不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1月11日・伊能忠敬の範

2019-01-11 | 歴史と人生
1月11日は、マンガ家、ちばてつやが生まれた日(1939年)だが、測量家、伊能忠敬(いのうただたか)の誕生日でもある。

伊能忠敬は、延享2年1月11日(1745年)、上総国の小関村(現在の千葉の九十九里町小関)で生まれた。生まれたときの名は小関三治郎だった。漁村の名主の家で、漁具を管理する家だった。三治郎は3人きょうだいの末っ子で、上に兄がいた。
祖父母の家など親戚を転々としながら育った三治郎は、土木工事の指揮をしていてその仕事をぶりを認められ、17歳のとき、下総国の香取郡(現在の千葉の香取市)の酒造家、伊能家に婿養子に入った。その際「忠敬」という名をもらい、「伊能忠敬」になった。
地域のもめごとをたびたび上手に処理し、天明の飢饉に際して困窮した人々を率先して救済し村を救った。地域での人望が厚かった忠敬は、伊能家の商売を発展させた後、50歳のときに娘に婿をとって跡を継がせ、隠居した。
50歳の忠敬は江戸に出て、幕府に天文方に出府して改暦事業にたずさわっていた民間の天文学者、高橋至時(たかはしよしとき)に弟子入りし、天文学や測量術について学びだした。師匠は忠敬の19歳年下だった。
当時、江戸幕府の天文方では、天文観測によって正しい暦を作るために、子午線1度ぶんの正確な長さを求めることが急務となっていた。一方で、大黒屋光太夫を連れてラクスマンが根室に来航し通商要求をしてくるなど、択捉(えとろふ)や蝦夷(えぞ、北海道)に対するロシアの接近があり、北の地域では緊張が高まっていた。
そこで、師匠の高橋至時は、子午線1度の精確な距離を割り出すことと、北海道地域の精確な把握のために、北海道の測量の願いを申し出て、許可された。
その測量の実務を任せられたのが、弟子の伊能忠敬で、忠敬は55歳のとき、息子を含む弟子と手伝いの5人を引き連れて、北海道の測量に出発した。
彼らは重たい機材を抱えて、1日に約40キロメートルを徒歩で移動した。幕府から日当が出たが、忠敬はその約7倍の金額を自腹をきって旅費や道具代にあてた。
約半年の測量旅行の後、まとめられた蝦夷地の地図は、精緻をきわめ、江戸幕府を感心させた。この調子でほかの地域も、ということになり、忠敬は中部、近畿地方、四国、九州と足を伸ばして測量を続け、66歳のときには、種子島、屋久島や壱岐島まで出かけた。そうして76歳のとき、「大日本沿海輿地全図」が完成した。これにより、日本ははじめて精確な自国の姿を知った。忠敬の地図は現在の地図とほとんど違わない精密さだった。
亡くなる寸前まで、研究と地図作成と弟子の育成に尽力しつづけた忠敬は、喘息がひどくなり、文政元年の4月(1818年)に没した。73歳だった。

伊能忠敬関係の道具や資料は現在、国宝となっている。

「五十の手習い」ということわざがあるけれど、それを地で行ったが伊能忠敬だった。
当時の50歳というと、いまだと80歳くらいにあたるだろう。
人生で、ものごとをはじめるのに遅すぎることはないとは、サン=テグジュペリの言だけれど、伊能忠敬は身をもってその範を示してくれた。
(2019年1月11日)



●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月10日・エイゼンシュテインの抵抗

2019-01-10 | 映画
1月10日は、ロック・ヴォーカリスト、ロッド・スチュワートが生まれた日(1945年)だが、ロシアの映画監督、エイゼンシュテインの誕生日でもある。

セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテインは、1898年1月10日、バルト海に面するラトビアのリガで生まれた。ラトビアは当時、帝政ロシアの支配下にあった。エイゼンシュテインの家系は、その名「~シュテイン」の示す通り、ユダヤ人の血をひく家系で、セルゲイの父親は建築家だった。
セルゲイは、専門学校で建築を学んだ後、20歳で赤軍に入った。復員後は、モスクワの劇場で美術を担当した。
26歳のころ、演劇界から映画界へと転身し、映画『ストライキ』を製作。
27歳のとき、名作『戦艦ポチョムキン』を監督。モンタージュ理論を実践して見せた有名なシーンにより、この映画はエイゼンシュテインの名を世界にとどろかせることになった。
以後、『十月』『全線』『アレクサンドル・ネフスキー』『イワン雷帝』などを発表。
1948年、モスクワで没した。50歳だった。

栄光と名声に包まれた大監督だけれど、その生涯と作品をあらためてたどってみると、激動の時代に生きた悲運の映画監督、といった印象が強い。
1917年。ロマノフ王朝がひきずりおろされた三月革命、そして社会主義政権が打ち立てられた十一月革命と、いわゆるロシア革命が起きた。これがエイゼンシュテイン19歳のとき。
ロシア革命の指導者レーニンが没し、権力闘争の結果、スターリンが権力を手中にした。独裁者スターリンの大粛清により、ロシア内外で毎年何十万人という数の人間が処刑されていった。それはエイゼンシュテインが30代後半のころだった。

当時のロシアでは、映画の製作と配給は、国家の事業で、『戦艦ポチョムキン』も、党中央委員会の委託を受けて製作された、党の作品だった。
そういう状況下で、エイゼンシュテインの映画製作はつねに国家からの監視のもとでおこなわれ、つねに批判され、修正したり、未完のままお蔵入りになったりした。
『全線』はタイトルとラストシーンを変更させられ、『ベージン草原』は未完のまま放棄させられ、『アレクサンドル・ネフスキー』は上映禁止、『イワン雷帝』は第一部は激賞されたもの、第二部は上映禁止となった。『十月』には、スターリン自身が大幅なシーン・カットを直接指示したという。
エイゼンシュテインにとって映画製作は忍耐と抵抗の作業だったはずだ。

若いころ『戦艦ポチョムキン』を新宿の名画座でみた。名前だけは、ずっと前から聞いていた垂涎の映画だった。虐殺された民衆の死体が累々と積み重なったオデッサの広場の階段を、赤ちゃんをのせた乳母車が、誰も押さないのにひとりで、かたんかたんと下りていく。その静かさ、冷たさ。戦争というものを象徴する、この名場面中の名場面は、よく記憶に残っている。圧倒的な勢いで押してくる「力」を感じた。
エイゼンシュテインがもしも、もっと自由な環境で映画を撮っていたら、と時々想像する。彼の生涯は、きみはいまの環境でもっとできることがあるのでは? と問うてくる。
(2019年1月10日)



●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月9日・ボーヴォワールの性

2019-01-09 | 思想
1月9日は、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジが生まれた日(1944年)だが、フェミニズムの仏作家シモーヌ・ド・ボーヴォワールの誕生日でもある。

シモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワールは1908年1月9日、フランスのパリで生まれた。裕福な銀行家の娘だった。一家は、敬虔なカトリックで、幼いシモーヌはとても信心深く、尼僧を志していた。しかし、14歳のときに信仰心がくずれる体験をし、考え方を180度転回して無神論者となった。
ソルボンヌ大学で哲学を専攻したボーヴォワールは、メルロ・ポンティや、レヴィ・ストロースといっしょに教育実習をした後、教授資格認定試験の準備をしているときに、ポール・ニザン、ジャン・ポール・サルトルに出会った。後に20世紀思想界のスターとなるサルトルは、生まれつきひどい斜視で、小男だったが、ボーヴォワールと気が合った。ボーヴォワールが21歳のころのある日、ルーヴル宮殿の庭のベンチに二人並んで腰かけていたとき、サルトルは彼女にこういったという。
「2年間のリース契約にサインしようじゃないか」
彼らは、正式には結婚しない、たがいに相手を束縛せず、自由恋愛を認め合うという特殊な恋人関係の契約を結んだ。彼女は高校教師になり、仕事のかたわら小説を書きだした。
35歳で最初の小説『招かれた女』を出版。これは、自分とサルトル、そして自分の教え子の姉妹とのあいだに起きた恋の愛憎関係を小説化したものだった。
41歳のとき、ボーヴォワールは代表作『第二の性』を発表した。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
という有名な一節がある、「女性」を哲学的に考察した革命的な本だった。
その後も彼女は旺盛に執筆、講演活動をおこなった。
2年契約だったサルトルとの恋愛契約は延長を重ね、結局生涯つづいた。結婚しない新しい愛の形は、サルトルの都合のいい浮気の体裁繕いという一面があり、ボーヴォワールは嫉妬の念に苦しんだこともあったようだが、2人の関係は切れずに続き、ボーヴォワールは72歳のとき、サルトルの死を看取った。彼女は1986年4月に没した。78歳だった。

