1月14日は、作家、三島由紀夫が生まれた日(1925年)だが、ファッションデザイナー、ニナ・リッチの誕生日でもある。
ニナ・リッチこと、マリア・ニエリは、1883年、イタリアのトリノで生まれた。子どものときから「ニナ」の愛称で呼ばれていたマリアが5歳のとき、家族はフィレンツェへ引っ越し、彼女が12歳のとき、フランスのパリへ引っ越した。
13歳のとき、服飾メーカーのお針子となったニナは、以後、ずっとドレス製作ひと筋に進み、18歳のときにはアトリエの主任を務めていた。
21歳のとき、ニナはイタリア人宝石商のルイ・リッチと結婚し、これで彼女の名は、マリア(ニナ)・リッチとなった。
25歳のとき「ラファン」店のデザイナーとなり、やがてニナはラファンのパートナーとなり、ラファンでずっと女性服を作りつづけた。
そして49歳のとき、ニナは独立。自分の店「ニナ・リッチ」をパリに開いた。
一点一点のドレス用の布地を、直接顧客のからだにあててカットし、仕上げていくニナ・リッチのオートクチュール(オーダーメイドの一点ものの高級服)は、顧客をこの上なく美しく見せると大評判となり、彼女の店はたちまち大盛況となり「ニナ・リッチ」ブランドは、彼女が50代前半の1930年代に発展した。「ニナ・リッチ」は毛皮製品やアクセサリーも扱うようになった。
第二次世界大戦が終わったとき、リナは62歳だった。彼女は息子のロベール・リッチに店の経営をまかせ、自分はデザインに専念することにした。
息子ロベールは自分が温めていた案を実行に移し、パリじゅうの店から駆り集めたマネキン150体に「ニナ・リッチ」のドレスを着せて、ルーブル美術館でドレスの展覧会を開いた。これが好評を得ると、ヨーロッパや米国を展覧会ツアーしてまわった。
「ニナ・リッチ」はオートクチュールからプレタポルテ(モードを取り入れた高級既製服)へ移行し、戦後豊かになった大衆が求めるエレガンスを供給した。
「ニナ・リッチ」ブランドは、香水にも進出し、ニナが65歳のとき発表された「レール・デュ・タン(時代の空気)」が世界的なロングヒットとなった。
76歳のとき、ニナは服飾デザインから身を引き、「ニナ・リッチ」のデザインは後任者に引き継がれた。
マリア(ニナ)・リッチは、1970年11月に没した。87歳だった。
イヴ・サン・ローランや川久保玲のような斬新なデザインをプレタポルテとして打ちだすのとは異なる、顧客その人ひとりのための服が「ニナ・リッチ」の出発点だった。
オートクチュールの歴史は、ナポレオン3世の時代にはじまるらしい。そのなかでも、ニナ・リッチは伝説的なドレス・メイカーだった。
ニナ・リッチは、顧客のからだに布地をあて、5ミリのちがいも感じ取る繊細な感覚をもって生地を裁断し、その人に合った最適なデザインの服を抜群のセンスでもって作っていく「布地の彫刻家」だった。
彼女の一代限りの神業のモードを、息子が事業化し、そのモードを大量生産する商品へ移しかえることに成功した。「ニナ・リッチ」の歴史は、おおまかに言えばそういう流れになる。大量生産とはいっても、少数限定生産の高級品で、大工場で量産される既製服とはわけがちがうけれど。ヨーロッパ的な価値観を感じさせる。
(2019年1月14日)
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ニナ・リッチこと、マリア・ニエリは、1883年、イタリアのトリノで生まれた。子どものときから「ニナ」の愛称で呼ばれていたマリアが5歳のとき、家族はフィレンツェへ引っ越し、彼女が12歳のとき、フランスのパリへ引っ越した。
13歳のとき、服飾メーカーのお針子となったニナは、以後、ずっとドレス製作ひと筋に進み、18歳のときにはアトリエの主任を務めていた。
21歳のとき、ニナはイタリア人宝石商のルイ・リッチと結婚し、これで彼女の名は、マリア(ニナ)・リッチとなった。
25歳のとき「ラファン」店のデザイナーとなり、やがてニナはラファンのパートナーとなり、ラファンでずっと女性服を作りつづけた。
そして49歳のとき、ニナは独立。自分の店「ニナ・リッチ」をパリに開いた。
一点一点のドレス用の布地を、直接顧客のからだにあててカットし、仕上げていくニナ・リッチのオートクチュール(オーダーメイドの一点ものの高級服)は、顧客をこの上なく美しく見せると大評判となり、彼女の店はたちまち大盛況となり「ニナ・リッチ」ブランドは、彼女が50代前半の1930年代に発展した。「ニナ・リッチ」は毛皮製品やアクセサリーも扱うようになった。
第二次世界大戦が終わったとき、リナは62歳だった。彼女は息子のロベール・リッチに店の経営をまかせ、自分はデザインに専念することにした。
息子ロベールは自分が温めていた案を実行に移し、パリじゅうの店から駆り集めたマネキン150体に「ニナ・リッチ」のドレスを着せて、ルーブル美術館でドレスの展覧会を開いた。これが好評を得ると、ヨーロッパや米国を展覧会ツアーしてまわった。
「ニナ・リッチ」はオートクチュールからプレタポルテ(モードを取り入れた高級既製服)へ移行し、戦後豊かになった大衆が求めるエレガンスを供給した。
「ニナ・リッチ」ブランドは、香水にも進出し、ニナが65歳のとき発表された「レール・デュ・タン(時代の空気)」が世界的なロングヒットとなった。
76歳のとき、ニナは服飾デザインから身を引き、「ニナ・リッチ」のデザインは後任者に引き継がれた。
マリア(ニナ)・リッチは、1970年11月に没した。87歳だった。
イヴ・サン・ローランや川久保玲のような斬新なデザインをプレタポルテとして打ちだすのとは異なる、顧客その人ひとりのための服が「ニナ・リッチ」の出発点だった。
オートクチュールの歴史は、ナポレオン3世の時代にはじまるらしい。そのなかでも、ニナ・リッチは伝説的なドレス・メイカーだった。
ニナ・リッチは、顧客のからだに布地をあて、5ミリのちがいも感じ取る繊細な感覚をもって生地を裁断し、その人に合った最適なデザインの服を抜群のセンスでもって作っていく「布地の彫刻家」だった。
彼女の一代限りの神業のモードを、息子が事業化し、そのモードを大量生産する商品へ移しかえることに成功した。「ニナ・リッチ」の歴史は、おおまかに言えばそういう流れになる。大量生産とはいっても、少数限定生産の高級品で、大工場で量産される既製服とはわけがちがうけれど。ヨーロッパ的な価値観を感じさせる。
(2019年1月14日)
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