1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月11日・ウォズニアックの基本

2022-08-11 | ビジネス
8月11日は、ソフトバンクの孫正義が生まれた日(1957年)だが、コンピュータ会社アップルの共同創業者スティーブン・ウォズニアックの誕生日でもある。スティーブ・ジョブズとは親友で、iPhone、iPadのアップルは、彼ら二人のスティーブが立ち上げた。

スティーブン・ゲーリー・ウォズニアックは、1950年、米国カリフォルニア州サンホゼで生まれた。ポーランド系で、父親は飛行機会社ロッキード社のエンジニアだった。
子どものころからコンピュータを自作するなど、天才的なエンジニアだったスティーブンは、21歳のとき、ヒューレット・パッカード社の夏季見習いではたいていたとき、やはりアルバイトで働きにきていた5歳年下のスティーブ・ジョブズと知り合った。ウォズニアックはカリフォルニア大学バークレー校の学生で、ジョブズはまだ高校生だったが、気が合った二人は、いっしょにいろいろな遊びやいたずらをした。
無料で電話がかけられる違法機械をウォズニアックが作り、ジョブズがそれを売りさばいたり、ジョブズが請け負ってきたコンピュータの仕事をウォズニアックがこなすといった形で二人は共同事業をはじめ、ガレージでコンピュータの製作・販売をはじめた。
はじめ、ウォズニアックは勤務していたヒューレット・パッカードに自作コンピュータの販売を提案したが、脚下されたため、二人は気兼ねなくこの仕事に打ち込みだした。
二人は、ザ・ビートルズのレーベルから社名を「アップル」と名付けた。
ウォズニアックは、26歳の年に「Apple I」をほとんどひとりで作り上げ、発売にこぎつけた。そして27歳の年には、「Apple II」をまたほぼ独力で開発。洗練されたデザインで、爆発的に売れた。そして、それまで誰もそんな時代がくるとは予想していなかった、一人一台コンピュータをもつという「パーソナルコンピュータ」の時代の扉を開いた。
34歳のとき、ウォズニアックは、自分が作った製品の扱いが不満であるとして、アップル社を離れた。その後は、勉強中途だった大学に入り直し、電子工学を勉強し、学位をとった。卒業後は、産業界や教育界のさまざまなプロジェクトにその名を連ねている。

出会ったころ、まだ学生だったウォズニアックと、高校生のジョブズは、ボブ・ディランの大ファンで、二人でディランの曲を聴き、その詞の意味について考えこんだ。ジョブズの高校に地下トンネルがあるとわかると、二人で夜に忍び込んで、トンネルを探検した。
対抗文化(カウンター・カルチャー)の思想にどっぷりとつかっていた彼らは、世の中をよくすることを強く欲していて、
「それには現在の我々の在り方を変えなくてはいけない。なぜなら、既存の在り方が必ずしも正しいとは限らないからだ」(NHKスペシャル取材班『Steve Jpbs Special ジョブズと11人の証言』講談社)
と感じていた。それが、彼らのパソコン開発につながっていった。そして、実際に、彼らは世界の人々の在り方を変えてしまった。

ジョブズも了解していた、ウォズニアックのパソコン作りの基本コンセプトは「世界一すぐれたコンピュータ」であり「自分が所有したくなるようなコンピュータ」であり「自分のために作る」というものだった。それがアップル社の製品の遺伝子ともなった。

ウォズニアックこう言っている。
「窓から放り出してしまえないようなコンピュータをけっして信用してはならない。(Never trust a computer you can't throw out a window.)」(Brainy Quote: https://www.brainyquote.com/)
(2022年8月11日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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8月10日・大久保利通の志

2022-08-10 | 歴史と人生
8月10日は、米国の第31代大統領、ハーバート・フーヴァーが生まれた日(1874年)だが、明治維新の英雄、大久保利通(おおくぼとしみち)の誕生日でもある。

