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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7/25・突き抜けた人、中村紘子

2013-07-25 | 音楽
7月25日は、『眩暈』を書いた作家、カネッティ(1905年)が生まれた日だが、ピアニスト、中村紘子(なかむらひろこ)の誕生日でもある。
いまでこそ日本では毎日いたるところでクラシック音楽が演奏されているけれど、すこし前まではそうではなかった。日本の一般庶民にはクラシックは縁遠い存在だった。そんな日本に、西洋音楽を根付かせた功労者のひとりが中村紘子だった。彼女は、日本のクラシック音楽を引き揚げ、世界へ近づける運動の高峰、いわば「音楽界の岡ひろみ」だったと思う。

中村紘子は、1944年に山梨で生まれた。出生時の本名は野村紘子で、父親は軍人だった。3歳のころからピアノを習いだした彼女は、中学2年生のとき東京で、来日していたウクライナ出身のピアニスト、エミール・ギレリスのリサイタルを聴き、衝撃を受けた。
以来、彼女はギレリスに教えてもらう日を夢見てピアノレッスンにいっそう励みだし、15歳のとき、日本音楽コンクールで第1位を獲得した。
16歳でピアニストとしてデビューした彼女は、小澤征爾や諏訪内晶子を輩出した音楽の名門、桐朋学園に在籍していたが、18歳で同校を中退して、奨学金を獲得し、ニューヨークのジュリアード音楽院に留学した。
21歳のとき、ショパン国際ピアノコンクールで第4位に入賞。以後、国内外でリサイタルを開き、ショパン・コンクールや、チャイコフスキー・コンクールなどの審査員を務めながら、作家としても活躍を続けている。
30歳のとき、作家の庄司薫(本名、福田章二)と結婚し、本名が福田紘子となった。

天才ピアニストの順風満帆の人生と見えるけれど、実情はそうばかりでもないらしい。
中村紘子自身の回想によると、18歳で渡米し、ジュリアード音楽院に入ったとき、彼女はボロボロになったという。幼少時から「天才少女」の名をほしいままにしてきた自分の、これまでの演奏法をすべて忘れて、基礎からやり直そうと教師に言われたからだった。
「それこそもうショックで無気力になって、壁を見つめて一日ボーッという感じで、ピアノにも触れないという状態が半年ほど続きましたね。十八歳だったからよかったけれど、三十八歳だったらほんとうに久野久と同じ投身自殺だったでしょう。」(中村紘子『アルゼンチンまでもぐりたい』文藝春秋)
久野久は、38歳のころに外国で中村と同じ体験をし、自殺したピアニストである。
それから3年後、ショパン・コンクールに出たときも、中村紘子はいまだに精神的にも技術的にもショックから立ち直っていない状態だった。風邪と下痢で38度の高熱をおしてコンクールのピアノを弾いたという。それで4位入賞、最年少者賞受賞というのだからすごい。きっとそのとき、彼女はなにかを突き抜けたのだと思う。

自分のような素人は、立派な音楽家は、人間性や知性など中身も立派だからああいういい音楽が奏でられるのだ、と、つい考えがちだけれど、そうばかりでもないようだ。
バーンスタインの指揮ぶりをきびしく批判したことで有名な米国の音楽評論家、ハロルド・ショーンバーグが来日した折、中村はこの演奏と演奏者の中身の関係について彼に水を向けた。すると、ショーンバーグはこう答えたそうだ。
「ホロヴィッツに、ネコの脳ミソほどの知性も期待してるやつはいないよ。しかし、彼の演奏は素晴らしい。これはちょっと極端すぎる反論かね?」(中村紘子『チャイコフスキー・コンクール』中央公論社)
なるほど、モーツァルトの例もあり、すばらしい音楽家がすなわちすばらしい人間とはかぎらないわけだ。けれど、すくなくとも、中村紘子はすばらしい音楽家であると同時に、高い知性とユーモアを兼ね備えた人間であることはまちがいない。
(2013年7月25日)



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