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私は犬。(11/29更新)

2022年11月29日 | 連続物語

※これは下書きです。更新の度に書き換え、書き増していますので、ご了承ください。

 

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 ああ、犬、犬、犬! 私はどうせ犬よ。犬として生まれてきたからにゃ、死ぬまで犬よ。わかってるわそんなこと。でも私にとって最大の不幸は、犬なのに、なまじ人間に飼われたことね。そうよ。それは私の最大の不幸であり、同時に最大の幸福だったわ!

 くそっ、首が痒いったらありゃしない。首輪のせいだよ。この黒ずんだ赤い首輪、さすがにそろそろ替え時だと思うんだけど。うちの主人ときたら、ずぼらな上に羽振りがよくないと来てるもんだから、もう十年以上も同じ首輪。同じリード。扱いが雑なのよね。

 この家に引き取られたときのことは、あんまり覚えていないわ。まだ生まれて間もない頃だったから。あとから主人と奥さんの会話を盗み聞きしたんだけど、私の産みのお父さんはどこの犬だかわからないらしいの。お母さんが家出した時できたの。でも、生まれた兄弟の毛がみんな柴だから、多分お父さんもお母さんと同じで柴犬だろうって。多分って何?て感じ。そんなこんなで突然ぽこぽこ生まれた子犬たちを持て余したお母さんの飼い主が、方々に頼みこんで、ただで配ったらしいのよ。採り過ぎた竹の子じゃあるまいし、ひどい話よね。それで私は今の主人に引き取られたってこと。うちの主人は今でも言ってるわ。「柴犬って、買えば五十万とかするらしいぞ。五十万だぞ。それを菓子折り一つでもらえたんだから、すごい得したぞ」ですって。随分ね。それに付け加えて言うには、「ま・・・父親も柴犬かどうかはわからんけども」だって。ふん。そういう根性だから、丁寧に飼うわけないよね。

 飼い犬は飼い主を選べない。これは犬界じゃ有名なことわざだからね。

 

 主人は小さな塾を独りで営んでるらしいの。まあつまり、言い換えたらあまり風采の上がらない男ね。塾を大きくする勇気は無いみたい。ぼさぼさ頭の眼鏡顔。眼鏡の奥はギョロ目だけど、世の中を直視する勇気がないのよ。始終眠たげだったり虚ろだったり。それか意味もなくニコニコしているかね。何が楽しいのかわからないわ。要するに凄みがないのよ。もう少し男としての凄みってものがあれば、財産も貯まったと思うんだけど。

 私に対してはさ、一応飼い犬という意識はあるみたいで、することはしてくれるんだけどさ。とにかくめんどくさがり屋なの。朝の散歩でも、私がトイレさえ済ませりゃもう一目散に引き返そうとするんだから。心に余裕がないのよ。朝一時間散歩させるくらい、どうってことないでしょ。忙しいふりして、二十分くらいで済ませるのよ。別に世の中の重要人物じゃあるまいし。多忙なわけないと思うんだけどね。悪いけどこっちは、散歩に命かけてるからさ。大袈裟じゃなくて。だって、散歩と食事だけが生き甲斐だよ。飼い犬なんて、しょせんどこまでも飼い犬だし。自分の生きる意味なんか真剣に考え始めたりしたら、ノイローゼになるよ、ほんと。だから深く考えないことにしてるの。とにかく、散歩の時は少しでも長く散歩する。食事を出されたら皿を舐め回してでも残さず食べる。それだけのことよ。だって毎日やることって、それくらいしかないんだから。私の散歩の姿なんてすごいわよ。のたうち回りながら、ぐいぐいリードを引っ張るの。人間たちのやる綱引きって感じ。喉を締め付けられるから、しょっちゅう咳き込むんだけど、それでも引っ張るの。げほげほ言いながら引っ張るの。主人はなるべく早く帰ろうとする。私は少しでも寄り道しようとする。毎回その駆け引きね。

 夕方の散歩は奥さんの担当。またこの人は女だからさ。愛情深い言葉はたくさん掛けてくれるわけ。「モモ、モモ」って言いながら、撫で回したり、頬を摺り寄せたり、抱きしめたり。あ、モモって私の呼び名ね。奥さんが付けたの。平凡な、よくある名前よ・・・・でも、散歩は呆れるくらい短いんだな、これが。旦那より短いんだから。歩いて五分の公園に行って、トイレさせて、はい終わり。こっちの言い分としたらね、愛撫は半分でいいから、散歩を二倍にしろっつうの。その辺の愛情の履き違いがはなはだしいのよ。

