1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月21日・マクルーハンの警鐘

2018-07-21 | 思想
7月21日は、文豪、アーネスト・ヘミングウェイが生まれた日(1899年)だが、メディア理論のマーシャル・マクルーハンの誕生日でもある。

ハーバート・マーシャル・マクルーハンは、1911年、カナダのアルバータ州エドモントンで生まれた。父親は不動産業者で、第一次大戦中は従軍していた。母親は学校教師で、後に女優になった。ハーバートには二つ年下の弟がいた。
はじめ工学を学んでいたハーバートは、英語学に専攻を変え、22歳のとき、カナダのマニトバ大学を卒業した。そして、英国イングランドへ渡り、ケンブリッジ大学をへて、25歳のとき帰国。カナダで思うような就職口が見つからなかったため、米国のウィスコンシン大学に勤務した。
以後、セントルイス大学、トロント大学などの大学で教鞭をとり、雑誌の編集に関わりながら、メディア論についてマスメディア上で多く発言し、1950年代から1960年代にかけて、メディア理論の論者として有名になった。1960年代米国のジャーナリズム上で活躍した代表的知識人のひとりだった。
68歳のとき脳卒中に襲われ、話すのが困難になり、容態が回復しないまま、翌年の1980年12月にトロントで没した。69歳だった。
著書に『機械の花嫁』『グーテンベルクの銀河系』『人間拡張の原理――メディアの理解』『メディアの法則』などがある。

「メディアはメッセージである」
それがマクルーハンの主張だった。マクルーハンがここで言う「メディア」とは、テレビや新聞などのいわゆるマスメディアだけではなくて、人間が発明、製造した技術すべてを含んでいる。電話、時計、家屋、貨幣などすべて、彼に言わせれば兵器といったものまで、現実世界に満ちている人工物はみんなメディアだ、ということになる。人と人とが意思を伝え合うことばなどは、もっとも基本的なメディアである。
たとえば、電話が人間の耳の機能を外に大きく伸ばした「耳の拡張」であるとするなら、同様に、現実を構成しているメディアはすべて、人間の存在を外に伸ばした「人間の拡張」である。
同じニュースでも、ラジで聴く、テレビで観る、電話で聞く、手紙で読む、とそれぞれ印象がちがうように、情報源は同じでも、メディアがちがえば、そこから伝えられるメッセージはちがったものになる。つまり、メディアとメッセージとは切り離せるものではなく、メディアはメッセージなのである。
それぞれのメディアはそれぞれ固有の文法をもっていて、人間はそれを変えることはできない。したがうしかない。だから、人間はメディアごとの文法を理解しなくてはならない。

われわれがふだん何気なく見聞きしているテレビ、ラジオ、新聞、インターネット情報やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などにも、それぞれ固有の文法がある。ツイッターにはツイッターの、ラインにはラインの、首相官邸のフェイスブックページにはそれ独自の文法があるわけで、それを理解せずにただつきあっていると、いつかとんでもない目にあう。マクルーハンが警鐘を鳴らしていたのは、そういうことだ。
(2018年7月21日)



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『新入社員マナー常識』(金原義明)
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。


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7月20日・月に立つ人類

2018-07-20 | 歴史と人生
7月20日は、ビデオ・アートのナム・ジュン・パイクが生まれた日(1932年)だが、この日は、人類がはじめて月に降り立った日でもある。

1969年のこの日、米国の宇宙線アポロ11号が、月面の「静かの海」に着陸し、人類が初めて月面に降り立った(日本時間では7月21日)。
アームストロング船長は「この一歩は小さいが、人類にとっては大きな飛躍である。(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.)」と語った。

