憶し、再生し、変換するだけでなく、じぶんでじぶんをコントロールする。つまり「考える」のである。」p.95
・「機械にできることを人間がやるのは、しばしば愚かしいことだが、人間にしかできないことを機械に期待するのも、それ以上に愚かしいことというべきである。」p.98
・「じっさい、川喜田二郎がかつて指摘したように、日本の専門的な知的労務者たちは、じぶんでやらないでもいいことをじぶんでやって、要するに「雑用」でおわれているのである。秘書という整理係を使うことを知らなすぎるのである。」p.102
・「近い将来には、クズ屋さんには、われわれのほうからお金を払って、どうぞこれをもっていってください、とたのむようになるにちがいない。」p.112
・「情報は、なんらかのかたちで物理的装置を伝達手段とするけれども、その装置じたいにはなんの意味もありはしない。  「もの」と「こと」とは、しばしば、混同されやすい。」p.121
・「新刊書が10冊出たから古い本を10冊捨てるといったことは、情報の世界では成り立たぬ。すなわち、本棚は「無限」にむかってふくれあがる。」p.125
・「エロ雑誌であろうと、ギリシア哲学であろうと、市場調査の数字であろうと、また流行歌であろうと、要するに、世の中のありとあらゆる種類の情報に、行きあたりばったりに接触しながら展開していくのが、われわれの人生である。」p.126
・「自然界における物理的存在は、生物と無生物とを問わず、有限である。しかるに、情報というものは、この鉄則からはずれている。」p.127
・「人間の知識というものは、ある意味では無限大にちかづくが、べつの意味では無限小にちかづく。」p.129
・「じつは、この「捨てる」、「保存する」ということが、整理一般についての最大問題なのである。  捨てることと保存することとは、同一のことについての裏返しのいい方であるにすぎない。」p.133
・「土地、建造物の整理というのは、物理的・現象的な単純な問題であるにすぎない。すでにその土地、建物の上で独立した代謝系を持っている「人間」の整理こそ、都市整理の本質なのではないか。」p.146
・「混乱、錯綜した現状をどうにかしようとして整理するが、整理したとたんに、さらに整理しきれないものがでてくる。うごいている社会というのは、そういうものである。」p.158
・「整理には決定版がない、のである。あるいは、整理が「完了」するということが、そもそもないのである。それは、永遠につづく一つの「過程」だ。整理できた、と思っても、それはつねに「さしあたりの暫定的整理」であるにすぎない。(中略)ビシッときまった、水ももらさぬ「整理」は、「もの」の整理、「情報」の整理、「人間」の整理、どんな種類の整理についても、絶対にありえない。」p.160
・「情報の動態的整理には、バラせるところまで情報をバラして、独立させておくことが大事なのだ。」p.168
・「「整理」とは、しまいこむということではない。「整理」の結果物は、生きていなければならない。一枚のカード、一枚の伝票、それはわれわれをうごかし、かつわれわれがうごかしている情報世界という大きな有機体の、一つの細胞なのである。」p.171
・「秩序とは、熱力学の第二法則を貫徹させないように妨害することである。ある学者のことばによれば、「第二法則をペテンにかけること」である。それはエントロピーへの対抗勢力であるから、「負のエントロピー」と呼ばれる。熱力学の第二法則の人為的攪乱、それが「秩序」なのである。」p.174
・「日本語の日常語法のなかで、価値をあらわすために「ありがたい」ということばがつかわれるが、ありがたい、というのは、まさしく、ありえないことがある、という確率論的な価値観なのではなかったか。「ありがたい」ということばは、あんがい、価値論の核心とかさなりあっているのかもしれない。」p.177
・「こう考えてくると、「整理」とは、もはや便利な生活技術、というようなものではない。「整理」がゆきとどくことによって、たしかにわれわれの人生は、よりコントロールのきいたものになる。どんな事態にも、パッと対応できるようになる。それは疑いもないことだ。もしも身辺の整理をよくすることによって気持ちと時間とのゆとりができ、そのゆとりのなかで、ふかくものを考えたり、休息したりできるとするならば、整理は、あきらかに、人生と社会にとっての幸福にいたる道である。  だが、それだけではない。われわれのさまざまな整理の一つ一つは、人類の歴史の小さな部分として考えられなければなるまい。」p.182
