1月11日は、マンガ家、ちばてつやが生まれた日(1939年)だが、測量家、伊能忠敬(いのうただたか)の誕生日でもある。
伊能忠敬は、延享2年1月11日(1745年)、上総国の小関村(現在の千葉の九十九里町小関)で生まれた。生まれたときの名は小関三治郎だった。漁村の名主の家で、漁具を管理する家だった。三治郎は3人きょうだいの末っ子で、上に兄がいた。
祖父母の家など親戚を転々としながら育った三治郎は、土木工事の指揮をしていてその仕事をぶりを認められ、17歳のとき、下総国の香取郡(現在の千葉の香取市)の酒造家、伊能家に婿養子に入った。その際「忠敬」という名をもらい、「伊能忠敬」になった。
地域のもめごとをたびたび上手に処理し、天明の飢饉に際して困窮した人々を率先して救済し村を救った。地域での人望が厚かった忠敬は、伊能家の商売を発展させた後、50歳のときに娘に婿をとって跡を継がせ、隠居した。
50歳の忠敬は江戸に出て、幕府に天文方に出府して改暦事業にたずさわっていた民間の天文学者、高橋至時(たかはしよしとき)に弟子入りし、天文学や測量術について学びだした。師匠は忠敬の19歳年下だった。
当時、江戸幕府の天文方では、天文観測によって正しい暦を作るために、子午線1度ぶんの正確な長さを求めることが急務となっていた。一方で、大黒屋光太夫を連れてラクスマンが根室に来航し通商要求をしてくるなど、択捉(えとろふ)や蝦夷(えぞ、北海道)に対するロシアの接近があり、北の地域では緊張が高まっていた。
そこで、師匠の高橋至時は、子午線1度の精確な距離を割り出すことと、北海道地域の精確な把握のために、北海道の測量の願いを申し出て、許可された。
その測量の実務を任せられたのが、弟子の伊能忠敬で、忠敬は55歳のとき、息子を含む弟子と手伝いの5人を引き連れて、北海道の測量に出発した。
彼らは重たい機材を抱えて、1日に約40キロメートルを徒歩で移動した。幕府から日当が出たが、忠敬はその約7倍の金額を自腹をきって旅費や道具代にあてた。
約半年の測量旅行の後、まとめられた蝦夷地の地図は、精緻をきわめ、江戸幕府を感心させた。この調子でほかの地域も、ということになり、忠敬は中部、近畿地方、四国、九州と足を伸ばして測量を続け、66歳のときには、種子島、屋久島や壱岐島まで出かけた。そうして76歳のとき、「大日本沿海輿地全図」が完成した。これにより、日本ははじめて精確な自国の姿を知った。忠敬の地図は現在の地図とほとんど違わない精密さだった。
亡くなる寸前まで、研究と地図作成と弟子の育成に尽力しつづけた忠敬は、喘息がひどくなり、文政元年の4月(1818年)に没した。73歳だった。
伊能忠敬関係の道具や資料は現在、国宝となっている。
「五十の手習い」ということわざがあるけれど、それを地で行ったが伊能忠敬だった。
当時の50歳というと、いまだと80歳くらいにあたるだろう。
人生で、ものごとをはじめるのに遅すぎることはないとは、サン=テグジュペリの言だけれど、伊能忠敬は身をもってその範を示してくれた。
(2019年1月11日)
●おすすめの電子書籍!
『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com
伊能忠敬は、延享2年1月11日(1745年)、上総国の小関村(現在の千葉の九十九里町小関)で生まれた。生まれたときの名は小関三治郎だった。漁村の名主の家で、漁具を管理する家だった。三治郎は3人きょうだいの末っ子で、上に兄がいた。
祖父母の家など親戚を転々としながら育った三治郎は、土木工事の指揮をしていてその仕事をぶりを認められ、17歳のとき、下総国の香取郡(現在の千葉の香取市)の酒造家、伊能家に婿養子に入った。その際「忠敬」という名をもらい、「伊能忠敬」になった。
地域のもめごとをたびたび上手に処理し、天明の飢饉に際して困窮した人々を率先して救済し村を救った。地域での人望が厚かった忠敬は、伊能家の商売を発展させた後、50歳のときに娘に婿をとって跡を継がせ、隠居した。
50歳の忠敬は江戸に出て、幕府に天文方に出府して改暦事業にたずさわっていた民間の天文学者、高橋至時(たかはしよしとき)に弟子入りし、天文学や測量術について学びだした。師匠は忠敬の19歳年下だった。
当時、江戸幕府の天文方では、天文観測によって正しい暦を作るために、子午線1度ぶんの正確な長さを求めることが急務となっていた。一方で、大黒屋光太夫を連れてラクスマンが根室に来航し通商要求をしてくるなど、択捉(えとろふ)や蝦夷(えぞ、北海道)に対するロシアの接近があり、北の地域では緊張が高まっていた。
そこで、師匠の高橋至時は、子午線1度の精確な距離を割り出すことと、北海道地域の精確な把握のために、北海道の測量の願いを申し出て、許可された。
その測量の実務を任せられたのが、弟子の伊能忠敬で、忠敬は55歳のとき、息子を含む弟子と手伝いの5人を引き連れて、北海道の測量に出発した。
彼らは重たい機材を抱えて、1日に約40キロメートルを徒歩で移動した。幕府から日当が出たが、忠敬はその約7倍の金額を自腹をきって旅費や道具代にあてた。
約半年の測量旅行の後、まとめられた蝦夷地の地図は、精緻をきわめ、江戸幕府を感心させた。この調子でほかの地域も、ということになり、忠敬は中部、近畿地方、四国、九州と足を伸ばして測量を続け、66歳のときには、種子島、屋久島や壱岐島まで出かけた。そうして76歳のとき、「大日本沿海輿地全図」が完成した。これにより、日本ははじめて精確な自国の姿を知った。忠敬の地図は現在の地図とほとんど違わない精密さだった。
亡くなる寸前まで、研究と地図作成と弟子の育成に尽力しつづけた忠敬は、喘息がひどくなり、文政元年の4月(1818年)に没した。73歳だった。
伊能忠敬関係の道具や資料は現在、国宝となっている。
「五十の手習い」ということわざがあるけれど、それを地で行ったが伊能忠敬だった。
当時の50歳というと、いまだと80歳くらいにあたるだろう。
人生で、ものごとをはじめるのに遅すぎることはないとは、サン=テグジュペリの言だけれど、伊能忠敬は身をもってその範を示してくれた。
(2019年1月11日)
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