た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

1月1日を数日過ぎて

2017年01月06日 | essay

   年明けに何か書こうと思っていたが、例年のごとく年末年始はまるで雑巾のように働いており、濡らして丸めて絞るような何が何だかわからない忙しさのなかで、今日にいたった。

   まったく、一年の節目もじっくり味わえないほどの忙しさは罪である。そうわかっていながら、自分で忙しくしてしまっている。性分であろう。しめ飾りも時間がない中、量販店で小さいものを購入。クリスマスリースは立派な手作りのものを発注しただけに、その見栄えの違いに、やはり縁起物は渋ってはいけないと正月早々反省した次第。

   家族での初詣は何を勘違いしたか、神社ではなく寺に行ってしまった。しかし神社のような寺なので、まあよしとする。参拝客も多く、それなりに正月風情を味わうことができた。賽銭を投げて手を合わせ、そば茶を飲み、お寺なので鐘を突き、私は引かないが家人はおみくじまで引いた。なぜお寺におみくじがあるのだろう。その辺が神社のような寺であるゆえんである。それにしても、私はおみくじを引く人の気が知れない。もし仮に、賽銭を投げて手を合わせているところに、頭上から「小吉!」とか「凶!」とか声が掛かるのなら、それも天命だとあきらめるが、一口百円の印刷紙でなんで一喜一憂しなければならないのか。しかし人のおみくじを見るのは楽しいので、脇から盗み見ていろいろ批評した。家人は大吉を引き当てていた。人生で初めての大吉らしい。いたく感動して急に気が大きくなったのか、尊大な態度をとっていた。あれなら一口百円で高くない。

   多忙にようやく一息ついた本日、一人で昼間の温泉に行き、一人で正月気分を味わい直した。露天風呂の湯けむりの中でうめき声を漏らしながら、じっと目を閉じる。束の間なれど、極楽、極楽。何だかよくわからないがおめでたい。

 

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