た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

バリへ(二日目)

2009年04月12日 | essay
 バリ二日目の朝は、果物の切り口のように鮮やかであった。

 なかなかいい例えだと我ながら思う。なぜそんな例えが出たかと言えば、珍しい色とりどりの果物が、ホテルの部屋にサービスで山積みされていたからである。単純である。妻子はアケビのような中身の一品に感動していた。ゆっくりと起きたわれわれは、思い思いの果物を齧りながら広いベランダのデッキチェアに腰かけ、広い中庭を眺めた。
 いかにもリゾート地らしい造作が広がる。昨日チェックインした時は日没後だったのでまるで気づかなかったが、巨大なヤシの木らしきものが林立し、プールは青い空を映し、まことに南国情緒に溢れている。より正確に言えば、手入れの生き届いた南国情緒である。果物は美味しい。車の音など全く聞こえない。なるほど、休息が旅の目的ならば、こういう風景に囲まれてのんびりするのも悪くない。
 子供がプールを熱望するので、どちらかと言えば私は町に出かけて怪しげな場所探索をしたかったのだが、午前中一杯子供の提案に従うことにした。
 子供を泳がせながら、プールサイドのデッキに横たわってビールを飲む。何かの映画に出てきそうな場面である。紋切型である。そう思いながらもそのゆったりした時間を満喫した。
 周りを見渡す。午前中からプールサイドに現れるのは大体白人だが、彼らは白人としてのトレードマークであるかのように、一様に太っている。水に浮かべたらクラゲのように腹のひだが広がるんじゃなかろうか。しかしよほど誇りある民族なのだろう、周囲のことには全く無頓着である。視線がさまようことがない。プールの中でずっと抱き合っている男女がいる。デッキに寝そべりひたすら本を読んでいる女がいる。何もせずにデッキに横たわっている老人がいる。誰も彼も一様に静かである。やかましいのは、わが「息子」くらいである。
 いやもうひと組いた。同じホテルに同時にチェックインした日本人の親子連れである。二人の男の子がわが「息子」と同じくらいの年齢なので、すぐに仲良くなって、一緒にわいわいやり始めた。監視役としては大変ありがたい。大人同士も親密になった。
 プールは日本庭園の池のように細く長く蛇行しおり、ウォータースライドなどもあってなかなか退屈しない。太陽は見事に暑い。潮風が心地よい。こういう旅も悪くないなあとぼんやりしていたら、午前の時間はすぐに過ぎた。

 午後はホテルの外に出た。とにかくちょっとでもいいから地元の人たちの生活のにおいを嗅ぎたい、という私の要望が受け入れられた形である。
 道路わきに所狭しと並ぶ土産物屋を散策する。早速値段交渉に入る。ホテルの敷地内の店と違い、いくらでも安くなる。そもそも値段を聞いても素直に教えてくれない。電卓を突き出して、いくらなら買うのか逆に訊いてくるのである。日本人観光客なら遠慮して高く言ってくるから、そのときはその値で買わせようという算段であろう。ところがそうは問屋が卸さない。私は彼らの期待よりはるかに安い値段を提案するから、向こうは呆れ顔で首を振る。じゃあこっちも要らないよと店を出ようとすると、慌てて私の袖をつかむ。ねえ、せめて半額で。だから言い値じゃなきゃ買わないよ。わかったわかったそれでいい、はい袋、他に買い物ないか?
 妻子は目を白黒させながら私の交渉を眺めていた。二人とも優しい心の持ち主だから、そんな買い物の仕方はしたことがなかったのだろう。はばかりながら私もそんなにしたことはない。だが、私は今回、彼らにぜひとも土臭いところを見せたかった。綺麗ごとではない世界を見せたかった。バリの人たちは、生活のために少しでも高く売ろうと必死で売りつけてくる。当たり前のことだ。だがそれに対し、金銭感覚のない日本人観光客がやたら金をばらまくことは、決していいことではない、と、私は思う。そういう民族は利用されこそすれ、尊敬されない。売る側も、いくらでも買ってくれるのだからと、詰らないものを法外な値段で売って平気になる。買う側がものを見る目を確かに持ち、妥当な値段を要求してこそ、売る側もより良いモノづくりを目指し、その結果長く観光客に愛される商売をするようになるだろう。ただし私自身は物を見る目がないから、結局買った品を後で見たら、どれもこれも、どうしてこんなもの買ったのだろうという代物ばかりであった。何のことはない。

 それはともかく、妻子は値段交渉がいたく気に入ったようであった。私の予想に反している。彼らの方が私よりも俄然熱心に交渉し始めた。その日買い物を終えてホテルに帰ったのちも、子供は「あの値引きする買い物をまたしたい」と言い出す始末である。子供の教育に果たして良かったのかはなはだ疑問である。

 午後、旅行にセットになっているバリ式マッサージというのを施してもらう。まあ指圧である。広告にあるように女の人がする。気持ちよかったが、別にそれで体が軽くなるというわけでもない。そんな夢のようなマッサージはそうあるものではない。私が声を上げてばかりいたから、気になって身が入らなかったと、隣で同じくマッサージを受けた妻があとでぼやいた。納得がいかない。指圧と言うのは声を上げるものではないのか。

 夕食はホテル内のレストランでとることにした。これも旅行にセットになっているサービスである。レストランに行く途中に発見したことだが、ホテルの中でも露天商が風呂敷を広げて商売していた。妻子はまた値段交渉がしたいらしく、テーブルについてもうずうずしている。いいよ、気になるなら行ってきなよ。ここで飲みながら待っているから、と言って私は彼らを送り出した。
 
 バリのカクテルは美味しい。このからりと暑い風土のせいだろうか。一人グラスに口をつけて宵闇を眺める。そうだ、今まではずっと一人で旅してきたのだ。それはそれで何物にも代えがたい素敵な時間だった。しかし、と私は妻子を待ちながら思った。しかし、一人は、こんなにさみしいんだ。
 私が年をとったのだろう。いや、かつて一人旅をしているときもつねにさみしかった。それはそれはさみしかった。そのさみしさを飲みつくそうとするかのように、ひたすら旅を続けていた。
 あの当時の、ある種修行僧のような孤独と厳しさは、もう戻らないのか。ふむ、と私はカクテルのお代わりを注文する。先ほどよりも目を細めて闇を眺める。何かを手に入れる引き換えに、私は何かを失ったのか。本当に、これで、よいのか。
 歓声が聞こえて、振り向いたら二人が戻ってきていた。子供がサメの歯のついたブレスレットを私に差し出す。私にくれるという。もっとまけさせたかったけど、なんだか難しくてさ、結局ほとんど言い値で買ったんだ。そう話す表情が悔しそうである。いいんだ。それでいいんだよ。値段交渉は目的じゃない。ありがとう。よくがんばったね。ブレスレットは、私はあまりしないんだけどね。

 われわれ三人はグラスを合わせなおした。波の音が遠くかすかに聞こえる。食事をしている人は、いつの間にか、われわれともうひと組くらいである。 
 バリ二日目の夜は、時計を持たない生活だけに許されている贅沢さで、ゆっくりと更けていった。    

(もう少し続く予定)
コメント (1)
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