 ま、人間って勝手なもんよ。どれだけ賢いんだか知りませんけどね。木を切り倒して、道路作って、ビル建てて。でも私に言わせりゃ、自分たちがラクしたいだけなんだよ。そう、その辺は猫と一緒。猫なんてまさしく、ラクして生きることしか考えてないもん。我が儘と身勝手が交尾して生まれた動物なのよ。

 

 近所に「たまこ」って名前の白い猫がいるんだけどさ。飼い主の婆さんをどうたらしこんだか、いい餌ばっかりもらってるの。それでぶくぶく太って、憎たらしくなって。傲岸不遜を絵に描いたような面さ。これが私と主人の散歩の途中で、羽二重餅みたいにどでん、と座り込んで、塀の上から見下してくるわけ。

 「おや、今日も紐を付けられてお散歩かい。へへ。ずいぶん幸せなこったね、奴隷犬が」なんて言うの。腹立つよね。

 「うるさい! あんたみたいに役立たずじゃないもん、こっちは」、て吠えてやるのさ。「こっちはね、番犬っていう立派な役割があるんだよ!」

 するとたまこの奴、厚かましくも大口開けたりしてさ。「番犬? 聞いてあきれるよ。ふん。信用されてないから紐を付けられてんじゃないのさ。馬鹿だね。あんた、奴隷って言葉わかるかい。わかんないだろうね。奴隷の一番悲しいのはね、自分が奴隷であることに気づかないことだよ」

 「うるさい! 豚猫! ぶくぶく太るだけ太りやがって、もうネズミも満足に取れないくせに。この役立たず!」

 たまこの奴、喉をゴロゴロ言わせると、毛を逆立てて睨みつけてくるんだ。

 「役立たずで結構。あたしゃ自分が生きたいから生きてるだけだよ」

 そう言い捨てると、丸まってそっぽ向いてさ。もう相手にもしてくれないの。悔しいったらありゃしない。二、三発きついのを言い返してやりたかったけどね。「お前さんだって、人間様に餌を頂戴してる身分だろ」とか。「だったら私と変わりないじゃないか、この自惚れ猫が」とか。でも、何しろ散歩を急ぐ主人に紐を引っ張られるもんだから、げほげほ言って立ち去るしかないんだよ。いつものことだけど。情けないね。

 私だってね。生きたいから生きてるんだよ。

 

 ああ、畜生。首が痒い。

 そりゃ私だってね。もっと自由に生きたいさ。そりゃ憧れるわさ、自由ってものに。毎日紐に繋がれて、狭い小屋に入れられて、人間の勝手気ままに振り回されて。人間様は好きなところへ遊びに行けるからいいけど、こっちはいつでも狭い犬小屋でお留守番ざんすよ。大概にして欲しいよね。人間なんてね、ほんと猫と同じ。けど猫より始末に負えないから。周りに迷惑かける点においちゃね。あれ何、あの、変な臭い煙。あんなもの吹きかけたりしてさ。あんなけったいなもの掛けられたら、大概の虫たちは死にますよ。当たり前ですよ。何だろうね、あれ。ああやって自分たち以外の種族に迷惑かけなきゃ、生きられないのかね、人間って。みんな文句言ってるよ。蟻もカマキリも。何で俺たちを追い出さなきゃ気が済まないんだって。居座るだけならまだしもね。こんな我が儘勝手な生き物は、いつか必ず滅ぶって。そういや最近も誰かがそんなことぼやいていたな。そうそう、隅田さんとこに飼われているモンジロウだ。モンジロウ。これはまたけっこう年老いたゴールデンレトリバーでね。若い頃は、それはそれは立派な毛並みで、すれ違う雌犬たちがもう大変だったって、本人が言ってるよ。本人が言ってるだけだけどね。けど今は、よぼよぼで、おまけに主人が昼カラオケに夢中でさ。こっちに全然手をかけてくれないから、ひどい毛並みになっちゃって。玄関先にほったらかしにされてるの。私なんかが通りかかっても大儀そうに寝そべって、見向きもしないのよ。こっちが吠えると、うるさそうに耳を上げてさ、