「人類を月に送り込む」というアポロ計画は、もともと「スプートニク・ショック」に端を発していた。
当時、冷戦状態にあった米国とソビエト連邦(ロシア)の二大大国は、なににつけても張り合っていたが、そんな時代の1957年に、ソ連が人類発の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功した。
これは「スプートニク・ショック(Sputnik crisis)」として米国に衝撃を与えた。
ジョン・F・ケネディ大統領は1961年に、ワシントンDCの国会での演説のなかで、こう宣言した。
「私は我が国が、この10年間(60年代)が終わるまでに人間を月面に到達させ、なおかつ安全に地球に帰還させることを約束する。(I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth.)」
それから7年後。1960年代が終わる寸前の1969年にケネディの約束は果たされた。

アポロ11号は、地球を出発して4日ほどで月に到着し、2時間半ほど月面で作業した後、引き上げ、また4日ほどかかって地球に帰ってきた。

このアポロ11号の月面着陸のすぐ後、その翌月にニューヨーク州のウッドストックでロック・フェスティバルがおこなわれている。
科学と経済のすべてを注ぎ込んだ月面到達の国家プロジェクトと、若者たちのより集まった自由なロック・フェスティバル。この対照的とも言える二つのできごとが、同じ1969年の夏にあったというのが、米国という国のおもしろさを象徴している。
国がひとつ意見一色に染まらない。かならず反対意見や、まったく正反対の方向性を内包している。それが米国の魅力である。

アポロ11号によって月から持ち帰られた月の石は、翌年1970年の大阪万博の際に、アメリカ館で展示され、壮絶な人気を博した。アメリカ館の入口は常時、数時間待ちの長蛇の列が並んだ。
やっぱり月にはうさぎはいなかったか。いや、ほんとうは月にはうさぎがいて、ただ宇宙船がやってきたときはどこかに隠れていたので、いまごろうさぎたちは、面に出てきてモチをついているにちがいない。
「蟻台上に餓えて月高し(横光利一)」
(2018年7月20日)




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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。


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7月19日・エドガー・ドガの青

2018-07-19 | 美術
7月19日は、映画監督、黒沢清が生まれた日(1955年)だが、画家のエドガー・ドガの誕生日でもある。「踊り子」の画家である。

エドガー・ドガこと、イレール・ジェルマン・エドガー・ドガは1834年、フランスのパリで生まれた。ドガの祖父は、もともとパリのパン屋の息子として生まれ、成長して穀物取引所で投機をしていた。しかし、フランス革命の混乱のなかで、反革命的だと命を狙われだし、間一髪でイタリアのナポリに逃げ延びた。そしてナポリで株式仲買人として成功し、銀行を設立した。そのナポリの銀行のパリ支店を任されたのが、エドガーの父親だった。エドガーは5人きょうだいのいちばん上だった。
銀行家の父親は、長男のエドガーを跡取りとして期待したが、エドガーは中学を卒業すると、ルーヴル美術館での模写の許可を得て、毎日通って名作の模写に没頭しだした。いったんは大学の法科に入ったが、模写を続け、ある日、父親にこう宣言した。
「もう、法律の勉強をつづけることはできない」
エドガーは、21歳のころ「グランド・オダリスク」を描いた新古典主義の画家アングルに会った。アングルは、自分を崇拝している若い画家を励まし、こうアドバイスした。
「線を描きなさい……。線をたくさん描くんです。記憶にもとづいてもいいし、実物を前にしてもいい」(ポール・ヴァレリー著、清水徹訳『ドガ ダンス デッサン』筑摩書房)
ドガはデッサンを山のように描き、それらデッサンの積み重ねの上に作品を描いていった。
3年ほどイタリアで画家の修行をして帰国したドガは、マネと知り合い、モネやルノワールら印象派の画家たちと合流して、印象派展に数多くの作品を出品した。風景や光を描こうとする印象派のなかにあって、ドガの画風はまったく異なり、ドガはもっぱらダンスをする踊り子や、入浴をする裸婦など人物画を描いた。
「ダンス教室」「ダンスのレッスン」「バレエ──エトワール」「浴槽」「入浴後」などを描き、1917年9月、パリで没した。83歳だった。

