1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月4日・田中角栄の光陰

2024-05-04 | 歴史と人生
自然に親しむ国民の祝日「みどりの日」の5月4日は、映画女優オードリー・ヘップバーンが生まれた日(1929年)だが、政治家、田中角栄の誕生日でもある。

田中角栄は、1918年、新潟の現在の柏崎で生まれた。父親は農業や家畜の売買をしていた。
貧しい環境から身を起こし、高等小学校を卒業し、16歳の年に上京し、住みこみで働きながら、夜学に通って勉強した。夜学卒業後、建築技師となり、19歳で建築事務所を開いたが、戦争で召集され、21歳で陸軍に入隊、満州で兵役についた。
23歳のとき、肺炎のため帰国、除隊して建築会社を興し、戦中に事業を発展させた。
戦後、衆議院議員に出馬し、29歳のとき、初当選。
39歳のとき、岸信介内閣で郵政大臣として入閣。
44歳のとき、池田勇人内閣で大蔵大臣に就任。
47歳で、佐藤栄作内閣のとき、自由民主党幹事長に就任。
54歳のとき、与党自民党を真っ二つに分けての総裁選挙で、福田赳夫に勝利し、総理大臣となった。高等小学校出の馬喰の息子が総理大臣になったと庶民の圧倒的な人気を集めた。
「日本列島改造論」をぶちあげ、日中国交正常化を実現させたが、雑誌の記事が発端になった金脈問題で首相から降り、米ロッキード社からの日航機購入をめぐるリベート問題で裁判の被告となった。控訴審中に脳梗塞で倒れた田中は、一審、二審とも有罪判決を受け、最高裁に上告中の1993年12月に没した。75歳だった。ロッキード事件の裁判は、公訴棄却となった。

田中角栄の自伝を子どものころ読んだ。昼間働いていた苦学時代は、夜机に向かっていて眠らないよう、先をとがらせた鉛筆をてのひらにあてておいて、うとうとすると芯が突き刺さるようにしておいて勉強していたとあった。強烈な意志の人で、「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれ、相談ごとを受けると、
「よっしゃ、よっしゃ」
となんでも対応し行動した。親分肌の強烈な魅力の人だった。田中角栄は、よくも悪くも、戦後日本の歴代総理のなかでもっもとも存在感のある首相だった。

田中角栄はお金と利権がつねにからむ人で、いつもお金を吸い上げ、お金をばらまいて歩いた。大臣に就任すると、担当省庁の職員全員に靴下など金品を贈り、相手をもてなすときはまずお金を渡した。賄賂を受けとり、列島改造論で日本の地価を上げておいて、こっそり前もって買ってあった土地を売って大儲けした。日本の官僚が拝金教の信者と化し、日本人が家賃や住宅ローンに苦しんでいるうちのいく分かは田中角栄のせいである。
また、地元新潟で、田中角栄に反発する者への迫害がいかにひどかったか、ジャーナリスト筋から聞いた。

毀誉褒貶のはげしい大政治家だった。周恩来のような品がなかったところと、彼の拝金主義が日本を染めてしまったのは残念だが、彼が掲げた理想と行動力には仰ぎ見るべきものがある。
一説によると、中国からエネルギー協力をとりつけようとした田中の外交政策が米国の支配層の逆鱗に触れ、それでロッキード事件をふっかけられて、徹底的につぶされた。これは米国による見せしめであり、その後の日本の首相は、米国にものを言えなくなった。米国側の策略の意図は露骨に見えていたにもかかわらず、他人の足をひっぱるのが好きな日本人は角栄を守ろうとしなかった。田中角栄の路線がうまく継承されていたら、現代の日中関係はぜんぜんちがっていたろう。
(2024年5月4日)



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