 「お嬢ちゃん」

 てこれ、私のことよ。私ももうお嬢ちゃんって年じゃないけどね。こう呼ばれると正直嬉しいもんだけどね。

 「お嬢ちゃん、怪我しねえうちにとっとと行っちまいな」

 「あんたみたいなじじいに怪我なんてさせられるもんか」

 私も生意気なのよね。                                                                                  

 「いいから行っちまいなってんだ、畜生。頼むからさ。人間どもを見るのもうんざりだが、人間に飼われて喜んでいる同族の輩を見るってのは、もっとうんざりなんだ」

 「どうしてよ」

 「どうしてもへったくれもあるか。誇りを失ってんだよ。俺たち犬族は。誇りだよ。わかるか? 畜生。俺たちの牙はな、獲物を引き裂くために尖ってんだ。俺たちの喉はな、遠吠えするためにあるんだ。それが何だ、かじったって旨くもねえ板切れをほうり投げられて、キャンキャン言いながら取りに行かなきゃなんねえ。それで頭撫でられて喜んでんだ。そんなプライドもへったくれもねえ馬鹿犬だらけになっちまったんだよ、いつの間にか」

 「畜生」と「へったくれ」ばかり言う老犬なんだよね、モンジロウは。私はひときわ威勢よく吠えてやったよ。

 「どうせあんただって若い頃は人間に媚びへつらったんだろ! そうやってエサもらって生きてきた癖にさ!」

 「だからこそ落ち込むんじゃねえか、馬鹿。おい、おめえさんも年取ってからてめえの生涯を振り返ってみろ。たいがい落ち込むぜ、馬鹿娘が。さあわかったろ、畜生、早くあっち行きなって」

 お嬢さんが馬鹿娘になったところで、主人に引っ張られておさらばだよ。

 まったく、あんな風に年老いたくないもんだね。

 

 一度だけ、脱走を試みたことがあるの。

 春先だった。桜も散った後の、ぼんやりと生暖かい夜でね。なんだか体がむずむずして、無性に恋がしたくなったの。相手もいないのに、惚れてる感じ。変でしょ。とにかくいてもたってもいられないのよ。あんな気分になること、ときどきあるのよね。

 たまたま首輪が外れやすくなっててね。私って、本当にちっちゃいから。この子豆柴じゃない?って、道で会う人に言われるくらいちっちゃいの。もちろん豆柴じゃないわよ。そんな、豆と柴犬をかけ合わせたみたいな、へんちくりんな生き物じゃないわよ。立派な柴犬よ。多分。でも私としてはね、自分が成長しないのは、エサが少ないせいだと思うんだ。主人の稼ぎが少ないせいか知らないけど、なぜかいつもエサが少なめなのよね。それでおなか減って、散歩の時なんて道端に落ちているものならガムでもティッシュでも何でも食べようとしちゃうんだけど。私、豚みたいに年中腹減っているのよ。可愛そうよね。自分で言うのもなんだけどさ。

 そうそう、脱走の話だった。なんだかその晩は無性に脱走したくなってね。それに、いろんなことがいい加減うんざりしたのかしら。エサが毎日少なかったり、散歩が短かったり。飼い犬としての宿命なんてことをつくづく考えたり。わかんない。とにかくいろんなことが頭を巡っているうちに、腹が立ってきたのよね。苛々っとしてさ。そのとき奥さんが散歩させてくれてたんだけど、思い切り紐をぐいって引っ張ったら────痩せてるからさ────首輪がすぽっと外れたのよ。前も話したように、飼い方がいい加減だもんだから。首輪が首回りに対して大き過ぎるのに、飼い主夫婦が二人とも気づいてなかったのね。ずさんよね。私もそのときまで、気づいてなかったんだけど。

 私、まず首輪が取れたことにびっくりしてさ。奥さんを見つめたままその場に立ちすくんじゃった。けど、奥さんが何か言い出す前に、すぐに駆け出したの。どこへ向かって? そんなことわからない。ただ、走ったの。思いっきり。何だろう。首輪が取れて自由になったことの、驚きと、喜びと、それに不安かな。おまけに全身をむずむずさせる恋心ってやつに駆られたのね。

 奥さんは慌てて、「モモ!」って叫んだ。「モモ!戻っておいで!」って。

 でも私は戻らなかった。戻れって言われても戻らなかった。そんな大胆な行動、それまでしたことなかったけど。いや、あったかな。いずれにせよ、私基本的に臆病だし、現状維持派だからさ。逃げられる、と思っても、ちょっと名前呼ばれたら、大抵すぐ戻ってきちゃうのよ。どうせ野良犬として生きていく自信なんてないし。野宿するって言ったって、寒いのとか嫌だからさ。