ドガは、評論家のポール・ヴァレリーによると、すぐに怒りだす、つきあいにくい男だったようだ。でも、絵画については真摯だった。彼は、ハエがガラス窓を這い回るときのように鉛筆を紙の上で微妙に動かしてデッサンを描いた。パステル画も描いたし、写真もたくさん撮った。デッサンをこれでもかと積み重ねた上に作品を描いた。そして、あえて完璧にせず、かならず観る者が想像で補うべき余地を残した絵画。それがドガの芸術である。

ドガの踊り子の衣裳や裸婦の肌上に、やや唐突な感じで青い色が載っているのが、好きである。ゴッホの自画像などもそうで、なんでこんなところに青を、といぶかられる青。けれど、この青があるから味がある。この青がドガ作品の凄味を支えている。

ヴァレリーはあるとき、ドガといっしょにべつの人の絵画作品を観ていた。そして、その絵が細部にわたって、ほとんど終わりがない多くの労働によって丹念に描かれているのを認め、二人はこんな会話を交わした。
「『すばらしい絵です』と、わたしはドガに言った、『でも、これだけの葉を全部描くのは大変だ……。辛くていやになるでしょうね……』
『何を言うんだ』と、ドガがわたしに言った。『いやになるほどじゃなかったら、面白くも何ともない』」(同前)
(2018年7月19日)


●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


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7月18日・ネルソン・マンデラの長寿

2018-07-18 | 歴史と人生
7月18日は、英国ヴァージン・グループの総帥、リチャード・ブランソンが生まれた日(1950年)だが、南アフリカの英雄ネルソン・マンデラの誕生日でもある。

ネルソン・ホリシャシャ・マンデラは、1918年、南アフリカ共和国のトランスカイで生まれた。父親はテンブ人の首長だった。
ネルソンはメソジスト派のミッションスクールをへて、フォート・ヘア大学に入学した。が、22歳のころ、学生ストライキを主導し、退学処分となった。
その後、べつの大学で法律を学び、学士号をとったマンデラは、26歳のとき、アフリカ民族会議(ANC)に入党し、反アパルトヘイト運動に取り組みだした。そして、32歳で、ANCの青年同盟議長となった。
34歳のとき、フォート・ヘア大学時代の友人といっしょに弁護士事務所を開業。そのころ、ANCの副議長となった。
43歳のとき、マンデラは「ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)」という軍事組織を作り、初代司令官になった。
44歳のとき、逮捕され、国家反逆罪で終身刑の判決を受けた。以後、約27年間、獄中にあったが、獄中でもマンデラは大学の通信課程で法律を学ぶなど、勉学を続けた。
彼が監獄にいるあいだに、南アフリカ政府のアパルトヘイト(人種隔離、分離政策)に対する国際世論の非難は強まり、マンデラ解放の声も高まった。
そうした状況を受け、マンデラが71歳のとき、白人側政府のデクラーク大統領はマンデラと会談をもち、その2カ月後にマンデラは釈放された。71歳になっていた。
73歳の年にマンデラはANC議長に就任。デクラークと協力して全人種代表が参加した民主南アフリカ会議を開き、政治体制の変革を進め、アパルトヘイトの元凶となっていた数々の法律を廃止することに成功した。
1993年、75歳のマンデラは、デクラークとともにノーベル平和賞を受賞した。
翌年、南ア史上初の全人種が参加した選挙が実施され、ANCの勝利を受け、ネルソンは大統領に就任。
マンデラは79歳のとき、副大統領にその地位を譲り、引退した。
2013年12月、肺の感染症を患っていたマンデラは、ヨハネスブルグの自宅で没した。95歳だった。

40代から70代にわたる獄中生活で、マンデラは結核にかかったり、強制労働で健康を害したりしたこともあったらしいが、彼は希望を捨てず、勉強を続け、生き延びた。彼が生きている、そのことが、塀の外の人たちの希望となった。

昔観た映画のなか、マケドニアのアレクサンダー大王は、家庭教師のアリストテレスに、
「細く長い人生などいらない。わたしは短く太く生きたい」
と言い放ち、そのことば通りに生きたけれど、ネルソン・マンデラの人生を見ると、長く生きて、自分の時がくるのを待つことで輝く場合もあるのだとわかる。

