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チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ポーツマス条約と関税自主権獲得にハリマン事件/小村寿太郎没後100年」

2011年11月26日 23時50分20秒 | 歴史ーランド・邪図
さっき留守録しといたTBSの「世界ふしぎ発見」を観たら、
この前行ってきたばかりの廬山寺を映してた。
[日のもとに、はやらせ給ふ、いはし水。まゐらぬ人も、あらじとぞ思ふ]
10月から始まったBS朝日の新番組「京都1200年の旅」で
市川亀次郎も同寺に行ってた。
紫式部の生家といわれてるところである。
廬山寺は昔は相当に広かったらしい。が、
私は器がちっちゃい野郎なので、人をまず
顔で式部、否、識別する。ロンブローゾ1号2号格付け論支持者である。
どうしても、マイケル・ウッドフォードの顔に
ダライ・ラマ14世同様の胡散臭い印象が重なってしまう。ともあれ、
今日は大江戸探検隊の探検日だった。先週、
マイルチャンピオンシップを外したのがかなり悔しかった。だから、
明日のジャパンカップは相当に真剣に取り組むつもりなので、
今日は夜の飲み会はお休みして早々に帰宅した。ともあれ今回は、
共立女子学園1号館(「大学南校」跡)、
文京区水道のトッパン村(旧小石川区水道町)、
内幸町の富国生命ビル&日比谷国際ビル(旧飫肥藩伊東家上屋敷跡)、
外務省、青山霊園、神宮球場(旧飫肥藩伊東家下屋敷跡)、
という行程だった。旧小石川区水道町は、
小村寿太郎(1855-1911)が新婚生活を送った借り家と
嫁の実家があった町である。ともあれ、最後の神宮外苑では、
バッティングドームで軟球を打ってきた。そのとき、
いっしょに打つのに興じた隊員が足がつってしまった。
すごく痛がってた。が、私は生まれてこのかた
こむら返りというものを経験したことがないので、
その痛みが解らない。

解らないといえば、
宮内庁が女性宮家創設検討を野田に要請した、
という報道が昨日なされてた。そのときの街中インタヴィューで、
70代とおぼしき男性が、
「今までにだって女帝はいたじゃないですか」
30代とおぼしき女性が、
「女性の天皇もあっていいんじゃないですか。むしろ、
なぜ女性の天皇じゃいけないのか解らない」
などと言ってた。解らないのはこいつらのことである。
無知蒙昧このうえない。皇統は男系でなくては意味がない、
ということを知らない。それは
性差別などという次元にはなじまない問題である。
それはさておき、
旧幕臣で維新後に宮内省職員となった朝比奈孝一の
16歳になる娘町子を1881年(明治14年)に嫁にしたのが、
当時一介の役人だった小村寿太郎(当時26歳)である。
小村は安政2年(およそ1855年)、現在の宮崎県日南市に
飫肥藩5万2千石伊東家の家臣の家に生まれた。
小藩伊東家の家臣の中でも「18石」という下級武士である。
豊前中津藩奥平家の家臣で「13石2人扶持」を恥じてたが
維新以降大金持ちとなった福澤諭吉とほぼ同等の貧乏侍である。
寿太郎は藩校で成績優秀だったため、長崎留学を果たした。が、
維新、版籍奉還。そして、全国から優秀な武士の師弟を集めた
「大学南校」の一員に選ばれた。そこで
席次2位(首席は美作勝山藩出身の鳩山和夫=ルーピーの曾爺さん)
となって、ハーヴァード大留学、という勉学エリートとなった。
帰国後、司法省に任官。そして、朝比奈町子と結婚し、
大坂控訴裁判所判事となったのである。が、
薩長閥が占める中で小村は小藩出身の無派閥。
省内での評判は必要以上によろしくなく、
「大学南校の秀才も凡物に化した」
と見くだされてたという。そんな中、
表向きは「英語と法律に長けてる」ということで、
外務省に出される。そして、そこでも上司を批判し、
「翻訳」の仕事という冷や飯を食わされることになる。ベイブ・ルースを
グラウンズ・キーパーとして使ってるようなものである。さらに、
父親の事業が失敗して小村家は破産する。小村は無派閥のうえに、
この借金苦というハンデも大きくなった。さらに、
良家出身の美人妻は家事一切をやらず、
観劇・社交にいそしむ悪妻だったため、小村は
酒と女買いにのめり込んでくのである。なにしろ、
多重債務総額1万数千円、というから今の価値で
数億円の有利子負債である。オリンパスに頼む以外、
月給150円の小村の生活が立ちゆくわけがない。
友人や旧主君伊東家のはからいで債務整理がなされた。が、
月給の3分の2は返済に充てることになって、相変わらず
生活は苦しかった。外務省なのに内職をせざるをえなかった。
翻訳業である。が、さらに追い打ちがかかる。
翻訳局が行改で廃止されることに決まったのである。それでも、
小村は相変わらず「ただ酒」にあずかりに、省内の
酒宴に呼ばれもしないのに図々しく出かける。が、
新任の外務大臣陸奥宗光の歓迎宴会で、
他の誰も知らない漢詩について語った。
窓際族の木っ端役人がそんな博学であるのを
陸奥は驚嘆をもって聞いたのである。そうして、
小村は陸奥の関心も引き感心もかった。そして、
陸奥の声がかりで、清国公使館参事官のポストを与えられた。が、
西欧の公使館に比べて低い地位である。とはいえ、
すでにアラフォーで行き場のなかった小村には
渡りに船、渡哲也にくちなしの花、である。そして、
その壮行会の席で今度は英国の綿糸紡績の話題になった。
小村が内職で翻訳してたことで得てた「紡績」の知識を
陸奥にすらすらと話した。すると、
陸奥はそんなことにまでお前は精通してるのか、
とあきれるほど感心したという。
それからの小村はそれまでの窓際の父ちゃんが嘘のように
出世してった。大隈大臣の外務次官、
アメリカ公使(このとき、川上音二郎を歓待した)、
ロシア公使、大清公使、そして、
1901年には外務大臣にまでのぼりつめる。翌年、
日英同盟締結。その功績で、男爵叙爵。
18石の貧乏侍が華族にまで出世したのである。
のちには伯爵、侯爵とのぼる。そして、
"そのとき"……ポーツマスでの講和会議……はやってくる。

