諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

238 保育の歩(ほ)#29 佐伯胖さんのコメント

2024年07月28日 | 保育の歩
北アルプスの花畑🈡 猛暑でショートカットして1日早く下山し、憧れの蓮華温泉ロッジの泊めてもらうことにしました。温泉は本当に最高!でした。

ここまで津守真さんの愛育養護学校で紡ぎ出された保育実践を読んできた。
12年間にもわたる記録はどこを読んでも大きな感銘を受ける。
テキスト(保育者の地平)は、このあと、津守さんご自身のまとめを残すのだが、その前に同時期の愛育養護学校の実践を「授業」として捉えてみた意欲的な本があるので、そちらを覗いてみたい。その

『シリーズ授業10 障害児教育発達の壁を乗り越える』岩波書店1991年

という本は、授業のあり方を考える岩波書店の10冊からなるシリーズで、主に小学校の各教科の授業研究を著名な編集委員が多様な観点で批評していくのであるが、最終巻である第10巻に「障害児教育 ‐発達の壁をこえる」として津守さんが活躍されている時期の愛育養護学校の実践を取り上げているのである。

多彩な編集委員の方が愛育養護学校の保育(教育)をどのように受け止め、批評されるのだろうか。もちろん論者達は従来の授業研究の枠を超えた批評を展開していく。特に印象的な部分だけだが取り上げていきたい。

さっそく、今回は編集委員のお一人、佐伯胖さんの批評を抜粋したい。
佐伯さんは、本ブログでも『「学び」の構造』をテキストとして学ばさしていただいた認知心理学者である。

たんぽぽ」を内側から見る
ここに一本の花(たとえば、たんぽぽ)があったとしよう。それを「内側から見る」ということは、その花にわが身を沈潜させて、いわば「たんぽぽになって」みることである。たとえばたんぽぽの美しい花びらがせいいっぱい開いている有り様にわが身を重ねて、地面に根を張ってしっかりとたたずむたんぽぽの息づかいを「自分ごと」としてとらえ、みずからもしっかりとその場にたたずんで外の空気を「はだで感じる」ことに時を忘れることを意味している。やがて、たんぽぽが一粒の種から成長し、地面から水をとり、太陽から光を受け、空気から二酸化炭素を吸って酸素を外に出し、同時に自らの養分を蓄えていくという成長のプロセスを、おのれ自身の成長として、自分が「生きようとしていく」こととして感じとるかもしれない。あるいは、そもそも地球の歴史の中で、過酷な環境のもとで生まれた植物が、「自らを生かそうとして」それがいかにみごとに世界となじんで、動物との「共生」をつくり出していったかについて思いをはせ、いまここに見る一本のたんぽぽが、そのような歴史を背負っていることをじっと「自分ごと」として感じる。そこに潜む「知恵」と「工夫」のみごとさから、自分自身がこの過酷な世界で「生きようとする」姿を重ね、自分が「変わる」実感をくみとるかもしれない。
このようにしてとらえられたたんぽぽは、まぎれもなく「わたしの」たんぽぽであり、たんほぼの中に「わたし」が生きるのであり、たんほぽが「わたし」である。もちろん、光合成だとか、植物と動物との生態系だとかの「知識」が入ってきたとしても、それらは、「わたし」の成長と発展にかかわりあう中で、さまざまに出会う困難や支え、それらと共にくりひろげる壮大なドラマの舞台装置であり、主人公たる「わたし」とかかわる「登場人物」なのだ。「たんぽぽを知る」ということは、「たんぽぽ」の存在にわが身をゆだねて、「もうひとりの自分」になって、「もう一つの人生」を生き直してみることである。←
私たちがものごとを「知る」ということの原型は、もともとが、こういうことだったのだ。くりかえしになるが、「知る」とは、対象の中にわが身を沈潜させて、「もうひとりの自分」になって、さまざまな可能性の開かれた「もうひとつの人生」を生きる、あるいは始めから生き直す、ということである。

愛育養護学校の教育の最大の特徴は、あらゆる意味で「外側からの目」を排除する、ということである。
まず教師自身、見知らぬ「よそ人」として子どもを見ない。また、子どもを「ああいう子どもたち」というとらえ方をしない。そして、教師はひとりひとりの子ども自身が知識というものを「内側から見る」ことを、そのことのみを、最大限に援助する、ということである。

含蓄のある批評と言わざる得ない。


《見出し写真の保育》
ウエストンが明治27年にこの蓮華温泉に宿泊して白馬岳に登頂した歴史もありオールドホテルの観。かなり奥地なのにりっぱなロッジです。写真は談話室です。
見出しの写真はHP から転載。


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