大久保利通は、文政13年8月10日(西暦だと1830年9月26日)、現在の鹿児島県鹿児島市で薩摩藩士の息子として生まれた。下級武士の長男で、子どものころに、勉強仲間、遊び仲間の西郷隆盛(さいごうたかもり)らと友情を結び、同志となった。
よく読書をし、討論に秀でていた大久保は、20歳のとき、藩のお家騒動に巻きこまれ、謹慎処分を受けたが、3年後に謹慎を解かれた。その後、大久保は新藩主、島津斉彬に取り立てられ、しだいに藩政の中心に進んでいった。盟友・西郷隆盛が藩主の逆鱗に触れ島流しにあうと、援助の手を差し伸べつづけた。
大久保は、島から生還した西郷と手を携え、強大な軍事力をもつ大藩・薩摩藩を動かし、もうひとつの有力藩・長州藩と手を結び、徳川幕府打倒、王政復古へ向かって邁進した。
大政奉還、戊辰戦争をへて、西郷とともに明治新政府の中心である参議となった大久保は、版籍奉還、軍整備に努めた後、41歳のとき、政府首脳陣で構成された岩倉使節団に加わり、米国、欧州やアジアの植民地を2年間近くにわたって視察してまわった。その間、日本政府の留守を守ったのが盟友・西郷だった。
日本の近代化が急務だと痛感し帰国した大久保は、中央集権化、殖産興業政策など富国強兵を推し進めるべく、43歳のとき、明治政府に内務省を設置し、みずから内務卿となって実権を握り、地租改正、徴兵令を断行した。一方の雄、西郷は大久保らと意見が衝突し政界を引退。故郷・鹿児島へ帰り、うさぎ狩りをしのんびり暮らしていた。
大久保が46歳のとき、鹿児島で元士族たちの蜂起が起きた。明治政府のやり方に不満をもつ元武士たちによる反乱「西南の役」で、反乱軍の首領は大久保の盟友・西郷だった。人情家で人望のある西郷は、郷里の不平士族たちに頼られ、担ぎ挙げられたのだった。
中央政府にいる大久保ははじめ、西郷は蜂起には加わらないと信じていたし、反乱軍に西郷がいると知ってなお、みずから出向いて西郷を説得するつもりでいた。しかし、政府首脳に危険だと止められ、二人の会談は実現せずじまいとなった。
反乱は、大久保が指揮する政府軍により鎮圧され、西郷は死んだ。盟友の死の報を聞いた大久保は、慶賀する政府首脳のなか、にこりともしなかった。
明治政府の内政、外交に辣腕をふるい、近代日本のレールを敷いた大久保は、1878年5月、馬車で皇居へ向かう途中、不満士族の一団に襲撃された。「無礼者」と叫んだのを最期のことばに、大久保は頭部を中心に十数カ所斬りつけられ、死亡した。47歳だった。死んだとき大久保は、生前の西郷からもらった手紙を携帯していたという。

威厳凛とし、近寄りがたい風のあった大久保利通は、西郷隆盛と同様、お金には無頓着で、清廉な人だった。政府の予算が足りないと、事業に自分のお金を投じた。彼が亡くなった後には巨額の借金が残っていた。しかし、貸し手たちは大久保の志を理解し、遺族へ借金の催促はいっさいなかったという。大久保が没し、すぐにお金に困った遺族のために、明治政府はあわてて金策をして遺族の生活費を工面した。

明治は遠くなりにけり。かつてこういう人が日本人のなかにいた、とは。
それにしても、ともに激変する時代に生き、力を合わせて新時代を斬り拓いた大久保利通と西郷隆盛。二人の運命を振り返ると、感慨深いものがある。人はなんで生きるか。
(2022年8月10日)



●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、重光葵、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧などなど。日本人の美点に迫る。


●電子書籍は明鏡舎。
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8月9日・ホイットニー・ヒューストンの声