・「たぶん、この本のむすびにふさわしいことばは、パスカルの『パンセ』にある、つぎの一句であろう。  「たたかいのみがわれわれによろこびをあたえる。勝利が、ではない」」p.183
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【本】落ちこぼれをなくす楽しいピアノ・レッスン

2008年04月30日 22時08分24秒 | 読書記録2008
落ちこぼれをなくす楽しいピアノ・レッスン, 新井千音美, 音楽之友社 ON BOOKS 57, 1985年
・著者自身のピアノ教師としての体験をもとに、そのレッスンのノウハウをまとめた本。生徒との会話など、具体的な記述が豊富です。
・私自身、大学の後輩などにバイオリンを教えることがありますが、それまでの経験をもとに自分なりの工夫も取り入れたりしています。一つは、『カルテ』と称するメモを私が取りながらの進行。メモ(A4チラシの裏)には日時からはじまり、弾いた曲、注意点、宿題等々を書き込みます。定期的に教えることが出来ず、数ヶ月も経ってしまうと、教える方も習う方も何をやっていたかすっかり忘れてしまうことから生じた習慣です。もう一つはデジカメの活用。「肘が低い」だの「弓の動きがぶれている」だの口で言うよりも、デジカメで静止画または動画で撮って本人に見せると納得度が全然違います。ついでに録音もいいかも。しかし、そんな道具の話よりも大事なのは、本書でも再三指摘されているように、いかに楽器への興味を維持するかが問題です。これについては正直お手上げ。今のところ、「辞めたかったら辞めなさい」という態度です。「こりゃすげぇ~!! 自分もあんな風に弾けるようになりたいなぁ~」と思わせるだけの力量があればよいのですが。。。
・著者(男性)は昭和初期生まれにもかかわらず、ずいぶんハイカラなお名前。
・「教え始めの頃は、「やる気のない子に、ピアノを習わせることはない」と "しかめっ面" をしたり、「おけいこしてこない子は、レッスンに来なくていいよ」と追い返したり、「親の見栄で嫌がる子を、無理に連れてこないでください」と言ったりしたものでした。  しかし、末娘にピアノを教えようとした時から、私のピアノ・レッスンについての考え方が、がらりと変わってきました。いや "変わらざるを得なかった" ということになってしまったのです。」p.3
・「初めて、ピアノを習いに来た時の、あの期待に満ちた子供たちの瞳を、さらに希望に溢れたものにしてやりたいと祈って。」p.5
・「私たちは、新しく物事を始める時や、何か素敵な体験をした時など、それに夢中になったり、感動しすぎたりするものです。」p.10
・「ここで、一応 "落ちこぼれの関門" を整理してみますと、次のようになります。
●落ちこぼれの関門
第一の関門 習い始めて、三~四ヶ月の頃
第二の関門 小学校へ入学した頃
第三の関門 小学校五~六年の頃(思春期前期)
第四の関門 中学生になった時
第五の関門 高校へ進んだ時期」
」p.22
・「そういう子ども達のピアノを習おうという意欲を、意識の不足している生活環境と、画一的で研究不足の指導が失わせていったのだと思います。」p.28
・「《大人は皆、子どもの時を忘れている》という本がありますが、本当にそうですね。」p.32
・「よく、「何歳になったから、もうピアノのレッスンを始めてもよいのでは……」と言われますが、 "何歳か?" というより、"どんなことができるか?" ということのほうが判断の基準になります。(中略)①話が、聞ける(社会性)。  ②指先が、しっかりしている(身体的条件、反射神経と器用さ)。  ③区別ができる(理解力・判断力)。  ④身の周りのことができる(自立性・自主性)。  ということがある程度できるように育っていれば、レッスンを受けさせてもいいでしょう。」p.35
・「私たちは、子どもにピアノを教えるプロであると同時に、子どもを "音楽好き" にするプロでなければならないのですから、楽しく分るように指導したいものです。」p.38
・「学校の教育は、"知的な教育" を柱にしていますが、私たちの教育は "感動の教育" と考えられます。」p.44
・「仲良しになれば、子どもがついてきます。子どもに敬遠されるようでは、指導になりません。」p.53
