1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月21日・セルゲイ・ブリンの大移動

2022-08-21 | ビジネス
8月21日は、英国の画家、ビアズリーが生まれた日(1872年)だが、実業家、セルゲイ・ブリンの誕生日でもある。いまをときめくグーグル(Google)の創業者のひとりである。

セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ブリンは、1973年、当時ソビエト連邦だったロシアのモスクワで生まれた。父親は数学教授だった。
セルゲイが6歳のとき、ソ連での差別や制約の多さに嫌気がさし、一家は米国へ移住。父親はメリーランド大学の数学教授になり、母親はNASA(米航空宇宙局)の研究員になった。
セルゼイはメリーランド州にあるモンテッソーリ教育法を採用する学校に学んだ。
9歳から自分のコンピュータに親しんでいたセルゲイは、メリーランド大学でコンピュータ科学と数学を修めた後、スタンフォード大学にの修士課程に進んだ。そこで彼はインターネットのデータ解析技術について研究し、22歳のとき、同い年のラリー・ペイジという学生と出会った。米国ミシガン州出身のペイジも同様の研究をしていて、二人はコンビを組み、いっしょに研究するようになった。
二人はインターネット上のリンク構造をダウンロードし、リンクの跡をたどるという大規模な研究をはじめ、大学のコンピュータ機能のかなりを占領し、大学のシステムを停止させるなど周囲の不評を買いながら研究を進め、ついに、張られたリンクの数をもとにしてページランクを表すプログラムを開発した。それをもとに検索エンジンを作った。二人は改良を重ねて、25歳のときに論文を発表し、投資家から100万ドル(約1億円)を集め、法人を立ち上げた。彼らは、数学の10の100乗を表す「googol」というドメインを得ようとして、申請のときにつづりをまちがえて「google」のドメインを取得した。
法人事業開始に際して、彼らはスタンフォード大学のサポートを受けるかわりに、株式の一部を大学に渡し、大学側は後にそれを売って大きな利益を得た。
ガレージ(車庫)で5台のコンピュータからはじまったグーグルは、改良を重ねながら利用者を増やし、人員と設備を急激に拡大させていき、開始1年後にはさらに2千500万ドル(約25億円)の投資を得たが、それもたちまち枯渇しかけた。グーグルは、膨大な数の人々が利用する巨大検索サイトとなっていたが、なかなか収益を上げられなかった。
彼らが28歳のとき、ノベル社のCEOだったエリック・シュミットをCEOに迎え、グーグルは新しいスタイルの広告をはじめた。それまでは、サイトにリンクの張られた画像が貼ってあるバナー広告や、新しいページが開くポップアップ広告が主流だったところ、グーグルは、キーワードを入力して現れる検索結果のわきに、同じキーワードによる広告が並ぶようにし、その広告の権利を、誰もが買えるオークション形式で売りだした。
グーグルは莫大な広告収入を得る優良企業に変身し、ブリンたちが31歳のとき、ナスダック(NASDAQ)に上場、株式公開した。大株主であるブリンは億万長者となった。
ブリンはグーグルの親会社であるアルファベット社の社長を務めているが、ラリー・ペイジと同時期に退任するであろうことを宣言している。
世界的な株高傾向もあり、2021年4月時点で、ブリンの資産は約1000億ドル(約10兆円)と見積もられている。

グーグルはアンドロイドを開発し、グーグルマップやストリートビューを公開し、ロボット研究を進めている。車庫で検索エンジン・サイトからスタートした企業が。
制約の多かったロシアから米国へ移ったからいまのブリンがあることを思えば、やっぱり、現在の環境に不満があったら、思い切って飛びだすべきである。
(2022年8月21日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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8月20日・ロバート・プラントの姿

2022-08-20 | 音楽
8月20日は、幕末の風雲児、高杉晋作が生まれた日(天保10年8月20日)だが、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のヴォーカリスト、ロバート・プラントの誕生日でもある。

