1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1月21日・稲盛和夫の精神

2019-01-21 | ビジネス
1月21日は、1月21日は、フェミニズム運動家、伊藤野枝が生まれた日(1895年)だが、実業家、稲盛和夫の誕生日でもある。京セラの創業者である。

稲盛和夫は、1932年1月21日、鹿児島市で生まれた。実家は印刷工場をやっていて、和夫は7人きょうだいの上から2番目だった。
23歳で鹿児島大学の工学部を出た稲森は、京都の碍子(がいし)メーカーに就職。ファインセラミックスの研究に熱中したが、経営の傾いた会社側と意見が合わず、退社した。
稲森の技術力と将来性を惜しんだ知人が資金を出し、27歳だった稲森はいっしょに退社した仲間7人とともに京都セラミック(後の京セラ)を設立。稲森が社長となった京セラは、困難な時期を乗り越えて成長し、電子機器やファインセラミック関連の大企業となった。
51歳のころから、稲森に経営学を学ぶ自主勉強会がはじまり、稲森はこれにボランティアの塾長として加わった。これが「稲森塾」となり増殖して国内外に70塾以上になった。
52歳のとき、電気通信事業自由化の流れに際して、健全なインフラ環境を作るためには、当時電報電話事業を独占していた電電公社(後のNTT)に対するライバル通信会社を作るべきだと稲森は関西財界の大物たちに声をかけ、第二電電(後のKDDI)を立ち上げた。
また、同時期に自分の財産を投じて稲盛財団を設立し、人類社会の進歩発展に貢献した人を表彰する国際賞「京都賞」を創設。
78歳のとき、半官半民の企業、日本航空が経営危機におちいったのに際して、首相から懇願されて日航の会長に就任した。稲森が無給で働き、采配をふるった結果、上場廃止され倒産寸前だった日航を再建し、会社更生法の適用から2年半後に株式市場に再上場を果たすという奇跡的なスピートV字回復をやってのけた。

稲盛和夫は、立志伝中の人物で、かつ存命中の、日本製造産業界最後の生き神様である。ソニーの井深大、盛田昭夫、ホンダの本田宗一郎、パナソニックの松下幸之助といった、すでに鬼籍に入った神様たちと並ぶ巨人である。

稲森和夫の京セラといえば「アメーバ経営」が有名である。これは、社員が100人以上の規模になると、社員の一体感が保ちにくくなるため、社内を製品別などの小集団「アメーバ」に分け、独立採算で運営させ、コスト意識を高めようとするものである。

以前、テレビに稲森和夫が出演していて、こんな体験を話していた。セラミック成形の研究の試行錯誤を繰り返している社員が、
「あらゆる手段を試みましたが、だめでした」
と言ったのに対し、稲森はこう尋ねた。
「神に祈ったか?」

稲森の会社の社員は、社員の心得が書かれた小冊子をつねに肌身離さずもち、ときどきそれを開いて稲森の説く精神を思いだすよう言われるているらしい。

稲森和夫の大ファンで、彼の著書も読んでいるし、彼の企業の商品やサービスをなるたけ応援してきたが、その強烈な精神論にはちょっと引いてしまう。
得度した実業家、稲森和夫は個性的な経営者である。
(2019年1月21日)


●おすすめの電子書籍!

『新入社員マナー常識』(金原義明)
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、身につまされる具体的な実例、驚きのエピソードを交えて解説。