「第二の性」とは、大づかみに言えばこういうことである。
この男性中心の社会では、男が主体であり絶対的な存在で、男がすべての価値基準を決めている。男が決めた「女の定義」を女は引き受け、女は定義にあてはまる「女」になろうとする。女は他者であり、隷属的、相対的な存在である。女は「第二の性」つまり、劣った性で、それは男によって都合がいいように作られた性なのである。と、ボーヴォワールは、古代からずっと女に押しつけられてきた「女らしさ」「女の役目」といった概念のうそをあばき、女性たちは男たちの定義から解放されるべきだと説くわけである。

ボーヴォワールはフランス側の女性解放の巨星である。そうしてみると、人権問題と同様、女性の解放は、やはりフランスと米国が先進国である。
いまの日本女性たちは、ボーヴォワールの恩恵を確実に受けているけれど、果たしてどれだけの人が、それを意識しているか。日本はいまだ男尊女卑の、遅れた野蛮国のひとつに過ぎない。すると、日本の中高年男性こそ、ボーヴォワールを読むべきである。
(2019年1月9日)


●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月8日・ホーキングの運命観

2019-01-08 | 科学
1月8日は、デヴィッド・ボウイが生まれた日(1947年)だが、物理学者のホーキング博士の誕生日でもある。

スティーヴン・ウィリアム・ホーキングは、1942年、英国イングランドのオックスフォードで生まれた。父親は医学研究者で、母親は医学研究所で秘書として働いていた。戦争中でロンドン爆撃を避け、母親はオクスフォードへ避難し、そこでスティーヴンを産んだ。彼には妹が2人いる。
スティーヴンは頭脳優秀で、17歳の若さで奨学金を得てオックスフォード大学に入学した。大学では、講義内容がかんたんすぎ、しらけていたが、やがて気を取り直して、ボート部に入り、舵とり役のコックスを務めた。
オクスフォード大を卒業し、ケンブリッジ大学大学院に進んだホーキングは、そこで応用数学と理論物理を研究した。が、21歳のとき、筋萎縮性側索硬化症と診断された。これは筋肉がしだいる麻痺して死にいたる病で、彼は医師にあと2、3年の命だと宣告された。
絶望の底に突き落とされたホーキングだったが、やがて生きる意志に目覚め、23歳のときに結婚。25歳のときには長男が生まれた。
32歳のとき「ブラックホールの蒸発理論」を発表。ビッグバンによる宇宙のはじまりについて科学的説明をし、宇宙理論の世界的権威となった。
筋萎縮性側索硬化症は、ほとんどの患者が5年以内に死亡する難病だったが、ホーキングの場合は病状の進行が弱まり、彼の寿命は続いた。とはいえ、病状はしだいに進んで、歩行が困難となって車椅子生活となり、通常の発声も困難になってコンピュータの合成音声で話すようになったが、世界的理論物理学者として、精力的に研究や発言を続け、59歳のときには来日し、東京大学で講演をおこなった。
そして2018年3月、ケンブリッジの自宅で没した。76歳だった。医者の宣告より半世紀ほど長く生きたことになる。

テレビではじめて見たときには、すでに彼は口を動かさず、車椅子のなかにぶかぶかのスーツを着てしおれて収まり、電子音声でインタビューに応えていた。日本の古株の科学者には肉声時代のホーキング博士と議論した人もいる。

