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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月11日・ファインマンと原爆

2024-05-11 | 科学
5月11日は、画家、サルバドール・ダリが生まれた日(1904年)だが、物理学者のファインマンの誕生日でもある。朝永振一郎といっしょにノーベル賞を受賞した人である。

リチャード・フィリップス・ファインマンは、1918年、米国ニューヨークで生まれた。ユダヤ系の一家で、父親は洋服のセールスマンをしていた。リチャードは3人きょうだいのいちばん上で、下に弟と妹がいた。
2歳のときから百科事典を読んでいたというリチャードは、好奇心旺盛な子どもで、11歳のころには家に実験室と呼ぶ空間を作り、実験をし、ラジオの分解修理などをした。
17歳でMIT(マサチューセッツ工科大学)に入学したファインマンは、物理学を専攻。
同大学を卒業後は、プリンストン大学の大学院生となった。
第二次世界大戦中、ファインマンは米ニューメキシコ州のロスアラモスでおこなわれた原爆製造計画に参加した。彼はほんの若造だったが、その優秀さと率直なものいいとで、オッペンハイマー、フォン・ノイマン、ニールス・ボーアら科学界の神さまたちに気に入られ、対等にやりとりした。
ファインマンは、量子力学の分野で経路積分という新しい分析法を考案し、ベータ崩壊の新しい理論を打ち立て、1965年、量子電磁力学の発展に寄与した功績を認められ、ジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞。
1988年2月、がんのため、ロサンゼルスの病院で没した。69歳だった。

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』中の一章「下からみたロスアラモス」は、第二次世界大戦時、優秀な科学者がロスアラモスに集められ、原爆製造に従事した話である。ファインマンは下っぱだったので「下からみた」というわけだが、実験物理と理論物理とに大きく分かれて作業したなか、彼は理論物理の科学者のほうに入り、計算処理の責任者と、軍との折衝役などを務めた。最初はこの仕事の依頼を断ったが、ユダヤ人の彼はナチス・ドイツが先に原子爆弾を作り上げた場合を想像し、翻意したという。
計算機を修理しながら計算し、IBMから初期の大型計算機を何種類か取り寄せ、それを工場のラインのように並べて膨大な計算をした。この作業中、彼は奥さんを結核で亡くしている。完成した原爆の爆発実験に、ファインマンは立ち会った。爆心地から32キロメートルの地点で、バスのガラス越しに目撃した。
「おそらく人間の眼でじかにこの爆発実験を見た者は僕のほか誰一人いなかったと思う」(大貫昌子訳『ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)』岩波現代文庫)
爆発の光線がつぎつぎに色を変え、噴煙がふくれていくのを見ていると、爆発から1分半ほどしてドカーンという爆発音が聞こえてきたという。
科学者側と軍部側とは、細かなところではせめぎあいがあるのだけれど、米国人には、組織内にいる日本人にありがちな権威主義とか精神主義とか責任転嫁だとかがなく、みんな理性的で話ができる。しかも、人情にも厚いものがある。読んでいて、ソニー創業者の盛田昭夫が戦中の海軍の研究所の様子を書いた文章が思いだされた。

ファインマンはつねにジョークを絶やさない人で、最期のことばはこうだった。
「もう二度と死ぬなんていやだね、すごく退屈だから(I'd hate to die twice. It's so boring.)」
(2024年5月11日)



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