ロバート・アンソニー・プラントは、1948年、英国イングランドのスタッフォードのウェストブラミッジで生まれた。
ロバートはエルヴィス・プレスリーにあこがれる子どもだった。会計士を目指して勉強していたが、学校をやめ、16歳のころ、家を出てブールス音楽の世界に身を投じた。
シンガーとしてさまざまなバンドを渡り歩いた。下積み生活のなかで、同棲相手が妊娠したときには、一時はふたたび会計士の勉強をはじめようと考えたこともあったらしい。20歳までに芽が出なかったからあきらめようと、アルバイトしながら音楽を続けていた20歳のとき、バンドの新しいボーカリストをさがしていたジミー・ペイジのオーディションを受けた。彼らは意気投合し、プラントがドラマーのジョン・ボーナムを推薦し、ボーナムを強引に説得して仲間に引き入れ、さらにベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加えて、新バンド「レッド・ツェッペリン」を結成した。バンド名は「鉛のツェッペリン号(飛行船)」の意味で、どうせすぐに落ちるだろうさ、というジョークだった。
レッド・ツェッペリンは米国でコンサート・ツアーをおこない、それからデビュー・アルバムを発売した。アルバムは発売前の予約だけで5万枚売れたというから、当時のツェッペリンのライブの魅力たるや恐るべしである。
レッド・ツェッペリンは、シングル盤でチャートをねらうのでなく、ライブとアルバム(LP)で売っていこうとする新しいスタイルのバンドとして成功し、「レッド・ツェッペリン II」「レッド・ツェッペリン IV」「プレゼンス」などの名盤を発表し、世界的なビッグバンドとなった。
プラントが29歳のとき、息子がウイルス感染によって死亡し、彼は精神的に立ち直れないほどに落ち込んだ。
そして、プラントが32歳のとき、ドラムのジョン・ボーナムが泥酔した挙げ句にのどを詰まらせて窒息死すると、レッド・ツェッペリンは解散した。
バンド解散は、しばらく沈黙を間も手いたが、やがてプラントは音楽活動を始め、ソロアルバムを発表し、ツアーをおこない、ジミー・ペイジと共演するなど、活動を続けている。

レッド・ツェッペリンの楽曲の作詞・作曲には、プラントとペイジがかならずかかわっている。有名な「天国への階段」もプラントとペイジの共作である。ペイジが曲を書き、プラントが詞をつけるのが基本スタイルらしい。
以前、こんな話を聞いた。レッド・ツェッペリンが人気を博していたころ、元ビートルズのジョージ・ハリスンが、プラントやペイジに言った。
「きみらのバンドは、バラードはやれないだろう?」
カチンときた彼らは、それで「天国への階段」を作ったのだという。結局ジョージ・ハリスンは正しかった。

ロバート・プラントは、高音域の出るハスキーでパワフルなボーカルスタイルでポップミュージック衝撃を与えた。世界中の若者が、彼のボーカルスタイルをまねした。
彼のブロンドの長髪、スリムなからだの胸元をはだけて歌うそのパフォーマンスは、ロックのアイコンになった。自分の姿がひとつのスタンダードになるのはすごい。
(2022年8月20日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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8月19日・アーサー・ウェイリーの知性

2022-08-19 | 文学
8月19日は、ファッションデザイナーのココ・シャネルが生まれた日(1883年)だが、英国人、アーサー・ウェイリーの誕生日でもある。『源氏物語』を英訳した人である。