ホーキング博士は、貧弱なからだと対照的に、言うのに度胸のいる鋭い発言をぽんぽん吐く大胆不敵さで、強烈な印象がある。宇宙の創造について、博士は「神」なしでちゃんと説明できるとして、宗教界から批判された。
宇宙人との接触については、ヨーロッパ人によってネイティブ・アメリカンが南北アメリカ大陸で大量虐殺された歴史を参照して、接触しないほうがいいと言った。
人類の未来について、文明は高度に進むほど加速度的に自滅に向かう、とシニカルな意見を述べた。たぶん、博士から見ると、人類はサルのように見えるのかもしれない。

ホーキング博士は「運命論」について、科学の見地から言っている。
「全てのことは予めどうなるかが定められているのだろうか。答えは、イエスです。しかしノーといった方がよいのかも知れません。なぜならば、どのように決められているのかを知ることはできないのですから。(Is everything determined? The answer is , Yes, it is. But it might as well not be, we can never know what is determined. That is all.)」(S・W・ホーキング著、佐藤勝彦監訳『時間順序保護仮説』NTT出版)
このクールさがたまらない。
(2019年1月8日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月7日・住井すゑの橋

2019-01-07 | 文学
1月7日は、音楽家の坂本龍一が生まれた日(1952年)だが、『橋のない川』の作家、住井すゑ(すえ)の誕生日でもある。

住井すゑは、1902年1月7日、奈良県田原元町で生まれた。生家は自作農家で機屋もいとなんでいて、その農村地域では、かなりの財産家だった。学校の教室では、教師が、ほかの生徒は呼び捨てにするが、すゑだけは「さん」づけで呼ぶという差別があったという。
小学校3年のとき、大逆事件があり、主犯とされた幸徳秋水が逮捕され、翌年に処刑された。このとき小学校の校長は、すゑたち児童にこう説明した。
「この幸徳という男は、日本中のカネを奪いとって貧乏人に分けようなどという、とんでもないことを考えたり言ったりしている悪いやつだ」
これを聞いた少女すゑは、校長はまちがっている、幸徳秋水の言うことはいいことだ、と考えた(『わが生涯 生きて愛して闘って』)。
女学校へ通っていた時分から、子ども雑誌に文章を投稿していた住井は、女学校卒業後、小学校教師になり、その後、上京して東京の出版社に婦人記者として勤務しだした。
これが17歳のころで、その記者の募集要項には「小学校教師の経験があること」という条件があった。
彼女は出版社勤めをしていたころ長塚節の小説『土』を読み、作家になる決心を固めた。
住井はべつの出版社に勤めていた犬田卯(しげる)と結婚した。犬田はサラリーマンをしながら評論や小説を書いていたが、農地解放の必要を訴えた評論を発表したため、勤め先をクビになった。犬田の書いた原稿は売れないため、住井が出版社や新聞社をまわって自分の原稿を売り、生活費をかせいだ。当時はどの新聞にも童話欄があって、童話の原稿もよく売れた。あるいは、住井が生まれたばかりの赤子をおぶって書いた小説『大地にひらく』で、新聞の懸賞小説に応募し、みごと第一席をとって賞金を得た。サラリーマンの初任給が70円だった当時、その懸賞賞金が千円だった。
敗戦後、住井が55歳のとき、夫犬田が没した。彼女は夫の遺骨を墓に納骨したその足で、解放同盟の事務所にいき、
「きょうから解放運動に参加させていただきたい」
と申しこんだ。差別問題に真正面から挑んだ大作『橋のない川』の執筆準備をそれまでもしていたが、病気の夫を抱えて、取材に飛びまわれなかった。これでようやく書きだせる、と全国をとびまりだした。
非差別との距離、おたがい渡りたいけれど橋がなく渡れないという、その状況をタイトルに象徴させた『橋のない川』は出版され、ロングセラーとなり、世界各国に翻訳され、ノーベル賞候補とも言われた。住井すゑは勇気ある発言を続け、『橋のない川』を第7部まで書いた後、1997年6月に没した。95歳だった。

