1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6月1日・大きな人、山下泰裕

2014-06-01 | スポーツ
6月1日は、映画女優のマリリン・モンローが生まれた日(1926年)だが、同じ肉体派でもだいぶ趣の異なる肉体派、柔道家の山下泰裕(やましたやすひろ)の誕生日でもある。

山下泰裕は、1957年、熊本の上益城、阿蘇山のふもとで生まれた。実家は魚屋だった。泰裕は小さいころ、からだが弱く、祖父がスパルタ方式できたえた。魚の骨を粉にしてごはんにかけて食べさせ、銭湯にいっしょに行っては、幼い孫に水を浴びせ、肌を叩いてきたえた。近所の人は言ったという。
「お前は孫を殺す気か」
きたえられた甲斐あって、保育園に入るころには、泰裕は飛び抜けてからだの大きい子どもになっていて、まわりの子どもをいじめるがき大将になっていった。
小学校3年生のころから道場に通って柔道をはじめ、そのころから道場や学校の指導者に導かれて、弱い者いじめをしなくなった。
小学6年で柔道の県大会で優勝。以後、中学、高校、大学と、圧倒的な強さを発揮し、大学2年の11月から、山下は国内外で負けなしの無敵の柔道家となった。
山下が23歳のとき、ソビエト連邦のモスクワでオリンピックが開催された。このとき、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、西側諸国はそろって五輪をボイコット。日本もボイコットにならい、山下は心待ちにしていた五輪出場を断念した。
27歳のとき、米国でロサンゼルス五輪が開催された。このときは、前回の報復として東側諸国が不参加だったが、山下は無差別級代表として念願の五輪出場を果たした。
ロサンゼルス大会で山下は、2回戦で右足に肉離れを起こした。山下は棄権せず、試合にも出場し、足を引きずりながら勝ちつづけ、ついに決勝に進んだ。
決勝の相手はエジプト代表のモハメド・ラシュワン選手。ラシュワン選手は、痛めた山下の右足を攻めなかったとされ、スポーツマンシップが讃えられる名勝負となった。
結果は、寝わざにもちこみ、押さえこみの一本勝ちで、山下が優勝。表彰式で、2位のラシュワン選手の助けを借りながら表彰台にのぼる山下泰裕選手の姿は、世界中に感動のうずを巻き起こした。
山下は7年半にわたって、引き分け7回をはさむ203連勝という大記録を打ち立て、負なしのまま、28歳になる年に全日本選手権で優勝し現役引退。東海大学の副学長、同大学柔道部監督、日本オリンピック委員会理事など多くの役職を務めている。

ロサンゼルス五輪の決勝戦について、後のインタビューで山下は答えている。
「ラシュワンは、わたしの悪い足を攻めなかったわけじゃないんです。彼は悪い足ばかりねらわずに、右も左も同じように攻めてきたのです」
1992年バルセロナ五輪での、古賀稔彦選手の負傷しながらの金メダルと並び、長い五輪の思い出のなかでも、山下選手の金メダルは特別だったと思う。

以前、オリンピックの柔道の中継で、山下泰裕が解説をしていたとき、アナウンサーが彼に、こういう意味のことを尋ねたことがあった。
「これだけ世界柔道が、姑息でもなんでも、とにかくポイントをとって勝つ、という方向できているなか、それでも日本柔道は、技によって一本勝ちを目指す、そういう十字架を背負っていかなくてはならないのでしょうか?」
山下ははっきりした口調でこう答えていた。
「はい、そうだと思います」
このことばに、山下泰裕という人物をあらためて感じ、震える思いがした。
(2014年6月1日)



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