弱体化した清を気にせずロシアが朝鮮半島を手中に
収めようとしてるのは米英の案ずるところだった。が、
英国は対印・対清で、
米国は対中南米、対フィリピンで手一杯だった。なにより、
能もないのにプライドだけは高く不衛生で恩義を知らない
当時の朝鮮人に対してセオドア・ルーズヴェルトは
関わりたくなかったらしい。そこで、
日本に"朝鮮を任せる"ことにしたのである。まず、
日本は"眠れる獅子"大清国を負かした。そして、
朝鮮を独立国として認めさせた。次いで、
軍事力・財政力で圧倒的に有利なロシアまで破った。が、
一杯いっぱいだったのである。それを知ってた
ロシアの全権大使ヴィッテは、講和会議の決裂も辞さない腹だった。
即時、再戦闘態勢だったのである。そこには、
斡旋者である米国大統領セオドア・ルーズヴェルトの思惑もあった。
やっかいな朝鮮半島を日本に任せるといっても、
日本に強大化されても困るのである。いくら、
かつて蒙古人に200年も支配された白人の面汚しロシアでも、
白人は白人である。しかも、
ヴィッテはロシアの貴族のほとんどが"帰化人"であるように、
「オランダ人」だった。ルーズヴェルトは
"The Loyal Ronins(忠臣蔵の翻訳本)"を通読してたくらい
"日本通"だったが、自身もオランダ系である。
ルーズヴェルトは「同胞」であるヴィッテに日本の情報を伝え、
ヴィッテはマスコミに会議内容をリークして世論を味方に付けた。
小村は全権とはいえ常に東京からの指示でしか
動けなかったのである。