・「"鉄は、熱いうちに。子どももお母さんも、意欲と関心のあるうちに" 細心の注意を払って導いてやるようにしたいものです。」p.59
・「"しつけ" の中で、一番きちんとやらせたいのは "おじぎ" と挨拶です。挨拶 "おねがいします" がしっかり言え、おじぎをきちんとさせると、幼児でも「これから勉強だな、しっかりやろう」という気持になります。」p.62
・「足がブランブランよりは、ついていたほうがいいに決まっています。特に、脱力のコツがつかめない子には、足がつき、腰が安定するように、いつも台を置いてやるようにしてあげてください。」p.66
・「ブラームスは、絶対にピアノのふたを閉めさせなかったそうです。それは、いつ楽想が湧いてくるか分からない、だから、いつでもピアノにさわれるように……だそうです。」p.68
・「お母さんに分からないと、家での勉強を見てくれる協力者になってくれませんから、協力者・補助教師としてのお母さんも育てることも忘れてはいけません。」p.77
・「教育という語は、"教える" という字と "育てる" という字からできています。『教えるだけでなく、育てることも教育ですよ』と言っているのですね。でも、とかく私達は、教えることだけに夢中になり、育てることも指導であるということを忘れているかも知れません。この生徒が、こうあってくれればいいなあという "好ましい状態に育つように、教え導くことが教育" だということを、もう一度はっきり頭の中へ入れておきましょう。」p.86
・「"おさらい会などで、よく弾いているから" といって、どのぐらい分かっているか? ということは、分かりません。弾いていることと、分かっていることとは、いつも同じとは言えないからです。」p.98
・「仮りに、  「私は、もっと勉強したのに!!」とか  「こんな曲なんか、二~三週間であげちゃったのに。この子はどうして!?」などと思うようになったとしたら、それだけで "あなたは、お年寄り" ですよ。」p.106
・「そのような生徒は、  「三時間も、四時間も、机に向かいっきりで、テスト勉強するわけでもないでしょ。勉強の間を見て、指の練習ぐらいはしたほうが、テスト勉強の能率があがるわよ。指を動かすことは、脳細胞を程よく刺激して、頭の働きをよくするの、あなたも知ってるでしょ……。(中略)」  と話してやります。」p.110
・「しかし、せっかくの名曲も、"楽譜を見なければ弾けない" というのでは情けないと思います。」p.137
・「人を指導するという立場で、注意するタイプを、大きく分けますと、"誉める" "叱かる" "怒る" の三つに分けられると思います。」p.143
・「演劇の世界に、"大根役者" という言葉があります。"大根役者" というのは "台本役者" という言葉が訛ってできたのだそうです。」p.186
・「東京学芸大の品川不二雄教授が、NHK・TVの母親学級で「自主性を育てるもの」と題する講演をなさったことがありました。(中略)"自主性を育てるもの" について、独立心・自立心・創造性・意欲・積極性・自信の六項目に分けて話され、最後に『"育てる" とは、"引っぱり出す" ということです』と結んでおられました。」p.198
・「子どもにとって一番身近な音楽――今、弾いている曲――を、より美しいものにしようとさせるには、「子ども自身に、自分の指で弾いているピアノを、よく聞かせる」ことから始めなければならないでしょう。」p.200
・「勉強や部活が忙しくても、その間をみて、気分転換の一つの方策としてでもピアノを取り入れながら、レッスンも続けている生徒もいることを思えば、教師たるもの「どうして、この子が、そんなにあっさりレッスンを止めていくのか?」反省してみる余地はないでしょうか?」p.209
・「先日、テレビで、有名な合唱指導者が「合唱指導で、一番大切なことは?」とのアナウンサーの質問に答えて「練習に参加して本当によかった。また、ぜひ練習にこよう」という欲求と、「ほんの少しでよいから、練習してくることを与えて帰す」ことだと答えていました。  レッスンも、「レッスンを受けて本当によかった。また、ぜひレッスンにこよう」という意欲を持たせて帰したいものですね。」p.210
・「この五年間に、この前の発表会から今までに、何を教えてきたのか? やはり記録をしたほうがいいと思います。」p.213
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【本】数学者の休憩時間