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1月20日・フェリーニの自由

2019-01-20 | 映画
1月20日は、俳人の尾崎放哉が生まれた日(1885年)だが、イタリア映画の巨匠、フェデリコ・フェリーニの誕生日でもある。

フェデリコ・フェリーニは、1920年、アドリア海に面したイタリアの町リミニで生まれた。父親は元パン職人で、旅行のセールスや卸売業を営んでいた。母親はローマのブルジョワ階級の子女だったが、彼女は両親の猛反対を押し切って、フェデリコの父親と駆け落ち結婚した。フェデリコは3人きょうだいのいちばん上の子だった。
小さいころから絵を描くのが好きだったフェデリコは、高校時代から、友人の画家と肖像画店を構え、マンガやギャグの原稿を書いては雑誌に投稿していた。
19歳のとき、ローマの大学の法律学校に入学したが、それは両親を喜ばせるためのもので、講義にはまったく出席しなかったという。彼は雑誌に記事を書いたり、雑誌の編集にかかわったりしていたが、やがて映画のコメディの脚本を書くようになった。
25歳のころ、ロベルト・ロッセリーニの映画「戦火のかなた」「無防備都市」の脚本に参加。新現実主義の脚本家として知られるようになった。
30歳のとき、映画「寄席の脚光」を共同監督してデビュー。
34歳のとき、名作「道」。39歳のとき、新現実主義を離れ、ユング心理学の影響を受けた映画「甘い生活」が大成功を収めた。そして、43歳のとき、「8 1/2」。以後、「サテリコン」「道化師」「ローマ」「アマルコルド」「カサノバ」「女の都」「そして船は行く」などの作品を発表。「映像の魔術師」「映画の神さま」などと呼ばれた巨匠フェリーニは、1993年10月、心臓発作のため、ローマで没した。73歳だった。

フェリーニの作品はなかなかテレビでは観られない。いまはDVDもあるけれど、ビデオのない昔は、名画座で見るしかなく、なかなか観るチャンス自体すくなかった。

フェリーニの代表作は数多あるけれど、やはり「8 1/2」である。それ以前に長編映画を7本、共同監督を1作撮っていて、8 1/2作目、という意味らしい。
この作品を、ニューヨークではじめて観た。イタリア語音声の英語字幕で、細かいところは不明だったが、あのときの感動は忘れられない。
マルチェロ・マストロヤンニ演じる主人公の映画監督が、プロデューサーからは責められ、映画の撮影は進まず、妻との仲も決裂寸前で、目はついつい愛人に向いて泳いでしまう、という八方ふさがりの状況にいるのだが、そんな状況のなかでも、マストロヤンニは、ホテルの廊下を軽やかに歩く。ときどき口笛を吹きながら、ダンスするように革靴の爪先をくねらせながら颯爽と。
自由が輝いていた。人生がきらめいていた。最後の有名なせりふ「人生はカーニバルだ」も印象深かった。
「8 1/2」は、渋滞の車中を抜けでていく冒頭のシーンから、最後のシーンまで、全編を「自由」で塗りたくったような映画だが、その映像を浴びるように観て、映画館を出ると、もうスキップしながらマンハッタンの通りを歩いていた。からだが浮くように軽かった。現実は明日の見えない袋小路で進退窮まっていたのだけれど、にもかかわらず、あのときほど「わたしは自由だ」と感じたことはない。
(2019年1月20日)



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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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1月19日・松任谷由実の名曲

2019-01-19 | 音楽
1月19日は、作家エドガー・アラン・ポーが生まれた日(1809年)だが、シンガー・ソング・ライターの「ユーミン」こと、松任谷由実(まつとうやゆみ)の誕生日でもある。

松任谷由実は、1954年、東京の八王子で生まれた。出生時の名は、荒井由実。家は古くから続く呉服屋で、由美は5人きょうだいの上から四番目だった。
小さいころからピアノ、三味線を習っていた由美は、14歳のときにはスタジオでピアノを弾いていた。そのころからオリジナルの曲を書きはじめ、15歳で作詞家としてデビュー。17歳で作曲家としてデビューした。
英国のロックミュージシャンにデザイン学校出身者が多いのを知り、彼女は多摩美術大学に進み、「荒井由実」の名でデビュー。19歳でアルバム「ひこうき雲」を発表。学生時代、すでに成功したミュージシャンで、当時からつきあっていた後の音楽プロデューサー松任谷正隆に自動車購入費として百万円をポンと貸したりした。
22歳のときに結婚。あこがれていたという三文字姓の「松任谷由実」名義に替えて音楽活動を続け、中島みゆきと並び、テレビの歌番組に出ないニューミュージック界の女王として君臨した。とくに20代から30代にかけて「カリスマ」「純愛の教祖」と呼ばれ、絶大な人気を誇った。ライブ・パフォーマンスにおいて、セットに大金をかけた絢爛豪華なステージで知られる現役のトップ・ミュージシャンである。自分用の楽曲のほか「呉田軽穂」のペンネームで松田聖子に「赤いスイートピー」「制服」「渚のバルコニー」「レモネードの夏」「小麦色のマーメイド」「秘密の花園」「蒼いフォトグラフ」「Rock'n Rouge」「時間の国のアリス」などの曲を提供し、松田聖子の全盛期を支えた。