英国の東洋学者アーサー・デイヴィッド・ウェイリーは、出生時の名前はアーサー・デイヴィッド・シュロスといい、1889年、英国イングランドのケント州タンブリッジ・ウェルズで生まれた。父親は経済学者で、アシュケナージ系のユダヤ人の名門出身だった。
名門私立校のラグビー校をへて、ケンブリッジ大学キングズコレッジに進んだアーサーは、古典学を専攻した。
大学での成績は優秀だったが、目の疾患のため21歳になるころ、退学した。
商社に勤めた後、大英博物館の学芸員の職を得て、そこで働きながら中国語の古文や日本語の古文を勉強した。ロンドンに滞在していた日本人に日本語を習ったこともあったらしいが、日中の古文は独学だったという。
彼が25歳になる年に第一次世界大戦がはじまると、英国はドイツと敵国になり、「シュロス」というドイツ系の名がスパイの嫌疑をかけられるもとにもなり、彼ら家族は姓を「ウェイリー」に変えた。これにより彼はアーサー・デイヴィッド・ウェイリーになった。
ウェイリーは29歳のとき『漢詩百七十首』を英訳し、翌年に『日本の詩「歌」』を英訳紹介し、続けて日本の能楽も英訳紹介した。
そして、39歳で『枕草子』を英訳し、40歳のころ、大英博物館を退職した。
44歳のとき労作『源氏物語』の英訳全6巻を完成させたウェイリーは、第二次世界大戦中は情報省に勤務し、ロンドンにいる日本人ジャーナリストや在英国日本国大使館の文書や通信を英訳、分析していた。
戦後も、日本の古典文学のほか、中国の漢詩、『論語』『老子』等の哲学を英訳し続けたウェイリーは、53歳のころ『西遊記』も英訳、紹介している。
大戦後はこれといった定職に就かず、日本、中国の文献を英語圏に紹介し続けたウェイリーは、63歳で大英帝国勲章を受賞した。そして1966年5月、76歳のときに結婚したが、新婚1カ月の6月にガンのため没した。76歳だった。

評論家の正宗白鳥は、紫式部の『源氏物語』について、あれはまるで頭がなく、胴体ばかりがふらふらしているような悪文で、とても読めた代物でないが、ウェイリー訳の英語版『源氏物語』は端切れがよく読みやすい、あれを読んで『源氏物語』を素晴らしさがわかったという意味のことを言ったそうである。

日本文学者のドナルド・キーンは、ウェイリー訳の『源氏物語』の輝きは忘れがたく、数種類ある『源氏』英訳本のなかでもウェイリー訳が最高であると太鼓判を押している。

日本へも中国へも行ったことのない人が、独学で勉強した語学力でもって、生涯を通じて中国、日本の文献を紹介し続け、英語圏に大きな衝撃と影響をもたらした。
没する前、ウェイリーは、ガンの末期にあってはげしい苦痛に苦しんだが、それでも麻薬や鎮痛剤の投与を拒んだ、最後の瞬間まで正気を保っていたい、と。彼はハイドンの弦楽四重奏曲を流し、好きな詩を朗読してもらいながら逝ったそうだ。恐るべき知性である。
(2022年8月19日)



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『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


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8月18日・伊藤左千夫の野菊

2022-08-18 | 文学
8月18日は、仏国の映画監督、マルセル・カルネが生まれた日(1906年)だが、小説家、伊藤左千夫の誕生日でもある。小説『野菊の墓』を書いた人である。

伊藤左千夫(元治元年)は現在の千葉、山武で生まれた。本名は伊藤幸次郎。家は農家だったが、父親は漢学と和歌に通じた教養人で、母親は武家の流れをひく女性だった。
日本、中国の書をよく読んだ幸次郎は、18歳のとき「富国強兵に関する建白書」を書いて、元老院に提出。不平等条約に怒り、西欧の列強に対して対等に渡り合える日本を建設するべく、富国強兵の策を論じた熱い論文だった。
政治家を志した幸次郎は、東京に出て法律学校に入学したが、目を悪くして帰郷。20歳のころは失意の日々をすごしていた。
22歳のとき、家出し、ふたたび上京。今回は実業家を目指しての上京で、彼は牧場に勤めだした。重労働の末、26歳で独立し、牛乳搾乳事業をはじめ、これが軌道に乗った。
30歳のころから、茶の湯や、和歌を学びだし、35歳のころから正岡子規に師事し、写生を重んじた短歌を作った。
36歳のころから「左千夫」と号し、40歳のとき、短歌雑誌「馬酔木(あしび)」を創刊。
43歳で処女小説『野菊の墓』を発表。
45歳のとき、「馬酔木」やめ、新短歌雑誌「阿羅々木(アララギ)」を創刊。
1913年7月、脳出血のため没した。48歳だった。
小説作品に『隣の嫁』『春の潮』などがある。