2008年04月27日 22時07分36秒 | 読書記録2008
数学者の休憩時間, 藤原正彦, 新潮文庫 ふ-12-3(5015), 1993年
・『国家の品格』が話題になったのが記憶に新しい著者によるエッセイ集。頭に、初めての出産(つきそい)体験の記録、後ろに父、新田次郎の遺した取材ノートを元にその足跡を辿ったポルトガル一周の旅行記の長めの文章が配置され、その間に日常生活や思い出話などの小さな文章がいくつか入るという構成。
・同著者の著作は初見でしたが、洗練された文章で予想したよりも面白い内容でした。これはベストセラーを生み出すのもうなずける。この分かりやすい語り口で、もう少し数学の専門的な話題も読んでみたいです。
・「「しかしなあ、血を見るのはいやだし、恥かしいし、何だかだと勉強の時間くわれるしなー」  「夫婦で作った子供を産むのが、どうして女だけの仕事でなくてはいけないの。おかしいと思わない」  「生まれてきた後は育児を徹底的にものすごく手伝うから、今回はどうにかならないかなー」  しばらく口を閉ざした女房は、立上がりながら、  「あなたの気持は分りました」 と言って立去ろうとした。」p.20
・「数学修行時代からの性癖で、時間を無駄にすることについては、過度に敏感なのである。」p.22
・「この命がけの、鬼神をも打ちのめす気迫の顔が、人間が人間を産み落とす時の顔なのかと思った。女性が、氷河の時代から途切れなく保ち続けてきた顔なのかと思った。それは醜くも美しくもなかった。ただ息を呑むほどに感動的な顔であった。」p.46
・「「数学者の仕事は睡眠だ」  と常々言明しており、何より大事な昼寝の間は、電話にも玄関のベルにも応答しない。健康を保つために、病気とか食品添加物などにも相当に気を遣う。」p.57
・「私の将棋が、二十年の空白の後に強くなっていたのは、この大局観の変化にあるのだろう。」p.69
・「私の専門の数学において、発見はあくなき「こだわり」によってのみなされる。」p.72
・「学ぶということは生きることに似ている。それは死によってのみ砕かれる業であり夢である。」p.75
・「数学では他の分野と違って学説というものが無い。一度正しいと認められた定理は、真理として永遠に生き続ける。直角三角形に関するピタゴラスの定理は、二千年以上も前に正しいと認められたが、それは今日も正しく、また今から二千年後も正しい。(中略)数学には一切の後退がないため、深くなり放題となっている。」p.76
・「数学の勉強が論理思考の育成に役立つのか、疑問を抱かざるを得ないのである。」p.96
・「良い例は、「風が吹けば桶屋がもうかる」である。  「風が吹く→ほこりが舞い上がる→ほこりで目を悪くする→盲人が増える→三味線ひきが増える→三味線に必要な猫が減少する→ねずみが増える→風呂桶がかじられる→桶屋がもうかる」」p.97
・「私なども、大学での委員会などにおいて、慣れ親しんだ論理による明々白々な結論が、いともあっさり否定されて、カーッと血の上ることは数え切れないほどである。(中略)すなわち、数学的思考は、世の中での論理的思考に必ずしも結びつかないのである。」p.101
・「数感覚が何より本質的で、これが問題解決の先鞭をつける。論理は後から説明するための形式、少し誇張すると、他人を説得するための道具である。(中略)「筋道を立てて考えれば必ず解ける」と生徒に力説する先生が、論理などもちいず、培われた数感覚でさっさと解いている。生徒が解けない訳である。」p.102
・「数学研究は、山の頂きに咲く美しい花を取りに行くようなものである。研究の発端は、この花の美しさに感動することに始まる。この花が美しくなかったら、どこの数学者が、苦しく長い道程を、泥まみれ汗まみれで歩もうか。また、天才的といわれる数学者ほど、この感受性が強いようにも思えるのである。」p.105
・「論理的思考がことさら重視されるのは、アメリカが多民族国家であることによる。民族が異なれば言葉も習慣も風俗もみな違う。そういった人々を統一するには、誰にも共通なもの、論理を用いるしか他になかったと言える。  このためか、アメリカ人は実に論理的である。知識でははるかに優れた日本人留学生が、いったん議論になると全くアメリカ人学生に敵わない、というのはよく出会う光景であった。」p.116