 でもそのとき、私は逃げた。

 生まれてこの方、したことがないくらいの全力疾走で。近所の鉢植えを倒して、小路に飛び込んで砂利を蹴散らかして、とにかく駆けた。

 においに導かれてたの。体を鷲掴みするような強烈なにおい。ようやく我に返ったら、私、公園に面した、大きな家の前に立っていた。

 息を切らせながら、私はにおいの発信源を凝視したわ。

 大きな家の庭先の立派な犬小屋。そこからその発信源であるクロが顔を出した。なかなか男前の柴犬でね。名前の通り毛が真っ黒いのよ。

 そう。私、なぜだかクロに引きつけられたのよね。どこに逃げても良かったんだけど、結果そうなったの。好きだったのかしら、クロのこと。普段はあんまり意識したことなかったけど。むしろたまに会うと、クロの方がぶしつけなくらい強引に私のお尻をくんくんかいで来るからさ。どっちかと言うとうっとうしい方だったけどね。

 両家はいつも散歩時間がずれているみたいだし、ここの大きな家の前がうちの散歩コースになることがほとんどなかったからね。クロの顔を見るのは一カ月ぶりくらいだった思う。ただ、彼のにおいが風に運ばれてくるのは、いつも感じていた。

 ところが、よ。

 久しぶりに見たクロは、驚いたことに、全く別の犬みたいに目つきが変わっていたの。とろんとしてね。ちょっと靄がかかったように虚ろなのよ。もっとずっと精悍な目をしていたはずなのに。私、あんまりびっくりしたもんだから、思わずワン、と叫んじゃった。

 見えてんだか見えてないんだか、クロはしばらくじっと私の方に顔を向けたまま、無言だった。

 暗い公園のはす向かいの方で、小さな子どもがキャッキャ騒ぐ声が聞こえた。

 クロは力なく首を振ると、呟いたわ。「なんだ、塾のところの小娘か」

 その声は十歳年を取ったように老けてたね。

 「小娘じゃないわよ、私。もう六歳なんだけど。あんたこそ、今日はまたえらく元気がないわね。どうしたのよ」

 「うるさいな」

 クロは尻尾を垂らしたままぐるぐる回って、座りこんじゃった。

 「とっとと帰ってくれ」

 「何よ。言い寄ってきたのはあんたの方じゃんか」

 「いつの話だよ」彼の顔は本当に迷惑そうだった。「もうそんな気になれないんだよ」

 「どうしたのよ一体」                                                                                

 クロは首をもたげて、遠い目になったね。ちょっと潤んでたと思う。

 「去勢されたんだよ」

 「は?」

 「去勢だよ。わかんないのかよ」

 「去勢って何よ」

 「ふん」クロはまた立ち上がると、居心地が悪そうにまた一周したわ。「人間同士の会話聴いてりゃわかるだろ。あそこをいろいろいじられるんだよ。わけわかんないんだ。それで、家に連れ戻されて、しばらくして気づいたけど、その、つまり、あれをする気がまったくなくなってたんだ」

 「ちょっと、どういうことか全然わかんない」

 そう言っては見たものの、私だって、クロがいわゆるオスじゃなくなったことくらいは十分感じ取っていたわ。

 「あんた、ほんとに去勢されたの」

 「ほっといてくれよ」

 言い捨てると、クロは私に背を向けて小屋の中に入って、それきり出てこなくなっちゃった。

 私は呆然と立ち尽くしたね。

 寒くも暑くもない晩だった。庭の綺麗な家だったから、いろんな花の香りがしたな。公園から子どもたちの歓声と一緒に、桜の花びらも風に乗ってやってきて、アスファルトに散らばっていた。

 そんな中で、私は、どうしようもなく居たたまれない気分になった。

 私の初恋は、去勢手術によってあえなく散ってしまったの。

 そんなことって、ある?

 

 「モモ! モモ!」って私を呼ぶ声に気付いた。振り返ると、奥さんが息も絶え絶えに走ってくるじゃない。その後ろから、仕事帰りの主人も現れたのにはちょっと動揺したね。二人して捜してくれたんだ。

 主人が遠くから、「モモ!」って怒鳴った。普段はぼーっとしているけど、あれで怒ったら恐いからね。でも、怒鳴られたけど、愛情のある声だったな。そういうのって、わかるじゃない。ああ、私はあそこに帰らなきゃいけない。私はあの家の飼い犬なのよ。散歩も足りないしエサも足りない家だけど、私の帰るところは、あそこしかないのよ。

 クロの犬小屋の方をちらっと見やると、私は尻尾を思い切り振って、二人の方へ駆け出した。

 