2022-08-09 | 音楽
8月9日は、長崎に原爆が投下された日(1945年)だが、歌手、ホイットニー・ヒューストンの誕生日でもある。

ホイットニー・ヒューストンは、1963年、米国ニュージャージー州のニューアークで生まれた。父親は軍関係のサービスマンで、母親はゴスペル歌手だった。
小さいころから教会の聖歌隊の一員として歌っていた彼女は、11歳のころには、聖歌隊のソリストになった。母親から歌唱を教わり、またピアノも習いだした。
母親がステージで歌うナイトクラブに、10代のころから出入りしていたホイットニーは、ときどき母親といっしょにステージに立つこともあったという。
14歳のとき、プロ歌手のバッキングコーラスで歌うようになり、15歳のときにはチャカ・カーンのバックで歌った。並行して雑誌のファッションモデルとしても活躍していたホイットニーは、20歳のころ、レコード会社にスカウトされ、22歳の年にデビューアルバム「そよ風の贈りもの(原題・Whitney Houston)」を発表。これは米国のみならず、世界各国のチャート一位を独占する大ヒットとなった。シングルカットされた曲も、
「恋は手さぐり(How Will I Know)」
「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール(Greatest Love of All)」
「すべてをあなたに(Saving All My Love for You)」
とたてつづけに大ヒット。「すべてをあなたに」は、今夜は思いっきり不倫するのよ、という内容の不倫ソングだったが、それを22歳の新人歌手が大胆に朗々と歌いあげた。
たちまち彼女は世界のトップシンガーに上り詰めた。
29歳の年には、ケビン・コスナーと共演した初主演映画「ボディガード」が公開され、その主題歌「オールウェイズ・ラヴ・ユー」とともに全世界で大ヒットを記録した。
同年、歌手のボビー・ブラウンと結婚。翌年には一人娘を出産したが、その後、夫による家庭内暴力、コカインなど覚醒剤の常用などにより、心身ともに疲弊していき、41歳のころ、長らくのリハビリ生活をへて、夫とは43歳のときに離婚が成立した。
46歳の年に新作アルバムを発表し、復活を遂げたが、体調がすぐれず、コンサート中に彼倒れるなどアクシデントが続いた。
2012年2月、カリフォルニア州ビバリーヒルズのホテルで、ホイットニーはバスタブのなかに倒れた遺体となって発見された。検死局は、コカインを摂取した状態で入浴したため、心臓発作が起こり、溺死したとの見方を発表した。48歳だった。

22歳で得た世界的な富と名声。あの若さとルックスと、スタイルのよさと、あの声量と歌声とがあって、彼女の前には、もう幸福が約束された人生が開けている、と、ホイットニーのデビューを目の当たりにして、世界中の人がそう思ったにちがいない。
それから26年後、「世紀の歌姫」ホイットニー・ヒューストン死亡のニュースには驚いた。
彼女と同様、男運が悪かったダイアナ妃もそうだったけれど、まさかこんなに早く、こんな形で亡くなるとは……。人生というのは、ほんとうに先が読めない。
「ただのジャンキーだった」との批判もあるが、スーパースターでいつづけるのは、かなりしんどいことなのだろう。あの冷徹な女「幸運の女神」は、私生活の幸福と、歌姫の名声と、両方を手にすることを彼女に許さなかった。それにしても素敵な歌声だった。
(2022年8月9日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


●電子書籍は明鏡舎。
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8月8日・サパタの思想

2022-08-08 | 歴史と人生
8月8日は、教育者、新渡戸稲造(にとべいなぞう)が生まれた日(文久2年、1862年)だが、メキシコの「革命児」エミリアーノ・サパタの誕生日でもある。

エミリアーノ・サパタは、1879年、メキシコのモレロス州アネネクイルコで生まれた。白人と現地インディオとの混血である「メスティーソ」だった。
当時のメキシコはポルフィリオ・ディアスによる独裁体制の下、彼の息がかかった配下の者が各地に支配者として君臨し、彼らと通じた少数の資本家が経営する大農園では、負債を負わされたインディオたちが農奴として酷使されていた。
エミリアーノは、裕福な農場主の息子だったが、この現状に不満を覚え、インディオの救済、インディオたちの権利獲得に奔走するようになった。
はじめ、交渉で事態の打開をはかっていたサパタは、しだいに兵を率いて武力で農場主や政府を制圧するようになり、土地を占領して解放区を広げていった。
サパタは野党側の政治家と通じて、現在の独裁政権打倒を計画し、30歳のとき、反乱先導の罪で逮捕されたが、恩赦によって釈放され、そのまま米国へ逃げた。
31歳のとき、サパタはメキシコに舞いもどり、兵を率いて武装蜂起。ついにディアス大統領を辞任へ追い込んだ。
しかし、同盟を結んでいた野党側リーダーのフランシスコ・マデロは、政権を握ると、サパタの要求するインディオ救済策に応じず、旧支配層の保護に走った。サパタはマデロを「反逆者」と呼び、新政権に対しても武装闘争を続けた。
マデロ新大統領が、米国側と組んだ軍部のクーデターによって暗殺されると、サパタは今度は軍部政権に対して武装闘争をつづけた。各地でもいっせいに軍事政権打倒の動きがはじまり、これが「メキシコ革命」となっていった。
一貫して、搾取される庶民、インディオたちのために闘いつづけたサパタは、1919年4月、敵側の計略にはまり、暗殺された。39歳だった。