・「「てんでんばらばら」が単なる無秩序でなく、調和のとれた多様性となるには、子供たちの心に「芯」を入れなければならない。従来の道徳教育には限界があるし、宗教には頼りたくないし、論理に依るのはアメリカで失敗済みである。美しい情緒を育てることが、私に考えられる唯一の手段である。」p.126
・「私立中学のよく練られた良問を、難問悪問と決めつけ、さらに改めろと言うのはいかがなものか。問題があるとすれば制限時間が短いことだけである。時間を倍にして、受験生にじっくり考える余裕を与えればそれで事足りる。」p.128
・「真の国際化教育とは、外国の言葉や風俗、文化、地理、歴史を学ぶことだけではない。強靭な論理的思考力や深い情緒力で武装することのほうがはるかに重要である。このような教育により生まれるエリートは、これまでの偏差値エリートと違い、国際人としての高い戦闘能力を備えることになろう。混迷を深める日本、そして世界を救う人材は、そんなエリートであると私は思う。」p.136
・「死のないコンピュータに、人間の持つ最も深い情緒を付与することは、永遠に不可能と思う。もっとも、情緒に代わるある一定の方式により、あらゆることに知的判断を下す、精巧な個性的コンピュータが出現する可能性はある。」p.140
・「国際社会はオーケストラに似ている。バイオリンはバイオリンのように鳴ればよい。その時に最もよく調和が保たれる。ビオラやチェロの真似をすることで融和を計ると必ず失敗する。  日本人は日本人らしく生きるのがよい。」p.142
・「実は新人類の特徴と言われるものの多くは、単なる無知、無経験、無責任などに帰せられる。これはどの時代の若者にも共通で、我々もさんざん言われたものである。真に憂うべきは、情緒力不足が目につくことである。じっくり考えるのも、歯を食いしばって頑張るのも、他人の不幸に敏感なのも、故郷や古きものを懐かしむのも、みな情緒の力による。」p.162
・「「三十では若過ぎる。人生の苦しみや哀しみを本格的に表現するには四十を越えなくては。ファドは若い人には歌えない」」p.214
・「サウダーデというのは、ポルトガル人特有の感情を表わす言葉として、よく引用されるものである。対応する日本語や英語はないが、「愛する人やものの不在により引き起こされる、胸の疼くような、あるいは甘いメランコリックな思い出や懐かしさ」、と言われている。望郷、懐かしさ、会いたいが会えない切なさ、などはみなサウダーデである。単なる悲哀ではなく、甘美さと表裏一体をなしているのが、この言葉の特色である。」p.238
・「ポルトガル人の親切さに関しては、何度か耳にしたことがあったが、日本人とは尺度が違うような気がした。」p.245
●以下、解説『数学者と情緒』阿川佐和子 より
・「藤原さんが文章を書くという作業について、どのようなお考えをお持ちか、直接伺ったことがないのでわからない。が、今まで私は、氏が数学者という本職を持ちながら、なぜこんなに魅力的な文章を書かれるのか、なかば嫉妬を込めて羨望していたが、それは大きな間違いだった。  これほどの感性と愛情あふれる文章は、藤原氏が真の数学者であるからこそ生まれてくるのだということに気付いたのである。」p.313
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【本】クリスマス・カロル

2008年04月23日 08時00分06秒 | 読書記録2008
クリスマス・カロル, ディケンズ (訳)村岡花子, 新潮文庫 テ-3-5(458), 1952
(A CHRISTMAS CAROL, Charles Dickens, 1843)

・絵に描いたような、意地悪で冷酷でケチでどうしようもないガンコ爺さん(スクルージ)が、クリスマスの時期になって夜な夜な現れる、過去・現在・未来を司る幽霊たちにいざなわれて旅をし、色々な場面に立ち会う事で、心を入れ替えてすっかり気のいい爺さんに変身してしまうというファンタジー物。古典の名作。
・『現在』を司る幽霊の、行く先々の人たちに小さな幸せを配る行動が、まるでサンタクロースのようだと思ったら、どうもこの本が書かれてた時代には、まだ今で言うサンタさんは存在しなかったようです。
・『過去』の幽霊の章、スクルージの青春時代の話は何とも切なくて、お気に入り。
・「とにかくクリスマスはめでたいと思うんですよ。親切な気持になって人を赦してやり、情ぶかくなる楽しい時節ですよ。男も女もみんな隔てなく心を打ち明け合って、行先のちがう赤の他人だとは思わないなんて時は、一年の長い暦をめくっていく間にまったくクリスマスの時だけだと思いますよ。」p.14
