1月17日は、ヘアー・デザイナーのヴィダル・サスーンが生まれた日(1928年)だが、音楽家、坂本龍一の誕生日でもある。
坂本龍一は、1952年、東京で生まれた。父親は文芸書の編集者で、母親は帽子のデザイナー。龍一は一人っ子だった。
3歳からピアノをはじめ、10歳から先生について作曲を学びだした坂本は、18歳で東京芸術大学に入学。学生時代に飲み屋で仲良くなったミュージシャンに誘われて、クラブで演奏するようになり、それが縁でスタジオ・ミュージシャンとなり、さまざまなレコーディングに参加した後、26歳のとき、ベーシストの細野晴臣、ドラマーの高橋幸宏とともに「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」を結成。シンセサイザーを前面に押しだし、中国の人民服ファッションを身にまとったテクノ・ポップ・バンドとして欧米ツアーをおこない、日本でも「ライディーン」「TOKIO」などが大ヒットし、テクノ・ブームを巻き起こした。
31歳のとき、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」に出演し、その映画音楽も手がけ、彼が書いた映画のメインテーマは世界的に知られる名曲となった。
35歳のころには、イタリア人のベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「ラストエンペラー」に出演、同映画の音楽を担当し、これによりアカデミー賞作曲賞を受賞した。
40歳のとき、スペイン、バルセロナ五輪の開会式の音楽を作曲し、みずからオーケストラを指揮した。以後、さまざまなミュージシャンとのコラボレーションやインスタレーション(空間芸術)、女優と組んだ朗読会、音楽教育番組作り、反原発運動など、音楽活動だけにおさまらない広い分野で活動、発言を続けている。
YMOの当時から坂本龍一は「教授」と呼ばれていた。1980年代前半のYMO人気はすさまじいものがあった。カーステレオでこれを大音量で流している学生は当時まわりにたくさんいた。そんななか、YMOのテクノ・サウンドを聴くと、なぜか頭痛がして、聴いていられなかった。だから、テクノはいまでも聴かない。
坂本龍一の音楽を聴くようになったのは、デヴィッド・ボウイとビートたけしが主演した「戦場のメリークリスマス」のサントラ盤からで、それ以降はかなり聴いている。CDもたくさん持っている。とくに彼が37歳のとき発表した「ビューティ」はしびれるような名作で、沖縄風あり、フォスターあり、バーバーありと、さまざまな音楽スタイルを取り入れながら「美」の感覚を表現しようとする音楽家の姿勢に打たれた。
坂本龍一は若いころのある夜、中華料理屋の前にあるラーメンなど料理のロウ細工の見本が並んだショーケースが醜くて許せなくなり、発作的に破壊して、警察に連行されたことがあった。そんな美意識がずっと彼の音楽の底に感じられる。
ずっと昔、作家の村上龍に「座右の銘」をと揮毫をお願いしたら、
「坂本のまねをして『勇気』と書こう」
と言って書いてくれた。おそらくそのころ坂本龍一のモットーは「勇気」だったのだろう。ゲーテやセルバンテスも、水戸黄門の主題歌も、みんな、人生では「勇気」が大事だと言っている。
(2020年1月17日)
●おすすめの電子書籍!
『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音に関する美的感覚を広げる「息づかいの聴こえるクラシック音楽史」。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp
坂本龍一は、1952年、東京で生まれた。父親は文芸書の編集者で、母親は帽子のデザイナー。龍一は一人っ子だった。
3歳からピアノをはじめ、10歳から先生について作曲を学びだした坂本は、18歳で東京芸術大学に入学。学生時代に飲み屋で仲良くなったミュージシャンに誘われて、クラブで演奏するようになり、それが縁でスタジオ・ミュージシャンとなり、さまざまなレコーディングに参加した後、26歳のとき、ベーシストの細野晴臣、ドラマーの高橋幸宏とともに「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」を結成。シンセサイザーを前面に押しだし、中国の人民服ファッションを身にまとったテクノ・ポップ・バンドとして欧米ツアーをおこない、日本でも「ライディーン」「TOKIO」などが大ヒットし、テクノ・ブームを巻き起こした。
31歳のとき、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」に出演し、その映画音楽も手がけ、彼が書いた映画のメインテーマは世界的に知られる名曲となった。
35歳のころには、イタリア人のベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「ラストエンペラー」に出演、同映画の音楽を担当し、これによりアカデミー賞作曲賞を受賞した。
40歳のとき、スペイン、バルセロナ五輪の開会式の音楽を作曲し、みずからオーケストラを指揮した。以後、さまざまなミュージシャンとのコラボレーションやインスタレーション(空間芸術)、女優と組んだ朗読会、音楽教育番組作り、反原発運動など、音楽活動だけにおさまらない広い分野で活動、発言を続けている。
YMOの当時から坂本龍一は「教授」と呼ばれていた。1980年代前半のYMO人気はすさまじいものがあった。カーステレオでこれを大音量で流している学生は当時まわりにたくさんいた。そんななか、YMOのテクノ・サウンドを聴くと、なぜか頭痛がして、聴いていられなかった。だから、テクノはいまでも聴かない。
坂本龍一の音楽を聴くようになったのは、デヴィッド・ボウイとビートたけしが主演した「戦場のメリークリスマス」のサントラ盤からで、それ以降はかなり聴いている。CDもたくさん持っている。とくに彼が37歳のとき発表した「ビューティ」はしびれるような名作で、沖縄風あり、フォスターあり、バーバーありと、さまざまな音楽スタイルを取り入れながら「美」の感覚を表現しようとする音楽家の姿勢に打たれた。
坂本龍一は若いころのある夜、中華料理屋の前にあるラーメンなど料理のロウ細工の見本が並んだショーケースが醜くて許せなくなり、発作的に破壊して、警察に連行されたことがあった。そんな美意識がずっと彼の音楽の底に感じられる。
ずっと昔、作家の村上龍に「座右の銘」をと揮毫をお願いしたら、
「坂本のまねをして『勇気』と書こう」
と言って書いてくれた。おそらくそのころ坂本龍一のモットーは「勇気」だったのだろう。ゲーテやセルバンテスも、水戸黄門の主題歌も、みんな、人生では「勇気」が大事だと言っている。
(2020年1月17日)
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古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音に関する美的感覚を広げる「息づかいの聴こえるクラシック音楽史」。
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