サパタは、思想的には、ロシアのピョートル・クロポトキン、メキシコのフロレス・マゴンといった思想家の影響をうけた無政府主義者だった。無政府主義は、なるたけ政府の支配を受けない社会体制がよいとする態度で、無秩序をよしとするわけではない。

昔、「革命児サパタ」という映画を観た。監督がエリア・カザン、主演がマーロン・ブランド、共演アンソニー・クイン、脚本ジョン・スタインベックという超豪華なスタッフによる映画だった。

社会システムに支配された貧しい庶民を、武力闘争によって救う。その方法論は、チェ・ゲバラに通じる。サパタ派のスローガンは、「土地と自由」だった。
農耕地や工場といった生産財をもたず、収入のかなりの割合を右から左へ、家賃や住宅ローンや役人が食う税金にもっていかれている多くの現代日本人も、サパタの時代のインディオたちと、さほど変わらない。
(2022年8月8日)



●おすすめの電子書籍!

『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』(落合三郎述、金原義明記)
ドキュメント。ごみの現場に、ヤクザが、刑事が、死体が? ごみ収拾現場の最前線で働く男たちの壮絶おもしろ実話。「いちころにころ」の真実とは?


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8月7日・司馬遼太郎と戦争

2022-08-07 | 文学
8月7日は、「走る哲人」アベベ・ビキラが生まれた日(1932年)だが、作家、司馬遼太郎(しばりょうたろう)の誕生日でもある。

司馬遼太郎は、1923年、大阪で生まれた。本名は、福田定一(ふくだていいち)。父親は薬局をやっていた。
現在の大阪外語大学で蒙古語を学んだ福田は、20歳のとき徴兵され、満州に陸軍の戦車隊員として出征したが、やがて本土決戦用に内地へもどされ、日本で陸軍少尉として敗戦を迎えた。
戦後は新聞記者として文化欄を担当し、記者生活のなかで小説を書いた。33歳のときに応募した『ペルシャの幻術師』で小説雑誌の賞を受賞し、作家、司馬遼太郎としてデビュー。自信作『空海の風景』『燃えよ剣』のほか『梟の城』『竜馬がゆく』『国盗り物語』『坂の上の雲』など歴史小説を多く書き、国民的作家となった。
1996年2月、腹部の大動脈瘤破裂のため、大阪の入院先で没した。72歳だった。

1970年代、「ベストセラーの太郎、次郎、三郎」といわれた作家がいて、それは司馬遼太郎、新田次郎、城山三郎だった。

どこで読んだか、司馬遼太郎は戦後になって、太平洋戦争当時に海軍の参謀だった人を訪ねて取材したとき、こういう意味のことを言ったそうだ。
「あなた方がやっていたことは、太平洋の島々に兵力を分散させておいて、敵軍が兵力を集中して一つひとつつぶしに来るのを待っていただけじゃないですか」
すると、元参謀はこう言ったそうだ。
「それはひどい、それはひどい」