多くの日本人がユーミンのBGM付きの青春日記をもっているにちがいない。1980年代、とくに女性たちにとってそうだった。当時、苗場と言えばユーミン、横浜と言えばユーミン、夏と言えば、冬、春、秋と言えば、ユーミンだった。

同級生の死にインスピレーションを得た「ひこうき雲」(1973年)をはじめとして作った名曲は数知れず。「ユーミンの代表作は?」という問いほど困難な質問はない。
「瞳を閉じて」「やさしさに包まれたなら」「海を見ていた午後」(1974年)
「卒業写真」「ルージュの伝言」「少しだけ片想い」(1975年)
「あの日にかえりたい」(1975年)
「翳(かげ)りゆく部屋」「14番目の月」「中央フリーウェイ」「グッド・ラック・アンド・グッド・バイ」(1976年)
「埠頭を渡る風」(1978年)
「冷たい雨」「DESTINY」(1979年)
「恋人がサンタクロース」(1980年)
「守ってあげたい」(1981年)
「真珠のピアス」(1982年)
「ノーサイド」「Downtown Boy」(1984年)
「ANNIVERSARY」(1989年)
「春よ、来い」(1994年)
曲名をながめるだけで甘酸っぱい思いが胸に満ちてくる。同様に感じる人は多いのでは? 意外性のある華麗なコード進行、大胆な英語使用と強引な英訳、新しい季節感の開拓などユーミンの功績は多い。才人である。
(2019年1月19日)



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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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1月18日・北野武の天命

2019-01-18 | 映画
1月18日は、『クマのプーさん』の作者A・A・ミルンが生まれた日(1882年)だが、マルチ・クリエイター、北野武(きたのたけし)の誕生日でもある。

北野武(ビートたけし)は、1947年、東京で生まれた。団塊の世代である。父親が塗装業を営む北野家は、経済的には貧しかったが、精神的には高潔なものがあった。
明治大学に入学したたけしは、ジャズ喫茶にいりびたり、アルバイトにあけくれ、彼は永山則夫や中上健次と同時期に同じ職場で働いたこともあるという。
たけしは大学を除籍後、25歳のとき、浅草の演芸ホールで芸人見習いをはじめた。
漫才コンビ「ツービート」を結成し、過激な差別ギャグで、カルト的人気を誇った。が、売れっ子になるのは、33歳のころからはじまる漫才ブーム以降のことである。
36歳のとき、大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」に主演した。。当時、日本でもっとも忙しいタレントといわれた彼が、ひと月以上も日本を離れ、南の島でロケに取り組んだ。彼にとっては本格的商業映画の初体験だったが、これでたけしの映画への扉が開かれた。扉を開けてくれたのが世界的な映画監督・大島渚で、共演者が英国のスーパー・スター、デヴィッド・ボウイという幸福な映画デビューだった。
39歳のとき、出版社・講談社の雑誌編集部に殴り込みにいき、逮捕され前科者となった。愛人といっしょのところを雑誌にスクープされたのに腹を立てての暴挙だった。屋台を引いても弟子たちを食べさせていくとの覚悟を決めてのたけし軍団のテロ決行だった。
47歳のとき、パイクを飲酒運転し、転倒事故を起こした。一命はとりとめたものの、顔が大きく損傷し、事故以前と以後で大きく変わってしまった。このときの療養中の病室で彼は写経のように絵を描きつづけた。その絵が、後の彼が監督し、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受けた「HANABI」に使われた。以後、彼は、ビートたけし、または北野武として、タレント、映画監督、俳優、作家、芸術家、大学教授など、まさにマルチな才能を発揮しつづけ、その活躍ぶりはとどまるところを知らない。その活躍ぶりを賞して、かつて彼を除籍した明治大学は、彼に卒業証書を出した。名前になびく大学もある。

たけしが1994年にバイク事故を起こし担ぎ込まれた病院で、その夜当直をしていた医者に、話を聞いたことがある。当時若かった彼(医者)は、最初救急車が着いたとき、患者は顔もからだもぐしゃぐしゃにつぶれた状態だった。で、彼は横の先輩医師に言った。
「あれっ、先輩、この人、なんだか、ビートたけしに似てません?」
まさか。先輩医師は言ったが、所持品を見てみると、まさしく北野武だった。病院では緊急体制がとられた。外科、整形外科など各科のエキスパートが緊急召集され、
「病院の総力をあげて、患者を助けよ」
との厳命がくだされた。こういう有名人の存亡の危機に際して、病院側はなんとかして助けようとする。病気や負傷が重篤であればあるほど懸命になる。それが助かると、病院のいい宣伝になり、お客(患者)が増えるからだ。とにかく、病院側の必死の救命努力により、たけしの命は救われた。あのとき死んでいれば、その後の映画作品はなく、現代の「世界のキタノ」は存在しなかった。「命なりけり、小夜の中山」である。有名であることが、彼を救った。また、天が彼にまだ死ぬことを許さなかった、とも言える。
(2019年1月18日)