・「誰しも人間となれば、その中の霊魂が、同胞の間を歩きまわり、あちこちとあまねく旅行しなければならないように定まっているのだ。もし生きているうちに出て歩かなければ、死んでからそうしなければならないのが運命なのだ。」p.31
・「彼らすべての幽霊たちの不幸は、人間の世の中の事件に関係して助力したいと願いながら、永久にその力を失ってしまったことである。」p.37
・「「あなたも苦しいでしょう――私たちの今までのことを思い返せば、あなただって苦しいはずだと、せめては考えたくなります――。ほんのちょっとの間で、私のことはあなたのおもいでの中から消えて行くことでしょう。役にも立たない夢として、そんな夢からは醒めて幸せだったとお思いになるでしょう。あなたの選んだ生活がどうぞおしあわせであるようにと、お祈りします!」  娘は男から離れて行った。これで二人は分かれ果てたのだ。」p.62
・「人間よ、もしお前の心が石でなく人間なら、余計とは何であるか、どこに余計なるものがあるのかをはっきりわきまえるまでは、この悪い文句をさしひかえるがよい。どんな人間を生かし、どんな人間を死なせるかお前に決められると言うのか。神の眼には、この貧しい男の子供何百万人よりお前のような人間こそ生きていく値打ちもなければ、生かしておくのにふさわしくもないのだぞ。おお、神様! 草の葉の上の虫けらが、塵の中で空腹にうごめく同胞たちの間に生命が多すぎるなどとよくも言えたものだ!」p.87
・「人の進む道はそれを固守していればどうしてもある定まった結果にたどりつかなくてはならないのでしょう。それは前もってわかることでございましょう。けれども、もしその進路を離れてしまえば結果もかわるのじゃありますまいか。」p.135
・「そうだ! この寝台柱は彼のものだ。寝台も彼のものだし、部屋も彼のものだ。しかも何より嬉しいことに、行く手に横たわる「時」が自分のものであり、埋合わせをつけられることである!」p.137
・「彼はこの世では何事でも善い事なら必ず最初には誰かしらに笑われるものだということをちゃんと知っていたし、またそういう人々は盲目だということを知っていたので、おかしそうに眼元にしわをよせて笑えば盲目という病気がいくぶんなりと目立たなくなるだけ結構だと考えていたからである。」p.149

?じゅうのう【十能】(「五徳」に対していった語とも、多くの効能があるところからともいう)炭火を盛って運ぶ器。金属製の容器に木の柄を付けたもの。
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【本】この人を見よ

2008年04月18日 08時03分51秒 | 読書記録2008
この人を見よ 人はいかにして自分自身になるか, ニーチェ (訳)西尾幹二, 新潮文庫 ニ-1-7(4410), 1990年
(ECCE HOMO, Friedrich Nietzsche, 1908)

・ニーチェ発狂直前に書かれた最後の著作。過去の出来事や著作を振り返る、自伝的内容。
・興味があって、これまでニーチェに関する本を何冊か読んできましたが、ニーチェ自身の著作を読むのは初めてでした。ほとんどの記述は右から左へ抜けてしまいましたが、中には心に引っかかる部分も。川でザルを手に砂金取りをしている気分です。その文章からは異様な迫力が感じられ、『なんだかよくわからんが、とにかくスゴいことが書いてあるようだ』、また『文章というよりも詩に近い』、そんな感想を持ちました。
・音楽への造詣も深く、シューマンに対抗して作曲もしたとか。どんな曲だったのか興味あり。
・おそらく原文を読めば、『翻訳不可能』と頭に浮かぶような文章かと思いますが、そんな文章の翻訳には相当の苦労があったのではないかと想像されます。また、訳注も本文中随所に加えられ、巻末にも21ページに渡って収録されており、こちらも大変そう。
・キーワード:超人、ドイツ人への憎悪、キリスト教への嫌悪
・本書の書き出し。動機づけ。「私の予測では、近いうちに、私はかつて人類に課せられた要求の中でも最も困難な要求を人類に突きつけなければならなくなる。それだけに、そもそも私が誰であるのかを言っておくことが、必要であるように思われる。」p.3
・「次のように言う義務が私にはあるのである。すなわち、吾が言を聴くべし! 吾はかやうしかじかの人間なれば也。何よりもまづ吾を取り違へ給ふな! と。」p.4
