1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月1日・ショパンの心臓

2018-03-01 | 音楽
3月1日は、短編小説の名手、芥川龍之介が生まれた日(1892年)だが、「ピアノの詩人」フレデリック・ショパンの誕生日でもある(別の日とする異説あり)。

フレデリック・フランソワ・ショパンは1810年、現在のポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれた。父親は仏国からやってきた家庭教師だった。フレデリックは4人きょうだいの上から2番目で、彼のほかはみな女のきょうだいだった。
フレデリックが生まれて間もなくして、一家はワルシャワへ引っ越した。父親はワルシャワの学校でフランス語教師になった。ショパン一家はみな音楽の才能があったが、フレデリックはとび抜けていて、彼は小さいころから姉にピアノを教わり、6歳からピアノ教師につき、7歳で作曲し、8歳のときには演奏会を開いていた。その神童ぶりはモーツァルト以上と言われ、ワルシャワに天才少年ショパンを知らぬ者はいなかった。
16歳で入学したワルシャワ音楽院を、19歳のとき首席で卒業。20歳のときにオーストリアのウィーンへ旅立ち、そこからフランスのパリへ渡った後、彼は終生母国ポーランドへもどらなかった。ショパンが母国を後にしたのが、ちょうどロシアの圧政に対してポーランド市民が武力蜂起した「11月蜂起」のときで、侵入したロシア軍によって蜂起が鎮圧されたニュースをパリで聞き、ショパンは胸を痛めた。
ショパンはパリでは、ロスチャイルド男爵夫人にかわいがられ、音楽家のリスト、詩人のハイネ、画家のドラクロワらと交友をもった。26歳でポーランドの伯爵令嬢と婚約した。しかし、彼の肺結核の病状悪化のため、婚約は破棄された。同じころ、ショパンは女流作家のジョルジュ・サンドと出会い、二人は恋に落ちた。28歳の彼は6歳年上のサンドと手に手をとって、スペイン領マジョルカ島へ旅立った。ショパンの健康のために温暖な地中海を選んだのだが、きびしい冬が到来し、彼の健康はかえって損なわれた。ただし、マジョルカ島でショパンの創造性は充実し、そこで数々の名曲が書かれた。
37歳でジョルジュ・サンドと別れたショパンは、38歳のときに英国へ演奏旅行に出た。英国の寒い気候とハードスケジュールは彼の病状をさらに悪化させた。仏国へもどったショパンは1849年10月、肺結核のためパリで没した。39歳だった。

「別れの曲」を聴くと、甘美な陶酔に全身が麻痺する。どうしてこんな秀逸なメロディーが書けるのか不思議だった。後に、ショパン自身も、こんな素晴らしい旋律は生涯二度と書けないだろうと言ったと聞き、納得した。奇跡的な曲である。

そのほか「子犬のワルツ」「舟歌」「幻想即興曲」など、永遠の名作を書いたショパンは、祖国ポーランドでは特別な存在である。遺言により、ショパンの心臓は葬儀の前に取り出されてポーランドへ帰った。アルコール漬けにされて教会に保存された。
第二次大戦中、ナチス・ドイツの占領下にあったポーランドでは、民族意識を高揚させるとしてショパンの音楽は禁止されていた。それでも、人々はひそかにショパンを演奏したり、レコードをかけたりした。

男性ピアニストとはとても思われない小さい手の、ずっと結核を抱えて生き、夭逝した、はかなげな天才だった。
(2018年3月1日)


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