チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「虚栄の市と土瓶蒸しの季節/ウィリアム・メイクピース・サッカリー没後150年」

2013年12月24日 18時18分58秒 | 事実は小説より日記なりや?
この10年はあまりオペラは観にいかなくなったが、それでも
初台の東京オペラ・シティに出向いたおりには、たいてい、
旭鮨総本店で食事をとる。頭髪と稼ぎが薄いわりに、
そういったスノッビーの生活を送ってる私である。
ともあれ、そこで注文するコースの中に、
フグの土瓶蒸しが出てきたりする。だから、
松茸がさほど好きでない(味はともかく、あの臭いが不得意で)
私にとっては、土瓶蒸しは秋よりむしろ冬のものである。

本日は、現在の日本ではほとんど読まれないが、
ノヴェリストとなるべくして生まれたような名前の英国の小説家、
William Makepeace Thackeray
(ウィリアム・メイクピース・サッカリー、1811-1863)
の没後150年にあたる日である。
同人が日本で読まれないのは、その代表作、
"The Vanity Fair(ザ・ヴァニティ・フェア=虚栄の市)"
でさえ、反日貶日左翼岩波書店の読みづらいこと極まりない
文庫からしか和訳本が出てなかったこともあるかもしれない。
もうひとつに、
19世紀英国の社会や文化・風俗など、
現在の日本人が興味を持つはずもないことがある。
10世紀(平安期)の日本の貴族なら、
[スノッブれど、色に出でにけり。我が恋は、物や思ふと、人の問ふまで]
と、多少は関心を寄せたかもしれないが。
スペイン・ポルトガル、オランダ、フランス、ロシアなどを抑えて、
世界を支配したアングロサクソンの思想・風俗などを知覚するのに
もっとも近くにあるのが小説なのに、
それを読まないなどというのはもったいない話である。

世の中には1万発の銃弾を恵んでくだせぇ、
と言っといて、いざもらったら、
アニー、そんな要請トゥンしてないッソヨ、などと
恩知らずを通り越してふてぶてしい民族が現に存在してるらしい。
誇れるものなどなにもないくせに、虚勢だけは張るのだという。
乞食でも物を恵んでもらったら、
「ありがとうごぜぇます」
と頭をさげて礼を言う。
乞食にも劣る性根の、改善の余地がない醜いクズなんだそうである。

さて、
"The Vanity Fair(ザ・ヴァニティ・フェア=虚栄の市)"は、
全67章から成る長編である。このタイトルは、
John Bunyan(ジョン・バニヤン、1628-1688)の宗教的寓話、
"The Pilgrim's Progress"
(ザ・ピルグリム'ズ・プログレス=巡礼者の進歩。邦題=転路歴程)
に出てくる同名の町の名、
"The City of Vanity(ザ・スィティ・オヴ・ヴァニティ=虚栄の町)"
から採られた。
"City of Destruction(破壊の町)"のChristianという男が、
"The City of Vanity"を経て、
"The Celestial City(天国)"へと、
出世魚のごとくプログレスしてくお噺である。

サッカリーの小説は、上流階層への風刺だとされてる。それはともあれ、
Amelia Sedley(アミーリア・セドリ)嬢
Rebecca Sharp(レベッカ・シャープ)嬢
Rawdon Crawley(ロドン・クロリ)
William Dobbin(ウィリアム・ドビン)
という4人の女男を中心に展開されてる。

アミーリアは父親が成功した商人(稼業が「競取り」というわけではない)の
中産階級の娘、レベッカ(愛称はベッキー)は下層階級の娘である。
そんな二人が同じミス・ピンカートン'ズ・アカデミ(良妻養育寄宿女学校)
を終えるところから物語は始まる。
死んだ父親が絵の教師だったのと、母親がフランス人の踊り子だったことから
フランス語ができるベッキーは、それを生徒に教えるという交換条件で
その女学校に入れてもらえた、という設定である。そして、
その出自にふさわしいように、野心と上昇志向が強い、
金と権力を持つ男を踏み台にしてのし上がろうとする、
現在でもそこらへんにウジャウジャ湧いて出てくるタイプの女性である。いっぽう、
アミーリアは人格優れ、誰からも好かれる世間知らずのプチ・ブル娘である。が、
ドビンがいついかなるときも助けてやってることに
まったく気づかないドアホウ女でもある。

サッカリーが優れてたのは、
そうした対照的な女性像を作り上げながらも、
完全なステレオタイプの人格としなかったことである。
人間はただ善悪だけで分けれるものでもない。
清濁併せ持つことはいうまでもなく、もっと複合したものである。
アミーリアを終始慕いつづける男性にドビンという人物を充てた。
dobbinとは「農耕馬」を意味する語である。つまり、
人の言うがままに働き続ける労働家畜のように、
他者のために献身することを生きがいとする、
モテない男である。作者サッカリーや私のような
ブサイク野郎の分身である。が、

全67章のこの小説の終わり近くの第66章、
"Amantium Irae(アマンティウム・イーレ=思いあう者たちの諍い)"で、
ドビンは慕いつづけてきたアミーリアに対してこう言う。

"No, you are not worthy of the love which I have devoted to you.
I knew all along that the prize I had set my life on was not worth the winning;
that I was a fool, with fond fancies, too, bartering away my all of truth and ardour against your little feeble remnant of love.
I will bargain no more: I withdraw.
I find no fault with you.
You are very good-natured, and have done your best,
but you couldn't...you couldn't reach up to the height of the attachment which I bore you,
and which a loftier soul than yours might have been proud to share.
Good-bye, Amelia!
I have watched your struggle.
Let it end.
We are both weary of it."

(カタカナ発音は省略)
「(拙大意)いいえ、あなたを献身的に愛してきたけれど、そんな価値はなかった。
はじめから解ってたんですよ。私が人生を賭けたご褒美が手にするだけの価値もないということも、
妄信的な恋心で私の誠意のすべてとあなたのほんのわずかばかりの愛情の残飯を交換しようとしてた私が愚か者だというこ
とも。
もう二度とあなたに関わりません。手を引きます。
(でも)あなたを非難するつもりは毛頭ありません。
あなたは優しい人です。(いつでも)できうるかぎりのことはしてくれました。
でも、あなたに違ってた……違ってたんです。
あなたに抱いてました。あなたが私の理想の愛情の高みにまで昇ってくれてそれを共にすることを誇れる人だという期待を。
(でもそれは)あなたよりも高邁な精神の人にしかできないことだったんです。
さようなら、アミーリア!
あなたの人生をいままで私は見つめてきました。
(でも)お終いにしましょう。
お互いにもううんざりなんですから。

とはいえ、
結局、ドビンはアミーリアを伴侶とするのである。対して、
頭髪も稼ぎも薄く容姿醜悪なのに性根はvanity(虚栄心)の塊のような
スノビッシュな私にはエスツェットはもちろんのこと、
気にかけてくれる情け深い星humanityの姉さん明子のような女性もいない。
今年のクリスマス・イヴも、
[あしひきの遊女の金の引き出しも残高なしにひとり寝かもね]
独り寝の足先冷えて露の夜半読書にうつつ今サカリーなり、
という侘びしい時を過ごすのである。
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