人間を、生まれた土地、家によって差別しようとする習慣は、支配者側によって、大昔から構築されてきた、権力体制維持のためのプロパガンダである。下々の階級同士でいがみ合わせ、反抗が支配層に及ばないようガスぬきする。天皇制は差別の象徴でもある。どの家に生まれた者も、みんな人間の遺伝子をもち、切って緑色の血がでるわけではないのに、多くの人々の意識は、住井すゑが『橋のない川』を書きはじめた当時と、たいして変わっていないようだ。
(2019年1月7日)


●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月6日・フランクリンの夢

2019-01-06 | 歴史と人生
1月6日は、ゴロで「色の日」。この日は発掘王ハインリッヒ・シュリーマン(1822年)が生まれた日が、ベンジャミン・フランクリンの誕生日でもある。米国の百ドル紙幣の人である。

ベンジャミン・フランクリンは、ユリウス暦1705年1月6日に、米国の現マサチューセッツ州のボストンに生まれた(現代のグレゴリオ暦だとすこし異なる)。まだ英国の植民地だった時代のアメリカ人、である。彼の家は、英国から移ってきたプロテスタントの家系で、末っ子の末っ子がつづいて5代目の家に彼は生まれた。父親は染物屋をやっていて、同時にロウソクや石けんも作っていた。ベンジャミンは17人兄弟の下から数えて3番目で、いちばん末の男の子、だった。
もの心がついたときにはすでに文字が読めたというフランクリンは、教育費を割けない家庭事情のため、10歳のころから、家業のロウソク、石けん作りを手伝わされた。
フランクリン自身は子どものころ、船乗りになりたい希望を抱いていたが、12歳のとき、父親に説得させられ、兄がやっている印刷工場に年季奉公する契約書に、いやいやサインさせられ、そこで働きだした。兄は新聞を発行しだし、利発なフランクリンは匿名の寄稿原稿を書いて、誰か見知らぬ人の投書のようにして兄の目にとまるようにしむけ、自分の文書をまんまと記事として新聞に載せたりしていた。
年季奉公からの脱出を願っていたフランクリンは、機会をとらえて契約解除し、なおも自分を束縛しようとする家族から、17歳のときに逃げだした。ニューヨーク経由でフィラデルフィアへ着いた。紹介状も頼るあてもない、わずかな所持金をポケットに入れての家出だったが、これがフランクリンの運命の扉を開く旅となった。
誠実で勤勉、やる気にあふれ、高い印刷技術をもった彼は、フィラデルフィアで印刷工として働きだし、ゆく先々で会った人と仲良くなり、多くの実力者のひきたてにあった。
18歳のとき、印刷機を買い入れるために英国ロンドンへ渡り、約1年半後、20歳でフィラデルフィアへ帰還。22歳で印刷業者として独立し、以後、パンフレットや本を書き、新聞にさまざまな文章を寄稿しながら、事業を発展させていった。
彼は図書館を作り、消防組合を作り、学術協会を作り、大学を作った。州会書記となり、郵便局長となり、州会議員となり、義勇軍の隊長となり、州会議長となり、独立宣言を起草し、1776年、70歳のときにアメリカの独立を宣言した。有名な凧上げの電気実験は、フィラデルフィア州会議員だった46歳のときである。米国独立戦争の後は、対英国の講和会議代表となってパリ講和条約で調印した後、1790年4月、フィラデルフィアで没した。84歳だった。米国では国葬、フランス国会も彼の死を悼み、3日の喪に服したという。

岩波文庫のフランクリン自伝は愛読書である。明治時代の日本でよく読まれた本である。

裸一貫から立身出世し、建国の父となった躍動感に満ちた、おそるべき経歴で、フランクリンこそ「アメリカン・ドリームの教科書」である。彼の経歴は破天荒、自由奔放だけれど、フランクリン自身は一貫して勤勉で、倹約に努め、公徳心と誠実を尊ぶ地道な人物で、生涯を通じてつねに他人にも、勤勉と誠実をすすめた。彼は言っている。
「勤勉は幸運の母である」(Diligence is the mother of good luck.)
(2019年1月6日)


●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。フランクリン、シュリーマン、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月5日・安房直子の詩情

2019-01-05 | 文学
1月5日は、ゴロで「囲碁の日」。この日は文豪、夏目漱石(慶応3年)が生まれた日だが、児童文学作家の安房直子(あわなおこ)の誕生日でもある。

