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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月12日・ニジンスキーの跳躍

2021-03-12 | 芸術
3月12日は、中国や中東諸国のネット検閲に抗議する「世界反サイバー検閲デー」。この日は、作家ゴーゴリ(1809年)の生まれた日だが、舞踏家ニジンスキーの誕生日でもある。

ヴァーツラフ・ニジンスキーは、1890年、ロシア(現ウクライナ)のキエフで生まれた。両親ともにポーランド系のダンサーだった。ヴァーツラフは、三人きょうだいで、上に兄、下に妹がいた。彼は10歳でサンクトペテルブルクの帝国バレエ学校に入学。入学して1年後には、彼は踊り手としての才能を認められて、学校の寄宿生となった(妹も2年遅れで同校に入学)。彼が14歳の年に日露戦争が勃発した。
17歳で、学校を卒業したニジンスキーは、サンクトペテルブルクで高給をとるプロ・ダンサーとして活躍した。そして芸術プロデューサーのセルゲイ・ディアギレフと愛人関係(男色関係)を結んだ。ディアギレフ一座は、フランス、パリでバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を旗揚げした。バレエ・リュスは話題を呼び、大成功した。主演のニジンスキーは「バラの精」で喝采を浴び、「牧神の午後」「春の祭典」では賛否両論の嵐を巻き起こした。モダン・バレエがはじまった瞬間だった。
23歳のとき、ニジンスキーは、彼の「追っかけ」だった裕福な家庭出身のハンガリー女性と結婚した。これによって「恋人」ディアギレフとの仲は決裂。一座から追いだされたニジンスキーは、自分のバレエ団を立ち上げるが、興行は首尾よく運ばなかった。
1919年、29歳のとき、ニジンスキーは精神異常の症状を示した。痴呆症状を示し、幻覚を見た。彼の耳には銃声が聞こえ、その目には死んでゆく兵士たちが見えるのだった。
32歳のとき、彼の発狂に責任を感じていたディアギレフが会いに来たが、もはやニジンスキーは彼を識別できなかったという。ニジンスキーは、めったに口をきかなくなった。
第二次大戦がはじまり、ナチス・ドイツが、ユダヤ人とともに精神病患者の絶滅にとりかかったころ、ニジンスキーは、ドイツ軍の勢力下にある町の病院に偽名で入院していた。その後、ソ連軍が優勢となり、町にロシア兵が押し寄せて来た。病院に銃をもったロシア兵があらわれると、ニジンスキーはロシア語でこう叫んだという。
「静かにしろ」
ロシア軍部は、ニジンスキーとわかると、この天才舞踏家を丁重にあつかった。
ニジンスキーは正気に帰らぬまま、1950年4月、英国ロンドンで没した。60歳だった。

ニジンスキーの跳躍は、信じられないくらい高く、長いあいだ、宙に浮いていたという。
ジャン・コクトーはこう書いている。
「ニジンスキーは平均以下の背丈しかなかった。精神の点でも、肉体の点でも、彼は職業的歪曲そのものであった。モンゴル系の彼の顔は、非常に長く非常に太い頸で胴体につながっていた。(中略)(彼のからだは)ひとたび舞台に登ると、すらりと細くなった。彼の背丈は伸び(彼のかかとは決して床につくことはなかったから)、その両手は彼のしぐさを飾る枝や葉となり、彼の顔は燦然と輝いた。」(朝吹三吉訳「存在困難」『ジャン・コクトー全集 第五巻』東京創元社)

「私は神であり人間である。私は心を持った動物である。私は肉体である。しかし私は肉体から生まれたのだ。神は肉体を作った。私は神である、私は神なのだ。神なのだ。……」(市川雅訳『ニジンスキーの手記』現代思潮社)
(2021年3月12日)



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