・「私がこれまで理解し、身を以って生きて来た哲学とは、氷と高山の中を自ら進んで生きることであり――存在の中にある異様なものや怪しげなもののいっさいを、すなわち道徳によってかねて追放されていたもののいっさいを、捜し出すことであった。」p.6
・「私の著作の中では私のツァラトゥストラが独自の位置を占めている。私はこの一作を以て、人類に対し、これまで人類に与えられた中での最大の贈り物を捧げたことになるであろう。」p.6
・「どんなに「人間」という楽器が調子はずれであろうとも――私は自分が病気でさえなければ、必ずその楽器から、傾聴するに値する音色を引き出すことに成功したものだ。そして幾度となく私は、楽器自身から、自分がこんなにもいい音色を出せるとは自分でも気がつかなかった、と聞かされたものだった。」p.24
・「私には潔癖の本能がまったく不気味なまでに敏感に具わっていて、ために私は、どんな人と相対しても相手の魂のきわどい近さ――あるいは何と言ったらよかろうか――相手の魂の内奥、魂の「内臓部」とでも言うべきものを生理的に知覚し――嗅ぎわけてしまうのである。」p.34
・「つまり、とはわれわれ思索人(デンカー)にとっては一つの大づかみな答えであり、何とも不味い料理なのである。――それどころか、神はとどのつまり、「貴方がたは考えてはならない!」とわれわれに向け発せられた一つの大づかみな禁止令にすぎないともいえよう。」p.40
・「読書とは誰かが自分の傍で喋ったり考えたりすることではないだろうか。」p.49
・「私を心の底から休養させてくれたものというのは、何の疑念もなく言うが、リヒャルト・ヴァーグナーとの親しい交際であった。」p.56
・「しかしながら、私は今日でもなお『トリスタン』と同じくらい危険な魅力を持ち、同じくらい戦慄的で甘美な無限性を備えた作品を探しているのだが、依然として見つからない。――芸術の全領域を探しても見つからないと思っている。レオナルド・ダ・ヴィンチの示すあらゆる異様な魅力も、『トリスタン』の最初の一音で魔力を失ってしまうであろう。この作品こそ断じてヴァーグナーの最高の絶品である。」p.59
・「これを書いている今のこの瞬間にも、私は自分の未来を――広々とした未来を!――滑らかな海を見晴るかすような気持で眺めいる。その水面にはどんな欲求のさざ波も立ってはいない。私は何事かが現にある状態と違ったようになることを、露ほども望んではいない。私自身にしてからが違った風な人間になりたいなどとは思わない。それでも私はいつもこんな具合に生きてきた。私は願いというものを持ったことがない。四十四歳を過ぎていながら、自分はまだ一度も名誉のために、女のために、お金のために苦労したことがないなどと言える人間が、私のほかに誰かいるだろうか。」p.68
・「……孤独(Einsamkeit)に悩むということもやはり、その人が偉大でないことの証拠である。私はいつだって「多数との共存」(Vielsamkeit)にだけ悩んできた。……七歳という、おそらく誰も信じないほどの早い時期に、私はすでに、どんな人間の言葉も私の許には決して届かないであろうことを知っていた。」p.72
・「……人間の偉大さを言い表わす私の決まった言い方は、運命愛(アモール・ファティ)である。すなわち、何事も現にそれがあるのとは別様であって欲しいとは思わぬこと。未来に向かっても、過去に向かっても、そして永劫にわたっても絶対にそう欲しないこと。必然を単に耐え忍ぶだけではないのだ。いわんやそれを隠蔽することではさらさらない。――あらゆる理想主義は、必然から逃げている嘘いつわりにほかならぬ。――そうではなく、必然を愛すること……」p.72
・「簡単に言うと、私の著作に慣れ親しむと、他の本にはもう我慢できなくなるのだ。哲学書などはその最たるものである。高貴でそしてデリケートな私の著作の世界に足を踏み入れることは、比類ない一つの特典である。」p.80
・「――ツァラトゥストラの言葉を聞くだけの値打ちを備えた人間が現れなくてはならないのだ。……その日の来るまでは、当作品の中で惜しみなく用いられている技法を理解する者は一人もいないだろう。事実上この作品のためにはじめて創り出されたような芸術的手法、新鮮で前代未聞の手法を、これほどまでに浪費しなければならなかった人は、かつて私のほかにはいなかった。」p.84