安房直子は、1943年、東京で生まれた。本名は、峰岸直子。
日本女子大の国文科に進んだ彼女は、学生時代から大学の児童文学誌に毎号作品を発表していた。
卒業後は、同窓生の仲間と同人誌「海賊」を創刊し、同誌に児童文学を発表した。
26歳になる年に同誌に『さんしょっ子』を発表。この作品で、日本児童文学者協会新人賞を受賞し、作家としてデビュー。
以後『きつねの窓』『北風のわすれたハンカチ』『風と木の歌』『はるかぜのたいこ』『遠い野ばらの村』『山の童話・風のローラースケート』『うさぎ屋のひみつ』『花豆の煮えるまで-小夜の物語-』などを書き、さまざまな児童文学賞を受賞した後、1993年2月、肺炎のため、没した。50歳だった。

若いころ、女性に勧められて安房直子の本を買って読んだ。恋の物語や、家族の愛情が底流する物語のなかに、切なさや、悲しみが透き通ったようにしみていてしびれた。

鉄砲をもった猟師が、きつねにだまされたふりをして、きつねのやっている染物屋のお客になり、指を染めてもらうという美しい話『きつねの窓』。

ひとりの少女が診療所の医者を訪ねてきて、耳のなかに「ひみつ」が入ってしまったから、急いで取りだしてくれと訴えるという印象的な場面からはじまる物語『鳥』。

翻訳家が夜中に外国の物語を翻訳していると、いつしかその物語のなかに自分がまぎれこんで、妖精と恋に落ちてしまうという妖しい物語『南の島の魔法の話』。

彼女の作品は、いずれもそれぞれに味わい深い詩情豊かな短編で、駄作がない。なかでも、小学校の教科書にも採用された『きつねの窓』など、絶品である。
もちろん、作者が砂をかむような苦労があって後に産まれた作品なのだろうけれど、その苦労の跡を見せない、さらりとした出来ばえで、頭が下がる。
安房直子はこう書いている。
「私が、ファンタジーの作品を好んで書くのは、空想と現実の境の、あの微妙に移り変わる虹の様な色が、たまらなく好きだからです」(「児童文芸 '76夏期臨時号」)
この発言など、泉鏡花の発言に通じる。
「夕暮れとか、朝とか云ふ両極に近い感じの外に、たしかに、一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。私はこのたそがれ趣味、東雲趣味を、世の中の人に伝へたいものだと思つて居ります」(「たそがれの味」『鏡花全集 第十五』春陽堂)
(2019年1月5日)


●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月4日・ブライユの姿勢

2019-01-04 | 歴史と人生
1月4日は、作家、夢野久作が生まれた日(1889年)だが、フランスの点字開発者ルイ・ブライユの誕生日でもある。

ブライユは1809年、フランス、パリの東方にある小さな村で、馬具職人を父として生まれた。ルイは歩けるようになると、すぐ父親の仕事場で遊びだしたが、3歳のとき、仕事場で、錐で皮に穴を開けようとして、あやまって自分の目を突いてしまった。
彼はすぐに医者へ連れていかれ、翌日にはパリの有名な外科医のもとへ運ばれたが、結局目は治らなかった。そればかりか、負傷した目は数週間にわたって痛み通し、感染症がもう一方の目にまで広がった。彼は5歳にして、両目とも完全に見えなくなった。敗北したナポレオンがエルバ島に流された年だった。
ルイの両親は息子を献身的に助け、本人もまた向上心に富む元気な少年で、彼は父親が作ってくれた杖で、村を探索して歩きまわるようになった。そのころちょうど、世界初の盲学校のひとつがパリにできて、向学心旺盛だった彼はそこに入った。