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古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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1月17日・モハメド・アリの闘争

2019-01-17 | スポーツ
1月17日は、ヘアードレッサー、ヴィダル・サスーンの誕生日(1928年)だが、プロボクサー、モハメド・アリが生まれた日でもある。

モハメド・アリこと、本名カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアは、一九四二年一月一七日、合衆国ケンタッキー州のルイビルで生まれた。南部のアフリカ系黒人奴隷の血をひく家系で、父親のカシアス・シニアは広告板や掲示板、看板を描くペンキ屋だった。
人種差別がごくふつうにあった土地がらで育ったカシアス・ジュニアは一二歳のときに自転車を盗まれ、腹を立てた。対応した警察官に、
「自転車を盗んだやつをぶちのめしてやる」
と息巻いた。すると、その警官はたまたまボクシングのコーチをしていて、
「その前にまず、人の殴り方、ボクシングを習ったほうがいいよ」
とカシアス・クレイ少年にアドバイスした。
それでクレイはボクシングをはじめた。アマチュアボクサーとしてクレイは一〇〇勝五敗の戦績をあげ、一八歳でローマ五輪の米国代表となり、ライトヘビー級で金メダルを獲得した。母国へ凱旋帰国したクレイは、ふるさとルイビルのレストランに友人と立ち寄ったが、彼らは黒人だからと入店を断られた。クレイはもっていた金メダルをオハイオ川に投げ捨て、もっと有名になり黒人の社会的地位向上のために尽くすことを誓った(この逸話は彼の自伝により、その真偽については諸説がある)。
プロボクサーとしてデビューしたクレイは、予告通りのラウンドにKO勝利するなど派手なパフォーマンスで話題を巻き、二二歳のとき、WBA・WBC統一世界ヘビー級の世界王者となった。彼はこう自称した。
「Float like a butterfly, sting like a bee.(蝶のように舞い、蜂のように刺す)」(Goodreads)
ブラック・ムスリムに入信し、名を「モハメド・アリ」に改めた彼は、人種差別反対の姿勢を前面に押し出した。
二四歳のとき、軍隊への召集通知書が届いた(当時、米国はベトナム戦争中だった)。
「自分にはベトコン(ベトナムの共産主義者たち)とけんかする理由がない」
とアリは徴兵を拒否。チャンピオン・タイトルとプロボクサーの資格、パスポートをはく奪され、多額の罰金と懲役五年の実刑判決を受けた。アリは法廷闘争に入り、ベトナム戦争反対と人種差別反対を訴えてまわった。
二八歳のとき、裁判で勝利を勝ち取り、ようやくリングに復帰できたが、彼はボクサーとしてもっとも油ののった年齢の三年七カ月を犠牲にしたのである。その後、世界王者に返り咲いたアリは、ヘビー級史上初の三度王座獲得を成し遂げ、三九歳で引退。引退後は、パーキンソン病と闘いながら、中東・湾岸危機に際し病身をおしてイラクのバグダッドへ飛び米国人の人質を解放したり、あるいは一九九六年の米国アトランタ五輪の開会式で、聖火リレーのアンカーを務め、かつてオハイオ川に投げ捨てた金メダルのレプリカを授与されたりした。米国の大統領自由勲章を受けたモハメド・アリは、二〇一六年六月、敗血症ショックにより、アリゾナ州のフェニックスで没した。七四歳だった。

高い技術に裏打ちされた不世出のボクサーであり、宣伝効果を意識した派手なパフォーマンスで、人種差別と戦争に対して敢然と立ち向かった偉大な生涯だった。
(2019年1月17日)



●おすすめの電子書籍!