・「「女は子供を必要とする。男はつねにその手段にすぎない」とツァラトゥストラも語った。――「女性解放」とは何か。これはうまく一人前にならなかった女、すなわち子を産む力を持たない女が、出来の良い女に対して抱く本能的憎悪のことである。」p.87
・「私は「書物」から救出されたのである。それ以来幾年間か私はもはや書物を読まなかった。――これは今までに私が自分に与えた最大の恩恵である! ――そんな風にしているとやがて一番底に潜んでいた自我、今まではいわば土砂に埋もれ、他人の自我に絶え間なく耳を傾けなければならない(――つまり読書しなければならない!)との強制力の下にいわば声を失っていた自我が、おもむろに、おずおずと、疑わしげな様子で目を覚ましたのである――しかも、ついに、それが再び語りだすに至った。」p.118
・「この本(『曙光』)をもって私の道徳撲滅キャンペーンが開始される。」p.123
・「不死不滅であるためには、それだけ高価な代償を支払うことになる。すなわち、不死不滅であるためには、人は生きながら幾度も死ぬこととなる。」p.140
・「私は受け取る者の幸福を知らない。もしも私が盗むことでも出来るなら、受け取るよりもさらに幸わせに違いあるまい、などといくたびも夢想したものだ。  私がたえず贈り与えるばかりで、手を休める暇がないこと、これこそが私の貧困だ。私が私を待ち受ける目と私への憧れに輝いた夜々ばかりを見ていること、これこそが私の妬みの原因だ。  おお、贈り与える者の不幸わせ!  おお、私が太陽であることの陰惨さ! おお、がつがつと欲しがる状態を私はいかにがつがつと欲しているであろう! おお、この飽食の中の激しい飢え!  彼らは私から受け取る。が、私の方はそれで彼らの魂に触れているのか? 受け取ることと与えることとの間には一つの溝が横たわっている。そして最も小さな溝こそが、最も橋を架けにくい。(『ツァラトゥストラ』第二部「夜の歌」)」p.148 
・「「酷薄であれ!」という命令、創造する者はおしなべてみな酷薄である、という最奥の確信、これこそがディオニュソス的天性を持つ者の本来のしるしであるといえる。――」p.154
・「必然性のあることには私は傷つかない。運命愛(アモール・ファティ)は私の最も奥深い本性である。」p.175
・「私は人間ではないのである。私はダイナマイトだ。」p.177
・「――善においても悪においても創造者であろうと欲する者は、まず破壊者となって、さまざまな価値を打ち壊さなければならない。  それゆえに最高の悪は最高の善に属している。しかもこのような善こそが、創造的な善なのである。(『ツァラトゥストラ』第二部「自己克服について」)」p.179
・「……道徳の定義、すなわち道徳とは――生に復讐せんとする下心を具えていて――そしてそれに成功したデカダンの徒輩の病的特異体質(イディオジュンクラジー)である。私はこの定義を重んじている。――」p.190
・「……「神」という概念は生の反対概念として発明されたのだ。――「神」という概念の中では、ありとあらゆる有害なもの、有毒なもの、誹謗中傷の類、生に対する徹底せる敵意などがことごとく糾合されて、一つの凄まじい統一体を成している!」p.192
●以下、解説(西尾幹二)より。
・「そこで、本書では、デ・グロイター版『この人を見よ』の数多くの実証の成果は、ことごとく注の形態で表示し、テキストそのものは旧に復し、グローオクターフ版やカール・シュレヒタ版におおむね依拠することとした。」p.218
・「他方、本書におけるニーチェのあらゆる形態の自己礼賛は、一種のアイロニーと解すべきである。「なぜ私はかくも良い本を書くのか」などと堂々と公言できる無邪気さ(あるいは無邪気さの自己演戯)は、誰にでも出来るものではない。」p.220
・「以上のように『この人を見よ』は、正気の中に微量の狂気が早くも混じり、また隠れた狂気のお蔭で正気の認識がかえって一層の鋭さを増し、深みに達し、まったく新しい認識の地平をも拓く一方、やがてその限界のラインをも越えて、狂気そのものが誤魔化しようもなく露呈し、一切を呑み込んでいく、というプロセスを辿っている。」p.221

?てっけつ【剔抉】 1 えぐり出すこと。ほじくり出すこと。  2 悪事や欠陥、矛盾などをあばき出すこと。

《チェック本》
・ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」
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