マンデラは言っている。
「生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。転ぶたびに起き上がり続けることにある。」(癒しツアー: http://iyashitour.com/)
(2018年7月18日)


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『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。われわれ人間の「生きる意味」とは? その答えがここに。


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7月17日・丹波哲郎の大

2018-07-17 | 映画
7月17日は、推理作家、ガードナーが生まれた日(1889年)だが、映画俳優の丹波哲郎(たんばてつろう)の誕生日でもある。007シリーズの映画「007は二度死ぬ」に出演した、日本を代表する映画スターである。

丹波哲郎は1922年、東京で生まれた。本名は丹波正三郎(せいざぶろう)。先祖が平安期の医学者までさかのぼれるという名門の出で、祖父は薬学者、父親は日本画家だった。
哲郎の学業成績は、家族の期待に応えるほどにはかんばしくなく、仙台の二高など名門校を受験して落ちたため、彼は親戚が総長をしている市立大学に無試験で入れてもらったという。哲郎は学生で召集され、国内の陸軍部隊に配属され航空整備にあたった。
23歳のとき敗戦。戦後は大学に復学し、GHQ通訳のアルバイトをした。
大学卒業後、俳優を志し、劇団所属をへて、映画会社・新東宝に入社。
30歳のとき、セミドキュメンタリー映画「殺人容疑者」でデビュー。
以後、「豚と軍艦」「丹下左膳」「暗殺」「砂の器」「二百三高地」などに出演し、45歳のとき「007は二度死ぬ」に出演、国際的映画俳優となった。出演映画300本以上。テレビでも「トップ屋」「三匹の侍」「キイハンター」「鬼平犯科帳」「Gメンシリーズ」などに出演。晩年は心霊研究に熱中し、著書『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなった。2006年9月、肺炎のため東京都内の入院先で没した。84歳だった。

その昔、日本の俳優で誰が英語が堪能かという話を聞いた。早見優とか、向こうで育った人は別なのだろうけれど、そのとき聞いた話では、かなり話せる黒柳徹子レベルでもまだ関脇くらいで、いちばん上位にくる横綱は丹波哲郎だということだった。
丹波は10作品ほどの外国語映画に出ている。試しに「007は二度死ぬ」を見てみると、丹波の英語は口のなかでもごもご言っていて、とても聞き取りにくい。中米圏の人がしゃべる英語に近いと感じた。思えば、丹波の場合、日本語でさえ聞き取りにくいので、まあ、英語で話したからといって、急に聞き取りやすくなるわけもない話ではあった。
「007は二度死ぬ」に出演するにあたり、丹波は英国ロンドンに数週間留学して英語の特訓を受けたという。だから彼の英語はクイーンズ・イングリッシュなので、それで米国英語に慣れている耳には聞き取りづらい部分もあるのかもしれない。

生前、丹波哲郎は明石家さんまのトーク番組に出演したことがあって、そこでこんなエピソードが披露された。
あるとき、撮影スタジオに、丹波はだいぶ遅刻して現れた。手を振り、大声で、
「グッド・モーニング」
スタッフはあ然とした顔で迎えた。遅刻してきても大物には誰も文句を言わない。それから丹波は1時間以上もスタジオ内をうろついた後、大きな声で言った。
「ああ、スタジオをまちがえていた」
で、本来の仕事場であるべつのスタジオへ向かった、と、こういう話だった。
大物は細かいことを気にしない。日本からもこれから世界的な俳優がどんどん出てくるだろうけれど、丹波哲郎ほど大物はもう現れるまい。
(2018年7月17日)


●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「007号は二度死ぬ」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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7月16日・アムンセンの甘露

2018-07-16 | 歴史と人生
7月16日は、作詞家の松本隆が生まれた日(1949年)だが、探検家のアムンセンの誕生日でもある。南極点に人類ではじめて立った人である。昔は、英語発音風に「アムンゼン」と表記されていた。