司馬遼太郎を読むと、日露戦争を戦った明治時代の日本軍と、昭和時代の日本軍とは、まったく異質のものだったらしいとわかる。
明治日本の、たとえば日本海海戦を勝利した海軍などはリアリストで、つねに事実を冷静、論理的に分析し、合理的に行動した。降伏し調印にやってきた敵のロシア軍に対しても食事、治療をふるまい、丁重に接し、「本日そちらはたまたま武運なく敗北された云々」と淡々と事実を述べる調子で、けっして勝者ぶることがなかった。
ところが、昭和期の日本軍になると、もう事実など眼中になく、日本民族はほかの民族よりえらい、神さまがついている、武器や食料がなくとも精神力で戦って勝つ、ほかの民族は日本人に何をされても文句は言えない、と、ひたすら感情的、妄想的で、まるで気がふれた野人の集団だった。時とともに洗練されていかず、劣化していくのが、日本の組織の特徴だろうか。

もう数年もすれば、日本はふたたび徴兵制を敷いて戦争をはじめるだろう。そのとき20歳から36歳くらいまでの男性は、真っ先に坊主刈りにされ、素っ裸にされて検査後、軍隊で根性をたたき直されるだろうから覚悟しておいたほうがいい。
(2022年8月7日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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8月6日・アンディ・ウォーホルの色

2022-08-06 | 美術
1945年8月6日、米軍の爆撃機、エノラゲイが広島に原子爆弾一個を投下し、約14万人が死亡した。人類史上はじめて原爆が実戦で使用された8月6日は、ポップアートの旗手、アンディ・ウォーホルの誕生日でもある。

アンディ・ウォーホルは、1928年に米国ペンシルベニア州で生まれた。本名は、アンドリュー・ウォーホラ。父親はスロバキアからの移民で、炭鉱夫だった。
じつは、ウォーホルの誕生日は諸説あって、はっきりしないらしい。1930年生まれの出生証明書も存在しているそうで、ただし、ウォーホルは証明書はうそだと主張するなど事実は不明で、「1928年から1931年ごろに誕生」としている書籍もある。
アルバイトをしながらピッツバーグの工科大学で学んだ後、ウォーホルは21歳のころ、ニューヨークへ引っ越し、広告制作のアーティストとして働きだした。
24歳のころ、ニューヨークではじめての個展を開き、ブロードウェイで舞台美術を担当するなど下後、34歳のとき、鉛筆描きの作品『1ドル札とワシントンの肖像』『大きいキャンベルスープ缶』を描き、その後、シルクスクリーンで『キャンベルスープ缶』『マリリン・モンロー』『エルヴィス・プレスリー』『ミック・ジャガー』『花』『ぶどう』など、写真をベースに、蛍光色を大胆に使ってコラージュした作品群を発表して、1960年代に盛んになったポップアートの旗手となった。
美術作品制作のほかにも、映画制作、ロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」のアルバム・プロデュースなど、さまざまな分野でアートを展開した。
1987年2月、ウォーホルはニューヨークの病院で胆のう手術を受けた後に心臓発作を起こして没した。58歳だった。

既成の美術のあり方への批判として、ポップアートは登場した。難解な構図で、わけのわからないものを描いた、世界に一点しかない油絵を見るために、わざわざその場所へ足を運ぶとか、目の飛び出るよにうな額を出してそれを作品を購入するだとかいう美術界の常識を、ウォーホルは鮮やかな手並みで破壊して見せた。
スーパーマーケットにも並んでいるスープ缶とか、マリリン・モンローの顔といった、みんながよく知っている題材をとり上げて、インパクトのある美しい芸術作品に仕上げた。そして、シルクスクリーンによって、何十枚も同じものを刷り、作品の値段を人々の手の届くものにした。
天上の高みに浮いていた芸術を、地上に引きずりおろした。教科書的かもしれないけれど、ウォーホルのやったことを説明するなら、そういうことになるだろう。

18歳のころ、伊豆にある池田二十世紀美術館で、はじめてウォーホルの「マリリン・モンロー」10枚連作を見た。あの衝撃は忘れない。
以来、ウォーホルが好きで、画集もいくつかもっているけれど、やっぱりウォーホルは「色」である。あの色は、画集では伝わらない。実物を見ると、その色に感銘を受ける。
それに、質感も印象深い。あれも画集では味わえない。
(2022年8月6日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


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8月5日・ニール・アームストロングの一歩

2022-08-05 | 歴史と人生
8月5日は、仏国の作家、モーパッサンが生まれた日(1850年)だが、宇宙飛行士のニール・アームストロングの誕生日でもある。はじめて月を歩いた人である。

ニール・オールデン・アームストロングは、1930年、米国オハイオ州のワパコネタで生まれた。父親は州の役人で、頻繁に転勤していたため、家族はよく引っ越しをした。ニールは3人きょうだいのいちばん上で、下に弟と妹がいた。
ボーイスカウトとしていく度も表彰されたニールは、大学で航空工学を専攻した。彼は、2年間大学で学び、3年間軍隊に勤務し、また復学して2年間大学へ行けるという奨学金を受けていて、18歳で海軍に入り、パイロットとなった。朝鮮戦争では78回出撃した。朝鮮半島上空を飛行中、対空砲火を浴びて被弾し、墜落する機からパラシュートで脱出、味方のジープに拾われるという体験もした。
3年の軍務の後、彼は除隊し、大学にもどり、25歳で卒業した。
卒業後は、海軍にもどり、ジェット機やロケット機のテストパイロットとなった。テストパイロット時代には、機体があわや空中分解しそうになる、あるいは、高度63キロメートルの成層圏外で機が制御不能になるといったトラブルに見舞われたこともあったが、アームストロングは冷静に対処し、生き延びた。
31歳のころ、彼は宇宙飛行士の募集に志願し、宇宙飛行士となった。
訓練を積んだ後、35歳のとき、ジェミニ8号の船長となり、宇宙へ飛び立った。このときは機械の故障のため、船体が1秒に1回転するというトラブルが発生したが、ニールは訓練の手順通り対処し、無事地球へ帰還した。
1969年7月、38歳のとき、アポロ11号の船長として、アームストロングは月へ向けて出発した。ロケットで打ち上げられたアポロ11号は、出発後4日ほどで月に到着し、月の周回軌道をまわる司令船にコリンズ宇宙飛行士を残し、アームストロングとオルドリン宇宙飛行士は月面着陸機で降下し、月に降り立った。このときアームストロングは、
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。(That's one small step for a man, one giant leap for mankind.)」という有名なコメントを地球に向けて発信した。
彼らは2時間半ほど月面で作業した後、月面着陸機に引き上げた。その際、宇宙服がひっかかって、ロケットエンジンのスイッチをこわしてしまい、オルドリンはボールペンの先でスイッチをずっと押しつづけ、それで司令船にもどられたという。
彼らはまた4日ほどかけて地球に帰ってきた。3人の宇宙飛行士は、ウイルスなどを持ち帰っていないか18日間隔離され、検査された後に解放された。
英雄となったアームストロングは、米国内をはじめ、世界各国に凱旋ツアーにとびまわり、39歳のときには来日して文化勲章を受賞した。
宇宙飛行士を引退し、大学で教鞭をとったり、企業に誘われて広告に顔を出したり、航空宇宙局の事故調査委員を務めたりした。政党からの誘いは断りつづけた。
2012年8月、心臓手術を受けた際の合併症のため、没した。82歳だった。

アームストロングの経歴を見ると、よくぞ80年以上も生き延びたと思うくらい、空の上で多くのトラブルに見舞われていて驚かされる。おそらく技術、度胸が運を引き寄せた。神に愛された人である。
(2022年8月5日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


●電子書籍は明鏡舎。
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8月4日・ルイ・ヴィトンの家出

2022-08-04 | ビジネス
8月4日は、ゴロ合わせで「箸(はし)の日」。この日はジャズの「サッチモ」ルイ・アームストロングが生まれた日(1901年)だが、仏国の旅行カバン職人、ルイ・ヴィトンの誕生日でもある。

ルイ・ヴィトンは、1821年、仏国の、スイスのジュネーヴに近いアンシェという村で生まれた。家は農家で、ルイが10歳のとき、母親が亡くなると、父親はすぐに再婚し、ルイはこの母親とそりが合わなかった。また、ルイは田舎暮らしから抜け出したかった。
そこで14歳のとき、ルイは家出をし、パリを目指した。彼は400キロメートル以上あるこの道のりを約2年かけて歩いていった。夜露をしのぐ場所を見つけては眠り、道々で仕事を手伝ってなんとか食べて、16歳のときパリに着いた。
パリのムッシュ・マルシェルというかばんメーカーの徒弟として弟子入りしたヴィトンは、そこでめきめきと頭角を現した。
当時の旅行かばんは、上流階層向きに、一つひとつがオーダーメイドで手作りされていて、ヴィトンの美しいかばんやケースはしだいに注文主の上流階級の人々のあいだで評判を集めるようになり、彼は独立して自分で旅行かばん工房をもった。
彼が30歳のころ、クーデターが怒り、ナポレオン三世が皇帝を名乗ると、皇帝夫人がヴィトンをひいきにし、旅行かばんや衣裳ケースをは発注し、かくしてヴィトンは皇室御用達業者となった。
その後、33歳のとき、結婚したのを機に、ヴィトンは世界初の旅行用かばんの専門店をパリに開き、旅行用品の需要が高まるにつれてヴィトン社も成長した。
ヴィトンが65歳のとき、家業を継いでいた息子のジョルジュが堅固な錠前を開発し、これを付けたヴィトンの旅行トランクは移動できる堅固な金庫として信用を高めた。
彼が68歳の年に開かれたパリ万国博覧会で、銅メダルを獲得。
以降、ヴィトン社の製品の評価は国際的なものとなり、ヨーロッパじゅうの王侯貴族たちからトランクなど旅行用品の注文が舞い込んだ。
ヴィトンはトランクの上に布地を貼りつけてかばんを美しく、またじょうぶにしたが、これをまねたコピー商品もヴィトン社初期のころから多くでまわっていて、これはヴィト社がデザインを変更しても、すぐに新しいコピー商品が出て、いたちごっこだった。
裸一貫から一大ブランドを築いた創業者ルイ・ヴィトンは1892年2月に没した。
彼の死後、ヴィトン・ブランドは、ハンドバッグ、財布、スカーフ、サングラス、時計、アクセサリーなどさまざまな商品分野に進出し、さらに発展を続け、世界的企業となった。

「L」と「V」を組み合わせたモノグラム・マークを偏執狂的に散らせたデザインで有名なルイ・ヴィトンは、日本人にとってブランドの代名詞と言っていい。その「LV」のモノグラムデザインも、創業者の乾坤一擲の徒歩による家出の末に築かれたものだと思うと、ちょっと感慨深いものがある。ヴィトンの人生には、家出、冒険、放浪、旅、そして旅行かばんと、不思議な一貫性がある。
(2022年8月4日)



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『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
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8月3日・カール・ゴッチのへび

2022-08-03 | スポーツ
8月3日は、ファッションデザイナーのアン・クラインが生まれた日(1923年)だが、「プロレスの神様」カール・ゴッチの誕生日でもある。

カール・ゴッチは、1924年、ベルギーのアントワープで生まれた。本名はカール・イスターツ。一家はドイツのハンブルクへ引っ越し、カールはそこで育った。
レスラーを志したカールは、アマチュア・レスリングのグレコローマンと、フリースタイルの両分野でベルギーチャンピオンとなり、24歳のとき、ベルギー代表選手としてロンドン・オリンピックに出場した。
27歳のころ、英国イングランドのランカシャー地方にあるビリー・ライレー・ジムを訪ね、そこの師範代とスパーリング(練習試合)をおこなった。すると、ものの1分ほどで赤子の手をねじるようにフォールド(からだを固定されること)を決められてしまい、そのジムに入門することを決意した。このジムはランカシャー・レスリングの中心で、このジム所属の男たちは倒されてもあきらめず執拗に攻撃してくるところから「へびの穴(Snake Pit)」と呼ばれていた。「へびの穴」で3年間をすごし、卒業したカールは、カナダをへて、35歳の年に米国へ進出。ドイツ人レスラーとしてデビューし、米国の名プロレスラーのフランク・ゴッチにあやかってリングネームを「カール・ゴッチ」とした。反則をしないクリーンで、きれのある正統派ストロングスタイルのプロレスラーとして活躍し、神技ジャーマン・スープレックス・フォールドを完成させた。
この技は、相手レスラーの背後にまわりこんだゴッチが、相手の胴体に腕をまわし、そのまま抱え上げ、いっしょに後ろへのけぞり、相手を抱えたままブリッジを決めるというもので、相手は後頭部をマットに打ちつけ、そのまま両肩をマットに押しつけられて、3カウントされるのだった。この技は、プロレスの芸術品と称される美技で、「ジャーマン(ドイツ人の)」は無論ゴッチのことである。
当時の世界王者「鉄人」ルー・テーズと何度も名勝負を繰り広げながら、ついにチャンピオンベルトを奪えず、ゴッチは「無冠の帝王」と呼ばれた。
44歳のとき、米国に帰化。日本にもたびたび来日し、力道山やアントニオ猪木らと試合をおこなった。日本ではプロレス・コーチとして日本人プロレスラーの指導にあたり、アントニオ猪木に卍固めを伝授した猪木の先生でもある。
2007年7月、米国フロリダ州のタンパで没した。82歳だった。

昔の人気マンガ「タイガーマスク」に出てきたプロレスラー養成所「虎の穴」のモデルは、カール・ゴッチがいた「へびの穴」である。原作の梶原一騎はゴッチの経歴を参考に、想像をふくらませたのだろう。
「へびの穴」では、もちろんマンガの、レスラーが訓練中にばたばた死んでいくような目茶苦茶なトレーニングはなかったろうけれど、かなり荒々しいものだったらしい。そうした訓練の上に、あのゴッチのきれのある美技が成った。
(2022年8月3日)



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8月2日・中上健次の日本語

2022-08-02 | 文学
8月2日は、弁護士、中坊公平が生まれた日(1929年)だが、作家の中上健次の誕生日でもある。

中上健次は、1946年に和歌山の新宮で生まれた。彼は被差別部落のなか、血のつながり方が異なるきょうだいがあちこちにいるという複雑な環境で育った。
母親に土地に伝わる昔話を聞いて育った中上少年は、サド、セリーヌ、ジュネを愛読する文学青年となり、高校時代から小説を書いていた。
19歳のとき、大学予備校入学のため上京。同人誌に参加し、そこで知り合った文学仲間の女性と結婚。羽田空港で荷物の積みおろしなどの肉体労働をしながら小説を書きつづけ、『十九歳の地図』などで注目され、30歳の年に『岬』で芥川賞を受賞。初の戦後生まれの芥川賞作家の誕生だった。
以後、故郷の紀州を舞台にした小説群を発表した後、1992年8月、腎臓がんのため、和歌山県内の入院先で没した。46歳だった。
作品に『邪淫』『枯木灘』『鳳仙花』『千年の愉楽』『地の果て 至上の時』『重力の都』などがある。

どの作品だったか、いつか中上健次の作品が谷崎潤一郎賞の候補にのぼったとき、審査員の作家のひとりが、中上の小説中の一節の揚げ足をとって、
「完璧な文章で知られた谷崎の名の賞を、こんな文章を書く作家にやるわけにはいかない」
という意味のことを言っていた。結局、中上は受賞できなかった。
ひどい理屈である。その審査員は、自分の文章は完璧だと思ってるのか? 谷崎の文章は完璧だと思っているのか? 過去の谷崎賞作品の文章は完璧なのか? そもそも完璧な文章が、完璧な日本語が、この世に存在していると思っているのか?
中上健次は、文壇の先輩たちにはうとまれがちで、落とすためのへ理屈をこねられ、生前は文学賞から縁遠かった。谷崎賞作家の多くは、没すると忘れ去られる人が多いが、中上は没後にかえって評価が高まってきた「ほんもの」である。

『岬』をはじめとして、中上健次の文章は、概して一文一文が短い。だから、一つひとつの表現が強い。だから、長く読み進むのには体力がいる。
「文学のゴッホ」という感じがする。ゴッホは強い原色の点描画の人で、絵の具を分厚くキャンバスの上にたたきつけたが、中上健次の日本語もそれに似ている。
中上健次は強烈な個性のもち主で、その作品が彼にしか出せない、ある独特の強さをもっていた。
(2022年8月2日)



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『出版の日本語幻想』(金原義明)
編集者が書いた日本語の本。編集現場、日本語の特質を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。


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