伊藤左千夫の小説『野菊の墓』は夏目漱石も褒めた傑作である。松田聖子主演の映画など、テレビや映画で観た方も多いかもしれない。

『野菊の墓』とよく比較された小説に片山恭一の『世界の中心で愛を叫ぶ』があるけれど、以前、二つの作品をたてつづけに読んで、読み比べたことがある。
どちらも恋愛小説で、女のほうが病気で死ぬ病気ものだという点は共通しているけれども、それ以外の部分はまったくといっていいほどちがう話である。
時代的、因習的な制約のあるなしのほか、両作品でいちばん異なるのは、主人公の男の人物造形である。
『野菊の墓』のほうの主人公の男は、自己犠牲の精神をもっていて、背筋がぴんとしていて、男らしい。
一方の『世界の中心~』のほうの主人公の男は、欲望だけがある男で、ひたすら女々しい。でも、この本の帯には有名女優の「こんな恋がしてみたいです」という宣伝文句がついて売れに売れ、それまでトップだった村上春樹の『ノルウェイの森(上巻)』をぬいて、日本史上最大の発行部数を記録したのである。320万部も売れたらしい。
作品としても『野菊の墓』のほうが断然立派なのだけれど、現代日本人は女々しいのが好きなのだろう。こう書くと、カチンとくる人も多いかもしれない。
伊藤左千夫の歌にこういうのがある。

「秋草のいづれはあれど露霜に痩せし野菊の花をあはれむ」

(2022年8月18日)


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『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


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8月17日・デ・ニーロの献身

2022-08-17 | 映画
8月17日はルーマニアの女流作家、ヘルタ・ミュラーが生まれた日(1953年)だが、ハリウッド俳優、ロバート・デ・ニーロの誕生日でもある。

ロバート・デ・ニーロ・ジュニアは、1943年、米国のニューヨークで生まれた。父親は画家だった。ロバート・ジュニアは、父方からイタリア、アイルランドの血を、母方からイングランド、ドイツ、フランス、オランダの血を引いている。
ロバートはマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジで育った。彼が2歳のころ、両親が離婚。母親に引き取られた彼は、近くに住む父親の家と自宅とを行ったり来たりしながら成長した。
10歳のとき、学校の劇で「オズの魔法使い」の臆病なライオン役を演じたころから俳優志望だったデ・ニーロは、16歳で高校を中退して俳優養成学校に通いだし、20歳のとき、ブライアン・デ・パルマ監督の「結婚パーティー」に出演して俳優デビュー。
29歳のとき公開されたフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザーPART II」で、アカデミー助演男優賞を受賞した。デ・ニーロはこのとき、出演に先立ち、イタリアのシシリアまで行ってイタリア語を勉強したという。
そして33歳のとき、マーティン・スコセッシ監督の名作「タクシードライバー」に出演。この作品でタクシーの運転手役を演じるにあたって、デ・ニーロは3週間、ニューヨークでほんとうにタクシー運転手をした。
35歳のときの作品「ディア・ハンター」では、撮影に入る前に、映画の舞台であるピッツバーグに引っ越し、偽名を使ってしばらく暮らしていた。
37歳のとき、「レイジング・ブル」で、アカデミー主演男優賞を受賞。このとき、太った元ボクサーを演じるために、猛烈に食べて20キロも体重を増やした。
また、44歳のときの作品「アンタッチャブル」では、実際に髪の毛をぬいてアル・カポネを演じるなど、徹底的な役作りで知られる現代の名優である。

デ・ニーロの特徴は、出演作品に駄作がないことである。
ハリウッド映画のなかには、観終えて、
「ああ、おもしろかった」
というだけで、後になにも残らない作品がけっこうあるけれど、デ・ニーロの出演作はちがう。観た者は、かならず、なにか重たい何か持たされて日常生活にもどることになる。

その昔、友人がデ・ニーロの「タクシードライバー」を観てきて、興奮して言った。
「あれは、おれのことを映画にしたんだ」
それからすこしたって顔を合わせたら、その友人はこう言って笑った。
「映画雑誌を読んでいたら、『タクシードライバー』は自分を描いた映画だっていう投書がいくつもあって、いやになった」
その友人はまちがっている。「タクシードライバー」は彼でなく、わたしのことを映画化したものである。
(2022年8月17日)



●おすすめの電子書籍!