ロアール・アムンセンは、1872年、ノルウェーのボルゲで生まれた。船主、船乗りの海運業一家の四男として生まれた。母親はロアールに海の仕事でなく、医者になってほしいと願っていて、ロアールは母親の希望をいれて、医学の道を進んだ。しかし、彼が21歳のとき、母親が没すると、彼は本来の希望であった探検家の道に進むべく、大学を中退して船乗りになった。
南極探検船に乗りこみ、氷に閉じ込められて南極で越冬するなどの経験を積んだ後、アムンセンは34歳のとき、大西洋からアメリカ大陸の北をまわって太平洋に達する北西航路の横断に、人類ではじめて成功した。
北西航路の横断は、それまで多くの先人が試みて、いまだ成功していなかった快挙だった。北西航路に挑んだ英国海軍の艦隊が全滅した悲劇さえあった。
アムンセンにしても、北西航路に挑んだものの、氷にはばまれ、3度も北極圏で越冬して、3年越しでようやく太平洋側へ出たのだった。2度目の越冬の際には、アムンセンは氷の上を800キロメートル歩いて電報を打ちにいき、また同じ距離を歩いて氷に閉じ込められた船までもどったという。
アムンセンは北極点到達を目論でいたが、彼が36歳のとき、探検家のロバート・ピアリーが北極点到達を成し遂げた。これを聞き、アムンセンは自分の目標を南極点に変更した。
38歳でノルウェーを出航したアムンセンは、1911年12月、39歳のときに人類初の南極点到達を達成した。そして、年が開けた翌年の1912年1月には、一人の犠牲者も出すことなく帰還した。
55歳のころ、新聞社の招きでアムンセンは来日している。
そして、1928年6月、北極で遭難したイタリアの飛行船を捜索するため、アムンセンはフランス製の飛行艇で飛び立ち、そのまま行方不明となった。55歳だった。
捜索がおこなわれ、飛行艇の一部が海で発見されたが、機体やアムンセンらの遺体はいまだに発見されていない。

科学の進んだ現代に生きているわれわれは、南極点到達の方法に関して、アムンセンよりもずっと優位な状況にある。日本人の高齢者たちが嬉々として南極ツアーに参加する昨今である。しかし、現代人はけっしてアムンセンを追い抜くことはできない。それが人類初の快挙という事業の、時間軸上における偉大さである。
まだ誰もやったことがないことに挑む快感。それは、人間のなかのある種族とっては、命を差しだしても手に入れたい、至上の甘露なのにちがいない。
(2018年7月16日)


●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。

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7月15日・ベンヤミンの現代性

2018-07-15 | 思想
7月15日、盂蘭盆会(うらぼんえ)のこの日は、至上の画家、レンブラント・ファン・レインが生まれた日(1606年)だが、哲学者、ベンヤミンの誕生日でもある。

ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミンは、1892年、ドイツのベルリンで生まれた。一家はユダヤ系で、父親は以前フランスのパリで銀行家をしていたが、ベルリンでは骨董商をしていた。家は裕福で、ヴァルターは3人きょうだいのいちばん上だった。
フライブルク大学、ベルリン大学、ミュンヘン大学などで学んだヴァルター・ベンヤミンは、28歳のとき、『ドイツーロマン主義の芸術批評の概念』を出版。以後『暴力批判論』『ドイツ悲劇の根源』『一方通行路』『複製技術時代の芸術』『パサージュ論』などを書き、ボードレールの詩集や、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』などのフランス文学をドイツ語に訳した。
1933年、ナチス党を率いるヒトラーがドイツ首相になり、ユダヤ人への迫害が強まると、40歳だったベンヤミンはフランスのパリへ逃げた。
1939年、ベンヤミンが47歳のときに第二次世界大戦がはじまり、彼は敵国ドイツの人間だという理由で一時収容所に入れられた。
翌年にはドイツ軍がパリに迫ると、ベンヤミンは脱出。ルルドをへてマルセイユに行き、スペインへ向かった。彼は米国のビザを手に入れていて、表向きは中立国だったスペインを経由して米国へ渡ろうと考えていた。そして彼はフランスとスペインの国境を越え、カタロニアの国境の街、ポルボウに入った。
当時のスペイン・フランコ政権は、ユダヤ人難民を含む外国人旅行者の通行を拒否し、彼らを国外退去させる命令を下した。スペインの警察官によって、フランスへ強制送還される旨を説明されたベンヤミンは、みすみすナチスの手に落ちるよりは、と、モルヒネの錠剤を大量に飲み、自殺した。1940年9月のことで、48歳だった。自殺ではないとする暗殺説も存在する。