が、
ポーツマス条約が締結されるちょうどそのとき、
米国ユニオン・パスィフィック鉄道の
Edward Henry Harriman(エドワード・ヘンリー・ハリマン、1848-1909)が
来日してた。同人は日露戦争で募集された日本の公債を
1千万円も引き受けてた。つまり、
日本が勝つと"判って"たのである。そして、
条約で日本に譲渡された東清鉄道のうちのいわゆる
南満洲鉄道の共同経営を持ちかけたのである。
ハリマンはこれを手がかりにユーラシア横断鉄道の開拓を目論んでた。
実現されれば莫大な利益を生み出す。
対ロシア戦で国家予算の6倍もの戦費を浪費して金欠だった
桂太郎内閣は渡りに船、渡哲也に大門軍団、とばかりに、
即座に"合意"に達し、覚書が交わされる。
同人とその相棒の戦時公債引き受けによって、
日本はロシアに勝てたのである。
マフィアの資金力で大統領選に勝てたケネディ兄弟の当選後の
マフィアへの仕打ちがどういう結果をもたらしたか、
考えなくても小学生にだって解る。だが、
それを知った小村は弱る体ながらに猛然と反発し、
帰朝(小村帰り)と同時に桂首相に詰めよる。そして、
一方的に"覚書破毀"を通告させ、清にも手を回して
日清以外の第三国を閉め出させてしまう。
ハリマンが激怒したことは言うまでもない。これ以降、
米国は日本を目の敵にするようになるのである。
日本を永久に経済奴隷にする腹を決めたのである。
今年、問題になった「原発」も、米国の
エネルギー政策・経済の一環である。それは、
冷戦時代にやがてなくなる「石油」にまだまだ多くを依存してる
中露に対抗するものだった。米国の先兵とされてる
日本の原発は米国から押し付けられたものである。

飫肥藩5万2千石伊東家の上屋敷の隣は、
津和野藩亀井家の上屋敷だった。そこは現在、
新飯野ビルと中日新聞東京本社(東京新聞)とになってる。
愛宕通りを挟んでそのまた隣が、
我が松代藩真田家の上屋敷跡である
経済産業省である。そこらへんはいま、
"原発反対派"の連中が汚いテントを建てて立てこもってる。
原発は危険だし、それがいま日本に禍してるのは確かである。が、
即時廃止、などとは是非もないことなのである。
"原発即時廃止"というなら、米国に一戦挑んで勝つか、あるいは、
その代替エネルギーを開発してみたらいい。
自然エネルギーなんて声高に叫んでも、それは
焼け石に水、力石に通るはずもない子供騙し程度の策であり、
自らの無知蒙昧をまき散らしてるようなものである。
TPPも同様である。日米戦争に負けた日本は米国の経済奴隷であり、
米国の意に反することは通らない。
天皇制反対論者で共産党員からの転向者という海千山千のナベツネに
清武が叶わないのと同様である。
現在の"外務大臣"は尖閣諸島は中国に差し上げればいい、
と言ったらしい。かつて、
阪神タイガーズの江本孟紀は、
「ベンチががアホやから野球がでけへん」
と言って引退したというが、
「現場がアホやから外交がでけへん」
というのが民主党という名の貶日売日政党に投票した
アホな現在の日本の実情である。
東京競馬場並みのタイムで凱旋門賞をぶっちぎった
3歳牝馬のデインドリーム号の前に日本馬勢は枕を並べて沈む、
という気配がオビてきたようである。それはともかくも、
1911年、小村はかねてからの念願だった関税自主権を
各国からとりつけることに成功する。前年の
日韓併合の功績で侯爵にランクアップされた。が、
そのときすでに小村の体は弱り切ってた。
外務大臣を辞任してわずか3箇月、
葉山の別荘で息をひきとる。次男の手を握り、
「お前は体が弱い。どうか体を丈夫にして
ひとかどの人物になってくれ」
という内容の言葉をかけたという。
死に至る病については、
詳しく書かれてる書物はないが、私見では
腸結核だったのではないかと推察する。
小村の遺体は逗子駅から新橋駅まで鉄道で運ばれ、
外務省を経由して青山葬儀場に置かれ、そこで
葬儀が行われた。棺には、
愛読してたテニスンの詩集が収められたという。
夫が死んだとき、妻、町子は精神を病んでて、
小石川原町(現在の文京区千石)の本宅に
押し込められてた。それから26年後の昭和12年、
72歳で他界する。現在、
小村の直系は絶えてるが、弟の家系が"女系"で続いてる。
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