『映画男優という生き方』(原鏡介)
世界の男性映画スターたちの生き様と作品をめぐる映画評論。ヴァレンティノ、マックイーン、石原裕次郎、シュワルツェネッガーなど男優たちの演技と生の真実を明らかにする。


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8月16日・トーマス・ロレンスの顔

2022-08-16 | 歴史と人生
8月16日は、米国歌手、マドンナが生まれた日(1958年)だが、英国軍人、トーマス・ロレンスの誕生日でもある。人呼んで「アラビアのロレンス」その人である。

トーマス・エドワード・ロレンスは、1888年、英国ウェールズのトレマドックで生まれた。父親のトーマス・チャップマンは、妻子ある男だったが、娘の家庭教師となったセアラ・ロレンスと不倫関係となり、子どもがをもうけた。それでチャプマンは妻子を捨てて、セアラと暮らすようになり、5人の男の子をもうけた。トーマスはその上から2番目の子で、両親は結局結婚しないまま暮らしたため、母ロレンス姓を名乗った。
トーマスは、オックスフォード大学に入学して歴史を学んだ。中東の考古学調査に参加するうち、やがて中東の砂漠地域の軍用地図を作成するようになった。
第一次世界大戦がはじまると、ロレンスは26歳で召集され、はじめ陸軍の地図課に所属し、後に情報部に転属となった。
第一次大戦で英国が敵として戦った同盟国側は、ドイツ、オースリア=ハンガリー帝国、ブルガリア、オスマン帝国(トルコ)といた国々だったが、中東にくわしいロレンスは、アラビア半島に派遣され、敵オスマン帝国の背後をかく乱するべく、アラブ民族の反乱を組織し、ともに行動した。
ロレンスはアラブ人と協力して、鉄道爆破、敵陣地への奇襲攻撃など神出鬼没のゲリラ戦を展開して、大国オスマン帝国を悩ませ、英国軍の戦いを側面から助けた。
結果、第一次大戦が終わると、大帝国を誇ったオスマンのほとんどの領土は英仏など連合国側に占領され、国土はいちじるしく縮小した。
大戦後、ロレンスは、砂漠の反乱をともに戦ったアラブ側の指導者ファイサル(後のイラク国王)とともにパリ講和会議に出席し、英国の植民地省や陸軍、空軍に勤務した。
除隊した2カ月後、ロレンスはオートバイを運転中、自転車を避けようとして事故を起こし、その数日後に没した。46歳だった。ヘルメットはかぶっていなかたらしい。

オスマン帝国に対する英国の戦い方たるや、さすが老獪、である。これを見習って、もしも第二次世界大戦時に、日本が日米開戦に臨んで、前もって中南米に人材や物資を送って米国に対する現地の反乱をあおるくらいの深謀遠慮があったら……。まあ、そういう展開ができる老獪さがあれば、その前にもっと政治力をふるって、国際社会での孤立や真正面からの衝突を避けられていたろうから、そもそも戦争になっていないだろうけれど。

ロレンスは、英国からアラブに送り込まれ、敵国を背後から混乱させるべく、ラクダに乗ってゲリラ戦を展開したスパイ、テロリスト兼軍人である。結果として、英国支配をへて、アラブ諸国の独立を招くことにもなった。
映画「アラビアのロレンス」では、心情的にアラブ側に寄り添いながら、最後にはアラブにも英国にも用済み扱いされる英国人として描かれていたが、本物のロレンスがどこまで映画に近い人物だったかはわからない。ただ、ロレンスを演じた主演のピーター・オトゥールは、恐ろしいほど実物そっくり。カーク・ダグラスのゴッホと双璧である。
(2022年8月16日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


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8月15日・ナポレオンの達成

2022-08-15 | 歴史と人生
敗戦記念日の8月15日は、インドの思想家、シュリ・オーロビンドが生まれた日(1872年)だが、フランス皇帝、ナポレオン・ボナパルトの誕生日でもある。