ベンヤミンは言っている。
芸術作品は昔から原理的には複製可能だった。大昔には鋳造と刻印だけが複製の手段だったのが、印刷、写真、映画と、どんどん複製技術は進歩してきた。芸術作品の「いま」「ここで」しかないという一回性が、複製では失われることになる。印刷技術や映画の発達によって、複製が作られるようになると、場所を選ばず、時を選ばずにたくさんの人が鑑賞できるようになった。芸術作品の展示の可能性が大きくなった。そのかわりに、作品にそなわっていたオーラ(アウラ)が、複製品では失われてしまった。
「芸術作品の複製技術は、芸術に対する大衆の関係を変化させる。たとえばピカソにたいしてきわめて保守的な態度を示す大衆が、たとえばチャップリンにたいしては、きわめて進歩的な態度をとる。そのばあい、進歩的な反応の特色は、作品を見て味わうよろこびが、専門的な批評家としての態度と直接かつ密接に結びついているところにみられる。(中略)観客はいわば試験官である。だが、きわめて散漫な試験官である。」(高木久雄、高原宏平訳「複製技術の時代における芸術作品」晶文社)
ベンヤミンの論理は、時代の状況を危機感をもってよく観察し、考察した結果なのだろうけれど、それが現代にもよく通じる普遍性を獲得している。
(2018年7月15日)



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『オーロビンドとマザー』(金原義明)
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7月14日・久米宏の達成

2018-07-14 | ビジネス
7月14日は、画家、グスタフ・クリムトが生まれた日(1862年)だが、アナウンサー、久米宏の誕生日でもある。高視聴率を誇ったテレビ番組「ぴったしカン・カン」「ザ・ベストテン」「ニュースステーション」の司会者である。

久米宏は、太平洋戦争中の1944年、埼玉の浦和(現在のさいたま市)で生まれた。
早稲田大学の政経学部に入学した久米は、学生時代は演劇サークルに入り、舞台に打ち込んだ。同大の同学年の同じサークル仲間に、後に政治家になる田中真紀子や、俳優になる長塚京三がいた。
23歳の年に、久米は大学を卒業し、テレビ局のTBSにアナウンサーとして入社した。このときTBSを受験して不合格になった学生に、後にアナウンサーになったみのもんたがいて、彼らは面接試験会場で顔を合わせたという。先に面接を終えた久米はみのに「お先に」と声をかけて帰ったらしい。
演劇出身なのにあがり症だったという久米は、体調をくずしたり、結核になったりして、順風満帆のスタートを切ったわけではなかったが、31歳のとき「料理天国」「ぴったしカン・カン」などにレギュラー出演し、しだいに知名度と人気を高め、34歳になる年には生放送の歌謡番組「ザ・ベストテン」の司会を黒柳徹子といっしょに務め、絶大な人気を誇るようになった。
35歳のころ、テレビ局を退社。フリーのアナウンサーとなり、「久米宏のTVスクランブル」などをへて、41歳のとき、それまでになかった、新しいタイプの報道番組「ニュースステーション」のメインキャスターに就任した。
明るく軽薄で率直。スマートでユーモアに満ちた知的な久米の司会進行。わかりやすい説明、一目瞭然の演出によって、「ニュースステーション」は、それまで視聴率とは縁のなかった報道番組としては異例の高視聴率をたたきだす革命的な番組となった。
55歳のとき、同番組を降番。番組は「報道ステーション」と名を変えて古舘伊知郎が引き継いだ。以後も久米は、ラジオやテレビで活躍している。