『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。


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1月16日・ミシュランの神

2019-01-16 | ビジネス
1月16日は、トップモデル、ケイト・モスが生まれた日(1974年)だが、事業家アンドレ・ミシュランの誕生日でもある。レストランガイドで有名なミシュランの創業者である。

アンドレ・ジュール・ミシュランは、1853年、フランスのオーベルニュ地方クレルモン・フェランで生まれた。彼はパリに出て建築学を学んだ後、政府の役所で地図を作り、鉄骨メーカーを創業をし、技術者として成功を収めていたが、33歳のとき、急きょキャリアを捨てて故郷へもどった。故郷で祖父が亡くなり、祖父が興した農機具会社が大きく傾き、そのたて直しを計るためだった。
アンドレは、パリで画家の修行中だった弟エドワールをに呼び寄せて会社の社長に据えた。彼らは会社の名前を「ミシュラン社」とし、新規巻き返しをはかったが、業績回復の妙案があるわけでもなかった。
ミシュラン社では当時、農具や作業用機械、また、機械部品であるベルトや弁、菅といったゴム製品を扱っていたが、アンドレが36歳のとき、近くの農夫がパンクした自転車を持ち込んできた。ゴムを扱う機械屋だから、直せないか、というわけだった。
当時、自転車のタイヤはゴムのかたまりで、ひじょうに乗り心地が悪いものだったが、農夫がもちこんだ自転車は、英国のジョン・ダンロップが開発したばかりの空気入りタイヤを装着していた。最新式の空気入りタイヤは、車輪のリムにのりづけされていて、パンクすると修理に数時間かかった。弟のエドワールはこのタイヤに興味をもち、もっと脱着とパンク修理がかんたんなタイヤができないものかと研究をはじめた。
2年後、特許をとったばかりの脱着が容易なチューブ式タイヤをつけた自転車で、ミシュラン兄弟はパリ=ブレスト間自転車レースに挑戦した。このレースは、フランスの首都パリを出発し、フランスの最西端、大西洋に突きでたブルターニュ半島の先端の町ブレストまで行って帰ってくる往復1200キロメートルの自転車レースで、レースのいちばんのポイントは、パンク回避とパンク修理のスピードにかかっていた。
結果、ミシュラン兄弟のタイヤを着けた自転車は、2位に約9時間という大差をつけて優勝し、ミシュラン・タイヤの名は一躍世界にとどろいた。
彼ら兄弟のミシュラン社はその後、辻馬車用の空気入りタイヤ、自動車用の空気入りタイヤを開発し、世界的なタイヤ・メーカーとなった。
1900年、パリ万博があった年には、地図、ガソリンスタンドやホテルのリスト、自動車の整備方法などを載せたドライバー用ガイドブック「ミシュランガイド」を発行し、この本はその後、レストラン・ガイドとして有名になっていった。兄のアンドレ・ミシュランは、会社の広報面に活躍した後、1931年4月、パリで没した。78歳だった。

ミシュランのタイヤには長年お世話になっている。以前、クルマのタイヤを交換してミシュランを新旧交代させたとき、換えて驚いた。ホイールバランスもあるのだろうけれど、走行がすごくスムーズで、驚くほど振動がすくない。
それにしても、策に詰まったところへ、たまたま持ち込まれたパンク修理からヒントを得て大成功を収めたというのは、なかなか示唆に富んだ話だ。困って助けを求めてきた人こそが大切ににすべき「福の神」である。
(2019年1月16日)



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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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1月15日・キング牧師のクール