ナポレオン・ボナパルトは、1769年、地中海のコルシカ島で生まれた。出生時の名はナブリオーネ・ブオナパルテ。イタリア・トスカーナに由来する一族で、父親は判事だった。ナブリオーネは12人きょうだいの4番目だった。
コルシカ独立戦争後、フランスの新貴族として認められた父親は、これを家運の好機と見て、9歳のナブリオーネをフランスへ送り出した。ナブリオーネは貴族用の幼年学校をへて、15歳でパリの陸軍士官学校に入った。通常の生徒が4年かける教育課程をわずか11カ月で終了し、16歳でナブリオーネは陸軍の砲兵隊の少尉となった。
1789年、ナブリオーネが20歳の年にフランス革命が勃発した。
名をナポレオン・ボナパルトとフランス風に変えた彼は、革命政府軍側の士官となった。24歳のとき、それまで膠着状態にあったトゥーロン攻略を、彼はまず街を見下ろす高台を占拠して、そこから砲撃を加えるという作戦で成功させた。26歳のときには、パリで起きた王党派によるクーデターを、市街地の破壊をいとわず広範囲にわたって砲撃する大胆な作戦で鎮圧した。28歳のときには、軍司令官として各地で快進撃を続けてオーストリアに迫り、有利な講和条約を結んで、イタリア北部にフランスの領土を広げて見せた。パリに凱旋したナポレオンは大喝采を浴び、英雄として迎えられた。
その後、ナポレオンは侵攻先のエジプトで窮地に陥ると、敵前逃亡、脱出し、パリにとって返してクーデターを起こし、30歳のとき、第一執政となり、軍事独裁政権を開始した。
35歳になる年に、議会と国民投票の賛成を得て、フランス皇帝となった。
皇帝となったナポレオンは、国民軍を創設してそれまで貴族のものだった戦争を国民全体のものに変え、「万人の法の前の平等、信教の自由、経済活動の自由」などを取り入れた近代的民法「ナポレオン法典」を作り、王政を敷くヨーロッパの国々をつぎつぎと侵略して「フランス革命」を輸出した。制圧した相手国には、自分の兄弟や配下の将軍を王として送り込んだ。そうして38歳のころには、ほぼヨーロッパ全土を支配下におさめた。
しかし、彼が39歳のときに起こったスペイン独立戦争、43歳でのロシア遠征などで失敗し、英国をはじめとする対仏連合軍の前に敗北し、45歳の年には皇帝から退位させられ、コルシカ島の東にあるエルバ島の小領主に左遷させられた。
その後、ナポレオンは島を脱出して、パリに舞いもどって皇帝に復位したが、周囲の連合国には認められず、また戦争となり、ベルギーのワーテルローの戦いで、英国・プロシア軍に敗北。ナポレオンの百日天下は終わった。
南大西洋の孤島セントヘレナ島に流刑となったナポレオンは、胃ガンのため、1821年5月に同島で没した。51歳だった。死因については、ひ素による毒殺説も存在する。遺体は後にパリへ送られ、セーヌ河のほとりに安置された。

「わが辞書に不可能の文字はない(不可能ということばはフランス的ではない)」
ゲーテの愛読者だったナポレオンは文才があって、ことばに切れがある。彼は言っている。
「一つのすぐれた力が私を私の知らない一つの目的へと駆り立てる。その目的が達せられない限り、私は不死身であり、堅忍不抜であろう。しかし私がその目的にとって必要でなくなるや否や、たった一匹の蠅でも私を倒すに充分であろう。」(オクターヴ・オブリ編、大塚幸男訳『ナポレオン言行録』岩波文庫)
(2022年8月15日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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8月14日・エルステッドの磁場

2022-08-14 | 科学
8月14日は、『シートン動物記』の作家、アーネスト・シートンが生まれた日(1860年)だが、物理学者、ハンス・エルステッドの誕生日でもある。

ハンス・クリスティアン・エルステッドは、1777年、デンマークのランゲラン島で生まれた。父親は薬局の経営者だった。ハンスには、アナスという弟がいた。
子どものころから父親の薬仕事を手伝っていたハンスは、科学に興味をもちだした。ハンスが16歳のとき、もっぱら家で独学していたハンスとアナスの兄弟は、コペンハーゲン大学を受験してみた。すると、2人とも飛び抜けた成績で合格した。
ハンスは美学と物理学で賞をとり、哲学者カントについての論文で博士号を取得。
24歳のころから3年かけてヨーロッパを巡った後、29歳でコペンハーゲン大学の物理学教授になった。
43歳のころ、ハンス・エルステッドは大学での授業中に実験器具をいじっていて、あることに気がついた。電池のスイッチを入れたり切ったりすると、近くにあった方位磁石が南北以外の方角を指すのだった。
以前から、電気と磁気になにか関係があるのではないかとにらんでいたエルステッドは、それから研究を重ね、電流の流れる線の周囲に、円形の磁場ができることを発見し、これを発表した。
電流が流れると、そこに磁力が発生する、これを発見したのである。
48歳のときには、彼は人類史上はじめてアルミニウムの分離に成功した。それ以前に、すでにアルミニウムと鉄の合金は分離に成功していたが、純粋なアルミニウムの分離にまではいたっていなかった。
エルステッドはデンマーク工科大学の元となる学校を創設した後、1851年3月、コペンハーゲンで没した。73歳だった。