当時、目の見えない者がものを伝えるには、厚い紙にとがったもので文字の形をひっかいていたが、あるとき、ブライユは、フランス陸軍に「夜間書記」という伝達法があることを知り、これを目の見えない人の伝達用に応用することを思いついた。
陸軍の方法は、夜間の前線などで光がないときでも、紙に点を押し記して並べ、受けとる者は、それを指でさわり命令の内容を知る、というものだった。ブライユはこれを、6点だけですべてのアルファベットをあらわせるように改良した。
ブライユは盲学校の教師となり、師弟たちに、自分の開発した点字を教えた。生徒たちに大好評だった。
29歳のとき、ブライユはこの点字のシステムの本を出版し、一方で、友人の点字を打ち出す点字タイプライターの開発に協力した。
彼は、幼少のころから呼吸器官が弱かっったが、大人になってもそれは変わらず、40歳のころにはいよいよ衰弱が進み、教師の職を辞して自宅静養せざるを得なくなった。
そうして1852年1月6日、パリで没した。43歳になった翌々日だった。
彼の死後、ブライユの点字が盲学校で採用されるようになった。

点字は、この文章を目で読んでいる人には、縁のない話だろうけれど、じつはブライユにとっても、3歳までは縁のない話だったのである。
視力を失うのは、人にとってそうとうな痛手である。住宅ローンの保険契約書には、ローン返済の免責条件があり、ローンを背負った本人が死亡した場合とともに、本人が失明した場合も返済義務はなくなるよう記されている。失明というのは、まったく一大事で、いざそうなったら、絶望するのは人情である。でも、一方で、もしも3歳のブライユが誤って目を突かなかったら、彼は点字のことなど考えなかったろう。
そういうことを考えあわせると、人間というのは、やはり、自分にないものをほしがるのでなく、また過去をふり返るのでもなく、いま自分のもっているものをもって、前を見て歩いていくべきなのだ、と納得するのである。
(2019年1月4日)



●おすすめの電子書籍!

『ねずみ年生まれの本』~『いのしし年生まれの本』(天野たかし)
「十二支占い」シリーズ。十二支の起源から、各干支年生まれの性格、対人・恋愛運、成功のヒント、人生、開運法まで。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月3日・トールキンの指輪

2019-01-03 | 文学
1月3日は、「五人目のビートルズ」ジョージ・マーティンが生まれた日(1926年)だが、言語学者で作家のJ・R・R・トールキンの誕生日でもある。

ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキンは、1892年、南アフリカで生まれた。父親は、銀行の支店長だった。ジョンは3歳のとき、彼は母に連れられて英国へ里帰りした。父親もすぐに英国へ来る予定だったが、リウマチ熱のために南アフリカで急死した。それで、ジョンと母親は、英国にいる母親の両親のもとにとどまることになった。
母親は、家でトールキンに植物学について教え、トールキンも植物のスケッチをするのが好きだったという。でも、彼がいちばん興味があったのは語学で、5歳か6歳のころには、ラテン語がすらすら書けたという。
トールキンが12歳のとき、母親が急性の糖尿病で亡くなり、彼はカトリックの牧師に預けられた。
オクスフォード大学に進んだトールキンは、大学卒業後、第一次大戦に従軍した。フランスの激戦地ソンムの戦闘で、塹壕熱のため病院に長期入院した後、除隊した。
戦後、トールキンはオクスフォード大学で言語学の教授を務め、言語学研究のかたわら、豊富な民間伝承や妖精物語についての蘊蓄(うんちく)の上に独自の世界観を構築した物語を40代のころから書き出した。45歳のころ、ファンタジー小説『ホビットの冒険』を発表。さらに書きつづけて62歳のとき大長編ファンタジー『指輪物語』を発表した。
そのほか『シルマリルの物語』『星をのんだかじや』などを書いた後、トールキンは1973年9月、ボーンマスで没した。81歳だった。

トールキンは、英語の最大の辞典「オクスフォード英語辞典(OED)」の編集にかかわっていた。とくに「W」の項の語を担当したという。

『指輪物語』は、拙著『名作英語の名文句』でも取り上げた。この小説は、トールキンが研究していた学問的能力のすべてを注ぎ込んで、架空の歴史、架空の言語をもった架空の国の話を、ゼロから作り上げて創造して見せた人工世界である。もともと子ども向きの読み物として『ホビットの冒険』を書いたところが、大人のたちが多く読み、ぜひ続編をとの要請がくるほどの人気になり、そうやってせっつかれて書き上げたのが大作『指輪物語』である。ヨーロッパはもちろん、アメリカにも熱狂的な読者が生まれ、彼を学者としてでなく、ファンタジー小説家として支持する人が多いのに、彼自身当惑していたらしい。今日、彼の作品は、20世紀でもっとも人気の高い小説のひとつとされている。