2019-01-15 | 歴史と人生
1月15日は、エジプトのナセル大統領(1918年)が生まれた日だが、米国公民権運動のシンボル、マーティン・ルーサー・キング牧師の誕生日でもある。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、1929年に、米国ジョージア州アトランタで生まれた。父親はプロテスタント、バプテスト派の牧師で、父子が同じ名前なので、息子のほうは「ジュニア」をつけて呼ばれる。息子のマーティンは、上にお姉さん、下に弟がいる3人きょうだいのまん中だった。
子どものころから教会の聖歌隊で歌っていたマーティンは学業優秀で、ふたつ飛び級をして、15歳で大学に入り、大学や神学校をへて、マサチューセッツ州のボストン大学で神学の博士課程をとった。
ボストトン大学で、キング牧師はしばしば、ハワード・サーマン牧師を訪ねた。サーマン牧師は以前、インドでマハトマ・ガンジーと会ったことのある人物だった。
26歳のとき、キング牧師は博士号をとってボストンを後にし、アラバマ州モンゴメリーの教会で牧師となった。ちょうどそのころ、モンゴメリーの街で、ひとりの女性が、歴史を大きく揺り動かす大事件を引き起こした。
1955年12月、モンゴメリーに住む当時42歳のローザ・パークスという黒人女性が、白人と黒人とで、バスの座席が区別されていたところ、席を白人にゆずるのを拒否したため、逮捕されるという事件が起きた。いわゆる「ローザ・パークス逮捕事件」で、キング牧師は、この報せを聞くと、地域の黒人に、バスに乗車しないようバス・ボイコット運動を呼びかけた。黒人たちは敏感に反応し、乗客の大半を黒人頼みにしていた地域のバスは大打撃を受けた。この事件は、連邦裁判所のあつかうところとなって、キング牧師たちは、バスの車内での人種分離を容認する法律は憲法違反である、という判決を勝ち取った。
そこからさらに、キング牧師は全米各地で公民権運動を指揮していく。彼が黒人たちに呼びかけた戦術は、非暴力、不服従というガンジーの戦術を踏襲したものだった。
1963年8月、34歳のとき、キング牧師は、首都ワシントンDCでおこなわれたワシントン大行進に参加し、リンカーン記念堂の前で演説をおこなった。それが有名な「わたしには夢がある(I have a dream.)」の演説で、内容はこんな感じである。
「わたしには夢がある、それはいつの日か、わたしたち奴隷だった黒人の子孫と、使用者だった白人の子孫が、仲良く語り合う日がくる、そういう夢が」
キング牧師の語る高い理想は、聖歌隊できたえた美声とあいまって、全米、全世界に広く感動を呼んだ。翌1965年、35歳のとき、キング牧師はノーベル平和賞を受賞した。
そして、1968年4月、テネシー州メンフィス市内のモーテルのバルコニーで、キング牧師は銃で撃たれ死亡。39歳だった。

現在米国では1月の第3月曜日はキング牧師の名を冠した祝日になっている。

現在でも米国では人種問題はホットな話題だが、一般論をいうならば、米国の白人たちのほうが、長い歴史のなかで、差別問題についてきびしく決断を迫られる機会を多くもってきていて、日本人より差別に関してずっと意識的で目覚めている。日本人の差別主義者たちはしばしば自分が差別主義者だと意識していない。
キング牧師は度胸もすわっていたけれど、なにより頭脳がクールだった。
(2019年1月15日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。キング牧師、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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1月14日・ニナ・リッチの無二

2019-01-14 | ビジネス
1月14日は、作家、三島由紀夫が生まれた日(1925年)だが、ファッションデザイナー、ニナ・リッチの誕生日でもある。

ニナ・リッチこと、マリア・ニエリは、1883年、イタリアのトリノで生まれた。子どものときから「ニナ」の愛称で呼ばれていたマリアが5歳のとき、家族はフィレンツェへ引っ越し、彼女が12歳のとき、フランスのパリへ引っ越した。
13歳のとき、服飾メーカーのお針子となったニナは、以後、ずっとドレス製作ひと筋に進み、18歳のときにはアトリエの主任を務めていた。
21歳のとき、ニナはイタリア人宝石商のルイ・リッチと結婚し、これで彼女の名は、マリア(ニナ)・リッチとなった。
25歳のとき「ラファン」店のデザイナーとなり、やがてニナはラファンのパートナーとなり、ラファンでずっと女性服を作りつづけた。
そして49歳のとき、ニナは独立。自分の店「ニナ・リッチ」をパリに開いた。
一点一点のドレス用の布地を、直接顧客のからだにあててカットし、仕上げていくニナ・リッチのオートクチュール(オーダーメイドの一点ものの高級服)は、顧客をこの上なく美しく見せると大評判となり、彼女の店はたちまち大盛況となり「ニナ・リッチ」ブランドは、彼女が50代前半の1930年代に発展した。「ニナ・リッチ」は毛皮製品やアクセサリーも扱うようになった。
第二次世界大戦が終わったとき、リナは62歳だった。彼女は息子のロベール・リッチに店の経営をまかせ、自分はデザインに専念することにした。
息子ロベールは自分が温めていた案を実行に移し、パリじゅうの店から駆り集めたマネキン150体に「ニナ・リッチ」のドレスを着せて、ルーブル美術館でドレスの展覧会を開いた。これが好評を得ると、ヨーロッパや米国を展覧会ツアーしてまわった。
「ニナ・リッチ」はオートクチュールからプレタポルテ(モードを取り入れた高級既製服)へ移行し、戦後豊かになった大衆が求めるエレガンスを供給した。
「ニナ・リッチ」ブランドは、香水にも進出し、ニナが65歳のとき発表された「レール・デュ・タン(時代の空気)」が世界的なロングヒットとなった。
76歳のとき、ニナは服飾デザインから身を引き、「ニナ・リッチ」のデザインは後任者に引き継がれた。
マリア(ニナ)・リッチは、1970年11月に没した。87歳だった。

