1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1月23日・ジャイアント馬場の奮起

2019-01-23 | スポーツ
1月23日は、至上の作家スタンダールの誕生日(1783年)だが、プロレスラー、ジャイアント馬場の誕生日でもある。

「ジャイアント馬場」こと馬場正平(ばばしょうへい)は、1938年、新潟県の三条市で生まれた。4人きょうだいの末っ子で、兄がひとり、姉が2人いた。年の離れた兄は、正平が5歳のとき、ガダルカナル島で戦死した。
生家の家業は八百屋で、残った男手である正平は、子どものころから早起きして、母親がリヤカーにくだものや野菜を積んで朝市へ行くのを押して手伝った。小学校三年生のころから急に背が伸びだした正平は、野球に熱中した。
苦しい家計を助けるために、正平は中学卒業後に就職を希望したが、母親に説得され、地元の実業高校に進学した。高校入学時、身長が190センチメートルあった。
高校二年のとき、馬場正平は甲子園出場を逃したが、新潟県内でも注目される大物ピッチャーとなり、プロ野球の読売ジャイアンツからスカウトされた。そこで彼は高校を二年で中退し、巨人軍に入団、上京した。
巨人軍の二軍に入った馬場の身長は2メートル9センチあった。二階から投げ下ろす剛球で頭角を現し、一軍の試合に出た。そんな矢先、急に眼が悪くなり、検査の結果、脳腫瘍と診断された。脳内にできた腫瘍が視神経を圧迫していたのだった。
99パーセント失敗すると医師に言われた手術を受けると、手術は奇跡的に成功、馬場は球団の練習にもどった。が、馬場は球団から解雇された。ただちに他球団の入団テストを受け、採用の内定を受けたが、風呂場で大けがをし、内定はご破算になった。

プロ野球選手の道をあきらめた馬場は、途方に暮れた。が、実家へ帰ってこいという母親の誘いは断った。ふと彼は大きなからだをプロレスで生かすことを思いつき、日本にプロレスブームを巻き起こしていた力道山を訪ね、弟子入りを直談判した。力道山は入門試験として、馬場にヒンズースクワットを百回やるよう命じた。なんとかやりとげ、馬場は弟子入りを許された。馬場、22歳。5つ年下のアントニオ猪木と同期生となった。
力道山の猛烈なしごきに耐え、リングデビューを果たした馬場は、23歳で単身米国へ武者修行に旅立った。まだ反日感情が強く残る米国で、馬場は反則に頼らない正統派ストロングスタイルのレスラーであることを貫いた。流血と生傷の絶えない武者修行を続けた結果、「ジャイアント馬場」の名は広く知られ、彼は異国での信用を得、人脈を広げた。
師・力道山が39歳という若さで急逝すると、ジャイアント馬場は、豊登(とよのぼり)や、アントニオ猪木とともに日本プロレスの看板選手として日本プロレス界を支えた。その後、プロレス団体が分裂しだすと、馬場は34歳で全日本プロレスを立ちあげ、スター選手として、また興行をおこなうプロレス会社の社長として活躍しつづけた。
世界最高峰のNWA世界ヘビー級王座に3度輝き、60歳までリングに上がりつづけ、生涯で通算5769試合を戦ったこのプロレス界の巨人は、1999年1月、入院していた東京の病院で没した。死因は大腸がんの転移による肝不全。61歳だった。

巨体と卓越した運動神経、それに鍛錬の人だった。しかし、肉体以上に、精神がタフだった。運命のいたずらでいく度も絶望のどん底に突き落とされたが、そのたびに奮起し、そこから這い上がった。苦難から立ち上がる闘志。そして、つねに変わらぬ、他人への誠実さ。そうしたものが大きな背骨を支えていた。真に巨人と呼ぶべき人物だった。
(2019年1月23日)




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