 そうねえ。

 ああ、耳の裏も痒い。全身が痒いわ。

 主人の話をしようかしら。

 別に大した人物じゃないけどね。でもまあ毎朝横で観察していると、いろいろ考えさせられるの。人間ってつくづく不便な生き物だ、とかね。主人見てるとほんとそう思うわ。

 朝、六時半を回ると、二階の寝室から降りてくる。髪はぼさぼさ、ギョロ目もまだ満足に開いてないの。その寝ぼけ眼が、「今日もこの世で活動しなきゃいけませんか」と訴えてる感じ。パジャマ姿のまま食卓に座ってね、奥さんの淹れた茶を飲みながら朝刊を広げるんだけど、まだ完全に頭が起きてないから、活字が頭に入らないみたい。どう見ても内容を理解して読んでるようには思えないわ。ただ機械的にページをめくって、番組欄まで来て終わったと思ったら、また元に戻って同じページをめくるの。ありゃ絶対読んでないわね。それでもふと目についた記事があると、一応目を通すの。すると、読みながら必ず舌打ちしたり、悪態を吐いたりするのね。「どうしてかなあ」とか、「ふざけるなよおい」とか、「死刑だなこいつは。即死刑にすべきだ」とか。文句は凄みがあるけどね。いかんせん寝起きのせいか、いまいち自分の意見に自信がないのね。声が小さいのよ。でも向かいに座る奥さんには聞いてほしいから、奥さんに届くくらいの小さな声なの。奥さんは奥さんで、「そうね」とか、「そうかなあ」とか、適当な相槌しか打たない。「そうね」より「そうかなあ」の方が頻度が高いわね。実際のところ、あんまり亭主の考え方に賛同していないみたい。でも違う意見を返すとさ、主人はすぐムキになって反論してくるでしょ。だから適当に受け流しているのよ。主人はと言えば、日中は一人で教室の準備をしているから話し相手がいない。自分の奥さんもはぐらかすような返事しかくれない。それでいよいよ自分の話し相手が欲しくなると、私の方を見るのよ。私は日中、裏庭に出されるまでは家の中で狭いケージに入れて飼われているんだけど、朝はそのケージの中で寝そべって、朝の散歩を待っているわけでしょ。そんな私に対して、「犬はいいなあ。何も考えなくて」なんて言ってくるの。浅はかよね。考えてないわけないじゃん。考えをあんたらに伝えられないだけよ。そんなに犬が良かったら、このケージの中と外、変わってみる?って言ってやりたい。仕方ないから小さくワン、と吠えてやると、勘違いして、「おうおう、そんなに散歩行きたいか。しょうがない奴だなあ」とか言って、重い腰を上げるのよね。いかにも嫌々、って素振りだけど。でも実は主人も寂しがり屋だから、犬に必要とされていると感じるだけでも嬉しいのよね。それを素直に表せないの。正直に生きることができないのよ。つくづく可愛そうな生き物ね。

 散歩はだいたいいつも決まったコース。アパートの北側の駐車場脇の砂利道を抜けて、時々軽トラで野菜売りに来るおばさんがいる角を曲がってね。たまこのいる塀の下を興奮しながら通って・・・だっていつも腹立つもんね・・・たまこには。それで、そこを過ぎてからちょっと大きい道路を渡るの。そうすると道はぐんと細くなる。ほんとの田舎道ね。モンジロウさんの家を通り過ぎたころには、右も左も背の高いぶどう畑。人間って何であんな変なにおいのものをたくさん作るのかわからないわ、私には。そのブドウ畑も抜ければ、急にだだっ広くなる。左右に田んぼの広がる山裾にでるの。そこをもっともっと進めば、坂道になって、小高くて見晴らしのいい場所まで行くんだけど、主人は疲れるのが嫌だから、そこでUターン。また同じ道を引き返すわけ。私はまだ行きたいんだけどね。仕方ないから適当なあぜ道でトイレさせられて、引き返そうと振り返ると、広い空に、北アルプスが長々と横たわって見えるの。常念岳が真ん中に一段高くそびえて、雪を被ってるわ。空の中に山が浮かんでいる感じ。その景色は私だって嫌いじゃない。もちろん主人のお気に入りの風景だから、毎朝この道を選ぶんだけどさ。でも同じ道の往復なんて、詰まんないことこの上ないのよね。私はあらゆるところの匂いを嗅いで回りたい方だから、十字路に出くわす度に今日こそは違う道へと引っ張り込もうと頑張るんだけど、まあ、いつも私がげほげほ言って負けね。

 

 そんな風に、散歩なんていつも短いんだけどさ。でも、それがやたら長くなった時があった。

 コロナよ。

(つづく)

 

 


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