イヴ・サン・ローランや川久保玲のような斬新なデザインをプレタポルテとして打ちだすのとは異なる、顧客その人ひとりのための服が「ニナ・リッチ」の出発点だった。
オートクチュールの歴史は、ナポレオン3世の時代にはじまるらしい。そのなかでも、ニナ・リッチは伝説的なドレス・メイカーだった。

ニナ・リッチは、顧客のからだに布地をあて、5ミリのちがいも感じ取る繊細な感覚をもって生地を裁断し、その人に合った最適なデザインの服を抜群のセンスでもって作っていく「布地の彫刻家」だった。
彼女の一代限りの神業のモードを、息子が事業化し、そのモードを大量生産する商品へ移しかえることに成功した。「ニナ・リッチ」の歴史は、おおまかに言えばそういう流れになる。大量生産とはいっても、少数限定生産の高級品で、大工場で量産される既製服とはわけがちがうけれど。ヨーロッパ的な価値観を感じさせる。
(2019年1月14日)


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しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。しあわせに早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えましょう。読むだけで癒されるしあわせへの近道、ここにあります。


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1月13日・マイケル・ボンドの昇華

2019-01-13 | 文学
1月13日は、日本画家、狩野芳崖(かのうほうがい)が生まれた日(文政11年)だが、児童文学家、マイケル・ボンドの誕生日でもある。『くまのパディントン』の作者である。

マイケル・ボンドは、1926年、英国イングランドのバークシア州ニューベリーで生まれた。同州の都市レディングで育ったマイケルは、鉄道の駅に行って汽車を見るのが好きな少年だった。母親がそこの学校の制服のカラーが好きだったからという理由で、レディングのカトリックの学校に入れられたマイケルは、ベルトで折檻するその学校がいやで、14歳のときに学校をやめてしまった。彼はBBC放送局の技師助手となったが、第二次世界大戦がはじまり、レディングに大空襲があり、彼が働いていたビルは空襲で崩壊し多くの死者が出た。が、彼は奇跡的に助かった。
戦時下、マイゲル・ボンドは英国空軍に17歳で志願した。しかし、飛行機にのるとパニックをおこす航空病にかかり、陸軍所属へと替わり、戦後の21歳まで陸軍にいた。
陸軍兵士としてエジプトに駐留していたころから、ボンドは短編小説を書いて雑誌に投稿し、取り上げられたりしていたが、物書きで食べていけるとは考えず、BBC放送のカメラマンをしながら、短編小説や戯曲を書いていた。
32歳のとき、彼は初の単行本『くまのパディントン(A Bear Called Paddington)』を出版。この本は大好評を博し、彼はこの続編を書き、41歳で放送局を辞め、専業作家となった。彼のパディントン・シリーズは、約30カ国語に翻訳され、世界で3500万部売れているという。ボンドは、パディントン以外の児童文学シリーズや、大人向けのミステリー小説なども書き、71歳のとき、英国王室からOBE勲章を受けた。

パディントンは、南米ペルーからやってきたくまで、帽子をかぶり、コートの胸に「このくまをよろしくお願いします」という名札を着けて、パディントン駅でスーツケースの上にすわっていた。彼はブラウン夫妻に引き取られることになる。駅名から彼はこの名で呼ばれるようになった。パディントンは礼儀正しいくまだが、ブラウン家ではいろいろな騒動が持ち上がり……というのがくまのパディントンの物語の発端である。

パディントンが駅で名札をつけてすわっているのは、戦争中、ロンドンから疎開してきた子どもが、よく駅で「この子をよろしくお願いします」という名札をつけてすわっていた光景が投影されているそうだ。
「アンパンマン」の作者やなせたかしが、戦時中の食べ物のないひもじい時代の反転として、空腹の者にアンパンを届けるアンパンマンを創造したことを思いださせる。
戦争から戦記文学や反戦マンガが生まれれることもあれば、パディントンやアンパンマンのようにファンタジーに昇華される場合もある。
(2019年1月13日)



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血液型呪文シリーズ全4冊(天野たかし)
『A型のための呪文』『B型のための呪文』『O型のための呪文』『AB型のための呪文』
それぞれの血液型別の性格診断から導き出された、血液型別「運命を開く呪文の本」。血液型の影響を受けた自分の性格を認め、許し、幸運を招き寄せる魅惑の呪文を一挙紹介。言霊と自己暗示による開運の教科書。運命はことばによって開くことができます。呪文診断テスト付き。


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1月12日・ジェフ・ベゾスの胆力

2019-01-12 | ビジネス
1月12日は、作家、村上春樹が生まれた日(1949年)だが、実業家、ジェフ・ベゾスの誕生日でもある。ベゾスは世界的企業アマゾンの創業者である。

ジェフ・ベゾスは、1964年、米国のニューメキシコ州アルバカーキで生まれた。誕生時の名前はジェフリー・プレストン・ヨルゲンセン。彼が生まれたとき、母親は17歳の高校生だった。ジェフの誕生後、両親はすぐに別れ、ジェフは母親に引き取られた。母親は高校とカレッジを卒業し、銀行に勤めた。そしてジェフが4歳のとき、キューバ生まれのエンジニア、ミゲル・ベゾスと結婚した。これで彼の名前は、ジェフリー・プレストン・ベゾスとなった。彼の下には異父きょうだいの妹と弟が生まれた。
3歳のとき、ベッドを分解しようとしたジェフは、モッテソーリ教育の幼稚園をへて、小学生時代にはコンピュータ・プログラミングをしていた。毎年夏休みになると母方の祖父母がもつテキサス州の農場で働きにいき、クレーンを直したり、牛の焼き印を手伝ったりして3カ月を過ごすという少年時代を送った。
名門プリンストン大学に進んだ彼は、はじめは物理学志望だったが、コンピュータ科学、電子工学を専攻し、同大学を最優秀学生として卒業した。
22歳のベゾスは、ベル研究所やインテルの内定を蹴って、金融通信ネートワークのベンチャー企業に就職した。ヘゾスはその後、銀行のシステム開発の会社へ移り、さらに株式投資の意思決定プログラム開発の会社へ転職し、28歳のころには、副社長となり年収100万ドル(1億円)以上を得ていた。
インターネット書店を開業したいと会社に提案したベゾスは、その案がいれられないと見るや高収入の地位を捨てて会社を辞め、自分で創業することにした。1994年、30歳のときワシントン州ベルビューに借りた家のガレージで、世界初のインターネット小売業者アマゾン社をはじめた。設備投資が必要となると、彼は両親に資金提供を頼んだ。
「彼は、自分の計算によれば、インターネットビジネスが成功する確率は約10%だと両親に伝えていた。」(ジェニファー・ランドー著、スタジオアラフ訳『Amazonをつくったジェフ・ベゾス』岩崎書店)
両親は老後資金である貯金と退職金の積立金の全額30万ドルを息子の「10%」に賭けた。その後もアマゾンは、投資家から調達して100万ドル単位で設備投資を注ぎ込み、借金がふくれる割になかなか黒字化せず苦しんだが、ベゾスが33歳のときに株式公開し、39歳のときにようやく採算がとれる企業となった。アマゾンは本以外にもさまざまな商品をネット販売し、ベゾスが43歳のとき電子書籍用端末キンドルを発売した。その後も彼は、ネットビジネス、慈善活動、宇宙開発、エネルギー開発など幅広い分野で活躍している。

いまでこそアマゾンは成功した企業と言われるが、その成否は長らく疑問視されていた。すると、すでに大成功者だった地位と安定を捨てて新事業に挑み、借金を重ねに重ねて耐えて事業を続けたベゾスの胆力に注目すべきである。頭が切れ、度胸がすわっている。ベゾスは言っている。
We've had three big ideas at Amazon that we've stuck with for 18 years, and they're the reason we're successful: Put the customer first. Invent. And be patient.(アマゾンが大事にしている三つの考えがある。これは18歳のときから守ってきたもので、それで成功したのである。お客さん第一、発明、忍耐すること、の三つである)(Business Insider Inc.: http://www.businessinsider.com/)
(2019年1月12日)



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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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