チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「コミュニスムとカミュニスム...サルトルでもわかるカミュ(其の参)/アルベール・カミュ生誕100年」

2013年11月07日 18時18分23秒 | 事実は小説より日記なりや?
本日は、小説家の
Albert Camus(アルベル・カミュ、1913-1960)の
生誕100年にあたる日である。
いわゆる知的階層の出であるサルトルとは違って、
カミュは文盲一家のような生まれである。
この色男(カミュ)と醜男(サルトル)の二人は当初は意気投合したが、
インテリ・バカに特徴的な、左翼"嗜好"に傾くという典型のサルトルが
マルクス主義に染まったことで決別した。
1952年にはいわゆる「カミュ、サルトル論争」が戦わされる。
何が齟齬ってたかといえば、サルトルが
自己流実存主義思想と共産主義思想をごっちゃにして
へっちゃらヅラをしてたからいけないのである。
ヒトにとって生きる意味、なんて「ない」のである。それにまた
「実存は本質に先立つ(これ、まったくの間違った認識)」などという
くだらないことを提起したのがサルトルである。が、
このようなのに「知性」を感じて崇拝してしまうのが続出して
ある種のブームとなった。これがまた、
どこぞのノーベル賞欲しがり屋のような"作家"のファンがいっぱい生まれる、
というだけで済んでたらそれはそれで微笑ましい光景だったのだが、
その思想を書き物の世界だけに留めず、
哲学、政治、といった範囲にまで及ばそうというのだから厄介者である。
ヒトはいつか死ぬのだからその限りある生で何をなすべきなのか?
と、自己の存在意義とは? などと無駄なことを思いめぐらす。
同じ電車の同じ車両に乗ってて、しかも隣どうしであっても、
カーヴでスピードの出し過ぎでマンションに衝突して車両がペチャンコになっても、
片や死に、もう一方は生きてる、といった不条理は、
サルトル大先生の実存主義のみならず、いかなる思想・哲学でも
説明できないのである。
どこかで大きな災害が起こると、被災者のことを考えろ、
などと正義漢ぶったきれいごとをほざくのが大手を振る。
そんなに見ず知らずの被災者がかわいそうというなら、
自分の家を明け渡して住まわせればいい。
「王子とトム・キャンティ」のようにその立場を入れ替えたらどうだ。あるいは、
ありとあらゆる有り金・財産を寄附したらいい。だが、
そうした人物がいたという話はひとたりとも聞いたことはない。
偽善者どもめ。
日本でもサルトルに憧れたのは、いわゆる戦後のそうした知的文化人どもである。
サルトルの実存主義なるものの「反社会性」「自由」「権利」嗜好が、こうした類にウケた。
日本を貶める方向だけに熱心なウソツキジデス史観の連中である。いっぽう、
インテリを鼻にかけるそうした輩は、カミュのような、
知的階級とは無縁の世界から成り上がった"ブルジョワ"流行作家には
冷たい視線さえ送りはしない。
いくら考えても不毛なことをイマジンしてれるヒマジンが
サルトルだったのであり、無用の長物だった、
というだけのことである。少なくとも
サルトルとカミュのいずれかだったら、後者のほうがはるかに真理に近い。

カミュの小説でヒットしたものに
"La Peste(ラ・ペスト=天然痘)"
がある。フランス領時代のアルジェリアのワラン市がペストに汚染され、
封鎖される。そして、市民はペスト撲滅に向けて立ち上がり、
患者が一人もオランようになるまでの話である。その中に、
カミュお得意の不条理がちりばめられてる。
この小説からわりと引用されてるのが、以下の一節である。

"Le mal qui est dans le monde vient presque toujours de l'ignorance,
et la bonne volonte peut faire autant de degats que la mechancete,
si elle n'est pas eclairee."
(ル・マル・キ・エ・ドン・ル・モンド・ヴィヤン・プレスク・トゥジュル・リニョロンス、
エ・ラ・ボヌ・ヴォロンテ・プ・フェル・オトン・ドゥ・デガ・ク・ラ・メションステ、
スィ・エル・ネ・パ・ゼクレレ。)
「(拙大意)この世に存在する悪はほとんどの場合が無知に由来し、
善意は、それが見識に裏打ちされたものでなければ、
悪意と同じだけの害をおよぼすこともありうるのだ」

フランス語peste(ペスト)はラテン語のpestis(ペスティス)が語源である。
pestis←打ち負かす(圧勝する)←(postis(支柱、杭、竿)で)一撃をくらわす
圧勝するということは、勝者の力がおしなべて及ぶことを意味する
→押し広げられる→流行→疫病→疫病の王者天然痘→害虫、厄介者
 ↓
pasta=(小麦粉を)押し広げて練ったもの→パン生地、麺

不条理とはたとえば、金があれば命が助かりなければ助からないこともあるが、
かといって金持ちにだけ雨が降って庶民には降らない、ということもないし、
降雨の境界にいる場合は金でその位置を交換することもできるし、
それがかえって徒となることもあれば、そもそも交換できないこともある。
つまりは、
ヒトぞれぞれが自分の思いどおりならないことがあれば、
それらはすべてが不条理なのであって、
それが本来の不条理なのである。だから、
小難しいことをいちいちとらえて
不条理だの何だのと御託を並べてもまったく意味のないことである。
「死ぬ者貧乏」
という言葉以上に不条理を語っても無意味である。とはいえ、
そういう私も不条理な目に遭うよりは、
アンジェリーナ・ジョウリ女史から下腹部をギュウギュウと顔面に押しつけられて
タトゥーの文字を左右逆版に転写されるほうがよほどいい。
"quod me nutrit, me destruit"
(クオド・メ・ヌートリト、メ・デーストルイト)
「私を育むものが私を壊す。
(拙大意)"今日の友は明日の敵"」
巷の対人関係でもっとも危険なのは、
優しい言葉をかけてくれる人や親身になって話をきいてくれる人、
それ以上に、実際に親切にしてくれてる人である、
ということに多くの人は気づかない。いずれにしても、
頭髪同様に他人との関係性も薄い、何事も
右から左へと聞き流してしまう拙脳なる私には、
条理も不条理も御不浄痢もまったく縁のない話ではある。
私はツベルクリンよりはバスクリンのほうが好きだが、
カミュはペストというよりはチュベルキュロズという感じである。
交通事故で自爆しなくても、死はそう遠くはなかったはずである。
小説も芸術の端くれなのだとしたら、
世間一般常識的な凡人が書いた物では、
何のありがたみもない。
芸術家が長寿をまっとうしてどうなる
(そもそも長寿をまっとうするのは芸術家ではないが)。
常識的な人生を送ることができず破天荒で短命だったから、
残した物に光るものがあれば、そこに意味があるんじゃないか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「悲愴交響曲第4楽章提示部の... | トップ | 「血塗られた土曜日と119番の... »

コメントを投稿

事実は小説より日記なりや?」カテゴリの最新記事