チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「大奥御年寄江島の門限破りから300年/江島生島事件と暴れん坊将軍」

2014年02月26日 17時51分10秒 | 歴史ーランド・邪図
新宿といえば現在は日本一の繁華街だが、
その名の由来は「内藤新宿」、すなわち、
内藤家の屋敷の敷地に設けられた新しい宿場、
ほどの意味である。甲州街道と青梅街道の追分、
つまり分岐点にあたるロウケイションだった。
宿場設置で削られても内藤家の中屋敷は広大で、
現在の新宿御苑がその敷地庭園だった。とはいえ、
この内藤家は信州高遠3万3千石という
小規模な譜代大名家である。ともあれ、その
内藤家の領地である高遠にお預けとなり、
軟禁の後半生を過ごした大奥御年寄がいた。
預かり役を仰せつけられたほうの内藤家もまだ大阪の
富田林から転封になって間もなかったことや
藩主内藤清枚が死の床に伏せってたという時期だった
(実際、江島到着から2週間後に死去した)ので、藩はこりゃまた
とんだことや、ということになって難儀だったようである。

今日は、その大奥御年寄の
江島(えじま。絵島とも表記されてるものがある。
西暦およそ1681-同1741)が、
月光院(お喜世の方)の名代で前将軍家宣の墓参に出かけ、
門限である暮れ七つより大幅に遅れて帰り、
大奥七ツ口(暮れ七つ=およそ午後4時に閉められる)で
番人ともめた日(現行暦換算1714年2月26日)から
ちょうど300年にあたる日である。

江島一行は、
ベタ踏み坂で立ち往生してしまったから帰りが遅くなった、
というわけではない。ともあれ、
この"門限破り"が老中にまで伝えられ問題となって、いわゆる
"江島生島事件"に発展したのである。当時、
徳川幕府は史上最年少の幼将軍家継の代だった。
老中のような幕閣に加えて、前将軍家宣の側近、
間部詮房や新井白石がのさばってた。
家宣の正室近衛熙子(天英院)には、側室で幼少軍の実母である
お喜世の方よりもそうした者らが目障りだった。
"三河以来"の譜代で構成される幕閣らにとっても
その利害は一致した。
権謀術数がお家芸である藤原氏の娘である熙子にしたら、
いかに優秀なモーレツ官僚とはいえ能役者あがりや学問バカなど
赤子の手をひねる程度のものである。

ウソツキジデス史観に彩られた日教組の反日教師が
無垢な生徒に教える徳川幕府は
"封建的"で"賄賂が横行してた"腐敗政治、というものである。
だから意外だと思われるかもしれないが、
武家政権である徳川幕府がもっとも嫌ったのは、
役人たる武士の収賄だった。幕末に日本を訪れた
西洋人らが驚嘆してる。日本の役人(武士)は、
北京の宦官では当たり前の袖の下を決して受け取らない、と。
ついでに言えば、使用人には驚くことに"休憩時間"が与えられ、
その間に使用人らはなんと本を読んでる(文字が読める)、と。
江島の種違いの兄はその大奥の権威を笠に着て、
出入り呉服商から大枚を懐にしてた。それを
幕府は見逃さないのである。

外に出る機会がきわめて少ない大奥の女中の慰労のため、
上記のような墓参などの際には、御年寄が
そうした部下の女中らを遊山に連れてくのが慣習だった。
歌舞伎見物もそのひとつで、当時、
2代目市川團十郎や生島新五郎といった人気スターの出現で
歌舞伎は隆盛を極めはじめてたのである。
江島一行は木挽町山村座(場所は現在の銀座6丁目、東武ホテル)で
「東海道大名曾我」を観劇した。
幕府にとって忌々しい"仇討ちもの"である。
「仮名手本忠臣蔵」は現在でももっとも大衆に人気の出し物であるが、
「赤穂事件」を最初に扱ったのも、この山村座で、浪士らが切腹した年の
元禄16年に上演した「傾城阿佐間曽我」だった。これらが、
江戸四座でもとくに山村座が幕府に目をつけられた因である。ちなみに、
吉良義周のお預け先も信州の小藩(高島藩諏訪家)だった。

ちなみに、
この江島生島事件の10年ほど前には、
初代市川團十郎が初代生島半六に刺殺されるという事件が起きてる。
その生島半六の師匠が生島新五郎であり、
初代團十郎の遺児(2代め團十郎となる)を後見して
立派な役者に育てあげたのである。

その事件の翌年、
今度は新五郎の実弟で初代の生島大吉が、
尾張徳川家吉通の生母(本寿院)のもとへ
"長持に隠れて通い"密通したかどで捕縛され、
約1年の入牢(つまり、未決拘禁)ののち解放されてすぐ発狂死した、
という醜聞も起きてるのである。なにやら、
この頃からすでに"のちの暴れん坊将軍"の
諜報・智略活動がさかんに行われてたふしがある。

将軍家に跡取りがなくなっても、
本来は出る幕のない水戸家ではある。が、そこに対しても
気を緩めない"のちの暴れん坊将軍"である。
お喜世の方や江島と懇意な大奥医師奥山交竹院は、
水戸家と繋がりがあった。そして、
江島の実母の再婚先である家は
水戸家重臣、そして、その御連枝高松松平家の家老、
白井家の一族なのである。
"のちの暴れん坊将軍"は尾張家だけでなく、
水戸家の名も失墜させとくことも忘れなかった。
こういうタクティクスな政治家が今の日本にもいることが
"あらまほし"である。