トールキンの成功があって「ハリー・ポッター」「ドラゴンボール」「ワンピース」などの子孫たちがある。
それにしても、完全に独立した歴史、言語体系をもつ人工世界を構築しようと考える、その希望は理解できるとしても、それを実行しようとするのは正気の沙汰ではない。ものすごい知力と、ものすごい体力をもった人だった。
(2019年1月3日)


●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「指輪物語」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月2日・道元禅師の峻厳

2019-01-02 | 思想
1月2日は「エントロピー」の物理学者ルドルフ・クラウジウスが生まれた日(1822年)だが、道元禅師(どうげんぜんじ)の誕生日でもある。曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖である。

道元は正治2年1月2日、京都に生まれた。壇の浦の合戦で平家が滅亡して源頼朝が権力を握り、全国に守護地頭が置かれた1185年の15年後で、西暦でちょうど1200年である。
父親は武家「源氏」の系統で、母親は貴族「藤原氏」の血をひくという、道元は名門の子息だった。しかし、政変と戦争の繰り返される時世で、道元は、2歳のとき父親を亡くし、7歳で母親を亡くした。
6歳で『春秋左氏伝』を読んだというこの秀才は、孤児となって世の無常を感じ、12歳で出家。13歳のとき、比叡山延暦寺に入門して密教、仏教の勉学にはげみ、翌年、14歳で比叡山を降りた。
17歳で明全に師事。明全は、臨済宗(りんざいしゅう)の開祖である栄西の直弟子である(栄西はすでに死去していた)。21歳で、明全に印可(悟りを開いたという禅宗の卒業証書)を受け、23歳のとき、明全とともに、中国(宋)へ出発。宋の国でいくつかの寺で修行した後、25歳で景徳寺の如浄禅師の門下に入った。
27歳で如浄から、印可を受け、帰国(いっしょにいった明全は景徳寺にて死去)。以後、京都、建仁寺で、執筆、説法を続けるが、以前世話になった比叡山から迫害され、30歳のとき、建仁寺を出た。旧仏教勢力からの迫害を逃れ、44歳のとき、人里離れた山なかに修行場を求め、福井の山奥に大仏寺を開いた。この大仏寺が、後に永平寺と改められた曹洞宗の総本山である。道元は、53歳で没した。

実家の菩提寺は曹洞宗だったが、道元について、ずっと知らないできた。
でも、不惑のころから、世界各国の思想、宗教について興味をもつようになり、勉強するうち、道元禅師についても親しむようになった。思うに、日本の宗教界で、もっとも学識が高く、かつ、もっともきびしい思想をもっていたのは、空海(弘法大師)と、道元禅師だという気がする。とくに鎌倉仏教の各宗派の開祖など、みな個性的で、おもしろいけれど、道元禅師の言うところがいちばんきびしい。自分に対しても、他人に対しても。

道元の大著『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』で、たとえば感心したのは、
「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときは、滅のほかにものなし」
ということばである。これは、こういう意味である。
「生から死に移り変わると考えるのは、まちがっている。生きているときは、はじめから終わりまで『生』あるばかりで、死んだときは、はじめから終わりまで『死』があるばかりである。『生』がくれば、ただ『生』に向かい、『死』がくれば、ただ『死』に向かうばかりなのである」
リアリスティックで冷徹な響きが、すばらしい。

『正法眼蔵』のような難解をもって鳴る古典を前にすると、生きているうちに読むべき本がまだまだあると気づかされる。道元、その人の「精神性の高さ」が、800年の時を超えて、胸に迫ってくる。
(2019年1月2日)



●おすすめの電子書籍!

『ねずみ年生まれの本』~『いのしし年生まれの本』(天野たかし)
「十二支占い」シリーズ。十二支の起源から、各干支年生まれの性格、対人・恋愛運、成功のヒント、人生、開運法まで。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする