チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「光圀はなぜ水戸徳川家を継いだか/将軍継承順位というマクロな視点での長幼の序」

2013年08月07日 16時53分08秒 | 歴史ーランド・邪図

光圀 将軍継承


今週の月曜(一昨日)22時からBS-TBSで放送された
「謎解き! 江戸のススメ」では、
司会の片岡鶴太郎、草野満代女史に加え、
市川左団次がゲストだった。また、
特別ゲストとして国立茨城大学名誉教授なる肩書きの
鈴木瑛一という人物が「光圀研究の権威」として
招かれてた。番組は、
水戸徳川家初代頼房の三男光圀がなぜ
長男の頼重を差し置いて(次男は早世)
二代め藩主となったか、ということについて言い及んだ。
この先生はなんと、
「長男頼重の母親は身分が低かった。そのうえ、
頼重は幼児期に疱瘡(天然痘)に罹って
アバタ面だったので藩主としての格に欠けてた」
みたいなことを仰せになったのである。これはけっして
疱瘡事故ではない。

光圀の母も頼重の母と同じだったことをそっちのけである。が、
ひとまず、以下、
家康を第1世代とした格家の系図の時系列を見ていただきたい。
(生没年は便宜的に現行暦に換算)

1st.家康(1543-1616)(将軍職1603-1605)

【将軍家】
2nd.秀忠(1579-1632)(将軍職1605-1623)
3rd.家光(1604-1651)(将軍職1623-1651)
4th.家綱(1641-1680)(将軍職1651-1680)

【尾張徳川家】
2nd.義直(1601-1650)
3rd.光友(1625-1700)

【紀州徳川家】
2nd.頼宣(1602-1671)
3rd.光貞(1627-1705)

【水戸州徳川家】
2nd.頼房(1603-1661)
[]3rd.頼重(1622-1695)]
3rd.光圀(1628-1701)

これを見れば一目瞭然。
家康の三男秀忠と尾張・紀州・水戸のそれぞれ九男・十男・十一男で年子の
義直・頼宣・頼房たちとは、親子ほどの年齢差がある。
将軍家では第三世代にあたる家光と
いわゆる御三家の第二世代が同世代である。で、
水戸家に頼重が誕生した1622年時点では、
将軍家光に男子がなかったばかりか、
御三家でも水戸家より上位の尾張・紀州にも、
男子が生まれてなかったのである。ということになると、
もし、最下位の水戸家に嫡男が生まれてしまうと、それはただちに、
"将軍継承権第一位"
にもなってしまうこと同じなのである。

水戸徳川家の重臣三木之次(みき・ゆきつぐ、西暦およそ1575-同1646)が、
そうした徳川家の事情を慮って、
頼重を自分の家の子として出産させ、養育した。
光圀も同様に三木が自宅で出産させ、三木の子として育てられた。
この二人が水戸徳川家の子として頼房に"認知"されるのは、
尾張と紀州に嫡男が生まれたあとの
1632年のことである。その翌年、
光圀が水戸徳川家の跡取りに命じられた。ではなぜ、
そこでまた長男を差し置いて三男の光圀を跡継ぎとしたか、
といえば、肝心要の将軍家にはまだ
男子が誕生してなかったからである。とりあえず、
尾張と紀州に男子が生まれたから、その二家には憚ることなく
水戸家の世嗣は決定できた。が、
仮に水戸家が頼重を藩主としてしまうと、
そのまま家光に男子ができないままで終わってしまった場合
……そもそも家光はゲイだったので難儀だった……、
将軍職を継ぐのが御三家の中で石高を採るのか、
藩祖の長幼の順で選ぶのか、
という条件だけだったら尾張家で決まりである。が、
その時点での長幼の序という別の"選択肢"が生じてしまうのである。
その点で、光圀ならば、尾張光友や紀州光貞より「年下」であることが、
問題をすべてクリアしてくれるからである。

頼重は1638年に将軍家光にお目見えを許された。その翌年には
常陸下館5万石を与えられたのである。が、
家光に家綱が生まれた(1641年)翌年の1642年には、
讃岐国高松12万石を賜った。これは
異例な石高である。そこは前年、
「芝愛宕山出世の石段」で有名な曲垣平九郎の主君
生駒高俊の放蕩とその世継ぎ問題のゴタゴタで
生駒家が改易された地だった。かように、
将軍家(家光とその幕閣たち)は、
将軍家を慮って水戸家の跡取りになれなかった
頼重の苦労をねぎらったのである。
頼重の生前の官位は従四位上である。ちなみに、
生駒家の高松ともうひとつの領地だった丸亀には、
やはり将軍家に多大な功労をした
山崎家治が封じられてることも注目に値する。

別段、光圀が優秀だったから水戸家を相続したわけではない。
ただ水戸徳川家というひとつの家だけの問題ではなかったのである。
そうした事実が「こち亀」でも語られてたかどうか、あるいは、
北斗の拳のケンシロウが「頼重はすでに死んでいる」と頼房に言ったかどうかは、
漫画の類を読まない拙脳なる私にはしかとはわからない。
若いころ、もっと漫画を水戸家ばよかった。
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