ともあれ、
江島の種違いの兄、白井(平右衛門)勝昌は、
大坂破損奉行時代にも入札での収賄がバレて
無役とされた前科があった。こういう人間は
必ずまた悪事に手を染めるものである。
内偵はすでに済んでたのだろう。
江島の歌舞伎への"寄り道"も必至である。あとは、
門限が過ぎるまで"飲ませる"ことだけである。

この件で、幕府評定所が下した処分は、
江島は永々遠流(月光院の嘆願で島嶼ではなく高遠への減刑)。
兄の旗本白井勝昌は斬首。
弟の旗本豊島平八郎は追放。
奥医師奥山交竹院は永々遠流(御蔵島)。
その弟奥山喜内は死罪相当ながら水戸家へ裁量預け(やはり死罪)。
呉服商後藤屋縫之助は戸閉。
その手代清助は永々遠流。
同手代治郎兵衛は所払(居住地以外なら江戸にいてかまわない)。
戯作者中村清五郎(江島と役者を引き合わせた人物)は永々遠流(神津島)。
山村座座元山村長太夫は流罪(伊豆大島)。
役者生島新五郎は流罪(三宅島)。
役者滝井半四郎は追放。
以下、1500人にも及んだ。
大奥でも関連した女中が300人も江戸城から追放となった。これは、
大奥の経費削減派だった"のちの暴れん坊将軍"の意向と合致してる。

江島と懇意で当日も酒宴の接待をしてた役者のうち、
なぜか2代め團十郎だけは微罪で済まされた。おそらく、
幕府内通者で江島の帰りを遅くする役目を担ってたのだろう。
ともあれ、当代きってのモテモテ男だったらしい。
ブーデー、ゲーハーの醜い私はそんな色男になりたや! である。

[浮き世には また帰らめや。武蔵野の 月の光の かげもはづかし]

江島が高遠に護送される際に詠ったとされてる一首であるが、
偽作のにおいがプンプンする。自ら招いた因業の結果に対して、
院号ではあっても仕えた人の名を詠み込んで嘆くなど、
無礼千万なことだからである。むしろ、

[世の中に かかるならひいは あるものと ゆるす心の 果てぞ悲しき]

というほうが本音な感じである。ともあれ、これで
家継に万一のことがあった場合の(その万一が起こるのだが)
将軍後継者の候補のひとり徳川綱條の線は、
その跡継ぎさえいないことも相まってまったく消えた。そして、
おもしろいことに、
この醜聞事件が落着したあと、
大老井伊直該が隠居し、他の老中たちも交替してった。

預けとなった当初は内藤家は江島の扱いにピリピリしたという。
事細かなことまで幕府にお伺いをたてた。が、
"暴れん坊将軍"の代になって内藤家が嘆願した結果、
高遠の囲い屋敷の周囲での散歩が認められ、
いなことにも、内藤家から請われて
城で女中らに作法を指導したりしてたという。

生島新五郎は、
天英院に続いて江島が配流先の高遠で
61歳の生涯を終えた西暦およそ1741年の翌年、
西暦およそ1742年に"暴れん坊将軍"によって赦免された。
その9年前にすでに死亡してたとも、
江戸に戻って翌年に73才で死んだとも言われてる。

不仲を噂されてた天英院と月光院は、家継の死によりともに
吉宗将軍擁立に一役買った。ことに
月光院はその美貌だけでなく才気で
美女に弱くないはずの"暴れん坊将軍"の心をつかんだ。
男をコロがす天性の魅力を備えてたのだろう。
西暦およそ1751年に68歳で"暴れん坊将軍"が死んだ翌年、
月光院も68歳でその生涯を終えた。

"暴れん坊将軍"は江戸の各地に桜を植林したことでも有名だが、
高遠はいま、ソメイヨシノの景勝地として知られてる。
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4 コメント

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私の好みを知らすようで恐縮ですが。。。 (passionbbb)
2014-03-25 00:08:08
>iinaさん、
いつもコメントをありがとうございます。
私は生より釜揚げが好きです。
子供の頃から数年前まで、横浜にも家があって
週末を過ごしてたので、とくに若い頃は日曜などは
江ノ島にはよく出かけてました。たしかに、
干潮時は"白砂"で繋がってました。
橋でなくそこを歩きましたよ。
返信する
うまい ! (iina)
2014-03-22 11:35:41
巧い返信に、感心いたしました。

冬場に、富士山を期待して江の島に行くと、お昼には必ずお寿司屋さんに寄ってお酒をいただきます。

其処で出る「しらすの愛盛り」というのは、生シラスと釜揚げシラスをセットにしています。「不漁」だと駄目ですが、
橋が「不通」でも、干潮のときに礒辺を歩いて片瀬海岸まで渡れますよ。不義密通した者でも区別しませぬ。(^^ゞ
返信する
「シラス」 (passionbbb)
2014-03-15 20:02:30
江島は評定所のお白州で吟味にかけられましたが、
江ノ島ではシラスを銀舎利にかけて食べることができます。
今年は不漁じゃないといいですね。
返信する
江島 (iina)
2014-03-14 08:32:53
江島生島事件を、最新の話題である「江島大橋」のベタ踏み坂とからめる記事はユニークです。

著名人の裏の歴史でも、これほど面白いですから、名もない者たちの話は底が知れず、まさに奥が深いですね。

きのうは、江の島(江島)の話題をアップしました。m(_ _)m


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