1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月30日・ベニー・グッドマンの響き

2024-05-30 | 音楽
5月30日は、芸術家ヒロ・ヤマガタ(1948年)が生まれた日だが、「キング・オブ・スウィング」ベニー・グッドマンの誕生日でもある。

ベニー・グッドマンは、1909年、米国のシカゴで生まれた。本名は、ベンジャミン・デイヴィッド・グッドマン。父親はワルシャワからやってきたユダヤ人移民だった。貧しい家庭の、12人きょうだいの9番目の子として生まれたベニーは、11歳のころからクラリネットを習いだし、やがてバンドで演奏をはじめた。
12歳の年にプロ・デビュー。高校に入学する前の年のことだった。
高校時代も、タンスホールのバンドメンバーとして演奏を続け、17歳のときにはじめてレコーディングに参加した。
そのころ、もともと洋服の仕立屋だった彼の父親は、家畜処理場で精製前のラードをすくう仕事についていて、それはひどいにおいがからだにつく、ひどく消耗する仕事だったので、ベニーは、自分たち子どもが稼げるようになったのだから、その仕事を辞めるように勧めていた。しかし父親は、
「お前は自分のことは自分で面倒みろ。おれも自分のことは自分で面倒みるさ」
と言って、仕事を辞めなかった。そんな矢先、父親は路面電車を降りたところをクルマにはねられ、死亡した。ベニーが17歳のときだった。
ベニーは19歳のころ、所属する楽団とともにニューヨークへ本拠地を移し、その後、ベニーは楽団を離れてソロとなって活動をはじめた。
1929年の大恐慌に際して、20歳のグッドマンは友人であるフレッチャー・ヘンダーソンを助け、彼の楽譜を買いとり、彼のバンドメンバーを雇い入れた。そうして、しだいにヘンダーソンのバンドは、グッドマンのバンドとなっていった。
28歳のとき、グッドマンはバンドを率い、カーネギー・ホールでコンサートを開催。この有名なホールで、ジャズコンサートをおこなった最初のミュージシャンとなった。
ラジオ放送やコンサートなどで人気を博し、スイングの全盛時代を担い、「キング・オブ・スウィング」と呼ばれた。
最晩年まで演奏を続けたグッドマンは、1986年6月、心臓発作により、ニューヨークの自宅で没した。77歳だった。
代表的な楽曲に「シング・シング・シング(Sing Sing Sing)」「身も心も」「サヴォイでストンプ」「素敵なあなた」「可愛い娘をみつけた」「その手はないよ」などがある。
「シング・シング・シング」は、日本人にとって、戦後間もない時代、米国文化、デモクラシーの象徴である。

グッドマンは、大学などの教育機関を資料で検討して、ひそかに寄付を続けていた。なぜ寄付を秘密にするのかと問われると、グッドマンはこう答えたという。
「おおやけにすると、大学関係者が資料を持って殺到してくるからね」

グッドマンが全盛だった1930年代当時の米国では、ジムクロウ法による人種隔離政策をとる南部ではもちろん、北部でも、白人と黒人が同じバンドで演奏をすることはなかった。しかし、グッドマンはその習慣を打ち破り、黒人のドラマーやギタリストを採用して、自分のバンドでいっしょに演奏した。こうした勇気ある行動は、野球のメジャーリーグに初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンが登場する10年以上も前で、画期的なものだった。
(2024年5月30日)



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