久米宏は、それまでニュースなど見なかった多くの日本人たちに、ニュースや報道にも興味をもたせるという、ほとんど不可能とされていたことを成し遂げた人である。

「ニュースステーション」の放送がはじまるすこし前に、久米宏は雑誌のインタビューを受けていた。インタビューで彼は、今度はじめる報道番組について、ずばり、中学生を視聴者に想定した、中学生が見ておもしろいニュースをやる、と明言していた。
日本の一般の大人は、中学生なみ、かもしれない。

久米宏は「ニュースステーション」がはじまったころ、同番組でいっしょにキャスターを務めていた小宮悦子にこう頼んだそうだ。
「24時間、番組のことを考えてくれる? そうでないと、トップになれないから」
こうした関係者の熱烈な献身があってこその君臨だった。

早稲田大の久米宏と、立教大のみのもんたが同い年生まれ。早稲田の後輩のタモリは、ひとつ年下。戦中、戦争直後の混乱期に生まれた人たちが、テレビに一時代を築いた、と言える。
(2018年7月14日)


●おすすめの電子書籍!

『ねずみ年生まれの本』~『いのしし年生まれの本』(天野たかし)
「十二支占い」シリーズ。十二支の起源から、各干支年生まれの性格、対人・恋愛運、成功のヒント、人生、開運法まで。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月13日・ライヴエイドの意味

2018-07-13 | 音楽
7月13日は、評論家の堺屋太一の誕生日(1935年)だが、「ライヴエイド(LIVE AID)」の日でもある。

1985年のこの日に開催された「ライヴエイド」は、アフリカの飢饉救済のために、英米のロックミュージシャンたちが集まって開いた一大慈善ロックフェスティバルで、英国と米国の会場から世界同時生中継された。あれから30年以上たった。

「ライヴエイド」の開催の前には、まず下地があって、その前年の1984年、エチオピアで深刻な飢饉が起きた。これを受けて、英国のロックミュージシャンたちが「バンド・エイド(Band Aid)」を企画した。これは、英国内のロックミュージシャンたちが集まって歌を合唱して録音し、レコードの売り上げをエチオピアに寄付しようという、当時としては画期的な慈善事業のアイディアだった。もともと世の中に反体制的、反抗的な若者の表現であったロックミュージックが、救済、慈善に立ち上がったわけで、これは歴史的な転換点だった。
レコーディングされた「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス(Do They Know It's Christmas?)」の歌詞は、ヨーロッパ人のせまいキリスト教的世界観を露呈した悲しい出来だったが、1984年の暮れにレコードは発売され、大ヒットした。

これをまねたのが、米国ミュージシャンたちによる「USAフォー・アフリカ(USA for Africa)」で、同じようなレコーディングが、ライオネル・リッチーやマイケル・ジャクソンらによっておこなわれ「ウィー・アー・ザ・ワールド(We Are The World)」が録音、発売された。1985年のことで、当時、作家、村上龍はこう言っていた。
「アフリカの飢饉は、アメリカのスーパー・スターたちの役に立っているなあ」

こうした英米の慈善レコード合戦があった後、今度はこれをライブ・コンサート版でおこなおうというのが、ライヴエイドの骨子だった。
ライヴエイドは英国ロンドン郊外のウェンブリー・スタジアムではじまり、数時間後に米国フィラデルフィアのJFKスタジアムでも幕が開いた。先にはじまった英国側がやがて閉幕し、米国側もついに閉幕となって終わるという構成だった。12時間の長丁場で、はじめ英国会場でドラムを叩いていたフィル・コリンズが、超音速旅客機のコンコルドに乗って移動し米国会場に現れてドラムを叩くなどの趣向もあった。

