8月11日は、ソフトバンクの孫正義が生まれた日(1957年)だが、コンピュータ会社アップルの共同創業者スティーブン・ウォズニアックの誕生日でもある。スティーブ・ジョブズとは親友で、iPhone、iPadのアップルは、彼ら二人のスティーブが立ち上げた。
スティーブン・ゲーリー・ウォズニアックは、1950年、米国カリフォルニア州サンホゼで生まれた。ポーランド系で、父親は飛行機会社ロッキード社のエンジニアだった。
子どものころからコンピュータを自作するなど、天才的なエンジニアだったスティーブンは、21歳のとき、ヒューレット・パッカード社の夏季見習いではたいていたとき、やはりアルバイトで働きにきていた5歳年下のスティーブ・ジョブズと知り合った。ウォズニアックはカリフォルニア大学バークレー校の学生で、ジョブズはまだ高校生だったが、気が合った二人は、いっしょにいろいろな遊びやいたずらをした。
無料で電話がかけられる違法機械をウォズニアックが作り、ジョブズがそれを売りさばいたり、ジョブズが請け負ってきたコンピュータの仕事をウォズニアックがこなすといった形で二人は共同事業をはじめ、ガレージでコンピュータの製作・販売をはじめた。
はじめ、ウォズニアックは勤務していたヒューレット・パッカードに自作コンピュータの販売を提案したが、脚下されたため、二人は気兼ねなくこの仕事に打ち込みだした。
二人は、ザ・ビートルズのレーベルから社名を「アップル」と名付けた。
ウォズニアックは、26歳の年に「Apple I」をほとんどひとりで作り上げ、発売にこぎつけた。そして27歳の年には、「Apple II」をまたほぼ独力で開発。洗練されたデザインで、爆発的に売れた。そして、それまで誰もそんな時代がくるとは予想していなかった、一人一台コンピュータをもつという「パーソナルコンピュータ」の時代の扉を開いた。
34歳のとき、ウォズニアックは、自分が作った製品の扱いが不満であるとして、アップル社を離れた。その後は、勉強中途だった大学に入り直し、電子工学を勉強し、学位をとった。卒業後は、産業界や教育界のさまざまなプロジェクトにその名を連ねている。
出会ったころ、まだ学生だったウォズニアックと、高校生のジョブズは、ボブ・ディランの大ファンで、二人でディランの曲を聴き、その詞の意味について考えこんだ。ジョブズの高校に地下トンネルがあるとわかると、二人で夜に忍び込んで、トンネルを探検した。
対抗文化(カウンター・カルチャー)の思想にどっぷりとつかっていた彼らは、世の中をよくすることを強く欲していて、
「それには現在の我々の在り方を変えなくてはいけない。なぜなら、既存の在り方が必ずしも正しいとは限らないからだ」(NHKスペシャル取材班『Steve Jpbs Special ジョブズと11人の証言』講談社)
と感じていた。それが、彼らのパソコン開発につながっていった。そして、実際に、彼らは世界の人々の在り方を変えてしまった。
ジョブズも了解していた、ウォズニアックのパソコン作りの基本コンセプトは「世界一すぐれたコンピュータ」であり「自分が所有したくなるようなコンピュータ」であり「自分のために作る」というものだった。それがアップル社の製品の遺伝子ともなった。
ウォズニアックこう言っている。
「窓から放り出してしまえないようなコンピュータをけっして信用してはならない。(Never trust a computer you can't throw out a window.)」(Brainy Quote: https://www.brainyquote.com/)
(2022年8月11日)
●おすすめの電子書籍!
『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。
●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp
スティーブン・ゲーリー・ウォズニアックは、1950年、米国カリフォルニア州サンホゼで生まれた。ポーランド系で、父親は飛行機会社ロッキード社のエンジニアだった。
子どものころからコンピュータを自作するなど、天才的なエンジニアだったスティーブンは、21歳のとき、ヒューレット・パッカード社の夏季見習いではたいていたとき、やはりアルバイトで働きにきていた5歳年下のスティーブ・ジョブズと知り合った。ウォズニアックはカリフォルニア大学バークレー校の学生で、ジョブズはまだ高校生だったが、気が合った二人は、いっしょにいろいろな遊びやいたずらをした。
無料で電話がかけられる違法機械をウォズニアックが作り、ジョブズがそれを売りさばいたり、ジョブズが請け負ってきたコンピュータの仕事をウォズニアックがこなすといった形で二人は共同事業をはじめ、ガレージでコンピュータの製作・販売をはじめた。
はじめ、ウォズニアックは勤務していたヒューレット・パッカードに自作コンピュータの販売を提案したが、脚下されたため、二人は気兼ねなくこの仕事に打ち込みだした。
二人は、ザ・ビートルズのレーベルから社名を「アップル」と名付けた。
ウォズニアックは、26歳の年に「Apple I」をほとんどひとりで作り上げ、発売にこぎつけた。そして27歳の年には、「Apple II」をまたほぼ独力で開発。洗練されたデザインで、爆発的に売れた。そして、それまで誰もそんな時代がくるとは予想していなかった、一人一台コンピュータをもつという「パーソナルコンピュータ」の時代の扉を開いた。
34歳のとき、ウォズニアックは、自分が作った製品の扱いが不満であるとして、アップル社を離れた。その後は、勉強中途だった大学に入り直し、電子工学を勉強し、学位をとった。卒業後は、産業界や教育界のさまざまなプロジェクトにその名を連ねている。
出会ったころ、まだ学生だったウォズニアックと、高校生のジョブズは、ボブ・ディランの大ファンで、二人でディランの曲を聴き、その詞の意味について考えこんだ。ジョブズの高校に地下トンネルがあるとわかると、二人で夜に忍び込んで、トンネルを探検した。
対抗文化(カウンター・カルチャー)の思想にどっぷりとつかっていた彼らは、世の中をよくすることを強く欲していて、
「それには現在の我々の在り方を変えなくてはいけない。なぜなら、既存の在り方が必ずしも正しいとは限らないからだ」(NHKスペシャル取材班『Steve Jpbs Special ジョブズと11人の証言』講談社)
と感じていた。それが、彼らのパソコン開発につながっていった。そして、実際に、彼らは世界の人々の在り方を変えてしまった。
ジョブズも了解していた、ウォズニアックのパソコン作りの基本コンセプトは「世界一すぐれたコンピュータ」であり「自分が所有したくなるようなコンピュータ」であり「自分のために作る」というものだった。それがアップル社の製品の遺伝子ともなった。
ウォズニアックこう言っている。
「窓から放り出してしまえないようなコンピュータをけっして信用してはならない。(Never trust a computer you can't throw out a window.)」(Brainy Quote: https://www.brainyquote.com/)
(2022年8月11日)
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伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。
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