中学のとき、理科の授業で、エルステッドが明らかにした電流と磁場の関係を、砂鉄や方位磁石を使って調べる実験をした覚えがある。
教科書にもそれを図式化した図版が載っていた。
全人類がエルステッドの恩恵をこうむっている、と言っていいだろう。
(2022年8月14日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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8月13日・フィデル・カストロの重荷

2022-08-13 | 思想
8月13日は、米国の女性運動家、ルーシー・ストーンが生まれた日(1818年)だが、キューバ革命を成功させたフィデル・カストロの誕生日でもある。

フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスは、1926年キューバ東部のオルギン州の農場で生まれた。フィデルの父親は、スペインのガリシア地方の貧農の出身で、キューバの独立戦争にスペイン兵としてやってきて、移住してきた一世だった。父親はキューバで砂糖きび栽培に成功し、9人の子どもをもうけた。そのひとりがフィデルだった。
24歳でハバナ大学を卒業したフィデル・カストロは、弁護士をへて、下院議員に立候補した。しかし、そのときクーデターが起き、選挙が無効になった。米国の後押しを受け、クーデターを起こしたフルヘンシオ・バティスタ将軍は、大統領になると、庶民をないがしろにし、米国資本やマフィアを優遇し、私服を肥やす独裁政治をはじめた。
カストロは武力闘争によるバティスタ政権打倒を決意。軍の兵舎を襲撃して刑務所に服役した。釈放後、メキシコに身をひそめていたとき、知り合ったチェ・ゲバラとともにキューバに侵入し、一時は絶望的のふちへ追いこまれながらも、約2年間にわたるゲリラ戦を戦い抜き、ついにバティスタ大統領を国外逃亡させ政権を奪取。1959年、キューバ革命を成し遂げた。32歳のカストロは最高指導者となり、社会主義体制を敷いた。
ケネディ政権によるピッグス湾事件など、米国側による謀略や経済封鎖、または米CIAによる百回以上もの暗殺計画など、つねに国と自身を危険にさらされながら、貧しいキューバ人民に家の支給、教育や医療費の完全無料化などを実施し、国民の識字率を百パーセント近くまでに上げるなど、キューバの指導者として活躍した。
79歳のとき、ゲリラ時代からの戦友である弟に国家評議会議長の権限を移譲し引退。84歳ですべての公職から身を引き、完全に引退した後、2016年11月に没した。90歳だった。

ゲバラとカストロはよく比較される。カストロより2歳年下のゲバラは革命後、カストロ新政権の閣僚となったが、しだいに政権に対して批判的になり、たもとを分かち、アフリカや南米での次なる革命のために出国した。ゲバラはその後、潜入先のボリビアでゲリラ戦を展開中、米国と通じた政府軍に捕まり、処刑された。39歳だった。
一方、カストロはキューバに残り、経済封鎖や誹謗中傷のデマゴーグなど、となりの大国・米国のいやがらせにあいながらも、屈せず、キューバ政治を背負いつづけた。

「独裁政権はかならず腐敗する」とは定説である。ルーマニアのチャウセスクも、イラクのフセインも、北朝鮮の代々の金将軍様も、みんな私腹を肥やし、血縁者を優遇して、庶民の生活とはかけ離れた王さまのような暮らしをしていた。
しかし、カストロは、親族をひきたてなかったし、彼の子息など、かなり質素な暮らしを強いられていた。キューバではカストロを偶像化するのが禁止されていて、カストロの銅像や肖像画などは公の場所には皆無である。遺体も永久保存されず、さっさと火葬された。
きびしい経済状況のなか、カストロは自分自身を国民に捧げた。70歳をすぎてなお睡眠3時間、毎日数百の文書に目を通し、何十件もの面会を受け、演説をし、慰問に駆けまわっていた。悲劇的な日常生活を送った独裁者だった。