数日後、ミュージシャンの甲斐よしひろがラジオでライブエイドについて感想を述べた。
「スーパースターがたくさん出たけれど、やっぱり最後に世界をその前にひざまずかせたのはミック・ジャガーだったね」
この男はいったい何を見ていたのだろう、と聞いていて思った。いちばん輝いていたのは、まちがいなくデヴィッド・ボウイだったのに。
翌日、音楽通の女性に、甲斐よしひろの感想のことを話すと、彼女はうなずいた。
「そうよねえ。やっぱりミックよねえ」
ある人は「やっぱりフーが最高だった」
ある友人は「レッド・ツェッペリンのためにあったイベントだった」
べつの友人は「ブライアン・フェリーがいちばんよかった」といった。
以来「ライブエイド」は「群盲象を撫づ」と同じ意味の故事成語になった。
(2018年7月13日)



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7月12日・ヘンリー・ソローの夢

2018-07-12 | 歴史と人生
7月12日は、デザイナー、石岡瑛子が生まれた日(1938年)だが、米国の思想家、ヘンリー・ソローの誕生日でもある。

ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、1817年、米国マサチューセッツ州のコンコードで生まれた。ハーヴァード大学を卒業した後、教師になったが、当時の生徒に体罰を与えるやり方に反発して辞職した。彼は鉛筆製造人、紙やすり製造人、測量、大工、ペンキ塗りなど、お金が必要になると、その都度いろいろな職についた。
28歳になる年の独立記念日(7月4日)に、彼はコンコードの町から南へ2キロメートルほど行ったウォルーデン池のほとりの森に小屋を建て、それから2年2カ月のあいだひとりで暮らした。そのときの生活記録が『ウォールデン(森の生活)』で、彼が37歳のとき、出版されると、この本はベストセラーとなり、米国が世界に誇る古典となった。
有名になったソローには、原稿の依頼や、講演の依頼が舞い込んだ。
ソローは、ラルフ・エマーソンや、ブロンスン・オルコットといった超絶主義者の仲間たちと親交を結んだ。そして彼は奴隷制に反対し、奴隷制や戦争に反対して税金の納付を拒否して投獄された。
生涯独身を通したソローは、南北戦争中の1862年5月、結核のためコンコードで没した。44歳だった。翌年、リンカーン大統領が奴隷解放宣言をおこなった。

ソローが『ウォールデン』を書いた約百年後、行動主義心理学者のB・F・スキナーが理想のコミュニティーを描いた小説『ウォールデン2』を書いた。
その小説を読んだキャスリーン・キンケイドたちが、ヴァージニア州にツイン・オークス・コミュニティーを創設し、彼女はコミュニティーの初期の実録である『ウォールデン2の実験--ツイン・オークス・コミュニティーの最初の5年間』を書いた。
その邦訳が『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』であり、こうしたコミュニティー運動について書かれたのが『コミュニティー 世界の共同生活体』である。

友人のエマーソンは、ソローについてこう書いている。
「彼は、ロンドン一帯から収集されたニュースや名文句をいらいらしながら聞き、自分ではいくら慇懃であろうと努めても、こういう小話のたぐいは彼を疲労させました。そういう連中はすべてたがいに真似をし合っているだけで、しかも雛型はちっぽけなものでした。どうして彼らはできるだけはなれて生き、ひとりびとり自立した人間になることができないのでしょう。」(酒本雅之訳「ソーロウ」『エマソン論文集』岩波文庫)

ウォールデンの森での独り暮らしを総括して、ソローは言っている。
「わたしはわたしの実験によって少なくともこういうことをまなんだ──もし人が自分の夢の方向に自信をもって進み、そして自分が想像した生活を生きようとつとめるならば、彼は平生には予想できなかったほどの成功に出あうであろう。彼は何物かを置去りにし、眼に見えない境界線を越えるであろう。新しい、普遍的な、より自由な法則が、彼の周囲と彼の打ちに確立されはじめるであろう。」(神吉三郎訳『森の生活』岩波文庫)
ソローたち超越論主義者たちは、他人の気がしない。
(2018年7月12日)


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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?


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