雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

スロヴァキア

2009-06-29 21:09:55 | 旅行
ここで、スロヴァキアの歴史について、加藤雅彦著「ドナウ河紀行―東欧・中欧の歴史と文化 (岩波新書)」に基づいて復習しておく。

チェコ人とスロヴァキア人は同じ西スラブ族に属しながら、長い間それぞれ別の歴史の中で生きるうちに、気質から文化や言語にいたるまで、少なからざる相違を有無にいたった。

チェコ人とスロヴァキア人の祖先の西スラブ族は、5世紀頃からこの地に定住をはじめ、9世紀には大モラヴィア王国を建設した。当時はまだチェコ人とスロヴァキア人に区別はなかった。しかし10世紀にこの王国がマジャール人(ハンガリー人)に滅ぼされ、東半分がマジャールに併合されたことが、チェコ人とスロヴァキア人の運命を分けることになった。
このあとチェコスロヴァキアの独立する1918年まで、スロヴァキア人は長い屈辱と貧困の時代に入る。
それに対しチェコ人の住む領域は、ボヘミア王国として繁栄する。
第一次大戦でハプスブルク帝国が崩壊し、チェコスロヴァキアは独立を達成する。しかし、1000年もの間ハンガリー領であったスロヴァキアは、教育水準の低い後進の農業地帯であった。彼らは、先進のチェコ人による支配を警戒し、チェコとの統合による独立には慎重であった。
マサリク初代大統領は、スロヴァキア人に対し独自の議会を持つ権利を約束したが、この約束は果たされなかった。当初から両民族間には深い溝が存在することになった。1939年には、スロヴァキアはナチスの保護のもとに一時独立した。
第二次大戦後チェコスロヴァキアには社会主義政権が樹立されるが、社会主義の下で、特にスロヴァキア民族主義は厳しく弾圧された。
1968年の「プラハの春」自由化運動の指導者ドプチェクは、戦後初のスロヴァキア出身の第一書記であった。この「プラハの春」はソ連の戦車の下に空しく散ったが、その翌年、はじめてスロヴァキア人とチェコ人が、それぞれ独自の共和国となって、連邦を形成し、一応形の上だけでは平等が実現された。
現在のスロヴァキアの首都ブラティスラヴァで、1991年3月スロヴァキア人による激しい自立要求のデモが起きた。

以上が「ドナウ河紀行」(1991年刊)の記述である。
その後、1993年にチェコとの連邦を解消して独立し、現在の独立国スロヴァキアとなった。

ブラティスラヴァは、ハンガリーがトルコ軍に占領された16世紀から17世紀にかけて、ハンガリーの首都となったことがある。
聖マルティン教会は、多くのハンガリー王が戴冠式を挙げたことで知られている。ブラティスラヴァ城の塔も、かつてはハンガリー王家の宝物殿として使用されていたという。

戻る                            続く

最新の画像もっと見る

コメントを投稿