無論、内実は正確にはわからない。反対派に対する言論弾圧は事実あったろう。しかし、現時点でわかっている情報の限りでは、歴代米大統領や、日本の歴代首相のほうがよっぽど傲慢な裸の王さま的である。ひょっとすると、カストロの独裁はプラトンのいう哲人政治の現出で、人類史上に出現した奇跡かもしれない。
(2022年8月13日)



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8月12日・シュレーディンガーの猫

2022-08-12 | 科学
8月12日は、神秘思想家のブラヴァツキー夫人が生まれた日(1831年)だが、理論物理学者、シュレーディンガーの誕生日でもある。「シュレーディンガー方程式」の天才である。

エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーは、1887年、オーストリアのウィーンで生まれた。父親は、遺産相続した蝋布工場の所有者で、余暇を利用して動植物学会で論文を発表する学者肌の資産家だった。母親は科学者の娘だった。裕福で教養の高い家庭で育ったエルヴィンは、両親と家庭教師に教わり、11歳まで学校へ通わなかった。
ウィーン大学に進み、物理学を専攻したシュレーディンガーは、卒業後、講師になったが、第一次世界大戦に際しては、27歳から4年間兵役についた。
戦後、イエナ大学、チューリッヒ大学、ベルリン大学などで教鞭をとり、物理学教授となった。
39歳のとき、量子力学を波動形式でとらえた「波動力学」を提唱。シュレーディンガー方程式を発表し量子力学を一段と発展させた。
46歳の年、ヒトラーがドイツ首相となり、ユダヤ人物理学者が弾圧されるようになると、これを嫌って、ベルリン大学を辞職。英国のオクスフォードへ移った。
同年、英国の理論物理学者ポール・ディラックとともにノーベル物理学賞を受賞。
48歳のとき、思考実験「シュレーディンガーの猫」を発表。
米国、ベルギー、アイルランドなど、さまざまな国の大学で教授職を務めた後、69歳のとき、ウィーン大学へもどり、1961年1月、ウィーンで没した。73歳だった。

ニュートン力学の時代には、初速、空気抵抗、投てき角度がわかれば、投げられた玉は何秒後にこの地点に落下する、と予測ができた。宇宙のすべてのものの未来を計算できた。
しかし、20世紀に入り、相対性理論と量子力学が現れると、予測不能になった。
とくに原子核をまわる電子や中性子といった微細な量子を扱う量子力学の分野では、物体はとつぜん消え、べつの場所に現れるという忍者のような現象があることがわかった。それはいるかもしれないし、いないかもしれない、それを見た人にもよる、という摩訶不思議な世界で、もはや確率でしか表せない、あいまいでよくわからないものになった。
それを風刺したのが「シュレーディンガーの猫」だった。
ここに一個の、ふたで隠された箱を用意して、そのなかにラジウムとガイガーカウンター、青酸ガスの発生装置と、一匹の猫を入れておく。ラジウムから放射能がこぼれれば、仕掛けが反応して、青酸ガスが発生し、猫は死ぬ。けれども、放射能がまだ出ていなくてガスが出なければ、猫は生きている。さて、いま、猫は生きているか死んでいるか? というと、ふたで見えないわけで、つまり、猫は生と死の二つの可能性が重なった二重の状態にある。量子力学とは、そういうものではないか、と、シュレーディンガーは皮肉った。

量子物理学から思想を深めていったシュレーディンガーは、自然の姿に、インドのウパニシャッドに通じるものがあると考えるようになった。シュレーディンガーが57歳のときに出版した『生命とは何か』を読んだけれど、その結論はすごい。
「私は『原子の運動』を自然法則に従って制御する人間である。つまり、私は神である。人と天は一致する」
天才科学者の発言はつねに刺激的だけれど、シュレーディンガーはその最右翼である。
(2022年8月12日)



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