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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月23日・川上宗薫の誠実

2024-04-23 | 文学

4月23日は「サン・ジョルディ」の日。スペインのカタロニア地方では、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る日だが、この日は作家の川上宗薫(かわかみそうくん)の誕生日でもある。

川上宗薫は、1924年、愛媛の宇和(現在の西予市)で生まれた。父親はキリスト教のメソジスト派の牧師だった。本名は、漢字表記はペンネームと同じで「むねしげ」。
子どものころから引っ越しを繰り返し、長崎の中学、福岡の高校に通った。17歳のとき日米開戦を迎え、20歳のとき、長崎の陸軍連隊に入隊した。入隊後は肋膜炎を患い、入院したが、その入院中に、長崎への原爆投下によって、母親と二人の妹を失った。
敗戦後、22歳のとき九州大学に入学。はじめ哲学科、後に英文科へ移った。学生結婚をし、大学に通いながら高校で英語の授業を教え、文芸部で小説、俳句を書いた。
大学を卒業後、高校教師となり、千葉へ引っ越して、高校で英語を教えながら、小説を書いた。30歳から36歳にかけて『その掟』『初心』『或る眼醒め』『シルエット』『憂鬱な獣』で5度、芥川賞候補になった。が、受賞は逃しつづけた。その期間の受賞者には吉行淳之介、遠藤周作、石原慎太郎、開高健、大江健三郎、北杜夫がいる。
35歳のころ、友人だった水上勉の小説を、知り合いの編集者に推薦すると、すぐに本になり、水上勉は急に売れっ子になった。川上は追い越された嫉妬を茶化した小説を発表し、水上も恩人の川上を揶揄した小説を書いて応酬し、両者の仲は険悪になった。ケンカの影響で川上は文芸誌に原稿を受けとってもらえなくなり、すでに教師をやめ、執筆業に専念していた川上は窮した。彼は官能小説の分野に本格的に進出した。過去の体験の上に、さらに体験取材を重ねて、実体験に基づく官能小説を書きつづけて、その分野の大家となった。
1985年10月、リンパ腺がんのため、東京の自宅で没した。61歳だった。

牧師だった川上宗薫の父親は、原爆によって妻子を失ったため、キリスト教への信仰を捨てたそうだ。牧師の子だった川上と、寺の小僧だった水上勉が友人同士で、二人ともひじょうに女好きで、性欲が旺盛だったのは、とても興味深い。
一方は何度も候補にあがりながらついに芥川賞をとれず、一方は直木賞をとった。受賞の有無が大きくその後の方向性を分け、一方はやわらかい小説を、一方はかたいものを書くようになった。ただ、どちらも流行作家で、プライベートでモテモテで女性関係が忙しかったのは共通していた。

川上宗薫と水上勉の両作家とも好きで、自伝的な川上の『わが好色一代』や水上の『フライパンの唄』なども楽しく読んだ。水上が川上を皮肉って書いた『好色』も読んだ。そのほか、吉行淳之介や小林秀雄がらみの逸話もすこし知っていて、二人の人生経緯をながめると、感慨深いものがある。
どちらも小説家だからうそつきにはちがいないが、文章から、川上宗薫のほうが誠実で、より信頼できる人とわかる。仲たがいしていた二人は後、川上が45歳のころには仲直りしたそうだ。ちょっとジョン・レノンとポール・マッカートニーに似ている。
(2024年4月23日)



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